ヴァンパイア・クイーンが眷属を増やしてヴァンパイア・ハンターに復讐する
@schueins
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覚醒
アムステルダム郊外のある洞窟。松明はないので漆黒の闇だ。洞窟の奥に結界らしき装置があり、その中に牢がある。牢の真ん中に寝台らしきものが置かれていて、そこに骸のようなものが横たわっている。なにかうごめく気配がする。いや、気配だけではなく声のようなものが聞こえる。
「何も見えない。暗いからか?いや闇は私の住処だったはず。暗闇でも私の目は良く見える。暗闇でこそ良く見える。だが今は何も見えない。おそらく何もないからなのだろう。」
語る存在、声から察するに女だろう、女は手を伸ばしてみた。何も触れるものはない。女は身を起こした。寝台から立ち上がり、周囲を探った。壁のようなものはない。しかしある一定以上進むと寝台の位置に戻される。まるで四方という概念がないような、非幾何学的空間だった。歩いても歩いても進めず、まるで無限に折り返す鏡の中を彷徨っているようだ。硬い寝台に戻った彼女は、ため息をついた。
「私は幽閉されているらしい。私は罪人なのか?何も思い出せない。女が触れることができるのは、固い寝台と己の身体のみ。女は右手で左手に触れてみた。冷たくて死体のようだ。肉はほとんどなくて骨と皮だけだ。顔を覆ってみた。やはり骨と皮だけだ。鏡があれば骸のような姿が映し出されるのだろう。女は身体の他の部分を触ってみると、自分が裸体の骸のような姿であることを知った。風化して塵になるのを待つ骸?
「死ぬのはかまわない。死は誰にも訪れるもの。このまま最後の意識が途絶えれば,永遠の虚無に包まれて朽ちるだけ。でも、この意識が途絶えなかったら、死ななかったら、虚無が永遠に続くとしたら、とても耐えられるものではない。」
女はもがいた。自分をかきむしった。血は出ない。しかしこの動きで身体の各部分に電流のようなものが走った。その電流のようなものの発生源は、彼女の首、いや喉元にあった。ひび割れた皮膚の奥に折りたたまれるように見え隠れする傷跡がかすかに鼓動している。
「この傷跡が私を生かしている?」女は傷跡に触れた。すると喉の奥に熱のようなものが感じられた。死体のような冷たい身体の中で唯一の熱源。生きていたことの痕跡のような熱源。
女は考えた。「私はかつて生きていたのだろう。そして死んだ...が完全には死んでいない。こうして考えていることがその証拠だ。死んでいないが生きてもいない...そうか!わかったぞ!私は不死者だ。呪いによって生死の理から外れた者。生きることも死ぬこともかなわぬ魔物。
そのとき結界の外から物音がした。誰かが結界の牢獄に近寄ったようだ。呪文とともに結界に何かを振りかけている。「アペリ・フェネストラーメ・イン・ノミネ・デイ!」。呪文とともにカタッと乾いた音がした。つぶやきのような声が聞こえる。
「ジョアンナ、声は聞こえないだろうけど思いを届けに来たよ。ジョアンナ、ぼくのジョアンナ、漆黒の闇の中に闇そのものとなって眠る君を目覚めさせる術はない。ただこうして、せめて思いだけでも伝えようとここに通っている。」
ジョアンナと呼ばれた女はすべてを悟った。「こいつだ、この男こそ私をこの牢獄に閉じ込めた犯人だ。く、この機会を逃すわけにはいかない。」ジョアンナは慎重に、気づかれるかどうかわからないほどの音、蛇の気音のような音を発した。それは音と呼ぶにはあまりにも微少だったが、気配を感じさせるには十分だった。
「ジョアンナ?まさかな。30年も血は吸っていないのだから、動くことはできないだろう。幻聴でも聞こえたか?アペリ・オスティウム・イン・ノミネ・デイ!」牢獄の扉が開いた。その機をジョアンナは逃さなかった。闇の中を器用に男の背後に回り、牢獄の外へ逃れ出た。
「このまま殺してやりたいけれど、今の状態では無理ね。人間に襲いかかる力はない。しばらく獣の血を吸って少しずつ力を取り戻しましょう。それまで待ってなさい。エイブラハム・ヴァン・ヘルシング!」
女は半透明のエーテル体になって洞窟の出口へ向かった。
ロッテルダム市警
ロッテルダム市警のムルダー警部は、資料を眺めながら葉巻に火をつけた。
「ライデン、デン・ハーグ、デルフトか。だんだんロッテルダムに近づいているが、偶然だろうか。そもそも同一犯の犯行かどうかもわからない。これは通り魔なのか、愉快犯なのか、はたまた切り裂きジャックの模倣犯なのか、皆目見当が付かない。なにしろ犯人は何一つ証拠を残しておらず、犠牲者に共通する特徴や属性もない。ライデンの大学生、デン・ハーグの娼婦、デルフトの陶工、男2人に女が1人、次があるとすれば女か?いやいやそういう話ではないだろう。」
ムルダー警部が大きく煙を吐き出したとき、ドアがノックされた。「どうぞ、お入りください」。制服を着た警察官が敬礼をしながら入室すると用件を告げた。「ロンドンからのお客様がお着きになりました」。ムルダー警部が警察官の背後に目をやると、ダークグレーのインヴァネスコートを着た細身の紳士が立っていた。「グッド・アフタヌーン、インスペクター・ムルダー!」軽く微笑んで紳士は帽子を少し上げた。
「やあ、よくいらっしゃいました、ミスター・ホームズ。お忙しいところをご足労頂き恐縮です。」
「いいえ、たまにはドーバー海峡を越えないと、ロンドンの空気は淀みすぎですからね。電報で犯行の概要は知ることができました。詳しく教えていただけますか?」
「はい、犯行は先週の月曜日から今週の火曜日にかけて3件です。1件目、ライデンの大学生殺害事件。被害者はライデン大学で法律を学ぶヘンドリック・ファン・デン・ベルフ、22歳。頸部切創による失血死。発見場所はボスマン森林公園の茂みです。2件目、デン・ハーグの娼婦殺害事件。被害者は、ヤネチェ・スミッツ、25歳、ゼーラント地方から出てきて街娼をしていました。死因は同じく頸部切創による失血死。発見場所はハーグ中央駅近くのクーカンプ公園の茂みです。」
娼婦殺人事件の報告を聞いたとき、ホームズの顔色が曇り目が鋭く輝いた。ロンドンの類似の事件を思い出したのだろうか。
「そして3件目は、デルフトの陶工ピーテル・デ・フリース、33歳。死因は同じく頸部切創による失血死。発見場所はウィルヘルミナ公園の茂みです。」
報告を聞き終えたホームズは、パイプを取り出して火をつけ、煙を吐き出しながら言った。「遺体解剖は行われなかったのですか?」
「はい、死因は明白で、犯行状況を解明するヒントとなり得る防御創もありませんでした。背面から忍び寄って一気に切り裂いたものと推測されます。」
「ふむ、しかしそれは捜査の現場ですぐに判断できることではないでしょう?法医学者と検察が相談して決定するのではないのですか?」
「はい、その通りです。いったん警察内部で大まかな方針を話し合い、それを検察に上げて、検察は法医学者の助言を得て決定します。」
「なるほど、ではその助言をした法医学者に会わせていただけますか?」
「承知いたしました。今日中に連絡して、明日お会いできるように調整いたします。」
その日の夜、10時頃、ロッテルダムの繁華街を歩く黒衣の女がいた。黒衣と言っても法衣の類いではなく、ふつうの外出用のコートだった。誰も女に奇異な視線を送る者はおらず、女も周囲を全く気にしていない。「くっ、生気を補給するためだけの吸血は味気ないわね。でもこれでいろいろと楽しめるわ」。
女は繁華街から離れた古い大きな館に到着した。大柄で無表情な下男が扉を開ける。どちらも無口だ。ひょっとしたら下男は口がきけないか、あるいは外国人で言葉がわからないのかも知れない。奥に進むと玉座が設えられた広間があった。ビロードの織り目が微かに光を反射する、重厚なクリムゾンのドレイプが玉座の間の大窓を覆い、その深紅の色合いが部屋全体に流れ込んでいる。布地の柔らかな質感が壁に沿って優雅に垂れ下がり、まるで高貴な血筋の流れを語るかのような荘厳な雰囲気を纏っている。天井から吊るされた真鍮の燭台が、微かな揺らぎを灯に映し出し、玉座へと続く通路を幽玄な光で飾る。ヴァパイア・クイーンは玉座に座った。
「こんな館も、コウモリになってあっちこっちから金貨を集めて買わなければならないなんて、不便なものね。でもあまり大胆にやって大事になると、いろいろと面倒なことになりそうだから、小金を少しずつくすねて、ホント忌々しい、こそ泥の真似までしなければならないなんて。ともかく、目立たずに堅実に作戦を進めなければ。思えばあのドラキュラ伯爵という老いぼれも、辺境に引っ込んで齢だけ重ねていたから、いろいろとへまをしでかして滅んでしまったわね。さて、こんな館にひとりぼっちじゃ退屈すぎるわ。眷属を増やそうかしら。ふふふ、ドラキュラが3人の花嫁を城に住まわせていたわね。だったら私も、3人の花婿を探しに行きましょう。漆黒の結界に30年も閉じ込められてすっかり艶がなくなってしまったわ。そうだ、パリへ行きましょう。パリは「光の都(La Ville Lumière)」だから夜の種族である私たちに合わないはずなのだけれど、光にもいろいろあるわ。夜のガス灯や電灯は、むしろ血をたぎらせてくれる。そしてパリには、いえパリは、人々の夢そのもの、人の集団が作り出す幻影(ファンタスマゴリー)だから、夜の夢魔と近縁関係にある私たちととても相性が良いわ。30年ぶりのパリ、私に何をくれるのかしら?」
ホテルでコンティネンタル風の朝食を取った後、ホームズは指定されたコーヒーショップへ向かった。ドクター・アナ・デ・グラーフはもう来ていた。「グッド・モーニング、ミスター・ホームズ!」彼女は少し緊張した笑顔で挨拶した。「フーデモルヘン、ドクター・グラーフ!」ホームズはぎこちないオランダ語で挨拶してから照れ隠しの苦笑いをした。
「お話しというのはあの3件の事件のことでしょうか?」
「はい、検死の結果、解剖は不要という所見を出されたそうですが、そのことについていくつかお聞かせ願えればと思いまして」。ホームズは遠慮がちに切り出した。
「知っていることは何でもお話しいたしましょう」。
「被害者の死因は全員が頸部切創による失血死ですね?」
「はい、状況は非常に単純明快です。頸部の切創以外の外傷は認められませんでした。」
「失血死ということは、現場には大量の流血の跡があったわけですね?」
「はい、だと思うのですが、遺体発見場所がすべて茂みだったので、現場に残された血液の量は確かめられませんでした。」
「そうですか、それは残念だ」。
「といいますと?」
「私たちはあらゆる可能性を想定して、その仮説をひとつずつ潰していかなければならないのです。例えば、頸部切創が偽装されたものであったとか、失われた血液が現場の土に染みこんだだけではなかったとか」。
デ・グラーフ医師の顔色がわずかに白くなった。なるほど、どちらも可能性としては成立する、あくまで可能性としては。しかしその動機が思い当たらない。血液を持ち帰る?傷を偽装する?
