第4話 握られない

立ち上る香ばしい香りに思わず目をひそめる。いつも通り出勤しなければならないということを除けば,いい朝だ。珈琲を片手にさっくり焼き上げたトーストをかじる。じんわり溶けだしたマーガリンとバターが苦味を押し流し,素朴な味わいを与えてくれる。半分くらい食べたところで,手に着いた粉をこすって皿に落としながらリビングのソファにじっくりと腰かけ,テレビを付けた。

「先日から☆☆町内で集中的に発生している行方不明事件についてのニュースです。」

最近巷を騒がせている事件は今日の朝も面白おかしく不可思議な事件として取り上げられている。最近では大学生1名が行方不明になったそうで,愛しい息子と娘がいつ巻き込まれるか気が気でない。もちろん,そこの畳で眠っている母さんのことも心配だけれど,直近の犠牲者が息子と歳が同じであることも特に僕の不安を掻き立てた。

「まぁ、ないことを考えても仕方ないか」

パンの残った半分に豪快にかじり付き,珈琲で流し込んだ。諸々を台所で軽く水にさらして,歯を磨きに洗面台へ向かう。歯磨きついでにかさついた肌に母さんからもらったクリームを塗りたくり,出来るだけ身だしなみを整えておくのも子どもに誇れる立派な大人だ。ややくたびれたインナーとシャツに袖を通し,やや安定感を崩しながらズボンを履き上げ,はみ出た贅肉をベルトで締め上げる。最後に鏡で顔を確認し,剃り残しのある髭を軽く整えれば準備は整った。革靴のつま先からは何ら変わりない日常の音。皆を起こさぬようにひっそりとドアを開け,鍵をかけた。


それから流れる時は早く,部下の打ち合わせ資料の最終確認や先方への連絡,夏に送るお歳暮のアドバイスなど済ませていけばいつの間にか時計の針は二人揃って12の盤を指し示していた。昼一の打ち合わせを担当する部下は入って幾分か経っているのにいまだに緊張しているようで,青い顔で原稿を眺めている。彼の生真面目さが実を結ぶことを祈りつつ,あの様子ではきっと食べ物が喉を通らないと思い,一人オフィスを出る。手ごろなサンドイッチくらいは準備しておいてあげよう。そうして賑わっている駅前へと繰り出した。

それなりに活気がある街並みは行方不明事件なんて起きていないかのような暖かさを持っている。こればっかりは仕方のないことだけれど,いざ身内が当事者になればこんな呑気にしていられないだろうとふと思ってしまった。そんな調子でぼんやりと街中を眺める最中,気になるものを見つけた。平日の昼間に奇怪なピエロが風船を配っていた。携帯会社だとか,そういうちょっとした契約を持ちかけようとするキャンペーンらしいデフォルメされた着ぐるみだ。やや珍しいと注視していれば,ふいに目が合う。目が合うといっても大きな着ぐるみの目だ。特段気まずさは感じなかったが,なぜだろうか,口角がおかしく上がったり,涙がこぼれそうな気分になった。

そうしていると,ピエロはのしのしと大きな一歩を繰り出して,持ち手のついた赤色の風船を僕に手渡した。

「これをはなさないでね。これがしぼむまで。てをはなしたらきっともういちどにぎることはできないから。いまのをまもれば,おちることもないからね。」

性別の掴めないようなやや高い声で,そう告げてひょこひょこの元の居場所へと戻っていく。普段であれば困ったような顔をして彼の手に戻そうとしただろうけれど,これを絶対に離しちゃいけないと,心の深奥が確信していたがためにそのまま握り続けることにした。理由は分からないけれど,ピエロの目を見た時の感覚がどこか虚しくて,やりきれないような気がしたから。

その日,僕はご機嫌おじさんとして社内で茶化され続けた。打ち合わせのときにも離そうとしないものだから部長は眉を顰めていたけれど,部下は緊張がほぐれたのかここ一番のプレゼンをして,先方を唸らせていた。あの様子ならば今季は追加発注してくれるはずだ。部下に感謝されながら,今日飲みは無しでと断りを入れて帰路に着く。


駅に着いた時,そこには昼間のピエロは居らず,彼の存在を主張しているのはこの風船だけだった。やはり彼のことを思うとどこか物悲しくなるのはなぜなんだろうか。奇特な大道芸人のことに意識を割いていれば,力が抜けた。手から風船が零れ落ちてしまったのだ。ぷかぷかと浮かび出さんとするそれに手が伸びなかったのは歳のせいだろうか,それとも。

「あぁ,待って!待ってくれ!」

ばたばたと地上で暴れる僕を横目にひゅるりひゅるりと風に巻き上げられて,見えなくなる。

だが、そう思ったのも束の間,揺蕩いながら僕の手元近くへと戻ってきた。なんとか,なんとか助かったと思いながらしわしわになった風船を小さく折りたたんで,電車へと乗り込む。大きな河川を超えて,そうしてありふれた一日へと戻るのだ。一抹の不安と悲しみだけはどうしても流しきれないままで。


「イカロスはおひさまにいきたかったのかな。でもせんせいのいうことはきかないとだめだよね。おこられちゃうから。」

街中に浮かんだカラフルな風船は街路樹に引っかかるものもあれば,空へ空へと進んでいく者もいた。そうして,萎んで,溶けて,彼らを握る者は誰も居ない,いずれ握られなかったものは一人でに消えていってしまうんだろう。風船を追って,見えなくなったあの少年みたいに。

今日はあなたの頭が弾ける番です。


──────


悪魔に入室の許可を与えてはならない。甘言に釣られて一度手招いてしまえば,その人物はもう掌の上。だからこそ,その戸をしっかりと戸締りしよう。どれほど心細かろう壁でもきっと大きな障壁足りうるのだから。誘惑に負けさえしなければ。

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まかない怪談話 玄葉 興 @kuroha_kou

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