絶望って程でもない場所に至る道の途中で
脳幹 まこと
複製可能なこの時代で
人間は人生の中で何度も「無力化」の洗礼を受ける。自分が積み上げてきたものが通じず打ちひしがれる。それは別に天才と間近に接するSNSや動画投稿サイトや、何でもやってくれるAIが出る前からそうだった。いつの時代だってそうだったんだろう。
例えば、私は今カクヨムで活動をしている。もう8年目になる。3桁の作品を出したし、3桁の作品をレビューもした。それでも最大に貰えた時で星は2桁だった。4桁や5桁いく人がざらにいるところで。
とはいえ、誤解しないで欲しい。人を振り向かせる努力もなしに好き勝手活動したのだから、この結果は妥当そのものである。
だが、それで星が3桁や4桁いったところでどうなのだろう。未来の私はきっと喜ぶだろうが、世間から見たら10円募金していた人が100円募金するようになったくらいの変化しか起こさない。まあ、100円でも募金先の相手がより喜ぶなら、さっさと替わった方がいいのかもしれないけれど。
私の力は至って弱い。
別にここでなくとも構わず私はこんな感じだ。無力感なんて日常のなかで浴びるほど受けている。
真っ向から得点勝負に持ちかけるのをやめ、別解を見つける道に進んでも、その筋の達人が既に満員。更に問題なのは今更特別なんてものは、それほど価値のあるものではないと薄々気付きはじめていることだ。
それはそうなのだ。代替不能、唯一無二、誰かの関心をずっと独占し続けるなんて、見るからに不自然だ。
商店街でくじ引きのチケットを渡そうと声をかけ続けるお兄さんがいた。用事があったので適当に会釈して通り抜けた。何百回も何千回も道行く人に声をかけるのだろう。そして大半は無視される。それが仕事とはいえ、何だか嫌な気分だ。
しかし、まあ、お兄さんはまだ健全だろう。こっちなんて駅前でヘソ出しルックで腹筋や背筋や腹踊りをするおっさんみたいなものだ。頼まれてもないのに、醜さ垂れ流しだ。その駅はだだっ広いから、私以外にも多くの人が出し物をしている。二つ隣は勢いあふれるバンドで多くの人が立ち並ぶ。べっぴんさん、べっぴんさん、一つ飛ばしてべっぴんさん。集団の中にいるのに感じる孤独は
「誰もやらなかったことに挑戦する時、それは大体、誰もが思いついたがあえてやらなかったことだ」なんてウィットに富んだ皮肉が、ボディブローのように効いてくる。そうなってくると、捨て去りたくなってくる。お前はただの石だよって言われてる感じがする。
実際当たっている。まあ、石のまま終わることには、そこまで嫌悪感は抱いていない。本当に困るのは
これが生きることをやめたくなる理由の一つであり、同時に死ぬことをやめたくなる理由の一つである。「死」は終わりの代名詞的な扱いだが、死に損なった時はともかく、死んだ先でもトラウマよろしく感覚が永遠に引き伸ばされたら……と考えると、やっぱり続く可能性がある。しかも、この場合においては選択肢が他に一切ない悲惨の極みになるだろう。
というわけで、十全に生きることは出来ず、また、死ぬことも出来ない状態にある。
どうしたものか、と思案する。少なくとも職場とカクヨムでは宙吊り状態にある。何かをこなしても、達成感や喜びの前に、次の
三十分くらいウンウン考えても何も出てこない場合、私は「今はその時じゃない」と宙吊り状態のまま、空間にドアを作って、別の次元へと移動する。それは読書であり、散歩であり、睡眠である。次善策に向かって動き出す。
・
次善策――
Best Alternative To a Negotiated Agreement――交渉に同意する次に有用な代替案のことだ。
例えば、ある店から安物の電子レンジを20万でオススメされたとする。この時、別の店や、一般的な電子レンジの価格を知っていれば「他をあたるんでいいです」と切り返せる。だが、仮に情報を持っていないと、電子レンジがない不便さと比較することになる。そして、割に合わない買い物に満足するのだ。
これを極端にすると「砂漠で飲み水を一億で売りつける」とか「転職が視野にない新入社員をとことん追い込む」話になる。次善策がなければ人は圧倒的な弱者になる。情報格差が深刻な貧富の差を生むのはこういった経緯もある。
