「虚無の囁き」

誰かの何かだったもの

0話

佐藤遥は、深夜の都会の路地を歩いていた。街灯がポツリポツリと灯る細い道。空は星一つ見えず、ただ黒いヴェールに覆われているようだった。蒸し暑さはなく、冷たくも温かくもない夜風が、肌を撫でる。心地よいはずのその感覚に、どこか不安が混じっていた。


哲学を学ぶ彼にとって、夜は思考を深めるための静かな時間だった。だが今夜は違う。スマートフォンの画面が急に真っ暗になり、音もなく消えた。それと同時に、耳元で囁くような声が響いた。


「来い――」


形のない声でありながら、紛れもなく「来い」という言葉が聞こえた。意味はわからなかった。ただ、胸の奥がざわつき、目の前の闇に吸い込まれそうになる。


声の導きに抗えず、遥は裏路地へ足を踏み入れた。そこは誰も通らず、忘れ去られたような古い廃屋が建っている。錆びついた門扉は半開きで、誘うように彼を待っていた。


「ここは……」


廃屋の中に入ると空気が変わった。重力も時間も曖昧に揺らぎ、現実の境界がぼやけていく。壁一面に鏡が張り巡らされており、そこに映る自分の姿が不気味に揺れている。


だがよく見ると、鏡の中の「自分」の瞳は、黒い虚無の穴のように深く沈んでいた。まるで全ての存在を呑み込もうとする底なしの闇だ。


「存在とは……」


指先が鏡の冷たい表面に触れた瞬間、頭の中に波のような思考が押し寄せる。


「お前は誰だ? 本当に存在しているのか? それとも幻想か?」


その問いは遥が大学で追い続けてきた根源的な哲学の問題。存在の確かさを証明しようと、ずっと彷徨っていた。


鏡の中の自分が、ゆっくりと笑みを浮かべたように見えた。


「お前は存在するのか? それとも虚無に過ぎないのか?」


動けなくなる身体。声は囁きから怒号へ変わり、耳元で永遠に繰り返された。


「存在は幻想。すべては意味なき虚無だ。だが、もしそれを疑えば――?」


意識は闇に溶けていき、遥は深淵の底に落ちていった。



その世界は時間も空間も曖昧で、遥は自分の身体を失いかけていた。存在が崩壊していく恐怖とともに、彼は問い続ける。


「俺は誰だ? 俺はなぜここにいる? この世界は何だ?」


だが答えは出ない。むしろ答えの無さが恐怖を増幅させ、心を締め付けていく。


遥の思考は錯乱し、鏡の世界の中で自分と対話を始めた。


「私はここにいる。私は存在している。」


だが鏡の中の声は冷たかった。


「お前の存在は、ただの記憶の断片、他者の認識の影に過ぎない。誰もが違うお前を見ている。お前は統一された一つの存在などではない。」


遥は反論したい衝動に駆られるが、言葉は虚空に消えた。


存在の断片はばらばらに散り散りになり、遥の意識はそれを繋ぎ合わせようと必死にあがく。


だが、その努力も虚しく、世界は意味を失い、全ては虚無に還ろうとしていた。



突然、遠くから微かな光が差し込んだ。遥はその光に向かって手を伸ばす。


光は温かく、現実の感触を取り戻させた。


「これは……夢か、それとも現実か?」


意識が戻ると、彼は廃屋の中で膝を抱えて座っていた。鏡は割れており、破片が床に散らばっている。


スマートフォンは無事に復活しており、画面には誰かからの着信が映っていた。


それは、彼の親友からの「大丈夫か?」というメッセージだった。


遥は深く息を吸い、立ち上がった。


「存在とは……答えはわからない。でも、確かにここに俺はいる。」


問いは消えず、答えもない。しかし彼は確かに生きている。


哲学と虚無の狭間で、彼は新たな一歩を踏み出したのだった。

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「虚無の囁き」 誰かの何かだったもの @kotamushi

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