9−5

 三人。牢獄の、中。


 不思議な夢を見た。ダンクルベールに、それを伝えた。受け止めるのが難しいから、夫人にもお話させて欲しいと、お願いした。

 特に何も言わず、馬車を手配してくれた。副官のペルグランは伴わず、ふたりで、あの牢獄に向かった。


 ダンクルベールは、一冊の、小さな日誌を持っていた。どうしてかはわからなかったし、でも、思い当たるところはあった。

 自分も便箋を何枚か、懐に入れていた。あの夢を忘れたくなくて、そうしていた。


 幼い頃に見た、御使みつかいさま。

 神託。そう思って、自分だけの戦いに身を投じた。それが再び、起こったとも思った。

 でも、どこか違った。やめてもいいからね。二人目のミュザさまは、そう言ってくれた。


 はたして牢獄の中、黒いカーテンの奥、書庫の林を抜けた先、夫人はソファに座って待っていた。


 いつものような歓迎はない。ああ、アンリ。そして我が愛しき人。どうぞ、お掛けなさい。その程度。

 卓の上には、結構な量の原稿用紙が、置いてあった。


 夢を見た。御使みつかいさまの、二人目のミュザさまの。

 そう言った途端、ふたりとも口を揃えて、実は、と言い出した。そして三人、顔を見合わせて、お前もか、となっていた。

 なぜか、この三人が、あのミュザと呼ばれた神話の存在と、夢の中で見えていた。


 それから皆、持ち寄ったものを、回していった。



 夫人が、紅茶とお茶菓子を出してくれた。蜂蜜と生姜、香辛料をちょっとだけ。夫人の好みである。


「夢だったんだろうな」

 ダンクルベールが、落ち着いた様子で言った。きっと夢の中で後片付けが済んだのだろう。泰然としていた。


「夢で、いいんじゃないか?夢にしたい。私は、そう思う」

 夫人は、少し残った鼻声で、そう答えた。こちらはまだ、受け入れられていないのかもしれない。まだ、その美しい、あかい瞳には、涙が残っていた。


「夢でした。私は、それを思い出にします」

「アンリエットは、そうしなさい。ただ、二人目のミュザさまがおっしゃった通り、つらくなったら、二人目のミュザさまをお呼びしたり、あるいは聖人であることをやめてもいい。俺も、そう思う」

 オーブリーお父さんは、そう言ってくれた。


「アンリはやっぱり、聖女なんだね。生きたまま聖人になれるなんて、誰にもできないことだよ。ほんとうの姿のミュザにまみえるなんてさ。でもミュザも、アンリと同じ、意地っ張りの泣き虫だっていうのは、ほんと、驚きだったね」

「何ですか、パトリシアおばさん」

「おばさんだって?この、小娘が」

「よしなさい、ふたりとも。ミュザさまが見ておられる」

 やっぱり、お父さんが窘めてくれた。それで皆、笑った。


 お父さんと、おばさんと、娘。居心地が、良かった。


 不思議な夢と、素敵な出会い。それぞれの、過去と、これからのこと。

 あるいは、二人目のミュザさまとは、このひととき、そのものなのかもしれない。


「我が愛しき人」

 ひとしきりの話が落ち着いて、さて帰るか、と、ふたりで立ち上がったとき、夫人が一言、漏らした。

「また何か、隠したろ?」

 不機嫌そうな声と、目。


 きっと、日誌の最後に書こうとしていたもののことだろう。確かに、からはじまっていたようにも読めた。


 言われて、ダンクルベールは、ばつの悪そうな顔ひとつ、そのあと、大きなため息を吐いた。観念したようだった。


「立ちなさい」

「何で?」

「いいから」

 そうして並んだふたり。


 こう見ると、身長差はかなりある。夫人も背の高いひとだが、やはりダンクルベールは大男だった。夫人の美貌が、そのひとの目を見るために顎を上げ、その美しさを更にひけらかすほどに。