「なぜ、なぜなんですか?動機が思い当たりません。血液を持ち帰って何にするのでしょう?実験材料ですか?それならしかるべき手順を踏めば、いくらでも生体から採取した血液を使うことはできます。切創で偽装した死因は何ですか?頸部への注射で毒を注入したとでも?でも、検死の結果、毒物反応は出ませんでした。」デ・グラーフ医師は首を横に振りながらホームズをにらんだ。
「お待ちください、ドクター、私は別にあなたに難癖をつけているわけではないのです。ただあらゆる可能性を考えてみたいだけなのです。例えば、毒を注入ではなくて、血液を吸い出したのだったら、そして吸い出した跡を切創で偽装したのだったら。何のために?それは私にもわかりません。検死の段階でその可能性を考えていたら、ここで突き当たる謎も無事に潰れていた——ただそれだけのことです。では、ドクター、よい日を。きょうはお忙しいところをありがとうございました。私はこれから警察に寄って、それからロンドンへ帰ります。別件の捜査がありますので。」そう言うとホームズは狩猟帽をかぶって席を立った。
ロッテルダム市警のムルダー警部が葉巻をくゆらせながら、新聞を読んでいるところへホームズが顔を出した。「おはようございます、ホームズさん、何か収穫はありましたか?」
「ええ、収穫と言えるかどうかわからないのですが、切創の精密な解剖が行われなかったということは判明しました。もしまだ遺体が火葬にされずに残っているのなら、たとえ墓を掘り返しても傷跡だけでも調べてみる価値はあると思います。そして、もし傷跡の奥に噛み跡の痕跡が見つかったら、アムステルダムのヴァン・ヘルシング氏にご相談することをお奨めします。これが彼の連絡先です。詳しい話は彼がしてくれるでしょう。私には専門外の事件かも知れませんから」。そう言うとホームズは、帽子をかぶって席を立ち、「それでは、来て早々で慌ただしいのですが、これでおいとまします。ロンドンで頸部切創の連続事件が起きているので放置するわけにはいきません。こちらはおそらく早急に追い詰めることができそうです」と言い残して部屋を出た。
幻影のパリ
1895年のパリ、ベルエポック、ガス灯に混じって電灯が華やかな光の波で町を照らし、たくさんの電球を用いた電飾看板(アンセーニュ・リュミヌーズ)がキャバレーや大店を飾る。夜になっても行き交う人々は絶えない。パリは1890年に万国博覧会を開催し、イルミネーションの技術やさまざまな光の演出が発達し、まさに「光の都市(ヴィル・ド・リュミエール)」と呼ぶのにふさわしい、20世紀を先取りする夢の街だった。
「さて、どうしましょうかしらね。この町は芸術の香りが濃厚ね。ミューズに愛された男の血はどんな味がするのかしら。」ジョアンナはワインを一口飲んで舌なめずりをした。「そうね、パリには2つの山があるのだわ、美しい女の乳房のように。モンマルトル(殉教者(マルテュール)の山)とモンパルナス(パルナソスの山)。あの忌々しいヤハウェに連なる名前がついた山よりは、ミューズの加護が期待できる山へ行ってみましょう。」
モンパルナスのカフェ「ラ・ロトンド」。数多くの文学者、特に国際的な文学者や芸術家が集うが場所。ジョアンナは室内の目立たない隅の席に近い場所を指定して案内させた。どう見ても人気のなさそうな席を指定してくれる客を店のスタッフは歓迎した。席に案内されるとすぐに、ジョアンナはギャルソンに5サンティームを渡し、「どうぞ(ジュヴザンプリ)」と言って微笑み、赤ワインを注文した。彼女の右側の、店の隅になっている席にくたびれた様子の中年の男が座っていた。グラスは空になり、目を閉じて腕を組んでいる。テーブルに手帳が開かれており、何かを書こうとしていた様子だが、わずかに書き殴られた文字が数行、そしてそれは英語だった。
ジョアンナは魅了のスキルを少しだけ発動した。彼が物憂げにこちらに視線を送った。アイタッチに応じて、彼女はシガレットを取り出しながら、「申し訳ないけれど、火を貸してくれないかしら?」と彼に声をかけた。「もちろんです(ビャン・セゥール)、マダム!」と彼は答え、こちらの席に移動した。
「あなた、イギリスの方?」
「はい、アイルランド出身です。」
「パリは長いの?」
「パリは2度目ですが、どうやらもうイギリスへ帰れそうもなく、ここが死に場所になるでしょう。」
「あら、そんなに簡単に死について語らないほうがよろしくてよ。いろいろな死に方があるし、死んだ後のほうが生きていたときよりいきいきとしている場合もあるのですから。」
「生前の栄光というやつですか?私の生前は恥辱と嘲笑に溢れていますから、とてもいきいきなんてしているはずはありません。」
「そんなものは捨て置きなさい。崩れましたでしょ、あなたの肖像?永遠を約束していたはずのあなたの肖像は、あなたの業と欲を飲み込んでその毒にあたって腐り、崩れ落ちました。あなたの代わりを押しつけた報いです。あなたは」、とここでジョアンナはオスカーの手を取った。
「あなたはあなたのままで業と欲を引き受ければ良いのです。いくら飲み込んでも腐らないどころか力が増す身体で。」
「そんなことができるのですか?」
「命を捨てる覚悟があれば。」
「命を捨てたらもはや業と欲を引き受けることはできないのでは?」
「あら、捨ててみないとわからないかもしれないわ。」
「ならば捨てて見せましょう。どうせこのままではゴミのように朽ち果てるだけだ。」
「そんなやけにならなくても良いのよ。私と一緒に来てくれるかしら?」
「はい、お供します。」
「なら、この手を取って。」
2人の姿は霧になって消え去り、テーブルには1フランの銀貨が残されていた。
ムルダー警部はアムステルダムで1人の屈強なと対峙していた。年齢は50代、中肉中背だが肩幅が広く圧倒感がある。髪の毛は濃いブラウンでやや乱れている。瞳は深緑色で、理知的と言うより深遠な叡智をを感じさせた。
「はじめまして、ヴァン・ヘルシング博士、ロッテルダム市警のムルダーです。ロンドンのホームズ氏からの紹介で参りました。」
「ようこそおいでなすった、ムルダー警部、首に噛み跡のある死体でも出ましたかな?」
「はい、ロッテルダム周辺で3名の殺人事件がありまして、死因は刃物による頸部切創と考えられていたのですが、火葬に付された1名を除く2名の遺体を再確認したところ、頸部の切創は偽装で、その下に牙のようなものに抉られた傷が見つかったのです。」
「なるほど、そしてその結果の失血死だと。」
「はい、犯行現場はいずれも公園の茂みで近くに池や川もあったので、どれだけの流血が周囲に染みこんだのか確認できず、操作は行き詰まっています。」
「牙のようなものに抉られた死体は、まだ調査できるのかね?」
「はい、とりあえずホルマリン処理を施しましたので。」
「なんだと、ホルマリン処理だと?それはいかん。痕跡をたどれない。」
「痕跡でございますか?」
「ああ、悪魔の痕跡だ。生物的痕跡の化学構造が書き換えられる。」
「これからどうなさるので?」
「少し時間をくれ。調べてみたい場所がある。」
オランジェリーのピアノ・ラプソディー
ジョアンナは屋敷でオスカー・ワイルドと語り合っていた。
「私はあと2人近衛の眷属が欲しいわ。」
「どなたかめぼしい候補を見つけましたか?」ワイルドは軽い嫉妬を覚えた。
「そうね、この時代にはもういないみたい。過去に行って捜してみようかしら。」
「そのようなこともおできになるのですか?」
「私も朽ち果てたあの老いぼれと同じくシュロマンスで学んだのよ、いろいろと。」
「シュロマンスとは?」
「カルパティア山脈の奥に霧で閉ざされた湖があって、そこに赤い満月の夜にだけ浮かび上がる島があるの。その島にある洞窟がシュロマンスよ。何千年もドラゴンが守護し、限られた者だけが入ることを許される。そこでは黒魔法やネクロマンシーが研究され、使徒たちに教え継がれているの。でも10人の使徒のうち必ず1人はドラゴンに捧げられるのよ。」ジョアンナは遠くを見るように語った。
「次はどの時代へいらっしゃるので?」
「そうね、音楽が聴きたくなったわ。ロマンティックな音楽が...」ジョアンナは目を閉じてうっとりとした顔でそういった。
「私もお供できるのですか?」ワイルドははかない期待を込めて尋ねた。
「そうねえ、いまはまだ無理ね。あなたはまだ成り立てだもの。」ジョアンナは冷たく微笑んだ。
館の奥の間、深紅のビロードのドレープで覆われたその部屋の真ん中に、白黒青の三つの宝珠がはめ込まれた台があった。ジョアンナはその台の前に立ち、短い呪文のあとで「1838年、ウィーン」と唱えた。
ジョアンナはシェーンブルン宮殿のオランジェリーを訪れていた。立ち並ぶ大きな窓ガラスが夕陽を受けて黄金色に輝いていた。太陽が地平線に身を沈めると、着飾った貴婦人たちが三々五々集まってきた。ここでコンサートが催されるようだ。貴婦人たちは奏でられることになる音楽への期待で顔を輝かせていたが、その輝きにはもっと深い欲望が潜んでいるようだった。
観客席に腰を下ろし,ジョアンナは周囲を伺った。圧倒的に女性が多い。男性は女性のエスコート役として仕方なくといった風情だ。今宵のコンサートはピアノソロのようだ。舞台の照明が点き、割れるような拍手の中、奏者が現れた。長身で甘いマスク。貴婦人たちのお目当ては彼の美貌だったようだ。さすがに歓声を上げる者はいなかったが、そのうっとりとした目は、胸の奥に押し殺した歓声をまざまざと物語っていた。
