第10話 祝福(エク・ブーリロ)
ウェデリアは何かに気づいたように目を見開いた。彼女の周りを取り巻く空気が、わずかに震えているような感覚。そして、自分の体内から何かが流れ出していくような奇妙な感触を覚えた。まるで大きな螺旋が彼女自身を飲み込んでいくような。
見れば、わずかに離れた場所でリーゼが立ち上がり、唇を動かしている。ここまで聞こえてはこないにせよ、何かの言葉を紡いでいることはわかる。言葉の一語一語が波動を放ち、ウェデリアの体内の魔力がそれに呼応するように脈打つ。
「リーゼ……?」
自分の魔力がリーゼの方向へと引き寄せられていく。いや、自分だけじゃない。この炎の向こうで、瓦礫に埋もれた街の向こうで、周囲の人々の魔力がリーゼを中心とした見えない渦を描いている。
「これは……詠唱?」
ウェデリアは信じられない思いで見つめた。今まで、リーゼの魔法に詠唱は必要なかった。なのに今、彼女は明らかに何かを紡いでいる。それも、ただの詠唱ではない。魔力そのものを操る、より深い何かを。
そこからわずかに離れた場所、建物の影に佇むハンナも同じ感覚を覚えていた。彼女の周囲の魔力が、潮流に運ばれるように引かれていくのを。
(なるほど……彼女の魔法は無詠唱魔法ではなく、無詠唱でも使える魔法だったのか)
想定外の出来事に眉をひそめながら、ハンナは仮説を立てる。おそらく、あの魔法の正体は周囲の人々から魔力を集め、リーゼ自身の魔力に上乗せすることで、より強力な閃光を放つ魔法だ。
リーゼの魔法に魔力を奪われるような感覚を味わいながら、ハンナはその仮説の正しさを確信する。それだけの魔力をぶつけることができるのだとしたら、イルマ・タイヴァーリを撤退させることぐらいならできるかもしれない。そんなことを思いながら彼女は空を見上げる。その時——。
「おい……ふざけるなよ……」
ハンナの額に冷や汗が浮かぶ。
ハンナ・アールバリは鋭敏な感覚を持つ優秀な魔導士だ。だからこそ、ウェデリアにもリーゼ本人にも明確にはわからないことを理解する。空で渦巻くようにして、リーゼを中心に収束していく魔力の規模を。それは周囲だけでは終わらない。このトゥルークの街全体から——いや、もっと遠くから魔力を巻き込んでいる。
ハンナにしか感知できないであろう魔力の流れる音。それは最初、川のせせらぎのように小さく聞こえていた。やがて大河の奔流となり、最後には激しい滝の轟音となって響いていたが——今、それが途切れ、静寂が訪れる。
その静寂の中で、彼女の視線はリーゼに向かった。
瓦礫の山で、半ば埋もれるようにして立つリーゼの全身から青白い光が漏れ出し、周囲を幻想的に照らし出している。やがて、左手を天へと突き上げ、その唇が動く。
——それは天に瞬く星々の輝き。それは流星の光の軌跡。その先に在るを射貫き、迷妄の霧を晴らせ。
(多段詠唱だと……!)
ハンナは息を呑む。
「エク・ブーリロ!」
リーゼの体内に集中した魔力が臨界点を超える。手のひらから放たれる巨大な閃光——それはもはや閃光と呼ぶには余りにも巨大で、まるで天へと昇る雷光のようだった。
全身を飲み込むようなその光を、イルマ・タイヴァーリは舞うようにかわす。しかし——その瞬間だった。
閃光の先端が弾け、無数の光の矢のように放射状に広がっていく。それは閃光というより、流星雨だった。地上に向けて降り注ぐ星々は、周囲を飛び交うシーヴィ・ケイルメの群れを貫き、次々と撃ち落としていく。シーヴィ・ケイルメの金切り声のような断末魔が、崩壊した街に響き渡った。
やがてその流星群はイルマ・タイヴァーリにも降り注ぐ。空中を舞う飛竜は、その流星を避けようと再び身をひるがえす。しかし、降り注ぐ光の矢が、その巨体を容赦なく捉える。衝撃で体勢を崩した飛竜は、バランスを失い、大きく揺れながら地面へと落下していく。
その光景を見るハンナの額に、さらに冷や汗が浮かんだ。街中の魔力を掻き集め、それに別の詠唱を重ねることで、魔法を別のものに変換していく。これが一人の魔導士の力だというのか。
(あれは危険だ。あの子は帝国にとっての大厄災になりかねないぞ、ラグナール)
彼女は声に出さないまま、心の中で叫んでいた。
* * *
リーゼの魔法が放たれた瞬間、ルーカスは機を逃すまいと素早く動いた。彼は調合した罠を手に、飛竜の下へと駆け出す。足元は不安定で、瓦礫や割れた石畳が足首に絡みつくように進行を妨げる。それでも、彼は全力で走り続けた。
「今しかない!」
リーゼが魔法を放ったのなら、イルマ・タイヴァーリが撃ち落とされるはずだ。そんな信頼を胸に、ルーカスは空を見上げる。無数の光が飛竜へと降り注ぎ、その巨体が今まさに落ちようとしていた。落下点を見極めながら、ルーカスは距離を測る。最短かつ、その巨体に押し潰されないような距離を。
だが、イルマ・タイヴァーリは地面に叩き落とされることを拒否した。それは天空を駆ける王としての誇りだろうか——地面直前でその翼が大きく羽ばたき、体勢を立て直す。しかし、再び大空へと舞い上がることはない。その場に滞空したまま咆哮し、ゆっくりと大地に降り立つ。深く息を吸い、荒く吐き出した。表情から読み取れるわけではないが、怪物もまた疲労していた。
風圧に耐えたルーカスは、イルマ・タイヴァーリの脚元へと走り寄る。そして地面に膝をつき、飛竜の脚の近くに罠を仕掛ける。彼の動きは素早く正確だった。調合師としての経験に裏打ちされた手際の良さ。しかし、その動作を終える直前——飛竜の尻尾が不意に動いた。
「危ない!」
ウェデリアの警告が聞こえた瞬間、ルーカスの体は宙に浮いていた。イルマ・タイヴァーリの尻尾が、彼の体を強烈に弾き飛ばしたのだ。まるで風に乗って飛ばされる枯葉のように、ルーカスは宙を舞い、壊れた建物の残骸に叩きつけられた。
「ルーカスさん!」
ウェデリアの悲痛な叫びが周囲に響く。震える足を必死に抑え込みながら、ウェデリアはルーカスの仕掛けた罠に意識を向ける。託されたことを成さねば、全てが無駄になってしまう。
彼女の魔力が、ルーカスの仕掛けた罠に流れ込む。脳裏にその複雑な構造が浮かび上がる。マナヘルッカを核とした起爆装置、それを取り巻く魔力の回路——その全てを正確に起動させる光景を思い描く。
瞬間、罠から青白い光の糸が飛び出し、放射状に張り巡らされるように広がっていく。その糸は浮かび上がり、球体状に収束するようにイルマ・タイヴァーリの全身を包み込む。飛竜は怒りの咆哮を上げ、身をよじる。だが、魔力で編まれた糸は、その巨体をしっかりと拘束していた。
