死んだセミときみ。

千田伊織

死んだセミときみ。

 確か小学校中学年くらいの話だったように思う。始終鳴き続けるセミがうるさい夏休みのことだった。


 当時の私はお世辞にも綺麗とは言えないマンションに住んでいた。今みたいに湯舟はなかったし、自分の部屋もない。お母さんが今の男の人を連れてくる前の話だ。


 隣の部屋に住んでいる女の子は私と同じくらいの年齢で、境遇も似ているらしかった。父親はいなくて、母親もめったに帰ってこない。今ならわかる、ネグレクトだったのだ。同じ学区のはずなのに、学校で見かけたことがなかったから不登校でもあっただろう。だから友人もいなかった。


 私は『そういう』人に好かれやすい性質なのだ。中学の時の父親もどきがそうだったし、きっと寂しそうに見えるのは母親譲り。



 そんなきみの存在に気づいてしまったのは、セミがベランダに落ちていたのがきっかけだ。


 ミ、ミ、ミ。


 セミは苦しげに羽を小刻みにばたつかせながら鳴いていた。いつもは木に止まって人の気配がすれば元気に飛び立つセミが、今は腹を見せて喘いでいるのだから、子供ながらにこれはすぐに息絶えるのだとわかった。


「かわいそう?」


 声を初めて聞いたのはこの時だった。


 ぼさぼさの髪に擦り切れた服、薄汚れた体の女の子が隣の部屋のベランダの手すりから身を乗り出していた。瞳の色はまっくろ、太陽はじりじりと焼けるようなのに目に光がなかった。


 ぽっかり空いた穴のような視線の先は、私。


「セミ、かわいそう?」


 私は質問を飲み込むと頷いた。


「うん」

「うそ」


 その子はかさかさの唇を動かして、すぐにそう言った。はじめからそう答えることを決めていたみたいな速さだった。


 私は訳が分からなかった。


「なんで?」

「かわいそうなんて思ってないから」

「わたしが?」

「そう」


 私の感情を、きみが決めるの。

 聞きたかったけど黙った。


「そうなんだ」

「そうだよ」


 そんな短い会話とすら呼べないような会話を交わして、私は部屋の中に引っ込んだ。今にも死にそうなセミは炎天下に置き去りにして。


 変な子。そう思った。






 次の日もベランダにセミがいた。もう一匹、増えていた。


 私は近くにある背の高い木を見渡した。一番近い木ですら手を伸ばしても届かないくらい遠いのに、決まってうちのベランダに落ちるなんて。


「かわいそう?」


 今日も、その子はいた。


「うん。かわいそう」


 ミ、ミ、ミ。


 私はもだえ苦しむセミを見下ろして言った。昨日のセミの方は死んだみたいだった。そう思ったのは昨日よりも乾いて軽くなったセミが、わずかな風に力なく身を委ねていたから。


「うそ」

「そっか」


 私はそっけなく返すと、やっぱりセミのことはそこに置いたままにして、すぐに部屋の中に入った。


 一つの疑念が湧いていた。


 セミたちは、あの子が連れて来ているんじゃないか。


 でも聞くのは怖かった。底がどこにあるのかわからないあの目で見つめられるのがなんだか怖い気がする。

 カーテンを引いてテレビをつけて、いつも通り一日を漫然と過ごす。宿題は後で頑張ればいい。


 そのとき、かしゃん、と奇妙な音が聞こえてきた。まるでプラスチックでできた安い車のおもちゃを地面に落とした時みたいな音。

 ベランダに、増えていた。死にかけのセミがもう一匹。

 のたうつセミを眺めていたら、すぐに黒くて丸い物体がセミの近くに落ちてきた。


 いち、にい、さん。


 まるで運動会の玉入れで玉の数を数えるような調子で。


 そう思っていたら、黒い雨が降った。


「……」


 ベランダの床は黒い死んだセミでいっぱいになっていた。もう一生見ることはできない光景、そして忘れることもできない光景だ。唖然としていたら、その視界を横切るように骨と皮だけの細い腕が伸びてきた。


 手はうちのベランダを目指していた。


 ミ、ミ、ミミ、ミ、ミ。ミミ、ミ。

 セミが鳴く。


 数を増したセミたちの合唱は、ぎこちない自己防衛の笑い声みたいだった。死ぬことは怖くないこと。そう、言い聞かせているみたいな。


 そう、思っていたら。











 黒くて底なしの穴みたいな目と目が合った。



 ミ、ミ、ミ。



 あの子だった。



 ミ、ミ、ミ。



 顔だけは笑っていた。



 口を、にぃ、と横に引き延ばして、喉から音を絞り出すようにして、不器用に


「ミ、ミ、ミ」


 そう笑った。









 気づけば私は、そばにあったクッションを窓に投げつけていた。へたれたクッションは小学生のか弱い腕力でも鋭い軌道で窓にぶつかって落ちる。


 次の瞬間にはその子は視界から消えていた。





△▼△▼△▼△▼




 その夏の間に、私たちの引っ越しが決まった。


 女の子は夏休みが来る前みたいに姿を消して、秋には私たちがマンションから消えた。


 ミ、ミ、ミ。

 今年もセミが鳴く。


 こつん、と足先にわずかな衝撃があった。見下ろすと腹を向けたセミが転がっていた。


「かわいそう?」


 そう、聞こえた気がした。


 私は首にかいた汗を拭いながら、後ろを振り返った。制服のブラウスを軽く仰いで、帰路に戻る。


 私は誰かに「かわいそう?」と聞かれたら、こう答えることにしている。







「ううん」








end.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死んだセミときみ。 千田伊織 @seit0kutak0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