 傍らに杖を置き、ダンクルベールは、夫人の両の二の腕に、軽く手を添えて。

 そして。


「愛している」


 そうした後、静かに、言い残した。


 ベーゼ。唇への。


 固まってしまっていた。とんでもないものを見た。ダンクルベールが、夫人への愛に、かたちで応えた。


 夫人もまた、固まっていた。その髪や瞳のように、頬は燃え盛っていた。目が大きく、驚きに広がっていた。


「随分、遅くなってしまったな。すまなかった」

「我が愛しき人。それって、どういうことかしら?」

「皆まで言わせるな。言ったとおりだ」


 つまり、求婚プロポーズ


 驚きばかりだった。あの口下手なダンクルベールから、愛しているだなんて。なんて素敵なんだろう。でも、至って平静な声と仕草だった。

 対して夫人は、面白いぐらいにかっちこちだった。


「今までも、そして、これからも。名前は、そのうちな」

 ダンクルベールは、ちょっとだけ微笑んだ。


 帰ろう、アンリエット。そう言って、真っ赤になったままの夫人を置いて、ダンクルベールは踵を返した。


 夫人は彫刻のようになっていた。頬をぺちぺちと叩く。呆然。脈をみると、すごいことになっていた。でもちょっとだけ、口角は上がっていた。

 おめでとうございます。とりあえず、つとめて平静に、一言を残して、ダンクルベールを追った。


 杖つきの老人だが、大男だし、歩幅が大きい。走らなければ追いつけないぐらいである。


 牢獄の入口で、お父さんは待っていた。


「本部長官さま。あれは、どういう」

 馬車に乗り込んだ後、改めて、尋ねてみた。

「他意はない。思いを、言葉と行動に、出しただけだ」

 いつもどおりの、ダンクルベールだった。しじまのような声と佇まい。そこにいる、それだけで、心を落ち着かせる力のある、褐色の大男。


 思いを、言葉と行動に出した。やっぱり、相思相愛だったんだ。ずっと伝えられていたものに、ただ、応えていないだけだったんだ。

 大人の恋愛って、こういうものなのかな。ときめいていた。


 でもやっぱりダンクルベールは、面倒くさい男の人。きっと二人目のミュザさまにけしかけられたんだろう。でも素直になりたくなくて、日誌にも残さなかった。


 夫人も夫人で、面倒くさい女の人。それを見抜いたくせに、あえて言わせるなんて。そのくせ、やられたらやられたで、あんなにみっともなくなっちゃって。


 どっちもどっち。お似合いの、ふたり。


「最後の、名前というのは?」

「ああ、思いつかなくてな。パトリシアからパティでもいいが、あの見た目だと、合わんだろう。お前をアンリではなく、アンリエットと呼ぶようなものだ。ビアトリクスは、マギー。あれの家内は、インパチエンス。全部、同じさ」


 確かに、このひとの日誌にも、書いてあった。


 女の人、特に親しくしている人に対し、ダンクルベールは、他の人たちと同じ呼び方をしていない。


 自分はアンリと呼ばれることが多いが、アンリエットと呼んでくれる。

 ビアトリクスは、今でこそマギー監督なんて呼ばれているけど、はじめてはだったの。今でも嬉しそうに語っていた。

 ペルグランの愛しい人に、花の名前を付けたのは、この人だった。でもラクロワは、ラクロワがいいと言うし。


 独占欲とか、あるのかな。あるいは父親をやっていたから、そうなのかな。変な。でも、素敵な

 アンリエット。そう呼ばれると、ちょっとだけ、嬉しかった。


 あのひとの愛称。確かにあの人に、パティは合わない。ちょっと可愛すぎる。何にするんだろう。シェラドゥルーガから、セラ、とかかな。ちょっと、期待していた。

 夫人の次の作品、すごいことになりそうだな。ゼーマンか、ラ・ラ・インサルか。あるいはどっちも一緒に出すかもしれない。あるいは別の名義で、惚気みたいなことを書くんだろうな。くどいぐらいのボドリエール節で。



「まったく」

 ため息ひとつ、いつも通り、紙巻を取り出した。

「うちの娘も、お節介を焼いてくれたものだ」

 ぼんやりと、ダンクルベールは外を眺めていた。その様子がどこかおかしくて、思わず吹き出してしまった。



(ご愛読、ありがとうございました。)

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シェラドゥルーガ・オムニバス ヨシキヤスヒサ @yoshikiyasuhisa

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