第十四章

 第十四章


 毎日、来院していた奈緒は、翌日も翌々日も姿を見せなかった。

 来るべき者が来ない、ということ程、人の心を奇妙に揺さぶる事態があるだろうか。奈緒は、前日までの律義な来訪を断ち切っていた。

 計画の立案において、彼女のあどけなさが水を差していた。

 彼女に罪のない事は明白だったが、さりとて専念しようとする意識に急な現実を呼び込んだ。あたかもそれは高邁な理念を静かに裏切らせようとする働きのようであった。無意識のうちに計画を頓挫させ、己を怯懦へと追いやることを、どこかで懼れていた。

 とまれ、崇高な理念の前に臆病になる事を愧じた。

 現実世界の怠惰な自分を抑えて、理念の光に溶け込むように、精神も肉体も鍛えなければならなかった。それは一点の曇りもない純粋さに満ちており、幸福と呼び得るものだった。

 爆弾を抱えて飛び立った特攻機の乗員たちは、生の悩みを赦されていた。愛も、貧困も、孤独も、病も、彼らの悩みの外だった。生活苦という、あまりに卑俗で、あまりに真実な重荷から、彼らは潔くも永久に自由だった。ただ一つ、美しく、確実に、敵艦に突入する。それだけが彼らの明日だった。

 それは哀しみではなかった。明晰で、透徹した幸福だった。

 何十年という将来の「生」を犠牲にして、「死」を交換するだけの価値があった。ここに灼け爛れるような精神を専念させる必要に迫られていた。


 四日目、奈緒は忽然と現れた。

 静かに扉を押し開け、裂け目から室内の空気を嗅ぎとるように目を奔らせていた。

 一瞥もくれずに黙していると、彼女は目を逸らしたまま、罪の影のように忍び入り、足音すらも抑えて病室の床を踏み入って来た。

 彼女は、日常を背負っていた。

 丁寧に畳まれた下着や着替え、それらが避けえぬ日常そのものだった。それらを音もなく棚に納め、彼女は椅子に座すと、文庫本をひろげて読み始めた。彼女は粛々と義務を果たそうとしているかのように見えた。

 室内に気まずい雰囲気が漂った。

 先日の言葉を悔いた。謝罪すればよかったが、言葉は喉元で滞った。お互いに本をひらいて無言で過ごした。

「罪と罰」は、完読していた。

 気になる箇所を再度、確かめるように読んでいた。

 換気扇の音が遠く、虫の羽音に聞こえていた。奈緒の呼吸のひと息ひと息が、聞こえて来ても不思議でないくらいの重静けさがあった。

 互いの沈黙が、やがて室内の空気と混じり合い、名を持たぬ感情となって、ゆっくりと二人を包んでいった。


 夏が過ぎ、曼殊沙華の花季がおとずれていた。

 新学期になって、奈緒は放課後に来院するようになった。あの件以降、生来の無口がますます無口になっていた。しかし、必要な会話、「水をくれ」や「水は要る?」などのやり取りは交わしていた。意識するともなく、時間がお互いの感情をほぐしていた。

