祓い子のつどひ

ミTerら使

第1特例資料室 郷土資料館に展示されていた文書

※出典が翻刻資料(写し)であることに注意が必要です。原本は県警の管轄下にありますが、申請を行うことで閲覧が可能です。


以下『楢岡風土記 外伝』より抜粋


巻之五:災禍と祓除の法







> 昔より、楢岡郷には災厄多く、時に村人の三分が疫に倒れ、また山よりの火にて田畑焦土となりしことあり。これをして、「山の神、怒りしなり」と言い伝へり。


されば村人、古より神職に伺ひ、災いを鎮むる法を乞ふ。神職、古記を探るに、「穢れは人に入りて鎮まるものなり」との詞を得たり。


即ち、「人のうち一人を選びて、これを祓いの器とせば、里の穢れ、その身に集まりて、災い退く」と記されおり。






> この者をして「祓い子ハライコ」と称す。


祓い子に選ばれし者は、七日七夜、社の奥に籠もり、村人は声かけを禁ず。また、以後三月の間は、人の名を呼ばれず、影も踏まれず、言の葉を交はすことすら控えらるる。


祓い子は笑わず、言わず、願わず、ただ黙して歩くべし。人々はその者に心をかけず、ものを与えず、ただ日々の祓いとして視るなり。







> されど、祓い子となりし者、皆病を得てやせ細り、多くはその年を越せずに果つ。これをして「神の身代わりなり」と崇める者もあらば、「災いを集めて死ぬるもの」と恐れ疎む者もあり。


ある年、祓い子が村を逃げ出すに及び、火災ふたたび起これり。これにより、以後、祓い子には印をつけ、逃げぬよう囲いを設けると定められり。







> 記す者、文政十三年(1829)春、村年寄 斎藤兵内


※後年加筆あり(明治四年):「今に至りても、里の平穏のため、祓い子の法やむを得ずとの声多し。されど人の道を忘ることなかれ」

追記者:村吏 小笠原主計







解説:


「祓い子」は村の災厄を一身に引き受ける「贄」のような存在とされていた。基本的には社会的地位の低い、子どもや高齢者を対象にしていたという。


村ぐるみで無視・疎外する慣習が制度化されており、本人の意思は問われなかった。


最初は宗教儀式的であったが、次第に社会的スケープゴート(生贄)として機能していった。


逃げると村に災厄が戻る、と信じられたため、脱走防止の措置も取られていた。


明治初期には疑問視する声も一部あったが、慣習として昭和中期まで残ったとされる。


実際の効果は不明であり、調査中となっている。

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