第6話 マナーの正体

 朝のバス停に、少し早めに来た男がいた。森本隆。昨日、佐藤徹との会話を思い返しながら、いつもより落ち着かない気分で立っていた。


 「ありがとうに損得なんてない」——その一言が、妙に頭から離れない。


 定刻より少し前、角を曲がってバスがやってきた。白い車体に朝の光が反射し、眩しく輝いている。運転席には、いつもの山根修司。今日も変わらず穏やかな表情で乗客を迎えていた。


 徹と森本が並んで乗車する。徹がいつも通り、軽く会釈して「おはようございます」と言えば、山根は笑顔で「おはようございます。今日もいい日になりますように」と返す。


 そのやりとりを、森本はじっと横目で見ていた。


 バスが発車すると、車内には静けさが戻った。高校生の田中美咲がイヤホン越しに窓の外を眺めている。前方の席では、年配の女性がリュックを膝に乗せ、背筋を伸ばして座っていた。


 森本は、自分がどこか浮いているような感覚にとらわれた。これまでは気にも留めなかった“空気”が、今日は妙に重く、そして繊細に感じられた。


 やがて降車のタイミングが近づいた。徹が立ち上がり、ICカードをタッチする。いつものように「ありがとうございました」と運転手に声をかけると、山根が笑顔で「行ってらっしゃい!」と返した。


 そのやりとりのあとに続くのは、自分だ。


 森本は一瞬、ためらった。だが、心のどこかで、なにかが背中を押した。


「……ありがとうございました」


 声は小さかったが、確かに届いた。


 山根は一瞬驚いたように目を見開き、それから優しい笑顔で答えた。


「行ってらっしゃい!」


 その言葉に、森本の背筋がすっと伸びる。バスを降りた朝の空気は、いつもと同じはずなのに、少しだけ柔らかく、あたたかい気がした。


 徹もバスを降り、並んで歩きながら彼に言う。


「……どうだった?」


 森本は、ほんの少し照れたような顔で言った。


「……案外、悪くないな」


 徹はにっこりと笑った。


「だろ?」


 二人は駅前の横断歩道を渡っていく。車の音、風の音、そして誰かの「おはようございます」の声。


 マナーとは形ではなく、気持ちの向き方なのかもしれない。

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