彼が装飾を施された古風なフリューゲルの前に座ると、まるで時間が一瞬凍りついたかのように静寂が会場を包んだ。奏者は軽く息を整え、鍵盤に手を置く。冷えた夜空を切り裂くかのような透明な旋律が流れる。儚い旋律が絡み合い、聞く者の心の中に捉えられない動く模様が踊る。貴婦人たちの表情も変わり始める。音楽の魔力はそれを奏でる者への叶わぬ愛慕へと貴婦人たちを誘い、その切なさに涙を隠せない者も少なくなかった。
「おや、まあ、露骨な愛欲は貴婦人としていかがなものかしら?」ジョアンナは軽蔑の眼差しで彼女たちを一瞥し、再び舞台上のピアニストを見た。「悪くないわね、彼。」彼女は口の中で奥の牙を舌で舐めた。
演奏が終わった。惜しみない拍手、そして我慢していた黄色い歓声に送られて、フランツ・リストは舞台を後にした。ジョアンナは貴婦人たちの群れに紛れてホールを後にした。そして出入り口の前で踵を返し、舞台脇の楽屋へ向かった。楽屋から数メートル離れたカーテンに覆われた窪みに彼女は身を隠し、そこで霧に姿を変えて楽屋に侵入した。
リストは楽屋の長椅子に横たわり、右手を背もたれにかけ,左手で目を覆っていた。
「お疲れなの?」突然の声にリストは驚き、ジョアンナをまざまざと見つめた。「あら、そんなに見つめると....魅了されてしまうわよ。」彼女はリストに近づき、背後からその首を抱きしめた。「魅了された男の人を頂くのは、」彼女はリストの耳を撫でる。「魅了された男を頂くのは私の美学に反するかな。」彼女はリストから離れ、楽屋に置かれたピアノに近づいた。
「ここならあなたの魅了も解けるのじゃなくって?」ジョアンナは手招きした。
リストは夢遊病者のようにゆっくりした足取りでピアノに近づき、ピアノスツールに腰を下ろした。ジョアンナは立ったままリストを見下ろし、右手で鍵盤の右端の高音部に触れた。そしてそこから人間業とは思えない速さでメロディーを紡ぎ出した。誰も聞いたことがない不思議なメロディー。それを聴いてリストの魅了が解けた。彼は怯えるように傍らに立ってメロディーを奏でるジョアンナを見た。そして意を決したように鍵盤に向かい、ジョアンナのメロディーを華麗なピアノ曲に仕上げる。ジョアンナは微笑んで右手を鍵盤から離してリストの肩に乗せ、その項を眺めている。その瞳は赤々と燃えていた。演奏が終わった。満足そうに振り返ってジョアンナを見るリスト。その顔は明らかに抱擁と接吻を求めていた。
「良い子ね。来なさい、欲しいものをあげるわ。」
Truth is staranger than fiction.
ヴァン・ヘルシングは遠くトランシルヴァニアへ来ていた。ビストリッツで一泊してから馬でボルゴ峠に向かう。
「1年になるか。あのときは仲間たちと馬車で来たな。」
峠を越えてさらい進むと、小高い丘に出て、目の前に黒々とした廃墟が見えた。1年前、ドラキュラを滅したとき、城が崩れ始め、急いで脱出した後で火の手が上がり、城は跡形もなく散乱する岩塊に姿を変えたのだった。
「ふむ、まさかと思って調べに来たが、どうやら無駄足だったようだ。」ヘルシング教授は安堵して踵を返した。
ジョアンナはライデン大学の図書館にいた。豪華な装丁の大型本が並ぶコーナーで次々と背表紙を読んでいくと、「あった!」彼女が手に取った本の背表紙には大きく「Don Juan」と記されていた。「これだわ、希代の女たらし!」
彼女は本を手に取って閲覧室で読み始めた。予想を裏切って韻文だった。長大な叙事詩だった。そして、主人公は「希代の女たらし」というよりは、出会う女すべてが純朴で美しいだけの主人公を気に入ってできる限りの便宜を図り、なおかつ主人公を拘束もしないという、決して実現しそうもない男の都合の良い夢のような存在だ。「私の知っているドン・ジュアンと違う。」そう思ってジョアンナは作者の名前を確認した。ジョージ・ゴードン・バイロン。「バイロン卿、たしかギリシャ独立戦争に義勇兵として参加しようとして、現地で病死した詩人だわ。」ジョアンナは本を閉じて棚に戻し、屋敷に戻った。
屋敷の奥の間の時空器を前にしてジョアンナは短い呪文の後で「1824年、ギリシャ、メロンギ」と呟いた。
「あなたは異邦人なの?」病床のバイロンにジョアンナは語りかける。
「だ、誰だ?」バイロンは咳き込みながら尋ねる。
「あなたは異邦人(ジャイアウル)ね、トルコ人にとっては。」ジョアンナは冷たい微笑みを浮かべる。
「君はぼくの詩を読んだのか?」
「ええ、魂を渦の中へ引き込むような調(しらべ)――私に魂はないけれど――でした。あの詩に出てくる異邦人ムルソー――キリスト教徒――は、異教徒のハッサンを射殺してしまい、その後自責の念に駆られて修道院に隠遁し、なおも魂は救われず、死後はヴァンパイアになって自らの家族の血を吸って命を奪った。」
「ああ、その通りだ。人間の欲望と罪、その苦悩と不条理がヴァンパイアという姿を取った。」バイロンの目に一瞬だけ灯がともった。
「それが人間の真実であり、あなたの言う“Truth is stranger than fiction.“ということなのですね。」ジョアンナは虚空に向かって呟くように言った。
「ヴァンパイア、それは人間の欲望の最も暗い部分が反映した存在なのだろう。」バイロンの声は生気を失った。
「あなたが想像したヴァンパイアが本来のヴァンパイアなのかどうか、反省してみたことはありますか?」ジョアンナの瞳に魅了の灯がともった。
「本来の...?」
「ええ、あなたはセルビアで起こった忌まわしい事件をヴァンパイアの仕業だとお考えのようですが、あれはヴァンパイアの階梯において最下層、おそらく下級の眷属が囓った家畜の肉でも食べた人間のなれの果てでしょう。もはやヴァンパイアとは呼べない下級の屍鬼です。」
「ならば本来のヴァンパイアとは?」
「自由を何より愛し、束縛と制限を拒絶する存在。死の恐れも生の倦怠も知らない存在。己の死を前にしたあなたなら、それがどんなものなのか想像できるのでは?」
「私は死を恐れない。」バイロンは目を強く閉じた。
「死があればの話ですが。」ジョアンナの声に魅了が発動する。
「死のない世界?」バイロンはうつろに目を開けた。
「ええ、死のない世界は恐ろしいですか?」
「いや、何も私を圧するものはない。」バイロンは毅然とジョアンナを見据えた。
「では、一緒に来ていただけますね?死のない世界へ。」ジョアンナは手を差し伸べた。
バイロンはその手を取った。そして抱き上げられ胸に絡め取られた。
「何も恐れないあなた、それでこそミューズの寵児バイロンです。」
近衛眷属の失敗と成功
ミュンヘンから馬で数時間の距離にある山間部、ヴァン・ヘルシングは脇道の林を通り、月明かりが照らす墓地までの道を進む。墓地の前で立ち止まると、地下墓地の入り口にドイツ語で、「グラーツのドリンゲン伯爵夫人、スティリア、死を求めそれを見つけた」と書いてある。そしてさらに周りを調べると、ロシア文字で「死者は速く進む」というドイツの詩人アウグスト・ビュルガーの「レノーレ」というバラードの一節が確認できた。ヴァン・ヘルシングは怯むことなく地下墓室の扉を開けて中に入る。棺があった。それを目にした瞬間稲妻が光った。ヴァン・ヘルシングは何の躊躇いもなく棺を開けたが、棺は空っぽだった。
「やはりな。思った通りここも空振りだ。」
「さて、これで3人の花婿が揃ったわ。ただのイケメンじゃなくて、唯一無比の天才芸術家が3人、これこそ私にふさわしい近衛の眷属ね。」ジョアンナは満足の笑みを浮かべた。
「さて、何をしましょう?そうだ、眷属にもヴァンパイアの《通過儀礼イニシエーション》が必要ね。ねえ、オスカー!」ジョアンナはワイルドに語りかけた。
「あなた、どんな相手を味わいたいの?」
「私は別に空腹ではありませんが。」
「馬鹿ね、食欲は食べるにつれて沸いてくる、そうフランソワ・ガブレーも言っていたわ。はじめの一歩が大切なの。幻滅しない相手を選びなさい。」
「ならば私のかつての思い人を若返らせたいと思います。私はこの転生で20歳ほど若返りました。彼女は私より10歳年上です。せめて同じ年格好で相見えたいと思います。彼女は若返るでしょうか?」
「彼女がそれを望むなら思いのままでしょう。」
「成り立ての私が吸血しても絶命したりせずに転生できるでしょうか?」
「あなたの思いが強ければ。」
「では再びパリへ、パリのオデオン座へ参りましょう。」
「サラ!」楽屋に通じる通路でワイルドは女優サラ・ベルナールに声をかけた。
「まあ、オスカー!」ワイルドの若々しい姿を見てサラは少し動揺した。
「しばらく見ないうちに、その、少し変わったわね。」
「少し、ではないんだ。存在の本質が変わってしまった。」ワイルドの牙が疼く。
「どういうことかしら?」サラは訝しそうに尋ねた。
「生の宿命である変化の呪縛から逃れた。」
「まさか不老不死だとでも?」サラの目に興味と懸念が同時に宿った。
「そういう側面もあるかもしれないけれど、永遠の孤独を受け入れる決意と引き換えだ。」
「永遠の孤独?」
「ぼくら芸術家はそもそも誰もが孤独だ。何かを作り、それは自分を抜け出て世界のものになり、残されたぼくたちは再び空っぽになる。」
「でも作ったものがあなたに与える名声や栄誉があるのでは?」
「それは偶像だ。空虚な肖像だ。いつかは腐って崩れ落ちる。」
「私の演技は、舞台芸術は,長らく語り継がれると思うのだけれど。」サラは怒りを抑えて答えた。
「君の芸術は、おそらく永遠に賞賛されるだろう。でも、それは君自身ではない。」
「偶像だと言うの?」
「君自身はその偶像の外部で変化という生の呪縛に絡め取られて行く。」
「老いると?」サラの目の中で怒りと諦めがせめぎ合う。
「黙って受け入れるのかい?」
「ええ、一瞬一瞬が輝く生の変化の中でしか表現できないものがあるから。」サラは毅然と言い放った。「なので、どんな悪魔の囁きか知らないけれど、私には不要だわ。」サラは踵を返すと足早にその場を後にした。
