さくらの木の下で

小松 煌平

さくらの木の下で

 三日前、お母ちゃんは病院のベッドで静かに息を引き取った。

僕は頭の中からお母ちゃんの生年月日を探り出して歳を数えた。――四十一。自分の計算を疑った。棺の中で眠るお母ちゃんの顔は、幼いころから見慣れた、そのまんまの顔をしていた。

お坊さんの読経は正直なところ、僕の耳には入ってこなかった。ただ、お母ちゃんが微笑む写真が、僕の胸を締めつけた。

一粒、また一粒と涙が手の甲に落ち、じわりと肌に染み込んでいった。

 葬儀が終わると、お坊さんがそっと僕の肩に手を置き、「気持ちをしっかり持つんだよ」と声をかけてくれた。

本当は、そんなことは言ってほしくはなかった。けれども僕は、できるだけ丁寧に頭を下げた。

棺に花を手向けるとき、僕はタンスの奥に大切にしまわれていた子供服を、そっと胸元に置いた。それは、お母ちゃんがずっと手放さずにいたお兄ちゃんの服だった。

「お兄ちゃん、……きっと待ってるよ」

その瞬間、胸の奥が僅かにざわめき、――あの日の恐怖が蘇った。


 まだほんの小さなころ、僕にはお兄ちゃんがいた。

そして、――桜の花が散りはじめた春の日のこと。

お兄ちゃんは交通事故に遭い、命を落とした。

その事故があったのは、僕らがいつも遊んでいたお寺のそばだった。

境内には桜の木が一本植えられており、春になると、そこだけがふわりと色づいた。

近所には広場もなく、その境内は子どもたちにとって貴重な遊び場だった。高台にあり車も来ないので親たちも安心して遊ばせていた。

 ある日、僕らは他の友だちと缶蹴りをしていた。

僕は、お堂へと続く廊下の傍に置かれた岩の陰に隠れていた。すると廊下のガラス窓越しに、桜の木の方をじっと見つめていたお坊さんと目が合った。

なぜか僕の胸はざわつき、目を離すことができなかった。

すると、お坊さんは眼鏡越しに静かに微笑み、一つだけ頷いてから何事もなかったように廊下を去っていった。

 やがて夕方となり、友達はひとり、またひとりと帰っていった。そして、僕とお兄ちゃんだけが境内に残った。

 そのころ僕らは、遠くの空が茜色に染まるのを見ながら、お父ちゃんが酔い潰れて鼾をかく頃合いを見計らって帰るようになっていた。

ぶたれずに済むからだ。

――ただ、お父ちゃんはもういない。

お父ちゃんは、高らかに鳴らした鼾を突然止めて、そのまま息絶えた。

そして、もうぶたれることは無くなったが、習慣だけが残った。

 その日も同じように、時間をつぶすために僕とお兄ちゃんはお堂に上る階段に並んで座って漫画を読んでいた。

お兄ちゃんはページをめくる前に、ちらりと僕の顔を覗いた。

僕はその視線を感じると、手を出してめくるように促した。

当時の僕には吹き出しの文字など読めず、何が書かれているかは分からなかった。

ただ、お兄ちゃんがページをめくる前に僕を見てくれる、その一瞬がとても嬉しかった。

 ふいに、ページをめくろうとしたお兄ちゃんの手が止まった。

お兄ちゃんは遠くを見つめていた。

その視線の先――桜の木のそばに、ひとりの女の子が立っていた。

お兄ちゃんはゆっくりと立ち上がった。

膝の上に置いていた漫画はバサリと足元に落ち、階段をバサバサと転げていった。

僕がその音を追っているあいだに、お兄ちゃんは階段を下りて歩き出していた。

