9−4
目が醒めた時、まだ、暗かった。
冴えていた。屋敷の中。きっとひとり。ダンクルベールは、つとめて落ち着いて上体を起こし、周りを見回した。
知っているが、何かが違う。
起き上がる。寒かった。まだそういう季節ではないはずと思いつつ、自然と箪笥からガウンを取り出していた。
そこで、家具も、その配置も違うことに気付いた。
家の中を歩き回った。知っている。知っているが、違う。
前の屋敷。
吐き気がこみ上げてきた。娘ふたり。そして、あれと、見えざるもうひとりの娘。
「大丈夫だよ、お父さん」
声が聞こえた。
「わたしは、マリィじゃないから」
きっと、女の子だった。
歳の頃、十五か、六。何も着ておらず、見覚えのある花が咲いた、小さな鉢植えを抱えていた。整っていて、幼い、可愛らしい顔をしていた。
髪は、金色ではなかった。目も、栗色ではなかった。肌だけは白かった。
「シェリィでも、マギーでもない」
耳にすっと入る、やはり幼い声。
改めて、よく見る。闇の中、輪郭がぼんやりと光るほどの、白い肌。金よりも、銀に近い、肩ぐらいまで伸ばした髪。
瞳。虹、あるいは炎。七色の光。
「そして、クロデットでもない」
その名前に、怖気がたった。
「どうして、あれの名まで?」
クロデット・ジェラルディーヌ・フィリドール・ダンクルベール。浜に上がったうちの、ひとり。
こみ上げてくる恐ろしさを感じ取っていないように、そのこは軽く、はにかんだ。リリアーヌや、キトリーの小さい頃にも、よく似ているような気がする。
「お父さん、背負いすぎちゃってるんだもん。ここに来る途中、いっぱい、こぼれ落ちてたの。ごめんね?驚かせて」
そう言って、笑った。
違和感に気付いた。言葉は聞こえる。表情も、変わる。
だが、唇が、動いていない。耳に直接、入ってくるような感覚だった。
自分の内に潜む、何か別の
とりあえず、羽織っているガウンを、そのこに掛けてあげた。
膝を折り、近寄った時、胸の僅かな膨らみの上、左胸のところ。刃物か何かを刺されたような傷跡があることに気がついた。
屈んだまま、頬に手を伸ばした。知らない
「君は、誰だろうか?」
自分の問いに、そのこは、いたずらっぽく笑った。
「ミュザ。お父さんが、付けてくれた」
ミュザ。それは、女の名ではない。
「
「違うってば。いつも言ってるじゃん。忘れたの?」
そう言って、ミュザは頬を膨らました。どこか、怒った時のアンリエットを思い出した。
「お父さんが、私を拾った時に、付けてくれた名前。ほんとうの名前は、わかんない。お父さんの恩人だって聞いたよ?だから私は、二人目のミュザ。この名前、すっごく気に入ってるんだ。ありがとう、お父さん」
そのこは、鉢植えを抱えたまま、頬に軽いベーゼをくれた。不思議と、熱は感じなかった。
行こう。そう言って、あの屋敷の居間まで、そのこは手を引いてくれた。
杖はなかったが、左足は、問題なく動いた。
そうしてふたり、あの屋敷の居間に据えたソファに腰掛けた。
ランプを付ける。ほのかに、明るくなった。
宅に置かれた鉢植えの花は、ゼラニウムだった。
それに見惚れているうちに、二人目のミュザは台所に駆けていって、しばらくした後、ホットチョコレートを淹れた器をふたつ、持ってきてくれた。
並んで座る。飲み物の熱は感じたが、二人目のミュザからは、熱を感じなかった。
「子育て、ようやく終わったね。お疲れ様」
微笑みながら、二人目のミュザは、そう言ってくれた。
「リリィもキティも、すっかりお母さん。マギーも、お父さんじゃなくって、マギーになれた。シェリィは覚えている?」
そう言いながら、そのこは、卓の上のゼラニウムを指さした。あのこが好きだった、ゼラニウム。
「ミシエル」
