サラリーマンと月夜の蛍

時輪めぐる

サラリーマンと月夜の蛍

 幼い頃の夏の日に、もう一度出会いたくなり、新幹線に乗った。時は残酷で、僕は、アラフォーのさえないサラリーマンになっていたが。

 有休を取り、田舎の祖母の家に向かっている。母方の祖母は今年で九十歳、過疎化が進む地方の町で一人暮らしをしていた。子供の頃、まだ祖父も健在で、僕の両親も揃っていた頃、毎年、夏休みに泊りがけで遊びに行っていた。大人になるにつれて、足は遠のいたが、最後に行ったのは、どのくらい前だろうか。確か祖父の十三回忌に母と一緒に訪れた気がする。


 車窓から流れる景色を眺めていて、不意に涙がこぼれる。ここのところ、心が疲れ、気持ちが落ちている。何をやっても上手く行かず、思うように成果が出ない。同期の中で埋もれて行く自分が惨めだ。もう辞めてしまおうか。気持ちが落ちれば、仕事のパフォーマンスも落ちる。そして、落ち込む。悪循環だった。見かねた母が、祖母の家で少し静養したらどうかと勧めてくれた。



 時の流れに取り残されたような木造平屋建ての祖母の家は、入り組んだ細い路地の先にある。

「よく、来たね。ショウタ」

 祖母はしわだらけの顔を、更にクシャクシャにして笑った。

「この辺り、随分と寂れたね。バス停から此処に来るまでの間も。ほら、昔、僕が好きだったバス通りの駄菓子屋さんも無くなって、空き地になっていた」

「隣組の人も、殆ど亡くなったし、若い人は都会に出て行ってしまうからね」

 祖母は、冷たい麦茶と水羊羹みずようかんを勧めてくれる。

「ショウタが来るから、作っておいたよ」

 祖母の水羊羹の懐かしい味が心に沁み、また涙が出そうになる。

「いつまでも、居て良いんだよ」

 水羊羹を食べる僕を、祖母はいたわるように優しく見詰めた。

「でもね、過疎化して悪い事ばかりじゃないんだ。蛍がね、復活したの」

「えっ、すごいじゃん」

 口調が、すっかり小学生に戻っている。

 子供の頃、夏の夜に父に連れられて、近くの水田に蛍狩りに行った。青く茂った稲の葉にとまっている蛍を捕まえた。今は出来ない事だけれど。

蛍籠ほたるかご。よく祖父ちゃんが、麦わらで作ってくれたね」

「手先が器用だったからね」

 祖父は、麦わらで巻貝の様な不思議な形の蛍籠を作ってくれた。

「蛍を捕って、家に帰って来て、蚊帳かやの中に放して、お母さんに怒られたな」

「はは、蛍は臭いからね。捕まえて外に帰すのが大変だった」

 あの独特の臭いが蘇る。

「今夜、蛍を見に行こうかな」

「あたしも、行ってみようかね」



 夕食後、月明かりと、ぽつぽつ灯る外灯を頼りに、祖母と一緒に蛍が復活したという川までゆっくり歩いた。風は無く空気は湿っていて、何処かで地の虫がジーッと鳴いている。通る車も人もいない静かな夜だ。おぼつかない足取りの祖母と手を繋ぐ。祖母の手はカサカサで皴皴しわしわだったけれど、子供の頃に繋いだときと変わらず、温かだった。


 橋のたもとで、土手に降りる。近くなった川の水音に、目を凝らすと、黄緑色の光がスーッと視界をよぎった。

「まだ、数はそんなに多くないけど、あっちの岸には、結構いるみたいだね」

 僕は対岸の草の茂った辺りを指差す。

「綺麗だねぇ。ちょっと、此処らに座ろうかね」

 祖母は、刈り込まれた草に、持って来たピクニックシートを敷いて、「よっこらせ」と腰を下ろす。僕も並んで座って、黙って蛍を眺めた。

「今日は満月か。明るくて、蛍がいまいちよく見えないな」

 僕は空を仰ぐ。

「よく見えなくても、ちゃんと居る。短い命の中で精一杯光って、役目を果たしている」

 祖母の言葉は、自分に言われた気がした。



 帰宅して、仏間に布団を並べて敷いて、蚊帳かやを吊った。

「まだ、取ってあったんだね」

「ここいらは、蚊が多いしね。あたしは、蚊取り線香が苦手なんだよ」

 萌葱もえぎ色の網に紅布の縁取りの蚊帳を吊ると、仏間に異世界が出現する。微かに麻が香る、碧く切り取られた世界。布団に仰向けになって蚊帳越しに見る照明は、海の底から見上げる月の様に思える。そうだ、この世界が好きだった。僕は知らず微笑んでいた。 


 その夜、僕は何カ月か振りに、ぐっすりと深く眠り、夢の中で蚊帳内に蛍を放した。蛍は、たゆたう緑の海の中で、淡く儚くその命を輝かせた。





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