ルーカスは瓦礫に埋もれながらも、その成功をしっかりと見届ける。口元に僅かな笑みを浮かべながら——
(ほんの数十秒ですが、機会は作りましたよ)
そんなことを考えながら、痛みに意識を失った。
* * *
ラースは深く吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出した。イルマ・タイヴァーリに吹き飛ばされてから、わずかな時間、意識を失っていた。目覚めた時、彼の心は奇妙なほど落ち着いていた。
(俺はまた同じことを……)
ラースは苦い思いで考える。ヘルッカ・スオムツの時と同じだ。俺はまた闇雲に突っ込んで、周りを危険に巻き込んでいる。いや、それよりもずっと前から——結局俺は何も成長できていない。ラースは唇を噛む。
——不慣れな怪物相手に動きを観察する事も無く、闇雲に飛びかかっていくだけの前衛。
あの時のハンナの叱責が蘇る。あいつは性格の悪いクソ女かもしれないが、言っていたことは間違っていない。闇雲に飛びかかるんじゃなく、よく観察すること。
ラースは意識を集中させる。まるで時間の流れが遅くなったかのような感覚。彼はイルマ・タイヴァーリだけでなく、その周囲で戦う人々をも観察する。ルーカスの罠が起動した瞬間、他の兵士や冒険者たちがどう動くのかを。
ラースの判断は、反省に基づいたものだ。そして正しい。
残存する兵士や冒険者たちは、罠の発動を好機と見て、破壊を免れた大砲や弓矢でイルマ・タイヴァーリに集中砲火を浴びせていた。あの場に飛び込んでいれば、確実に巻き添えになっていただろう。
ラースは冷静に分析を続ける。拘束が解かれた後、イルマ・タイヴァーリはどう動くのか。あの怪物はそこらの獣とは違う。すぐに飛び立って逃げ出したりはしない。散々受けた攻撃が効いていないとでもいうように、威嚇の咆哮を上げるはずだ。
ラースは手に力を込める。咆哮の後——息を吸わない生物などいない。その呼吸の流れに乗るように、全力の一撃を叩き込む。イルマ・タイヴァーリが飛び立つ前にできる、俺の最善手はそれだ。
そう考えながら、ラースは飛竜と呼吸を合わせていく。
ラースの判断は、観察と分析の結果だ。そして正しい。
やがてイルマ・タイヴァーリを拘束した光の糸が弾け散った。飛竜は二本の脚を大きく広げ、巨大な鉤爪で大地を掴む。次に巨大な翼を叩きつけるようにゆったりと羽ばたき、砂煙を巻き上げながら大きく吠えた。
攻撃を続けていた兵士や冒険者たちの手が止まる。表情が曇る。どれだけやっても、あの怪物は倒れない——そんな絶望の空気が漂う中、ラースは剣を握りしめ、飛竜に向かって駆け出した。
その身を翻し、倒れた建物の残骸を駆け上がる。砕けた木片と火の粉が舞いあがる。咆哮を終えたイルマ・タイヴァーリが深く息を吸う瞬間——砂煙の中に見えた頭部へと向かって、ラースは渾身の力で剣を振り下ろした。
どんな怪物であろうと、頭部が砕かれたなら絶命するしかない。ラースの判断は正しい。ただし——その選択が正しいとは限らない。鋭い金属音が響き渡る。剣は、イルマ・タイヴァーリの硬質な鱗に阻まれた。次の瞬間、信じられない光景が彼の目の前で起きる。自らの剣が、まるでガラスのように砕け散ったのだ。
粉々になった剣の破片がゆっくりと宙に舞い散る。走馬灯のように時間が引き延ばされる感覚。ラースは剣の柄だけを握ったまま、呟く。
「嘘だろ……」
息を吸い終えたイルマ・タイヴァーリは、大きく口を開いた。その喉の奥から青白い炎のようなものが見え始める。
全身から力が抜けていく。ラースは絶望した。
* * *