交渉というのは、仕掛ける側も受ける側もバトナを持った(なければその時点でほぼ勝負あり)上で始まり、それぞれ、
こういうのを学校で教育した方がいいと個人的には思うが、あんまり
バトナの概念は国際外交から小遣いの交渉まで幅広く存在する。無論、それはカクヨムにも存在する。読者は「他をあたる」という代替案を常に持つ。無名の著者はその状態から、あの手この手を用いて何とか席に座ってもらう必要があるのだ。(逆に超有名作の著者になれば「次回作の執筆をよそでやる」という代替案が強い効力を持つことになる)さまざまな感想やテクニックの類いが創作論ジャンルを満たすあたり、簡単ではない。
ここで執筆以外の領域へ移動するという代替案がある。現実逃避ではなく、別の現実への移動というべきだろう。壁際に追い込まれたと思ったら、その壁が回転してひょいと裏にいく感じだ。私はこの感性を「ユーモア」だと思っている。
そこで多くの人は思うだろう。「それってただの言い換えじゃない?」と。結局閉塞状態に変わりはなく、過酷な現実に耐えかねた人がへらへら笑って妄想しているだけじゃん、と。
まあ、実際合っている。ユーモアというやつはかなり脆い。口の減らない陽気な男が黙らされるシーンを何度も見てきた。平常時はあんなに調子が良かったのに、パンチ一発でノックアウト寸前にまで陥ったり、化けの皮が剥がれたりするのだ。
ユーモアは神様とよく似ている。余裕がなくなると最初に捨てるあたりが、特に。
とはいえ、しばしば無力化され、今となっては半ば複製すら可能な人生において、二極化の下に位置してしまった者たちが、真っ当に生きるための知恵というのは、自暴自棄を除けば……ユーモアに行き着くのではないかと思う。
ユーモアの恩恵は、無力化への抵抗にある。
それは自分が
非力であるから、別の場所に向かう。そこでも非力を感じ、また別の場所へ向かう。その旅の途中で様々な生態や歴史を見つめる。ある場所の弱さは、別の場所の強さであると知る。それらを逆さから見たり、継ぎ接ぎしたりする。その中で得た私的な気付きは、誰にも賛同されずとも、その人の非力に積み重なる。そして、やってくる理不尽に「なら、他をあたってよ」と言い返せるだけの勇気を与えてくれるだろう。
センスが強者の武器だとするなら、ユーモアは弱者の武器だ。センスが優れた肉体、素質だとするなら、ユーモアは力を補う武道ということになる。
ユーモアを極めると、全身がトカゲの尻尾状態になる。どんな攻撃を受けようとも、受けた部位を切り離し、また別の次元に移動する。「今はまだその時じゃない」と言い残して。それを繰り返してすべてが笑い事になる。
まさに無敵状態だが、欠点が二つある。一つは暴力の前ではどうにもならないこと。もう一つは全身を尻尾が覆っている以上、生身の接触特有の温かさを感じることは出来ない。まあどちらにしても、当の本人は「それもまた人生」と笑うだろうが。
流石に上記の例は極端ではあるものの、熟達した大人のイメージが、物事と一定の距離感を保ちながら関わり、滅多のことでは熱くならないことを踏まえると、この喩えもあながち間違っていないのではないだろうか。
ここまで語っておいて、私が現状に満足しているのだろうかと問われれば、即答で「NO」と発するだろう。今日で全部終わりなら「YES」と答えるだろうが、生憎なことにしばらくは続きそうなのだ。
とはいえ、今まで積み上げたユーモア、あるいはバトナの効果が出たのか、この行方知らずの評論は一段落しそうだ。ずっと宙吊りかと思ったらそうでもないらしい。勿論、再び私を捕らえて吊し上げようと、これからの日々が虎視眈々と狙っているのが見えてはいるが。
もし、すべてがひっくり返ったら、やれることは一通りやって、それでダメなら「その時が来た」と精一杯カッコをつけておこう。
そういう点でユーモアは神様とよく似ている。最初に捨てたくせに、最後に拠り所にするあたりが、特に。
絶望って程でもない場所に至る道の途中で 脳幹 まこと @ReviveSoul
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