クイーンの館。時空器の間。
「見事にしくじったわね。」ジョアンナは冷たく言い放った。「相手が悪かったんじゃない?女優に老いを突きつけるなんて安直すぎるわ。あなたは女をわかっていない。」
ワイルドは二の句が継げない。作家としての資質に触れる指摘だった。
「年上で格上の相手を選んだのが悪かったわね。しばらくよく考えなさい。次はフランツのお手並み拝見と行きましょう。いいわね、フランツ?」
「お任せください、クイーン。音楽の魔力はときに言葉を超えます。」リストは自信満々に言って時空器の前に立つジョアンナに近づき耳打ちした。彼女は短い呪文のあとで「1827年、ウィーン」と呟いた。
ドゥ・サン=クリック伯爵家の広間、リストは15歳の少年の姿で、ピアノを弾いている少女の背後に現れた。
「カロリーヌ!」自分の声の瑞々しさに苦笑しながら、リストは少女に声をかけた。
「フランツ!きょうはレッスンの日じゃないのでは?」
「君に逢いたいというだけじゃ来る理由としては不足かい?」
「そんなことないわ。いつだって逢いたい。」少女は無邪気に微笑んだ。
「少し奏でても良いかな?メロディーが浮かんだんだ。」リストは鍵盤の前に座った。
始めは静かに甘くとろけるようなピアニッシモからピアノ、そしてだんだんと情熱が高まりフォルテからフォルテッシモ、感官のすべてに侵入する旋律の奔流、部屋の隅々にまで音楽の魔力が満たされた。
「フランツ...、私...。」少女は顔を上気させもじもじと俯いている。
「気に入ってもらえたかい?」リストは振り返って少女の手を取った。
「キスして、フランツ、お願い、でなきゃ私...」少女は上目遣いで懇願した。
リストは少女を抱きしめて唇を奪い、そして白い項に牙を突き立てた。少女は彼の腕の中で崩れ落ち、血の気を失うと同時に赤血球とは異なる成分で満たされた。少女が再び目を開くと、その瞳は紅色に変わっていた。
詩と数学の組み合わせ術
クイーンの館。時空器の間。カロリーヌを伴ったリストがアストラル体から物理身体に戻る。
「おめでとう、フランツ。かわいい眷属を連れてきたのね。」ジョアンナは微笑む。
「カロリーヌ、転生時に15歳です。お役に立てるでしょうか?」リストは恭しく片足を後ろに引いてリヴェレンスを示した。「精一杯務めさせていただきます。」カロリーヌも健気なカーテジーでクイーンに恭順を示した。クイーンはバイロンに視線を移した。「さあ、次はあなたの番よ。」
バイロンは頷いてクイーンに近づき何やら耳打ちした。クイーンは時空器の前で短い呪文を唱え、「1835年、ロンドン」と呟いた。
エイダ・ラヴレスは机に向かって数式を書いている。一心不乱に書いて,紙はあっという間に複雑な数式で真っ黒になった。エイダは満足げに微笑んでペンを置き、軽く背伸びをした。バイロンは音も立てずにエイダの背後に立ち、「Good afternoon!」と声をかけた。振り向いたエイダは少し驚いた顔で、「え?パパ?どうして?」と問いかけた。
「どうして若い姿で生きているかって?」バイロンは快活に微笑んだ。「まあ死から蘇ったというか詩を通り抜けたというか、説明しにくい現実というやつかな。」
「現実はすべて受け入れるわ。で、何のご用かしら?」エイダはいつも冷静だ。
「そろそろ年頃なので思い人でもできたかと思ってね。」
「私にそのような感情が芽生えると思ってらっしゃるの?」
「芽生えて欲しいとは思っているが、それでは結婚する気はないのかな?」
「私も生命体なので寿命が来れば個体として消滅します。私の特性、特に数学の才能が同時に消えるのは惜しい。なので次世代に受け継いで欲しい。血筋と言いますね。あれは少し不正確な表現で、本来なら心身情報とでも言うべきもの、それを体内に宿る子どもに受け取ってもらいたい。それを実現するには結婚するしか方法がありません。」エイダは何の感情も込めずにそう言った。
「なるほど。で、君はぼくとアナベラの間に生まれたわけだが、ぼくの心身情報とアナベラの心身情報を足して二で割ったということになるのだろうか?」
「単純な算術に還元すればそうなるでしょう。パパがA、ママがBでその和が私Cだとすると、もしパパに数学的才能が皆無で、しかも詩的才能が数学的才能を阻害するのであれば,C<B、すなわち私はママの劣化版になるはずだけど,実際は違う。これはどういうことかしら?」
「君が詩というものをどう考えているかはわからないが、有限の語を組み合わせて韻律と詩脚を整え、意味のある文として物語を紡ぐ、これは一種の結合術、すなわちアルス・コンビナトーリアだ。ドイツの詩人ノヴァーリスは、詩と数学が同根のものであると看破し、まだるっこしい理屈を並べた断章を残している。ぼくは読む気にはなれないがね。」バイロンは首を横に振りながら笑った。
「なるほど、では私の才能はA+Bが理想的に結合したものと考えられるわけね。」エイダは笑顔をこぼすことなく言った。
「そうかもしれない。しかし君が異質なDと結合したとき、そこに産まれるEは果たしてCを上回るだろうか?ぼくはかなり悲観的だとしか思えない。」バイロンは刺すような視線で娘を見た。エイダの顔がわずかに曇った。
「そこで提案なのだが、エイダ、君の才能を不朽の永遠にするつもりはないか?」
「どういうことかしら?」
「君が死の向こう側に抜け出るということさ。」バイロンは成功を確信した。
「どうやって?」エイダは消え去りそうな声を絞り出した。
バイロンは固まって動かなくなった愛娘を抱きしめて、ゆっくりと牙を項に突き立てた。
クイーンの館。時空器の間。バイロンが娘エイダを伴って戻ってきた。「ジョアンナ様、愛娘エイダでございます。こと数学に関しては誰も右に並ぶものはいないと思われます。」バイロンは自慢げに娘を差し出した。「エイダ・ラヴレスです。永遠に数学的探求に耽ることができると聞いて父に従いここへ参りました。よろしくお願いいたします。」彼女にとっておそらく人生初のカーテジーでジョアンナに恭順を示した。
「良く来てくれました,エイダ。ジョージ、自分の娘を選ぶだなんて、あなたはなんて大胆にして的確な選択をしたのでしょう。しかも、魅了という手段を使わず、論理だけで彼女を納得させた。」ジョアンナは顔を綻ばせた。
「魅了はわが娘にふさわしくありません。詩と数学は同じ根を持つという理念が私たち父娘を結びつけたのです。」バイロンは誇らしげにエイダを見た。
「これで近衛眷属の通貨儀礼はあと1人となりました。最後の1人は少し時間がかかりそうなので、きょうはここまでにしましょう。」ジョアンナは時空器の扉を閉め、部屋を出るよう目で皆を促した。
時空器暴走
オランダ、デ・ハール城近くの洞窟。入り口から300mほど入った先の結界で守られた扉を開けて進んだ先にある岩屋の前にヴァン・ヘルシングは立っていた。
「もしここに彼女がいなければ...、いや逡巡していても仕方がない。アペリ・フェネストラーメ・イン・ノミネ・デイ!」岩屋の窓が開く。「ジョアンナ!」ヘルシングは返事がないと知りつつも呼びかける。「ここからではわからない。アペリ・オスティウム・イン・ノミネ・デイ!」岩屋の出入り口が開き、ヘルシングは中へ入る。中央に設えられた大理石の寝台には誰もいない。
「考えたくなかったが、やはり彼女か。結界を破って復活したのだな。ヴァンパイア・ハンターとして最も戦いたくない相手として私の前に現れるというのだな。こうなったのも杭を打ち込むことができなかった私の弱さの応報か。これは避けることができない定めということなのか。」ヴァン・ヘルシングは拳を握りしめて肩をふるわせた。
イギリス、エクセター。ハーカー法律事務所。
「ジョナサン、今日のお仕事はロンドンね?」ミナがタイプライターを打ちながら夫に尋ねる。
「そうだよ。ウェステンラ家の不動産の相続の件だ。」
「ルーシーの妹さん、たしかお父様の親戚の家に預けられていた...」ミナは非業の死を遂げた友人の名前を口にして少し顔を曇らせた。
「そうだ。相続人オンブリーさんは、成人して後見人の家を出て,今はメイフェアで一人暮らしをしている。」
「メイフェアなら何も危険なことはないと思うけれど、気をつけて帰ってきてね。」
「ああ、夕食までには戻れると思う。」
クイーンの館、時空器の間。オスカー・ワイルドは1人で時空器を操作している。不慣れな操作で顔に焦りの表情が浮かぶ。白黒青の三つの宝珠がそれぞれ別の周波で振動し始める。宝珠の光を受けてワイルドの身体はエーテル体に変わる。そして部屋から消えた。
「オスカー?」入室したジョアンナが異変に気づいた。「馬鹿ね、あなたにはまだ使えないと言ったのに。」
西暦1世紀のパレスティナ。乾いた大地に太陽が照りつける。オスカーは見知らぬ異世界で途方に暮れていた。古代の服装を身に着けた男女が市場で物々交換をしている様子や、日差しを避けるために石造りの建物の陰で休む子供たち。宗教画でしか見たことのない風景だった。
「止まれ、異邦人よ!」警護の兵がオスカーを呼び止める。「貴様は何者だ?どこから来た?この町に何の用だ?」
「私は時空の彼方から迷い込んだ者です。帰る方法を探しています。」
「異国の魔術師か。ひったてい!」兵士は部下に命じ、オスカーは捕らえられた。
ヘロデ王の居城、宴の間。王と客人たちの前で王女と女官たちが舞を披露している。風の精のように重力を無視して軽やかに宙を舞い、柔らかな衣装が空中で光を受けて煌めく。ヘロデ王は玉座から鮮やかな群舞を見つめながら、満足げな微笑みを浮かべた。客人たちもこの光景に圧倒され、その華やかさに思わず息を呑んだ。舞が終わり王女と女官たちは一礼をして下がった。
