第13話 関桃子

 せき桃子ももこには霊感がある。


 けれども、関自身はそのことをあまり意識したことはなかった。はあまりにも当たり前に存在していて、大抵は害のないものだったからだ。むしろ割合で言えば、人間の方が厄介だった。


 前に勤めていた会社では、飲み会の帰りに同僚が豹変してもみ合いになり、川の土手を転がり落ちて傷だらけになった。店にいきなり入ってきた男に言いがかりをつけられて、土下座を迫られたこともある。


 関はそのような経験から、髪を派手な色に染めて、濃い化粧をするようになった。自分の身を守るためだった。不思議と幽霊にも効果があり「ガチでヤバイやつ」に絡まれる機会は劇的に減った。


「関さん~、表のガラス汚れついてるんで拭いてきます~」


 菊池きくち梨緒りおがガラスクリーナーと布巾を持って、関の横を通り過ぎていった。


「はーい」


 関はトルソーの前に立って、何を着せるか考えていた。先週からずっと売れ続けていたブラウスがついに欠品してしまった。


 ──今日は店長、出てこないな。


 淀川よどがわひいらぎにはじめて会ったのは、関が一人で閉店作業をしていた時だ。カウンターでレジの締め作業をしていると、カタカタと何かが鳴る音がした。顔を上げて音のしたほうを見ると、入り口のラックにかかったハンガーがぶつかって揺れていた。


 関はカウンターから出て、ハンガーからずり落ちたワンピースを直した。

 照明が落とされて暗い館内に、客の姿はない。空調も止まっていた。閉店してすぐに網をかけたので、誰かが入るはずもなかった。


 カタカタカタ……


 今度は店の奥から音がした。木製のハンガーは軽やかな音をたてながら、順番に揺れ動いた。まるで誰かが壁面に沿って動きながら、間隔を整えているようだった。

 店を壁沿いに一周すると、気配はふっと消えた。


 関は驚かなかった。誰かいるんだなと思っただけだ。それから、たまに一人で店頭にいる時に同じようなことがあった。


 しばらく経って、上司と雑談している最中に昔あった事故の話を聞いた。

 関はその名前を店の書類棚を整理している時に見つけた。黄ばんだ報告書の片隅に名前が載っていたのだ。淀川はかつてこの店に勤めていた店長だった。


 ──ああ、気づいてないんだ。


 悲しいというよりは気の毒だった。死んでなお、働き続けている──こんな場所に囚われているということが。


「なに着せればいいすかねー」


 関は小さな声で問いかける。当然ながら返事はなかった。結局、その日入荷したばかりの服を適当に着せた。


「拭いてきました~」


 地面から数ミリ浮いているような足取りで、菊池が戻ってきた。


「あ、変えたんですね。かわいい~」

「そう? 数、入ってきてたから」

「売れそうですよね、これ」


 菊池が言うと、本当に売れる気がしてくる。ぱっと周りを明るくするような無邪気さがあった。そういう人間はまれにいる。そして、大抵すぐに辞めていく。菊池も今月いっぱいで退職が決まっていた。


「もう時間でしょ? 上がっていいよ」


 菊池が帰ると、店には関ひとりになった。

 今日は特に静かだ。午前中に売り上げがある程度取れており、客足が途切れたタイミングで他の仕事も終わっていた。ここ数週間の落ち着かない日々が嘘のようだった。


 関は万引き犯をつかまえた日のことを、苦々しく思い出した。

 あの日は朝から騒がしかった。急に本社から人が来て、店のレイアウトにあれこれ口を出したあげく、掃除がなってないと文句をつけて帰っていった。同時に店内には時間のかかる顧客が数組いて、その全てをかわるがわる接客しながら対応しなければならなかった。


 若い女がひとりで店に入ってきても、普段なら気にも留めなかっただろう。それくらい忙しく立ち働いていたにも関わらず、視線が吸い寄せられた。女が笑っていたからだ。楽しくて仕方ないのを必死に抑えているような不気味な表情だった。


 同時にガンッという激しい音がした。誰かが頭をぶつけたような、倒れたような音だ。関は店の入り口に出て、二階を見上げた。同じように頭上を見上げている通行人が何人かいたので気のせいではない。


「すみません、お客さま!」


 店内から菊池が叫んだ。先ほどの女が外へ出ようとしたところだった。タグがついたままの服やバッグを抱えて走り去ろうとしている。

 関は咄嗟に女の前に立ちふさがった。


「どけ!」


 女は見た目からは想像がつかない、どすのきいた声で叫んだ。暴れる女ともみ合っているうちに、警備員が駆けつけた。菊池が呼んでくれたらしい。


 女は相模さがみ柚奈ゆうなという名前で、この辺りでは有名な私立高校の一年生だった。化粧をし、大人っぽい格好をしていたが、間近で見ると幼かった。


 相模は事務所に連れて行かれると、別人のように大人しくなった。「ごめんなさい」と、何度も繰り返しながら涙を流した。警備員も事務所の職員も困惑していた。結局、母親が呼ばれ、商品代金を弁償して帰っていった。


 その後も店内は荒れたまま、客足は途切れず、かといって商品が売れるわけでもなかった。関は休憩する暇もなく、店頭を整え、顧客の愚痴を聞いた。閉店した時には体がいつもの倍くらい重く感じた。