僕はそれに気づくと漫画のことなどすっかり忘れ、慌てて後を追った。

 お兄ちゃんは女の子の前で足を止めた。

僕はお兄ちゃんの背中に立ち、わき腹から顔を覗かせた。

女の子は、どこか古めかしい服を着ていて、人形みたいな可愛らしい顔をしていた。

そして、その姿は僕の記憶の底に――強く、深く、刻まれた。

 女の子はいつも、友だちがみんな帰ると現れた。

僕らはかくれんぼをしたり、おままごとをしたりして遊んだ。

そして、僕らが帰る時間になると、女の子は寺から降りる坂道の上から僕らを見送ってくれた。


 ある日、お兄ちゃんが女の子に、「うちに来ない?」と誘った。僕は女の子と家で遊ぶことを想像して、心をワクワクさせた。

けれども、女の子は首を横に振った。

 次の日。三人になるとお兄ちゃんは「手つなぎ鬼をしよう!」と言いだした。

僕は「三人で手つなぎ鬼なんてつまんない」と思った。

だが、「最初は僕が鬼!」お兄ちゃんの掛け声に、僕は一気に心を弾ませた。

僕はキャッキャと逃げたが、お兄ちゃんは僕には目もくれず、女の子を追った。女の子もキャッキャと笑いながら逃げたが、すぐに捕まってしまった。

お兄ちゃんは女の子と手をつなぐやいなや、一目散に境内から出る坂道に向かって駆けだした。

女の子は成すすべもなく、いっしょに坂を駆け降りていった。

「……だめ」女の子の口から声が漏れる。

お兄ちゃんは構わず女の子の手を引きながら駆け降りる。

「……だめ、……ダメーッ」女の子はついに張り裂けるように叫んだ。

僕は後を追って、二人が坂を下ってゆくのを見つめた。

そこからは、二人の姿はスローモーションになって見えた。

お兄ちゃんは坂を降りたところで通りかかった車に弾かれ、視界から消えた。

その瞬間、女の子のことは忘れてしまっていた。


 訳も分からず駆け寄った僕は、知らないおばさんの車に乗せられ病院に連れて行かれた。そして、待合室のベンチで、途方もなく長い時間を過ごした。そのおばさんに寄り添われながら。

 するとお母ちゃんがやってきた。僕は駆け寄り、ギュッと抱き着いた。

「やっと解放される」そう思った。

僕は背中で、おばさんの謝る声が聞いた。

すると、お母ちゃんは膝を落として僕を抱きしめた。

そして、泣き叫んだ。


 お寺の葬儀場で僕は、棺の中のお兄ちゃんの顔を見つめた。

その顔はただ眠っているようで、悲しみは感じなかった。僕にとって、お経が読まれる時間はただ退屈なだけだった。泣き続けるお母ちゃんの隣で、椅子に座って脚をぶらつかせた。

 葬儀が終わるとお坊さんが近寄り、泣きながら背を丸めるお母ちゃんの背に手をかけ、何やら声をかけていた。

僕はお母ちゃんのお尻に手を置き、同じようにヨシヨシと撫でてあげた。それでも、お母ちゃんは泣き続けた。

 斎場で、僕ははじめて人の骨を見た。だが、それはただの白くて脆い塊にしか見えなかった。それらが骨壺に収めてゆく間、「早く終わらないかな」と思っていた。


 そして、祭壇に飾られた写真が僕のお兄ちゃんになった。それからしばらくの間、お母ちゃんはずっと家にいた。

僕はそれが嬉しかった。

だが、お母ちゃんはお兄ちゃんの写真の前で泣き続けるのには困っていた。僕はお母ちゃんに寄り添い、そしてときどき、お母ちゃんの頭をナデナデしてあげた。すると、お母ちゃんは僕をギュッと抱きしめてくれた。