文官が玉座に近づき、王にな何やら耳打ちした。それを聞いた王は興味を抱いたらしく、前へ出て言った。
「さて、皆さん。珍しい余興が見られそうです。時空の彼方から迷い込んだ異邦人が我が城に捕らえられました。篤とご覧ください。」
扉が開き、兵士に突き飛ばされるようにしてオスカーが宴の間に引き出された。見慣れない豪華絢爛な光景に目を奪われる。きらびやかな衣装をまとった人々、黄金に輝く装飾品、そして何よりも玉座に座る威厳に満ちた男。彼がこの国の王なのだろうか。
「跪け、異邦人!」兵士がオスカーの背中を強く押さえつけた。オスカーは抵抗することなく、言われるがままに膝をついた。
「顔を上げよ。」玉座の王、ヘロデが低い声で命じた。オスカーはゆっくりと顔を上げた。
「異邦人よ、まず名を名乗れ。そして時空の彼方から来たとは一体どういう意味だ?」ヘロデは興味深そうに尋ねた。
「オスカー・ワイルドと申します。私の住む世界の女王は時空器という装置を持っています。文字通り、時空を超えて旅することができる魔道具です。しかし私は未熟者であったため使い方を誤り、この世界に迷い込んだのでございます。」
彼の言葉は、宴の間の人々に奇異な響きを与えた。ざわめきが広がり、訝しむような視線がオスカーに注がれる。ヘロデは腕を組み、しばらく考え込んだ。「時空を超えて、か。とすれば貴様は遠い未来からこの世界へ迷い込んだのじゃな?ならばこの世界の先行きを述べることもできるはず。いわば予言者とも言える。述べて見よ。」
オスカーはグラマー・スクールで学んだ聖書学の講義を思い出そうとしたが、関心がなかったので知識は断片的だった。
「詳しいことはわかりません。私のいた時代と2000年近くも離れているのです。一つだけ言えるとしたら、古い王国は滅び、新しい王国が生まれ、また滅び、の繰り返しが歴史を作ってきたということだけです。」
「ふむ…古い王国が滅び、新しい王国が生まれる、か。」ヘロデは顎に手を当て、思案深げな表情を浮かべた。「それはこの国も例外ではない、と?」
「歴史が繰り返すならば、可能性は否定できません。しかし、それがいつ、どのように起こるのか、私は寡聞にして知らないのです。」
宴の間にざわめきが広がった。王の側近たちは不安げな表情で互いに顔を見合わせている。中には、オスカーの言葉を不吉な予言だと捉え、彼を厳しく詰問しようとする者もいた。
ヘロデは静かに手を挙げ、周囲の騒ぎを制した。「静まれ!」その一言には、誰も逆らうことのできない威厳が宿っていた。
「この世界は常に変化し続ける、それが貴様の予言か。おそらくそれは真実であろう。」王はオスカーの目を射るように見つめた。
「はい、あの強固なローマ帝国も800年後には滅びます。移り変わるのが歴史なのです。」
ヘロデ王は興味深げにオスカーを見つめ、言った。「ならばこの地にとどまり、歴史の変化を我に伝えよ。さすれば我は変化の波に乗ることもできよう。」
そのとき王女がオスカーの前に歩み寄ってまじまじとその顔を見た。そして王に言った。「こいつを私にちょうだい。私が話を聞いてあげるよ。そうしたらパパに教えてあげるからさ。それに、またパパの前で好きなだけ踊ってもあげる。」娘サロメは上目遣いに父王を見た。
「よかろう。好きにするが良い。おまえは賢い子だ。おそらくこの我よりもな。」ヘロデ王はしばし考えて穏やかな笑みを浮かべた。
「おいで、オスカー!私の部屋へ行こう。」
ヴァンパイア・デビュー
「ねえ、オスカー、あなたは人間なの?」サロメはまじまじとワイルドを見つめた
「いいえ、厳密にはかつて人間だった者です。」
「じゃあもう痛みも悲しみもないの?」
「まさか。痛みも感情もありますよ。」ワイルドは固い微笑みで答えた。
「私に口づけできる?」サロメは挑むようにワイルドを見上げた。
「いえ、それはちょっと。」ワイルドはたじろいだ。
「私は抵抗できないようにして唇を奪うこともできるよ。」サロメの目は笑っていなかった。
「それはどうでしょうね。」ワイルドは身構えた。
「でも奪うより奪われたいかな。」サロメは細長い四肢を蛇のようにワイルドに絡めてきた。
ヴァンパイアの目の魅了とは違う舞姫の四肢の魅了が発動した。蛇の誘惑...ワイルドの脳裏にラミアの姿が浮かんだ。
「私は淫らな女なのかも。」サロメの瞳が怪しく輝く。
「いけません...ダメだっ!」ワイルドは突き放そうとした...が、ベッドに押し倒されてしまった。
「我慢しないで思いのままにすれば、時空の彼方に飛んで行けるかもしれないわ。」囁きとともにサロメの熱い吐息が耳に這う。男の、というよりヴァンパイアの本能がこの状況を耐えがたいものにした。
「後戻りできないことになるぞ。」ワイルドは瞳を紅くたぎらせて最後の抵抗を示した。
「かまわないわ。連れて行って!」
オスカー・ワイルドはサロメの唇を奪い、そして白い牙を彼女の項に突き立てた。そのとき部屋に一陣の霧が舞い、その中からジョアンナが現れた。
「あらあら、らしくないわね、オスカー。」ジョアンナは笑いながらワイルドを睨んだ。「でも良いわ、良い子が手に入ったから。」
サロメはぐったりしてワイルドの腕の中に収まっている。そしてやがて転生の兆しが彼女の身体に表れた。小刻みに震え、髪の毛の輝きが増し、瞳と唇の赤みが増した。
「こっちへ来なさい。」ジョアンナが手招きすると、サロメは踊るような足取りで彼女の前へ進み、「クイーン!ジョアンナ様とは呼ばないわ。だって私は王女サロメだもの。」と挑発的に視線を向けた。
「かまわないわよ,サロメ、あなたの舞を堪能させてもらうわ。一緒に行きましょう、時空の彼方へ。」
クイーンの館、時空器の間。アストラル体のクイーン、ワイルド、そしてサロメが現れ、すぐに物理的身体をまとった。
「これで近衛眷属もそれぞれの通過儀礼を果たしたわ。これからたくさん楽しいことをしましょう。そうね、まずは女の子たちに新しい経験をしてもらわないと。」
ジョアンナはカロリーヌ、エイダ、サロメに向かって言った。「3人で出かけて、おいしそうな人間がいたら血を吸ってきなさい。眷属にする必要はないわ。殺しちゃってかまわない。ヴァンパイアになったのですから血の味に慣れてもらわないと。生命力、とは言わないわね、アンデッドなんだから、不死の力がみなぎるわよ。」
3人は連れだってロッテルダムの街へ繰り出した。
オランダ脱出、資金調達
「ねえ、2人はこの時代の人だったの?」サロメは2人に尋ねる。
「少し昔かな。60年ぐらい前。」カロリーヌが無邪気に答える。
「言われてみると私たち結構お婆さんね。」珍しくエイダが笑う。
「2人がお婆さんなら、私なんて魔女、いえ魔物よ。」サロメがケタケタ笑う。
「みんな魔物であるのは確かだけどね。」エイダが冷静に戻った。
「あ、あの人!」サロメが目ざとく1人の男を見つけた。少し酔っているらしく、千鳥足で横町に入った。娼婦館にでも行くのだろうか。サロメはまるで見えない風のように駆け寄って,音も立てずに男の首に牙を突き立てた。
「手が早いわね、あの子。」エイダは吸血の瞬間を観察して呟いた。そして隣のカロリーヌに目を向けると、彼女は消えていた。気配を感じて上を見ると、屋根の上に獲物を狙う野獣のようなカロリーヌの姿があった。エイダは苦笑いをして先へ進み、自分の獲物を物色し始めた。
「あの子にしましょう。リスクが少ないのが一番よ。」エイダが選んだのは街娼だった。通り過ぎる女など空気のようにしか思わないので一切の警戒がない。エイダは易々と娼婦の背後に回り血を吸った。
「あの子にしよう!」カロリーヌが狙ったのは靴磨きの少年だった。「私、15歳で転生したから、おじさんやおばさんには抵抗があるわ。いずれ克服するつもりだけど。」少年は無邪気な少女の糧となって果てた。
ジョアンナは察知した。30年間幽閉されていた結界の牢獄にあの男が再び訪れたことを。このままではこの館もいずれ気づかれる。今の段階で直接対峙するのは避けたほうが良さそうだ。あの男はおそらく警察の依頼で動いているのだろう。だとすれば、数多くの警察官の監視の目を掻い潜って活動しなければならなくなる。
「この館を放棄します。必要なものだけを持ってオランダを出ます。そうですね、もっと大きな町のほうが良いでしょう。ロンドンへ向かいます。しかしその前に軍資金を用意しなければなりません。これまではばれないように小刻みに資金を集めてきましたが、もう出国するので事件が大きく報道されてもかまいません。銀行から金塊を持ち出します。皆さん、もう基本的な変身や飛行、霧やエーテルへの実体変化は身に付けましたね?」一同は頷いた。
「目標はオランダ銀行連合です。では各人の役割を発表します。エイダ、あなたは先行して銀行を調べてください。エーテル体になって建物内を隈なく調べ,地図を作って持って帰ってください。カロリーヌ、あなたはエイダに付いていって警備態勢を調べてください。どこが厳重か、どこが手薄か。サロメ、あなたは私と一緒に行動するのよ。荒事になったら頼りにするわ。フランツ、ジョージ、オスカー、男3人は金塊を運び出す役よ。できるだけたくさん運び出したいの。金は重いのよ。延べ棒1本が400トロイオンス、これは12.4キログラムに相当するわ。1人4本は持って欲しい。それでは、エイダとカロリーヌが情報を得て帰るまで、ここで待機しましょう。」