「そう、ミシエル。ずっと、シェリィって呼ぼうとしてたんだもんね。だからお父さん、すごく、つらかったと思う」
「そうだな。つらかった。そう呼ぼうと、思っていた」
ミシエル。
拾って、育てた。いつの間にか情が湧き、娘と思って接していた。
ゼラニウムが、好きだった。
「でもシェリィは、ゼラニウムになったんだ。お父さんがシェリィって呼ぼうと思ってたこと、シェリィにも伝えたの。喜んでたよ。ほら、待ってるよ。呼んであげな?」
花弁を、撫でた。感触が蘇る。
お父さん、ありがとう。お父さんのおかげで、あたしも、みんなも、あの冷たい道端から抜け出せたんだ。
「シェリィ。ああ、シェリィ」
聞こえた声に、涙がこみ上げてきた。シェリィの、頬の温かさが、手に蘇ってきた。
娘と思っていた。花壇を育ててくれた、何人目かの、俺の娘。
「ようやく言えた。シェリィ。俺の、シェリィ。お前はゼラニウムになっていたんだね。俺の側に、ずっといてくれたんだね。気付いてあげられなくてすまない。そして、ありがとう、シェリィ。おかえり、おかえり。シェリィ」
泣きながら、思っていたことが、言えた。
どこかから微かに、そう、聞こえた気がした。
ただいま。確かに、シェリィの声で。
ひとしきり泣き終えた後、二人目のミュザは抱きついてきた。
やはり、熱は感じなかった。
「クロデットとマリィはさ、海を渡っていったよ」
あれと、あれの腹の中にいたはずの子。
「エルトゥールルに行くんだって。お父さんの血の故郷。行ってみたかったって。向こうで、ふたりで暮らすってさ。ようやく自分と同じ色の肌だ。ようやく髪も、瞳も、おんなじ色だって、喜んで育ててるよ。ひとりだから大変かなって思ってたけど、クロデットももう、三人目だもんね。こないだ会いに行ったけど、しっかりやってたよ」
「そうなのか。そればかり、気がかりだったんだ」
「パトリシアおばさんにも、相談してたもんね」
言われて、ちょっと、うろたえた。そのこは、からからと笑っていた。
やはり言葉を出す時に、口は動かさなかった。
「わたしも、いっぱい愛情をもらった。わたしさ、喋れなかったじゃん?でもお父さん、言葉とか文字とか、心とかで教えてくれた。育ててくれた。大好きだった。お父さんが、すっごく好きだったんだ。ありがとう、お父さん」
このこを、育てた記憶はなかった。でも何故か、そんな気持ちが、そんな思い出が、どこかにあった。
思い出していた。二人目のミュザには、声がなかった。
ふたり、ホットチョコレートを飲みながら、体を寄せ合っていた。ランプの仄暗さが、心地よかった。
「ミュザ。俺は、いい父親だっただろうか?」
やはり、漏らしていた。
自信が、いつだってなかった。
娘ふたり、男手ひとつで育てた。嫁いで母親になった。ふたりとも、ふたりずつの、お母さんになっていた。
マリアンヌと名付けた俤は、海へ還り、“ロ・ロ”として森で蘇った後、あれと一緒に、砂漠へと渡った。
マギー。サラ・マルゲリット・ビアトリクスは、自分に憧れを持って、着いてきてくれた。ダンクルベールになりたいと、目を見て、言ってくれた。嬉しかった。
だから、ダンクルベールにしてあげようと、熱を入れて育てた。それが駄目だった。心を折ってしまった。
今ではすっかりマギーだが、後悔の念に苛まれることもある。最初からマギーとして、育ててあげてやれば。そう思うことは、未だにある。
そして、シェリィ。
ゼラニウムになった。俺があれを、ゼラニウムにしてしまった。
「当ったり前じゃん」
とびきりの笑顔で、二人目のミュザは、笑っていた。
「お父さんのお陰で、皆、幸せになれたし、幸せを感じているよ。だから次は、お父さんの番。もう、何も背負わなくたっていいから。何も、抱え込まなくたって、大丈夫だから。友だちだって、お仕事の仲間だって、いっぱいいるし。私たちだっている。皆が大好きな、お父さんなんだから」