膨大な魔力が全身を駆け巡った反動なのか、リーゼは朦朧とした意識のままで、浅い呼吸を短く繰り返していた。その場にへたり込みそうになりながら、自分の手のひらを見つめる。あれは一体何だったのか。まるで自分の魔法ではないみたいだ。
いや違う。リーゼは小さく首を振る。あれは間違いなく自身の詠唱から導き出した自分の魔法だった。魔法が思いの具現化なら、全てを殲滅し切る破壊の力。それが私の望んだ呪いそのものだ。
(もう……いいかな……)
出来ることは全部やったじゃないか。全身の力が抜けていく。緊張から解放されたが故にだろうか、リーゼの全身の感覚が逆に研ぎ澄まされ、ウェデリアから発せられる魔力の流れを感じ取る。
リーゼはウェデリアに視線を向ける。足を震わせながら、彼女はイルマ・タイヴァーリの脚元にある罠を起動させていた。冒険者でもない彼女が、まだ歯を食いしばっている。
(諦めるな)
リーゼは思う。私の役目はまだ終わっていない。
走馬灯のように思い出が駆け巡る。心を閉ざすように過ごしてきた私に、ずっと笑いかけてくれたのはウェデリアだった。魔法を失い足手纏いになっても、仲間だと言ってくれたのがルーカスとラースだった。私はまだ何も返せてはいない。
リーゼは意を決しイルマ・タイヴァーリの前へと駆け出した。全身の魔力を絞り出すように左手に集めていく。眼前に広がっていたのは、先に飛び込んだラースの剣が砕け散った瞬間。
「ラース!どいてっ!」
叫び声に反応したラースが身をよじる。その向こうに、大きく広げられたイルマ・タイヴァーリの口。その喉の奥で、青白い炎が揺らめいている。
(あそこ——)
リーゼは瞬時に理解する。この怪物にとって、口内だけが唯一の弱点。そこに魔法を叩き込めば、致命傷を与えられる。そう考えると同時に、彼女の体は自然と動いていた。この呪いが私に与えられた祝福だというのであれば、私を救ってみせろ!
「エク・ブーリロ!」
突き出された左手から無詠唱で放たれた閃光は、イルマ・タイヴァーリの喉深くを貫いた。彼女が思い描いた通りに。
巨大な体が地面に崩れ落ち、大地を揺るがす。リーゼも飛竜の倒れる衝撃と共に地面に落ち、転がるように倒れた。全てを出し切ったという感覚を抱いたまま、リーゼの意識は深い闇の中へと沈んでいった。
* * *
ラグナールは手にした遠眼鏡を思わず落とした。彼はトゥルークの街から少し離れた丘の上で、一部始終を見ていた。まるで舞台の出来栄えを確かめる演出家のように。
彼の計画ではトゥルークの街は滅びるはずであった。未開拓区域からの飛竜の襲来、その結果としての都市の壊滅。その衝撃は大陸全土に伝わるはずだった。その計画は完全に失敗したと言ってもいい。でも、それがどうしたというのか。
今の彼は歓喜に満ちている。幕のあいた舞台は想像以上の素晴らしさだった――いや、彼は自覚している。自分自身もこの舞台の出演者の一人であることを。ラグナールは笑う。
眼下に広がっていた光景は、駆け出しレベルの冒険者達がタイヴァーリ属ですら撃ち破ったという現実だ。それに比べれば計画の失敗など、些細なことに過ぎない。
「来るぞ!神でも怪物でもない、人の時代が!我が帝国の宿願も果たされる時は近い!」
ラグナールは空を見上げ、両手を広げながら叫ぶ。彼の目は熱に浮かされたように輝いていた。
「随分と嬉しそうですね」
冷ややかな声にラグナールは振り返る。そこには疲れ切った表情のハンナが立っていた。ラグナールは微笑みを浮かべる。
「当然だろう。これは成果だよ。我々は時計の針をほんの少しだけ進める予定だった。それが想定以上に進めることができたと思っていい」
「あの子の魔法が当たり前のものだと思わない方がいい」
ハンナはそう言ってラグナールの言葉を否定する。おそらくこの場所は、あの魔法の範囲外だったのだろう。元気そうなラグナールと違って、ハンナは魔力のほとんどを吸い取られたような疲労感に襲われていた。そのせいだろうか、普段の彼女から感じる張り詰めたような空気は失われていた。ハンナはラグナールの前へ進み出て、トゥルークの街を見つめる。城壁は崩れ、あちこちから立ち上る煙が、空を黒く染めていた。
「皇帝陛下は、本当にここまで——」
振り向きながら語るハンナの言葉を遮ったのは、ラグナールの剣だった。その剣先が背中から肋骨の合間を縫うように片肺に突き立てられたことを、彼女は瞬時に理解することはできなかった。急激な血圧の低下で倒れ込みながらラグナールに問いかける。
「ラグ……何を……」
「君が僕を監視する役目だったこと、知っているよ」
ラグナールは倒れたハンナを見下ろしながら続ける。
「誰にも気づかれる事なく背後に立てる。そんな君の認識阻害魔法は恐ろしいよ。暗殺には最適だからね。だから、いつかこうするつもりだった。言ったろう、時計の針を想定以上に進めることができたと」
そう言って剣を鞘にしまいながらラグナールは詠唱を始める。次に足元に転がる岩へと、手にした鞘の先を打ちつけた。火花が散る。
「フラモ・アルティーゴ」
火花は火柱となり、ハンナの身体を飲み込むようにして燃え上がる。その炎はその肉も骨も焼き尽くすまで消えることはなかった。ラグナールは誰に言うというわけでもなくつぶやく。
「ハンナ・アールバリ。君はトゥルークでイルマ・タイヴァーリ相手に名誉の戦死だったと伝えておくよ。それに大丈夫さ……陛下のお考えは、ちゃんと理解している」
ライトを浴びたように、ラグナールの顔が炎に照らされる。その表情がある種の狂気に歪んでいた事は、役者としての仮面なのか否か――恐らく本人ですらも理解していないだろう。
* * *
トゥルークの街では、イルマ・タイヴァーリが倒れた瞬間から歓声が上がり始めていた。生き残った人々が、次々と姿を現し、倒れた飛竜の周りに集まってくる。
危機が去ったという安堵感からか、人々の表情には笑顔が浮かんでいた。その中には、街の兵士や他の冒険者たちの姿もあった。彼らは倒れたリーゼやルーカスを介抱し、周囲の安全を確保していた。
ラースは折れた剣の柄を握りしめたまま、イルマ・タイヴァーリの亡骸の前に立ちつくしていた。笑顔は見せず、俯き気味に唇をかみしめていた。
その時、頬に冷たいものが触れた。空を見上げると、いつの間にか雲が広がり、ぽつりぽつりと雨粒が落ち始めていた。まるで天が街の炎を鎮めようとするかのように。
「お前さん、大丈夫か」
声に振り返ると、年配の男が立っていた。その男はラースの手にした折れた剣を見て、首を傾げる。雨粒が男の肩に小さな染みを作り始めていた。白髪混じりの髭を撫でながら、男は言う。
「その剣じゃあ、これから先の冒険は続けられないだろう。新しい剣を打ってやろうか?」
ラースは瞬時に考え、答えた。雨は次第に勢いを増し、煙を上げていた瓦礫から静かに湯気が立ち上る。
「あんた、鍛冶師か?」
「ああ、そうだ。街を守ってくれた英雄さん相手だ。金は取らねぇよ」
英雄という言葉に、ラースの胸が痛む。雨は彼の髪を濡らし、頬を伝って流れ落ちた。その痛みを払いのけるようにラースは言った。
「頼みがある。俺は強くなりたいんだ。この飛竜の素材を使って、剣を打ってくれないか」
鍛冶職人は驚いた表情を浮かべ、しばらく考えた後に頷く。雨音が石畳を叩く音が、次第に強くなっていく。
「やってみよう。だが、飛竜の素材を扱うのは初めてだからな。上手くいくかどうかは保証できんぞ」
「構わない。やってくれ」
雨は本格的に降り出し、街に残る炎と煙を徐々に消し去っていく。ラースは内心思った。俺は何もできていない。ウェデリアやルーカス、何よりもリーゼの活躍があってこそ、イルマ・タイヴァーリは倒れたのだ。もっと強くならなければ。次は自分の力で守れるように。そんな思いが、降りしきる雨に洗われながらも、彼の心を強く支えていた。
* * *
雨の中、ルーカスとウェデリアは大きな被害を免れた西側の市場へと足を向けていた。足元の石畳は既に水たまりを作り始め、歩くたびに小さな水音が響いた。
通りの両側では、復旧作業が黙々と進められていた。ひび割れの入った壁に職人たちがモルタルを塗り込み、崩れた煉瓦を一つずつ積み直している。瓦礫を運ぶ男たちの荷車が、雨に濡れた石畳の上を重い音を立てて通り過ぎていく。街の人々は疲れ切った表情を浮かべながらも、諦めることなく手を動かし続けていた。
「リーゼさんは大丈夫なんでしょうか?」
市場の入り口が見えてきた頃、ルーカスが振り返りながら問いかけた。その声には、自分よりも気を病んでいるであろうウェデリアに対して問いかけることのためらいが滲んでいる。
ウェデリアの表情が僅かに曇る。倒れたリーゼを自分の家に運び込んでから、もう一日が経った。それでも彼女は眠ったまま、一度も目を覚ましていない。
「魔力を使い切ると、あんな風になるものなのですか?」
ルーカスの問いかけに、ウェデリアは小さく首を振った。
「普通であれば、脱力する程度で済むはずです。意識を失うまでは……」
雨音に混じって、遠くで復旧作業の槌音が響いている。ウェデリアは歩みを緩めながら、慎重に言葉を選んだ。
「でも、今回はリーゼだけじゃなくて、周囲の魔力を集めるようにして魔法を使っているように見えました。だから、普通じゃない負荷がリーゼにかかったのかもしれない」
その推測を聞いて、ルーカスは眉間に皺を寄せた。魔法については専門外だが、それでも尋常ではない状況だったことは理解できる。
「ルーカスさんの回復薬で治療することはできませんか?」
ウェデリアの問いかけに、ルーカスは首を横に振る。
「回復薬は身体に無理をさせる道具なんです。ゆっくり休めるなら、自然に任せる方がいい」
そう答えてから、ルーカスは苦笑いを浮かべた。
「どうせラースさんのこともありますし、当分ここに滞在するしかありませんね」
その言葉を聞いて、ウェデリアの顔に安堵の表情が広がる。
「遠慮せずに、うちで過ごしてくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
二人は静かに微笑み合った。降り続ける雨が、街の傷を少しずつ洗い流していくように思えた。
* * *
その工房は熱気と金属の匂いに満ちていた。炉の火が赤々と燃え盛り、その光が石造りの壁を踊るように照らしている。工房の一角には、解体されて運び込まれたイルマ・タイヴァーリの素材が山のように積み上がっていた。黒緑色に光る鱗、鋭い爪、そして何より目を引くのは、巨大な翼の骨格だった。
「言われた通りに来たぜ」
ラースは工房の入り口で声をかける。炉の熱が頬を撫でていき、一歩足を踏み入れただけで汗が浮かび始めた。
「おお、待ってたぞ」
炉の前で作業をしていた年配の男が振り返る。その逞しい腕と、長年の経験で培われた確かな手つきが、熟練の職人であることを物語っていた。
「これから作る装備は、全てをお前さんに合わせる必要がある」