エイダとカロリーヌはコウモリに姿を変え館から飛び出した。しばしの静寂が館を包んだ。それぞれの役割を理解し、一同はエイダとカロリーヌの帰還を待った。男たちは金塊の重さの話で盛り上がり、お互いに非力だろうと冗談で詰りあっていた。人間だったときは、バイロンを除く2人はたしかに金塊を持ち上げられなかったかもしれない。しかしヴァンパイア化すると力が人間の何倍にも増加するので、金塊4本程度は余裕なのである。サロメは指でダンスの動きをなぞらえながら、にこやかに「荒事になったら私に任せてね、クイーン。」と語りかけた。空気は微かに緊張感を帯びていたが、誰もがやり遂げられる自信をみなぎらせていた。
やがて、気配もなくエイダとカロリーヌが戻ってきた。エイダは数枚の精密な図面をジョアンナに手渡した。それはオランダ銀行連合本店の内部構造を詳細に描き出したものだった。そこには、廊下と階段、施錠箇所、壁の厚さ、通風口の位置、地下金庫の鍵の保管場所まで、克明に記されていた。カロリーヌのノートには、警備員の巡回ルート、地下金庫の警備態勢、全警備員の人数が詳細に記されていた。ジョアンナはそれらの資料を見ながら数分間考えをめぐらせた。
「作戦開始は夜間零時。安全に離脱するために、まず銀行から警察への連絡手段を遮断します。電話線を切断するだけの簡単な仕事はカロリーヌにやってもらいましょう。エイダには、その他の緊急警報を無効化してもらいます。エイダなら電気の配線からすぐわかると思います。私とサロメは、まず巡回中の警備員を無力化します。まあ殺してしまうのだけど。ただし、吸血はしません。怪しまれるといろいろ面倒です。地下金庫前の警備員だけになったら、運搬役の男3人と協力して全員を倒します。できるだけ音は立てたくないので、殺害方法は絞殺、あるいは頸椎を折るなど、迅速かつ静かな手段を選びます。地下金庫の扉が開いたら、手分けして金塊を運び出します。運び込むのは、ロッテルダム駅近くの借家です。ここに数日保管して、少しずつロンドンへ鉄道貨物として送り出します。すべて送り出したら、速やかにロッテルダムを離れます。国境を超えるまでは、くれぐれも慎重に行動してください。何か質問はありますか?」
一同は顔を見合わせ、静かに首を横に振った。それぞれの瞳には、決行の時を待つ鋭い光が宿っていた。
夜の帳が下り、ロッテルダムの街は静寂に包まれた。午前零時。カロリーヌは目にも留まらぬ速さで銀行の外周を移動し、電話線と警報装置の配線を寸断した。エイダはエーテル体となり、建物内部の電気系統に侵入、サイレンやその他の緊急警報を巧妙に無効化していく。
ジョアンナとサロメは、漆黒の影のように銀行の裏口に忍び寄った。巡回中の警備員二人が近づくのを待ち構え、一瞬の隙をついて背後から襲いかかった。二人の警備員は抵抗する間もなく意識を失い、地面に崩れ落ちた。
地下金庫への扉の前には、屈強な警備員が5人立っていた。ジョアンナの合図で物陰に潜んでいたフランツ、ジョージ、オスカーが3人の警備員に飛びかかり、ジョアンナとサロメは残りの2名を相手にした。襲撃に気づいたとき、警備員たちはほぼ同時に絶命した。
ジョアンナは素早く金庫の扉を開け、輝く金塊が積み上げられた場所に入った。男たちは4本ずつ用意した鞄に詰め込み、闇に紛れてロッテルダム駅近くの借家へ急いだ。馬車を使わず3人がバラバラに行動したので、誰も目にとめる者はいなかった。こうして金塊140kgは、まんまとヴァンパイアたちの手に渡ったのだった。
ロンドンに拠点を
ロンドン、メイフェア。気鋭の事務弁護士ジョナサン・ハーカーは瀟洒な館の呼び鈴を押した。中から金髪の小柄な女性が現れた。
「こんにちは、オンブリー・ウェステンラさん、事務弁護士のジョナサン・ハーカーと申します。きょうは相続の件で伺いました。」ジョナサンは帽子を脱いで頭を下げた。
「こんにちは、ハーカーさん、今日はわざわざご足労いただきまして,ありがとうございます。どうぞお入りください。」オンブリーはジョナサンにソファを勧めた。
「ケンジントンの屋敷の件ですが、ウェステンラさんが第1相続人なのです。もし相続をご希望なさるのでしたら、ここにサインを頂くだけであとは私のほうですべてお手続きを済ませますのでご安心ください。」ジョナサンは書類を渡した。
「そのことなのですが、姉があんな目に遭った家ですので....」オンブリーは目を伏せた。
「ご売却を希望なさると?」
「はい…正直なところ、あの家を見るのも辛いのです。もし可能でしたら、すぐにでも売却してしまいたいと思っています。」オンブリーの声はわずかに震えていた。
ジョナサンは彼女の心情を察し、穏やかな声で答えた。「承知いたしました。ウェステンラ様のご意向を尊重いたします。売却の手続きについても、私が責任をもって進めさせていただきますのでご安心ください。まずは、正式な相続手続きを完了させる必要があります。こちらの書類にサインをいただければ、私が管財人として、売却の手続きを進めることができます。」
オンブリーはジョナサンの言葉に安堵した表情を浮かべ、書類に目を通し始めた。丁寧に内容を確認した後、彼女はサインをしたためた。
「ありがとうございます、ハーカーさん。あなたにお願いして本当によかったです。姉のことも、これで少しは気持ちの整理がつきそうです。」オンブリーはわずかに微笑んだ。
ジョナサンは書類を受け取り、丁寧にファイルに収めた。「お役に立てて光栄です、ウェステンラ様。それでは、今後の手続きについてご説明いたします。まずは、相続登記を行い、正式にウェステンラ様がケンジントンの屋敷の所有者となる手続きを進めます。その後、不動産業者を選定し、売却の手続きに入ります。できるだけ早く、そしてウェステンラ様のご希望に沿えるよう、尽力いたします。」
「ありがとうございます。すべてお任せいたします。」オンブリーは深く頭を下げた。
「それでは、本日はこれで失礼いたします。進捗があり次第、改めてご連絡差し上げます。」ジョナサンは立ち上がり、丁寧に別れを告げた。
「金塊を駅留めにしておくわけにはいかないわね。」ジョアンナは顎に手を当てて考えている。「私たちはしばらくホテル住まいだとしても、金塊を運び込む倉庫が必要だわ。」
「ならば目立たない郊外が良いのでは?」ロンドンをよく知るバイロンが言った。
「パーフリートはどうでしょう?ここから約30km、エセックスです。」これまたロンドンをよく知るワイルドが提案した。
「あそこにはドラキュラを追い詰めた精神科医の病院があったわね。あまり関わりたくないわ、殺すとき以外は。」
「そんな経緯があったのですか。ならばパーフリートは却下しましょう。」
彼女は再び地図に目を落とし、指でゆっくりと円を描いた。「もっと西の方角がいいかもしれないわ。テムズ川を遡って…そうね、チズウィックあたりはどうかしら?比較的落ち着いた住宅街で、大きな倉庫もいくつかあるはずよ。」
バイロンは地図を覗き込み、「チズウィックなら、騒がしさもないですし、テムズ川を利用しての移動も可能です。倉庫を見つけるのも比較的容易かもしれません。」と同意した。
ワイルドも「チズウィック…悪くない選択だと思います。美しい庭園も多く、隠れ家には最適かもしれませんね。もっとも、私たちの場合は倉庫ですが。」と付け加えた。
ジョアンナは頷いた。「よし、軍資金の隠し場所はチズウィックにしましょう。カロリーヌとエイダ、あなたたちは今夜のうちにチズウィックへ飛び、倉庫をいくつか目星を付けてください。広さ、セキュリティ、周辺の状況…詳細な報告を頼みます。」
二人はいつものように静かに頷き、コウモリの姿へと変わって夜の空へと飛び去った。
翌朝、ホテルの1室に集まった一行は情報を共有し、行動予定を確認した。エイダはチズウィックへ行き、現地の不動産屋で目星を付けた倉庫を借り上げる。ワイルドは運送業者を見つけて、駅からチズウィックの倉庫まで荷物を運ぶ手配をすること。残りのメンバーはピカデリーの大規模な不動産を手分けして回って、新たな拠点となり得る物件を捜すこと。すべて日中の作業になるのでヴァンパイアの身には堪えるが、これらを午前中に済ませてホテルに戻り、カーテンを閉めて眠り体力を回復する。
「くれぐれも目立たず自然に行動するように。」ジョアンナは念を押した。「何もしていなくてもあなたたちは悪目立ちする外見なんだから。」そう言ってから笑顔で付け加えた。「美しいということですけどね。」
エイダはチズウィックの不動産業者と直接交渉を始めた。「ある程度の広さがあって床が頑丈な倉庫で、防犯に適した場所にあるものが理想です。」エイダの慎重で理路整然とした指示に従い、不動産業者は次々と候補物件を提示した。その中で最も条件に合うものをエイダは選び、契約手続きに取り掛かった。
一方、ワイルドはパディントン駅の周辺で何軒かの運送業者を訪ね歩いていた。丁寧で迅速な対応をしてくれそうな業者を見つけ、「木箱が3個で、それぞれ約50kg、合わせて150kgです。内容は金属原料の見本です。割れ物ではありませんが丁重な取り扱いをお願いします。チズウィックまでできるだけ目立たない経路で運んでいただきたい。」と慎重に言葉を選んで依頼した。
ジョアンナ、バイロン、リストは、ピカデリー周辺の大きな不動産業者を手分けして精力的に回った。長期間滞在できる安全な拠点で、館と呼べる広さがある邸宅が狙いだった。さすがロンドンの中心部ともなるとかなりの高額物件ばかりだが、50kg近くの金塊があるので全く問題にならない。情報を集め終わった4人はカフェに集まり、候補を吟味し始めた。そして、候補のうちで最も目的にかなう物件として、ケンジントンのウエステンラ家を選んだのだった。
正午が近づき、強い日差しが照りつける中、ヴァンパイアたちはそれぞれの任務を終え、指定されたホテルへと戻った。拠点とするケンジントンの邸宅へは,明日にでも入居できるという。日光のダメージを回復するため、彼らは厚手のカーテンで光を遮りながらしばしの休息を取った。ジョアンナは情報を整理しながら計画の進行を振り返り、すべてがスムーズに進んでいることを確認していた。