 ある日、奈緒は一輪の真っ赤な曼殊沙華を持って来た。

 活花は許可されていなかったが、「すごく綺麗だったから」と内緒で病室に持ち込んだ。

 彼女は、ナイトテーブルにその花を置きながら云った。

「お兄ちゃんの好きな花だよね」

 匂い立つ曼殊沙華が、花の盛りを思わせた。

 種を作れない、受粉もしない曼殊沙華が、なぜ花を咲かせるのか、それでも虫を呼びのが不思議だった。

「歌を作ってみよう」


 茜さす まだ見ぬ花の 曼殊沙華 くれない燃ゆる 命の果てに


 作った短歌をメモに書いて、奈緒に見せた

「どう?」

「この前の歌もよかったけど、今度のもいいね。両方とも花が詠われている。前回が夕化粧で、今回は曼殊沙華だね」

「どっちがいい?」

「どっちも上手だと思う」

「どっちが好き?」

「どっちも嫌い」

「どっちも?」

 奈緒は思い詰めたような、諦めたような目つきをした。

「どっちも寂しくなる。お兄ちゃんがいなくなる予感がする」

 二つの短歌が書かれたメモを、奈緒は目の前に差し出した。

 それを金属製のトレーの上で細かくちぎり、火を点けた。二つの短歌が炎を上げて、トレーの上で燃え上がった。その燃えるさまを、なすすべく間もなく、静かに見ていた。そのさまが曼殊沙華に見えたからだった。消してしまうには惜しいとさえ思ったが、その火は短歌を燃やして短い時間で消えた。短歌は短い生涯を終え、曼殊沙華はそれらを燃料にしてひと際、輝いた。

 奈緒が窓を開けて煙を追い出し、消臭スプレーを部屋中に掛け、灰を捨てに行った。その灰は、二つの短歌の亡骸だった。


 その直後、担当の医師が遙香を伴ってきた病室にやって来た。

 医師はカルテを見ながら、

「数値はかなりよくなってるね」

 と機嫌良さそうに云った。

 彼はカルテを遙香に渡すと、触診をし、聴診器で身体の内部を探ってきた。聴診器の冷たい感触が胸に伝わった。

「もう熱も出ないみたいだね」

 身体は快方にむかっているらしい。しかし、それは別の意味を抱合していた。快方にむかう事は、計画へ一歩ずつ進む事だった。病魔で肉体が滅んでも、そこには何の意味はなかった。ただ病気で死んだだけだった。

 医師は事務的にカルテに何かを記入していた。

 二人が病室から出るとき、遙香の手が医師の手にそっと触れた。

 その手の動きが目に入った瞬間、何かが心の中から抜け落ちた。あれほど心をかき乱された心が、不意にほどけてしまった。

 病室の天井は、ただの天井だった。そこには祭壇などの飾りは何もなかった。天井の白さだけが際立っていた。

 瘧が落ちたように、熱が醒めていた。遙香は、聖母ではなく、ただの牝だった。

 世界はすっかり変容していた。

 こんなに世界は明るかったのだ。重々しい暗いどんよりした物が、一枚一枚、剥がれていくようだった。その重々しさに目方があるなら、体重は確実に軽くなっていたに違いない。世界は、こんなにも軽かったのだ。

 茫然として、ベッドに身を起こしていた。

 奈緒が心配そうに近寄って、顔を覗き込んだ。

 世界から意味が脱落していた。その虚無感から茫然としていたが、不思議な事に、私は生きようと考えた。私はベッドを抜け、奈緒の前に跪き、贖罪を求めるように彼女の足に抱きついた。


 年が明け、私の退院日も近日中に予定されていた。

 講師は、最後の学習の別れ際に、私を見て深い吐息のあと、話し始めた。

「彼女は、ほんの少し、あちらの世界に足を踏み入れかけたことがあるんだ」

 講師はあの日のことを、特別視することなく話した。

 私はその言葉が喉に引っ掛かるのを覚えた。しかし、何も尋ねなかった。

 問い糺す事が許されないような気がしたからだった。それは彼女の一番深い秘密だったのかもしれなかった。

 講師によると、こうだった。

 私に用があって、病院まで来たとき、浜へ歩く奈緒の姿を見た。その様子が尋常ではなかったので、不審に思ってあとをつけてみた。彼女は波打ち際まで来ると、しばらく海を見ていた。そのうちに靴を脱いで裸足になり、海へと歩き始めた。その段階になって、講師は浜を走り、彼女の名前を叫んだ。その声に気がついて、彼女は海に歩き始めた。講師は海に入って、彼女を引き留めた。

 もしかすると……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋蛍(こいぼたる) まるくん @Merken0323

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画