 二日が過ぎ、僕は退屈になり、いつものお寺に行った。

境内に入ると桜の木の周りには花びらが敷き詰められ、木に咲く花は僅かになっていた。

 僕が近づくと、木の後ろから女の子が顔を覗かせた。ただ、その顔は少し青ざめて見えた。

「おいで」僕がじっと見つめていると、女の子は手招きした。

僕は吸い寄せられるように、一歩、そしてまた一歩と近づいた。

 僕が女の子の傍まで行くと、「お兄さんに逢いたい?」と女の子が訊ねて来た。

僕は、ゆっくりと頷いた。

「だいじょうぶ、逢えるよ」女の子は微笑んだ。

女の子は自分の足元に目を向けた。僕はつられるように女の子の足元を見た。

そこに、ぽっかりと身体が入るほどの穴が開いていた。

女の子は僕を見つめて微笑んだ。だが僕は、灰色がかったその笑顔に、思わず一歩あとずさった。

すると、女の子は僕の手首を思いっきり掴み、そのまま穴に潜った。

「痛っ!」僕は踏ん張る間もなく、そのまま穴に向かって倒れ込んだ。

その瞬間、残った手をだれかが掴んだ。

そして、奥歯を噛みしめたように唸り声が聞こえてきた。

「お兄ちゃん!」手の感触に僕はそう叫んだ。

「――離せぇ!」女の子の叫び声が穴から響いてきた。

見ると、僕の手を掴む手の奥に二つの目が、悍しい光を放っていた。

「ひっ!」僕は思わず悲鳴を上げた。

「……んんん」お兄ちゃんは唸り声をあげる。

両腕が引っ張られ、脇の下に痛みが走った。

「……痛い」

だが、どちらも手を離してはくれなかった。

「……がんばれ!」

お兄ちゃんに言われ、僕は痛みに耐えながらお兄ちゃんの手を握る手に力を込めた。

その時、闇の底で掴む女の子の手から、僕の手はすり抜けた。

僕とお兄ちゃんは後ろに弾かれ、尻もちをついた。

すぐさま穴から手が伸び、あたりをまさぐった。

「ひっ!」僕は反射的に脚を引っ込めたが、お兄ちゃんはそれに気づかなかった。足首を掴まれ、ズズーと穴に引きずり込まれた。

あっという間のことだった。僕はお兄ちゃんの手を掴もうと手を伸ばした。だがなぜか、僕の指はお兄ちゃんの手をすり抜けるだけだった。

そして、お兄ちゃんは穴の中に吸い込まれていった。

 僕は「お兄ちゃん!」と叫びながら穴に近寄った。

反応はなく、僕は手を穴に差し入れようかと迷っていた。

すると、再び穴から手が伸びてきた。

「お兄ちゃんの手じゃない!」そう思って僕は咄嗟に手を引っ込めた。

手は先ほどと同じように手あたり次第に僕を掴もうともがいた。

僕はまた尻もちを付き、動くこともできずに震えていた。

すると、もう一本手が現れた。似てはいるが明らかに違う手だった。

その手は先に伸びてきた手の手首を掴み、穴に引きもどそうともがく。

するとお兄ちゃんの叫び声が穴の中から聞こえて来た。

「行けぇ!――逃げろー!」

僕は尻もちをついたまま後ずさり、何とか立ち上がるとそのまま後ろに駆けだした。

でも、どうしてももんどり返って、思うように足が進まない。

「……マ・テ・ェ……」耳元では女の子の低くくぐもった声がした。振り向くと、真っ黒なくぼんだ眼をした女の子の顔が目の前に迫ってきていた。

ただ、その口元には小さな手が爪を食い込ませており、思うようには近づけずにいた。

「おにい……」声にならない声が口から洩れた。

「……は、はやく……行けっ……、もう、……ここには戻るな……」

食いしばるようなお兄ちゃんの声が、女の子越しに聞こえてきた。

僕は振り向き、駆け出した。今度は足がもつれることもなく、全速力で坂道に向かって走った。

すると、坂を登ってくるお母ちゃんの姿が見えた。

「お母ちゃん!」

僕はお母ちゃんの身体に飛びついた。


 僕は十八になっていた。

お母ちゃんは女手ひとつで僕を高校まで通わせてくれた。そして、この春から僕は、奨学金を得て大学に通うことになっていた。

 お母ちゃんは僕の合格通知を墓前に供え、毎日、手を合わせた。

そして、卒業式を終えて少しすると、お母ちゃんは倒れた。

救急車の中で、それから病室のベッドのわきで、僕はずっとお母ちゃんの手を握った。

だが、お母ちゃんはそのまま息を引き取った。


「……あれは幻だよ」僕はそう呟いて気を取り直した。

棺の窓を閉めるときに、また涙がこぼれた。

霊柩車に棺を納めると、葬儀社の女性社員に「助手席に乗って」と言われた。

僕は助手席のフロアに足を置いた。すると、目の端に桃色に色づく桜の木が映った。

僕は乗りかけた脚を戻した。

桜の木はまるでこの日を祝っているかのように花をいっぱいに咲かせていた。

 僕はあの女の子が木の影から現れはしないかと見つめ続けた。

だが、そんな事は起こらなかった。

「さあ乗って」女性社員が催促した。

「ちょっと待ってもらえますか」僕はそう言って桜の木に歩み寄った。

木の根元は地面があるばかりで、あの日見た穴はどこにも無かった。

 僕は木に額をあて「お兄ちゃん……」と呟いた。

「戻ってきたんだね……」

その時、幼いお兄ちゃんの声が僅かに届いた気がした。

そして、足元を見た。

地面には真っ黒な穴が現れ、そこから小さな手が伸びていた。

すると、その手は僕の足首を掴んだ。

僕は反射的に上を向き、捕まるものを探した。

だが、掴まれそうな枝はない。ただ桜の花びらが奏でる薄桃色の光が、優しく降ってくるばかりだった。

僕は声を発することもできず、そのまま穴に引きずり込まれた。


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