ロンドンで蠢くヴァンパイアの陰謀
ロッテルダム市警ムルダー警部は分厚い捜査資料を前にして頭を抱えていた。「オランダ銀行連合襲撃強盗事件」、分厚いファイルにはそう記されている。犠牲者7名(即死)、被害額金塊12本(約150kg)、遺留品ゼロ、目撃者ゼロ、警報や電話などすべての緊急回線が切断。ほぼ完全犯罪だ。手の付け所がない。
「外国の秘密部隊10~15名が綿密な計画のもと一糸乱れぬ連携で事に当たらなければ、こんな結果は残せない。しかし、オランダという国家に対してこのような攻撃を加える国家はヨーロッパにはないはずだ。となると国際犯罪組織か?しかしそのような存在は警察では把握されていない。本来なら運び出された金塊の足取りを追うべきだろうが、12本、通常の鞄に詰めれば4個に収まる。1つずつ別ルートで運べば怪しまれることもない。鉄道の貨物受付でも調べようがない。船も同じだろう。犠牲者の殺害方法は絞殺、あるいは頸椎破壊。鮮やかに一撃で決められ争った形跡もない。む、待てよ。犠牲者はすべて元軍人の猛者たちだ。戦闘のプロだ。それがこうもやすやすと赤子のように殺害されたのだ。となると相手は人間離れした戦闘力を持っている。ヴァン・ヘルシング教授にお願いして検死をやり直してもらおう。何かわかるかもしれない。」
「ご近所の方に聞いたのだけど、この屋敷は事故物件らしいわ。」エイダが言った。
「住人が自殺してその幽霊が出るとか?」カロリーヌが眉間にしわを寄せた。
「なんでも夜中にオオカミが窓を突き破って、そのショックで心臓を患っていた奥様が亡くなって、しばらくして娘さんも謎の病気で死んでしまったとか。」
「オオカミねえ...」ジョアンナには思い当たる節があるようだが、気にはならないようだ。「まあ魔物や幽霊の類いは私たちと似たようなものだから心配する必要はないわ。」
「ジョアンナ様、売買契約書ですが、確認なさいますか?」ワイルドが書類を持ってきた。
「そうね、面倒くさいので長期賃貸はやめて買い取ってしまったのだったわ。見せて。」ジョアンナは書類を受け取ると中身を吟味した。「あ、この名前、記憶に残っている。私の記憶というよりあの男の記憶なのだけれど、ジョナサン・ハーカー、あの男とともにドラキュラを討伐した男たちの1人。事務弁護士なんてやってるのね。たしか妻がいて,名前はミナ。ふーん、なるほどね。」ジョアンナの顔に残酷な微笑みが浮かぶ。「ちょっとみんなを集めてちょうだい。」
ロッテルダム、警察病院、死体安置所。今回の犠牲者はホルマリン漬けにはしないで、最近考案されたドライアイスで低温保存されている。
「どうでしょう、教授?」ムルダー警部はヘルシングの顔をのぞき込む。
「見事としか言いようがない。というより人間業ではない。」
「と言いますと?」
「この頸椎破壊の跡だが、手刀の一撃だ。何か鈍器を使ったものではない。骨折の様相が違う。人間が手刀で頸椎を一撃で破壊できると思うかね?よほどの怪物でもない限り無理だ。だが、複数の死体が同じ手口でやられている。複数の怪物が襲いかかったと見るべきだろう。そのような怪物で私が知るのはただ1つ、ヴァンパイアだ。」
「どういたしましょう?」
「ヴァンパイアが金を欲しがるとしたら、おそらく海外への進出もしくは脱出のためだろう。しかしこうなるともはやお手上げだ。オランダから消えてくれたことを喜ぶしかなかろう。」そう言いながら、ヴァン・ヘルシングは突き止めた元凶のことを考えていた。
「集まったわね。これからロンドンで何をしようか考えていたのだけれど、決めたわ。私を結界の牢獄に30年も閉じ込めたヴァンパイア・ハンターへの復讐よ。それもただ本人を殺すのではなくて、彼が愛して信頼したかつての仲間を1人ずつ殺してあげるの。1人たいしょ死ぬたびに心が抉られるでしょうね。」
「喜んでお手伝いいたします。」バイロンが進み出た。
「殺すの大好き。」サロメが無邪気に笑った。
「できるだけ複雑な道筋の果ての死を与えることにしましょう。」エイダはすでに計算に入っている。
「対象の周辺にいる人たちも殺して良いんだよね?」カロリーヌはかなり魔物らしくなってきた。
「ドラキュラの仇討ちじゃないのよ。あんな時代錯誤の爺は消滅して当然なの。ドラキュラ討伐のために結成された仲間たちという絆を壊してあの男の心を壊すのが目的です。」
エクスター、ハーカー法律事務所。
「お帰りなさい、ジョナサン。」エプロン姿のミナがジョナサンを迎える。
「ただいま、ミナ、何もなかったかい?」
「あるわ、あなたにニュースがあるの。」ミナは嬉しそうに頬を紅潮させた。
「あのね、きょうハミルトン先生に診てもらったのだけど、赤ちゃんができました。」
「本当か、ミナ!でかした!最高だ!ぼくらの子どもだ!」ジョナサンは狂喜乱舞した。
ターゲット「ジョナサン・ハーカー」
ジョアンナはケンジントンの屋敷で仲間たちに説明していた。
「さて、ターゲットはヘルシングを除いて全部で4人。家督を受け継いでゴダルミング卿となったアーサー・ホルムウッド、パーフリートの精神科医ジョン・セワード、事務弁護士ジョナサン・ハーカー、その妻ミナ・ハーカー。本当はもう一人アメリカ人のクインシー・モリスという男がいたのだけれど、トランシルヴァニアの戦闘で死んでしまったわ。」
「最初のターゲットは誰なんです?」ワイルドが思索深げに尋ねた。
「この屋敷を斡旋してくれたジョナサンよ。何と言っても彼は妻帯者。夫が殺されればたいていの妻は壊れる。そしてこのミナという女は、ヘルシングが最も愛して気にかけていた女なの。なにしろドラキュラに血を吸われてしまい、精神をある程度支配されていた女なのよ。ヘルシングはミナを救い出すために半ば強引にドラキュラ討伐作戦を実行したと言っても過言じゃない。」ジョアンナは嬉しそうに計画の目論見を話した。
「復讐の美学ですね。」それまで黙って聞いていたリストが旋律を思い描きながら言った。
「どんな殺し方をしたら一番効果があるかしら?」エイダの目が光る。
「あの男はトランシルヴァニアの城に2ヶ月近く閉じ込められていたわ。そしてドラキュラの花嫁たちに翻弄されたの。私たちヴァンパイアは魅了のスキルを持っているから、あの男は最愛の婚約者のことを一瞬忘れそうになった。心から女ヴァンパイアの抱擁と接吻を望んだのよ。これを再び思い出させるのはどうかしら?」
「あ、それなら私がやりたい。」サロメの目が輝いた。
「いいわ、サロメ。」ジョアンナは妖艶な笑みを浮かべた。「あなたの魅了の力で、ジョナサンをかつての悪夢に引きずり込むのよ。」
「任せて。しばらく魅了の舞を踊っていないから、腕が鳴るわ。」
「サロメの魅了が極限まで高まって,ジョナサンの精神が壊れて欲望の塊になり、抱擁と接吻しか考えられなくなった姿を最愛の妻に見せるというのはどうでしょう?」さすが作家だけあって、ワイルドはすばらしい演出を発案した。
「おお、私はその場で裏切りと絶望のメロディーを奏でたい。」リストは目を輝かせた。
「まずは、ジョナサンを作戦実行現場まで誘い出す必要があります。音楽とダンスが揃う場所、小規模のミュージックホールが最適です。秘密の饗宴に使うと言って貸し切りましょう。」エイダは商業地図を見ながら適当な物件を検索した。「これなんかどうでしょう?アルテミス・ムーン。ジョナサンのハートを撃ち抜くにはぴったりではないでしょうか?」エイダにはやはりバイロンの血が流れている。
「ではさっそく作戦実行よ。オスカーはミュージックホールを押さえて。バイロンはエクセターへ行って、ジョナサンに何らかの仕事を依頼する。そうね、ピカデリーの商業施設の売却の話でもでっち上げて呼び出しなさい。サロメとフランツはアルテミス・ムーンに乗り込んで現場の確認。貸し切り契約がまとまったらリハーサルよ。私と残りのメンバーは、現場近くのバーかカフェで赤ワインでも飲みながら待ちましょう。」
オランダ、アムステルダム。ヴァン・ヘルシング教授の研究室。助手が一通の手紙を持ってきて教授に渡す。
親愛なるエイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授、
ご無沙汰しております。エクスターのミナ・ハーカーです。1年前の出来事がまるで夢のように平穏な日々を過ごしております。これも教授の献身的なご助力の賜と考え、感謝に堪えません。今日お手紙をしたためましたのは、私事ではありますが、語らずにはいられない嬉しい出来事があったからです。ジョナサンと私に、ついに子宝が授かりました。つい先日の検診でわかったことなので、妊娠3ヶ月です。出産までまだ半年以上もありますが、楽しみで楽しみで、毎日おなかをさすってはひとりでに笑みがこぼれてしまいます。こんな有頂天の気持ちを伝えるための手紙を書くなんて、私、幸せすぎてどうかなってしまったのかもしれません。
ミナ・ハーカー
これを読んで、ヘルシングは目を細めて微笑んだ。まるで孫の誕生の知らせを受けた祖父のように。
絶望の足跡
「ミナ...本当に良かった。」ヘルシングは、手紙を丁寧に折り畳み、机の引き出しにしまった。「ジョナサンもさぞ喜んでいるだろう。あの恐ろしい出来事を乗り越え、こうして新しい命を授かるなんて...神に感謝しなければ。」そう言いながらも、ヘルシングの心に一抹の不安の影が宿った。
助手がそっと尋ねた。「教授、何か気がかりなことでも?」