そう言って鍛冶師は道具箱から測定用の紐を取り出し、ラースの身体のサイズを測り始めた。腕の長さ、肩幅、胸囲——それら一つ一つを丁寧に確認していく。
「昨日のうちに端材を軽く鍛えてみたが、さすがイルマ・タイヴァーリの素材だ。きっとすごい装備ができるだろう」
鍛冶師の言葉に、ラースの胸が高鳴る。あの絶望的な戦いを乗り越えた証が、今度は自分の力となるのだ。
「そうか、楽しみだな」
期待に満ちたラースの表情を見て、鍛冶師は測定の手を止めた。そして、まるで冷や水を浴びせるような問いかけを投げる。
「それからどうするつもりだ?」
突然の質問に、ラースは戸惑いを隠せない。
「お前さんが新しい装備を使いこなすようになれば、イルマ・タイヴァーリ以上の怪物も討伐できるようになるだろう。そうやって、より強い怪物の素材から強い装備を作っていく」
鍛冶師の瞳がラースを見据える。
「お前さんが求めている強さとは、そういうものか?」
工房に重い沈黙が降りた。炉の炎がパチパチと爆ぜる音だけが響いている。ラースは鍛冶師の問いかけの真意を測りかねていた。
しばらくの後、ラースは小さく首を振る。
「そんな先のことは、まだわからない」
そして、眠ったままのリーゼの顔を思い浮かべながら続けた。
「俺はさ、一つの依頼が終わったなら、『やったな!』ってパーティで喜び合いたいんだ。でも、最近はいつも誰かが傷ついて倒れている。俺が弱いからだ」
ラースの声に、自分への苛立ちが滲む。
「だから強くなりたいと?」
鍛冶師の問いかけに、ラースは力強く頷いた。
「そうだ。せめて手の届く範囲のみんなを守れる強さが欲しい。笑って終われるように。その気持ちを忘れないように、手放さないように、この武器が欲しいんだ」
その言葉を聞いて、鍛冶師の表情が和らいだ。彼は作業台から重い槌を取り上げ、ラースに差し出す。
「これから打つのは、お前の新しい剣の芯になるところだ。手伝ってもらう」
「手伝うって、マジかよ。素人だぜ、俺」
ラースは戸惑いながらも、槌を受け取った。その重量感が、手のひらを通じて責任の重さを伝えてくる。
鍛冶師は炉から熱された鉄を取り出し、金床の上に置いた。赤く熱した金属が、暗い工房を明るく照らす。
「お前の気持ちを打ち込むんだ。願いを、祈りを、この芯材へと練り込むように。お前がこの武器を信じる限り、武器はお前に答えてくれる」
炉の熱にさらされて、ラースの額に汗が浮かぶ。握りしめた槌に力を込めながら、彼は答えた。
「構わない。何日だって続けてやるさ」
二人は交互に槌を振り下ろし始める。金属を打つ高い音が工房に響き渡り、火花が宙に舞い散った。
「この作業が終われば、後は自分一人で一気に仕上げる」
鍛冶師の言葉に、ラースは心配そうな表情を見せる。
「爺さん一人で大丈夫なのか?」
「このヘイムダル・ソヴァーゲ、女神より祝福を授かって四十年。まだまだ若造に心配されるほど老いてはおらん」
ヘイムダルは自信に満ちた笑顔を浮かべると、再び槌を振り上げた。振り下ろされる槌の音が高く鳴り響き、その音は工房を越えて雨の街に響いていく。まるで新たな希望を打ち鳴らすかのように。
* * *
数日続いた雨が止み、久しぶりに雲間から光が漏れ出していた。
ウェデリアの家にある客室で、レースのカーテン越しに差し込む午後の陽光が、ずっと眠り続けていたリーゼの蒼白な頬をそっと照らしている。静寂に包まれた部屋で、やがて長いまつげがかすかに震え、重い瞼がゆっくりと開かれた。
視界に映る見慣れない天井の木目が、ぼんやりと焦点を結ぶ。頭の中は深い霧に包まれたように重く、思考がなかなかまとまらない。それでも少しずつ、断片的な記憶が蘇ってくる——炎に包まれた街、空を舞う飛竜、そして自分の手から放たれた巨大な閃光。
リーゼは乾いた唇を湿らせ、息を深く吸い込んでから、ゆっくりと身体を起こした。
「リーゼ!?」
隣の椅子で机に突っ伏して眠っていたウェデリアが、かすかな物音に反応してはっと顔を上げる。リーゼの目覚めを認めた瞬間、彼女の表情に驚きと安堵が一気に溢れた。
「やっと……やっと目を覚ましてくれた……」
ウェデリアはそっとリーゼを抱きしめた。涙に濡れた頬がリーゼの肩に触れる。その体温と鼓動が、リーゼに自分がまだこの世界に存在していることを確かに実感させた。
「ウェデリア……ごめん、心配かけて」
震える友の背中にそっと手を回しながら、リーゼは部屋を見回す。ベッドの両脇には、ラースとルーカスが椅子に腰掛けていた。
「やっと気がついたみたいだな」
ラースの声は普段の威勢の良さとは違い、心底ほっとしたような響きを帯びている。包帯を巻いた彼の右腕と、頬に残る擦り傷が、あの激戦の記憶を呼び起こした。
「お疲れさまでした、リーゼさん」
ルーカスも穏やかな微笑みを浮かべる。彼はラースよりもずっと多くの包帯を身に纏い、普段の几帳面な身なりとは程遠い有様だった。
その光景を見て、リーゼの口元に小さな笑みが浮かぶ。
「みんなボロボロだね」
軽口を叩いた瞬間、込み上げてくる感情に抗えず、リーゼの目に涙が滲んだ。傷だらけでも、こうして笑い合える仲間たちの姿を見て、胸の奥で張り詰めていた緊張の糸が、ようやく静かに解けていく。
「そうだ、リーゼ。これ、先生から」
ウェデリアは頬の涙を拭いながら、枕元のテーブルから一通の手紙を取り上げた。
「あなたが眠っている間に、返事が届いたのよ」
手紙を受け取ったリーゼは、封蝋を丁寧に剥がす。便箋を広げると、見慣れたカリーナの美しい筆跡が目に飛び込んできた。一文字一文字を大切に読み進める。
手紙は深い謝罪の言葉から始まっていた。教え子が長い間一人で抱え込んできた苦悩に、もっと早くこたえてあげられなかったこと。この手紙に記したことを、卒業までに伝えることができなかった自分の不甲斐なさについて。
そして、丁寧な考察が続く。リーゼの過去に起きた出来事について、文献や古い記録を調べ直した結果、それがマナヴィフマである可能性は極めて低いということ。むしろ別の現象であった可能性が高いということ。手紙の最後は、迷いのない力強い言葉で締められていた。
——リーゼ・ノルシュトレーム。貴女は私が、いえ、私たちが認めた立派な魔導士です。決して貴女は厄災の子などではありません。
リーゼは手紙をそっと胸に抱き、目を閉じた。長い間心を縛り続けていた重い鎖が、音を立てて外れていくような感覚。そして、自分の左手に意識を向ける。
そこには確かに、温かで穏やかな魔力の流れがあった。それはもう、恐れるべき破壊の力ではない。仲間を守り、希望を繋ぐための、自分だけの祝福。
「ねえ、ウェデリア」
リーゼは親友の瞳を真っ直ぐに見つめながら、静かに言葉を紡いだ。
「私は……やっと自分の魔法が好きになれた気がする」
その言葉を聞いた瞬間、ウェデリアの顔に太陽のような笑顔が広がった。それは彼女がずっと待ち続けていた言葉だった。リーゼも心の奥底から湧き上がる喜びと共に、満面の笑顔を返す。
レースのカーテンが揺れる。雨上がりの空に浮かぶ虹の光が、二人の笑顔を優しく照らしている。
それは、魔導施設での長い日々を通じて、ウェデリアが初めて目にする、リーゼの本当の笑顔だった。
祝福の物語 武沢 悠 @yu-
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