笑っていた。ほんとうに、嬉しかった。
「君を、幸せにできなかったかもしれない」
どうしても、そこに目が行ってしまった。ガウンの隙間から見える、左胸の上の、傷。
「ばれちゃった?」
ちょっと気恥ずかしそうに。ガウンの前をしっかり閉じて、また笑った。えっち。そう、小さく呟いて。
そのあと、二人目のミュザは、ホットチョコレートをすすりながら、ひとすじだけ流した。
「いっぱい頑張ったんだけどね、駄目だったみたい。全部終わって、ようやく帰れる。ようやく皆、幸せになれるって、思ってたんだけどね。捕らえられて、殺されちゃった。何でなんだろう?皆のために、頑張ったはずなのに。わたし、すごいんだよ?あの、
寂しそうに、笑っていた。
やはり、二人目のミュザは、あの
殺されたことまでは、残っていない。
抱きしめていた。
小さな体だった。かつてのリリィとキティ。そして、シェリィと、マギー。あるいはアンリエットや、インパチエンス。そしてその、すべて。自分の育ててきた、娘たちに、重なった。
涙がまた、溢れていた。
「また泣いちゃってさ。お父さんが泣き虫だから、私にも
「泣くさ。お前たち、娘のためだから」
「嬉しい。ありがとう、お父さん」
そうやって、二人目のミュザとふたり、薄暗がりの中、抱き合いながら、泣いていた。
ランプの油が切れそうになった時、二人目のミュザは立ち上がった。
「そろそろ、行ってくるね」
「どこに行くんだい?」
「次はね、おばさんのところ。パトリシアおばさん」
パトリシア。つまり、シェラドゥルーガ。
「そうだ。お父さんさ、変なくせ、あるよね?」
突然、二人目のミュザは、自分の顔を見て笑った。
「女の子の、呼び方。気付いてる?リリィとキティはいいけど、アンリエットは、皆がアンリって呼んでるのに、お父さんだけ、アンリエット。マギーなんて、ファーストネームがサラじゃん?なのに、サラじゃなくって、マギー」
「そういえば、そうだな」
気付いていなかった。言われてはじめて、気付いた。
「リリィとキティも、自分がそう呼びたいからって、クロデットを押し切ったもんね。あとは、インパチエンスも。花の名前、まんま付けちゃたりしてさ。女の子の名前に、こだわりがあるの?自分が呼びたい呼び方、そういうのとか、あったりするのかな?へんなの」
「どうなんだろう。きっと、そうなんだと思う」
「たぶんさ、それが皆、嬉しいんだと思うよ。お父さんの娘になれたって気がして。わたしは何でも良いけどね。ミュザでも、二人目のミュザでも。ミューズ?ちょっと違うかな?好きに呼んでよ。だってずっと、お父さんの娘だから」
そう言って、やっぱりそのこは笑っていた。可愛かった。
自分の、娘だった。
「娘に、恵まれたんだね。俺は」
「私たちは、お父さんに恵まれた」
「ありがとう。じゃあ、行ってらっしゃい」
「うん。行ってくる」
二人目のミュザはそう言って、また頬に、軽いベーゼをしてくれた。自分もそのまま、二人目のミュザの頬にベーゼをした。
温かさが、あった。
「そうだ、お父さん」
玄関まで行ったはずの二人目のミュザの声が上がった。
「パトリシアおばさんに、ちゃんとプロポーズしなよ?おばさん、好きとか、愛してるって、いっつも言ってるのにさあ。お父さんが返事しないから、婚期逃しちゃったって怒ってるんだからね。それと、ちゃんとおばさんの呼び方も決めてあげてね?それじゃあ、行ってきまぁす」
玄関が閉まった音がした。
そのこの最後の言葉に、ずっと、固まってしまっていた。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます