第7話 エピローグ

 それは、なんでもない朝の、なんでもない出来事だった。


 誰かが「ありがとうございました」と言い、誰かが「行ってらっしゃい」と返す。たったそれだけのやりとりが、思いもよらぬ広がりを見せていた。


 SNSでは、青木瑠璃の投稿がじわじわと拡散されていた。最初は数十の「いいね」だったものが、日を追うごとに数千へと膨れ上がり、「日常のやさしさ」を取り上げるメディア記事にまで発展した。


 やがて、同じような体験談を投稿する人が現れた。


「うちのバスでも運転手さんが“お気をつけて”って言ってくれます。あの言葉に救われた朝がある」

「いつも無言だったけど、今日“ありがとう”って言ったら、笑顔で“どういたしまして”って返された。なんかうれしかった」


 タグには、さまざまなメッセージが添えられていた。


 #ありがとうはタダ

 #行ってらっしゃいの魔法

 #礼儀のバトン

 #バスがくれた朝

 #マナーって気持ち


 それは、まるで小さな火が風に乗って広がるように。誰かの丁寧な一言が、別の誰かの一日を明るく照らしていく。


 そして、今日。


 バスの運転手・山根修司は、いつものように早朝の点検を終え、運転席に座っていた。大きく深呼吸をし、窓の外の空を見上げる。


「さて、今日もいい日になりますように」


 その言葉は、誰に向けるでもなく、そっと空気に溶けた。


 その頃、佐藤徹は、背筋を伸ばしてバスを待っていた。隣には、高校生の田中美咲。イヤホンを外し、少し緊張した面持ちで立っている。


 バスが到着し、二人は並んで乗り込む。


「おはようございます」


 「おはようございます。今日もいい日になりますように」


 そして、降車のときには、もう自然に言葉が交わされていた。


「ありがとうございました」


 「行ってらっしゃい!」


 そうしてまた、どこかの誰かが、その言葉を聞いている。


 日常の中にある、ほんの小さなやりとりが、誰かの気持ちをあたため、見えないところで、心のバトンは渡されていく。


 それが、ある男の一日だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある男の一日 ポチョムキン卿 @shizukichi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