 人の悪意が集まって、増幅する。一度増幅すると、弱い者からあてられていく。そんなときがある。関は経験からそれを知っていた。


「こんにちは」


 ふいに声がした。棚を拭いていた関が顔を上げると、通路にスーツを着た男が立っている。それ自体は珍しくないが、大きな果物かごを下げていた。


「お久しぶりです」

「……由良ゆらさん」


 関は人の名前と顔を覚えるのが得意だ。喋り方や雰囲気、顔立ちから自然と覚えてしまう。しかし、由良ゆら健太郎けんたろうの場合は少し違っていた。見た目はその辺にいるビジネスマンで、印象に残らない。けれども、どこかちぐはぐで、正体のわからない異質さがあった。


「どうぞ」


 由良は持っていた果物かごを棚の上に置いた。


「なんですか、これ」

「差し入れです」


 かごにはメロン、ぶどう、モモ、ビワ、オレンジなどありとあらゆる果物が乗っている。洋服屋の棚に置かれると作り物のオブジェのようだった。


「百貨店で一番高いのを頼んだら、こうなってしまいまして」

「お供えじゃないんですから……」


 関は呆れたため息を吐いた。


「差し入れするなら個包装で賞味期限が長い方が喜ばれますよ。それにこんな高いもの受け取れません」

「でも季節のものは体にいいですから」


 由良は聞いていないようだった。


「仕事が予想より早く終わった上に、臨時収入がありましてね。あなたにもご協力いただいたようなので」

「わたしはなにもしてません」

日野ひの蒼真そうまにわたしを紹介したでしょう」


 二階から店を見ていた少年に声をかけたのは数日前のことだ。相模と同じ高校の制服を着ていたので十中八九関係者だろうと思った。その手の勘が外れたことはない。


「彼、大丈夫でした?」


 関は何気ない様子を装って尋ねた。


「幼なじみを助けたいって言ってましたけど……」

「さて、わたしもできる限りの助言はしましたが」

「なんて言ったんです?」


 由良はの対処を専門にしている。関は由良の仕事を信頼していたが、時に相手をわざと挑発して反応を見ることも知っていた。


櫛田くしだ菜々葉ななはがどうなってもひとりの友人でいるようにと」


 由良は内ポケットから紙片を取り出して、広げた。「くしだななは」と稚拙な文字で書いてある。


「あまり、よくないですよ」

「なんの話ですか?」


 関は空とぼけた。由良相手に誤魔化せるとも思わなかったが、正直に言うつもりもなかった。


「あなたはを見ていたのでは?」


 関は何も言わなかった。由良はため息をついて言葉を続ける。


「日野はぬいぐるみに執着していた……その割に、肝心のは置いていったので、おかしいなと思ったんです」


 由良は紙片を指先で軽く叩きながら言った。


「入っていたのはこの一枚だけですか」


 由良は頷いた。

 関が日野に見せられた時、ぬいぐるみのなかには「くしだななは」と書かれた紙片ともう一枚「さがみゆうな」と書かれた紙片が入っていた。


「櫛田菜々葉はどうなったんですか?」

「依頼主が言うには解決したということです。色をつけた謝礼も振り込まれました。別口から学校関係者に聞いたところ転校することになったようですね。相模は引っ越したようです。日野から連絡はありません」

「そうですか……」

「何もしていないのに謝礼をもらうのも気持ち悪いですからね。こうしておすそ分けに来たわけです」


 由良は苦笑しながら言った。お供えというのは言い得て妙だったわけだ。それから、じっと関を見つめる。


「なぜ関わったんです?」

「さぁ……」


 関は空虚な目を通路へ移した。二階を見る。


「ここから出たかったんです」


 由良はしばらく黙ったあと、紙片を胸ポケットにしまった。


「出たらいいでしょう。あなたには足があるのだから」

「そうですね」


 足があっても出られない人もいるんですよ、と関は思ったが言わなかった。


 由良の後ろから子ども連れの女性がおずおずと近づいてきた。関はすぐに「こんにちは」と声をかけた。顧客の吉野よしのまゆみだった。


「だれー?」


 吉野の娘のみずきが由良を不思議そうに見上げて言った。スーツ姿の男性がいるのが珍しかったのだろう。


「すみません! こら、みずき」

「こちらこそ、お邪魔しました」


 由良は吉野母娘に微笑むと「またきます」と関に向かって言った。背を向けて去っていく。関は急いで果物かごをストックへ下げにいった。


 戻ると、トルソーに着せたブラウスを触りながら吉野が言った。


「さっきの人、知り合い?」

「ええと……なんか出入りの業者さんみたいな人です」


 吉野は聞いたものの、さほど興味はなさそうだった。


「これ、着ていい?」

「はい!」


 試着室に吉野を案内していると、子どもがふいに店の奥へ走っていった。


「みずき!」

「あ、わたし見てますよ」


 関はカーテンを閉めると、子どもの背中を追いかける。店に入った子どもの行く場所は限られている。だいたい死角になっているショーウィンドウの中へ入っていくのだ。


「みずきちゃん、そっちは入っちゃダメだよ。お化けが出るよ」


 呼ぶと、みずきは戻ってきた。手を引っ張られて屈むように言われる。関が膝を折ると、耳元にささやいた。


「欲しいんだって」


 関がショーウィンドウのガラスを見ると、くっきりと手の跡が残っていた。

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ショッピングモール■■川店、二階通路 丘ノトカ @notoca-oka

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