ヘルシングは、窓の外のアムステルダムの街並みを眺めながら、静かに首を振った。「いや、ただの杞憂かもしれん。ただ平和な日々が続くことを願うばかりだ。過去の影が再び彼らに迫ることがないように。」しかし、彼の心には拭いきれない小さな不安の種が芽生え始めていた。あまりにも順調すぎる平穏。そして結界の牢獄から消えたジョアンナの存在。この2つが交差することはないだろうか。闇が光を覆い尽くすことはないのだろうか。
「念のため、ロンドンの様子を注視しておこう。」ヘルシングは、独りごちるように言った。「特に、ジョナサンとミナの周辺...」
アムステルダムの穏やかな午後の光の中で、教授の心は、遠いロンドンの空に漂う暗雲を感じ取ろうとしていた。
エクスター、ハーカー法律事務所。
「初めまして。不動産の仲介を生業にしておりますエドガー・アシュトンと申します。」バイロンは偽の名刺を渡した。
「初めまして、事務弁護士のジョナサン・ハーカーです。」ジョナサンはソファを勧めた。
「今回お邪魔しましたのはピカデリーの複合創業施設の件です。オーナーがアメリカ合衆国へ進出するため売却を検討していまして。」
大きな契約話を聞いてジョナサンの目が輝いた。「それは興味深いお話ですね。詳しくお聞かせいただけますか?」
バイロンは、用意してきた資料を丁寧に広げながら、巧みな話術でジョナサンを惹きつけ始めた。「物件の概要としましては、ピカデリーの一等地にある築浅の商業施設で、複数のテナントが入居しており、安定した収益が見込めます。オーナーは合衆国の事業を早く始めたいので早期の売却を希望しております。条件次第では非常に有利な価格で購入できる可能性があります。」
ジョナサンは、身を乗り出して説明に聞き入った。ハーカー法律事務所としても、このような大型の不動産取引に関わることは、事務所の評判を高める絶好の機会となる。何よりも、成功すれば大きな利益をもたらす可能性がある。
「なるほど...」ジョナサンは、提示された資料に目を通しながら頷いた。「確かに魅力的な物件ですね。ただ、このような大型案件ですと、相当な時間と手間がかかると思いますが。」
バイロンは、にこやかに答えた。「もちろんです。弊社といたしましても、全面的にバックアップさせていただきます。ハーカー法律事務所様のような信頼できる法律事務所にご協力いただければ、スムーズに手続きを進められると確信しております。」
その言葉に、ジョナサンは満足そうに頷いた。「ありがとうございます。アシュトン様。ぜひ、詳細についてお打ち合わせさせていただきたいと思います。つきましては、近いうちに改めてお時間をいただけないでしょうか?」
バイロンは、内心でほくそ笑みながら、穏やかな表情で答えた。「もちろんです。ハーカー様のご都合の良い日時をいくつかお教えいただけますでしょうか?できる限り調整させていただきます。」
「では明日か明後日はいかがでしょう?」ジョナサンは前のめりに着手を急いだ。
「願ったりでございます。では調整の上、本日中にお電話を差し上げます。」バイロンは内心でガッツポーズを取りながら約束した。
ピカデリー、ミュージックホール「アルテミス・ムーン」。
「秘密の饗宴でございますか?」支配人が少し訝しげに尋ねた。
「はい、私どものマスターは好事家で趣味人なのです。お仲間うちで気の置けない小さな宴を希望しているのです。音楽家や舞踏家も来ますので、このような設備を備えている場所が必要なのです。もちろん、通常の営業で得られる以上の料金はお支払いいたします。」オスカー・ワイルドは、使い切れない資産を持て余している好事家の執事がよく似合っていた。
「わかりました。そういうことなら是非お使いください。」支配人は降ってわいた儲け話に一も二もなく同意した。」
ハーカー法律事務所の電話が鳴った。
「ハロー、私エドガー・アシュトンです。先ほどの件ですが、明日でも可能だということになりました。つきましてはピカデリーのミュージックオール『アルテミス・ムーン』にご足労願えますでしょうか?」
「ミュージックホールですか?」ジョナサンは少し訝しげに問い直した。
「はい、オーナーはアメリカ合衆国進出を考えるほどのお方で、実に開放的で進取の気運に富んでいるのです。古い英国の常識から少し離れているとご承知ください。」
「了解しました。では明日。」
ピカデリー、ミュージックホール「アルテミス・ムーン」。
「ここね、私たちの舞台。」サロメはフロアの上で数回ステップを踏んだ。
「このピアノ、なかなか良い品ですが、調律が必要です。あ、職人は必要ありません。私自身が調律します。そこらの職人よりずっと正確ですよ。」鍵盤に触れてリストは言った。
「どんな曲を弾くの?」サロメは興味津々だ。
「ピアノは調律が終わってから弾いてあげますが、こんな感じですね。」リストは美声でメロディーをスキャットで口ずさんだ。
こうしてジョアンナの計画は、順調に進み始めた。ジョナサンは自分を待ち受ける罠に疑いもなくむざむざと足を踏み込もうとしていた。
「ふふふ、サロメとフランツによる舞踏と音楽の魅了に耐えられるはずもないわ。彼の精神が限界に達して最愛の妻を裏切る欲望に満ちたとき、妻はその姿を目の当たりにしてどうなるでしょうね?フランツの新曲『裏切りと絶望』がクライマックスに達したとき...そのときこそ、私たちの手で、彼の命を刈り取るのよ。彼の妻は、絶望のさらにその先にもっと残酷な絶望が待ち受けていたことを知ることになるわ。」ジョアンナは残酷な喜びに満ちて高笑いをこらえることができなかった。
ジョナサン、死す
エクスター、ハーカー法律事務所。電話が鳴る。
「ハロー、ハーカー法律事務所です。どのようなご用件でしょうか?」ミナはお腹を撫でながら電話に出た。
「こんにちは、エドガー・アシュトンです。先日はどうも。実は旦那様のジョナサン・ハーカー氏が、商談相手にぜひ奥様も紹介したいと言っておられまして。これから迎えの馬車を回しますのでご足労願えますでしょうか?」
「わかりました。うかがわせていただきます。」ミナは夫の仕事の一助になると思って張り切って準備を始めた。
「ここですか。」店に案内されたジョナサンは,華やかなフロアに戸惑いながらキョロキョロと店内を見回した。
「はい、こちらがオーナーの執事、ガブリエル・カームさんです。」バイロンはジョナサンをオスカー・ワイルドに引き合わせた。そして「それでは私はここで失礼させて頂きます。」バイロンは一礼すると店を出た。
「オーナー本人ももちろん参りますよ。でも、オーナーは開放的な人柄ではありますが、同時に行動は慎重なのです。初めてのお方と会われるときは、いつも私を先に遣わせて先方のご様子を確認させてから現れるのです。失礼とは存じますが、どうかご理解ください。」
「それはもう、大きな事業を手がける方ともなれば、当然の用心でしょう。」ジョナサンは納得した。
「もちろんハーカー氏は面談するのに何の問題もないと判断させて頂きましたので、オーナーを連れて参ります。それまでの間、どうか音楽とダンスでしばしの憩いをお楽しみください。」ワイルドは笑顔でサロメとリストを紹介した。
フロアの照明が点き、ピアノのプレリュードが始まった。甘く切ないピアニッシモ。低音と高音が螺旋のように絡み合う。サロメが低い位置のプリエで展開を待つ。そしてゆっくりと顔を上げ、その瞳は獲物を射抜くようにジョナサンを捉えた。彼女の唇がかすかに開き、何か囁いているように見えた。それは禁断の呪文なのか。リストのピアノはますます甘美で誘惑的な旋律を紡ぐ。サロメの白い指先が、宙をなぞるようにゆっくりと動き出す。それに呼応するように、ピアノの音色も熱を帯び始める。プリエからゆっくりと立ち上がり、サロメは滑るように歩き出した。その動きは優雅でありながら、どこか妖しげで、ジョナサンの目を釘付けにする。ピアノの旋律は、次第に激しさを増していく。サロメの動きもまた、情熱的で奔放になっていく。彼女の長い髪が、踊るたびに妖しく揺れ、その白い肌は、フロアの光を受けて宝石のように輝く。
ジョナサンの目はサロメの四肢に釘付けになった。そしてサロメもまた、視線をジョナサンの目から寸分も離さない。その瞳の奥には、甘い誘惑と、底知れない闇が渦巻いている。ジョナサンの心臓は激しく鼓動し始めた。かつての記憶が、鮮明によみがえってくる。トランシルヴァニアの古城で見た、妖しく宙を舞うドラキュラの花嫁たち。ジョナサンは封印していた記憶を思い出した。どれだけ強く彼女たちの甘い囁きや熱い抱擁を切望したかを。サロメの舞いは、ジョナサンの心の奥底に眠る欲望を呼び覚ました。彼の理性は、徐々にその力を失い、甘美な誘惑の波に飲み込まれていく。
「お望みなら...」(シ・テュ・ヴ)サロメの口がそう語っているように動いたとき、ジョナサンは立ち上がってサロメを抱きしめた。そして...、その瞬間を見計らったかのように店のドアが開き、ミナが入ってきた。
「ジョナサン!」ミナは絶句した。
ジョナサンはそんなミナにかまわずサロメの接吻を求めていた。
「まあ、せっかちねえ。」サロメは残酷に微笑みながら、ジョナサンに牙を突き立てた。眷属にするためではなく殺害のための噬咬。鮮血が飛び散った。ジョナサンは崩れ落ちた。そして、それを見たミナは失神した。その裾から絶え間なく血が流れた。
一連の惨事が終わって10分後にセワード医師が店に入ってジョナサンの遺体と流産したミナを発見した。ミナに緊急措置を施してから、店の外の電話局から警察と病院に連絡した。セワードには事件の2時間前に謎の電話があったのだ。ピカデリーのミュージックホール「アルテミス・ムーン」で友人たちが大変なことに巻き込まれると。電話の相手は名を名乗らなかった。ただ、非常に冷静な女性の声で、とてもいたずらだとは思えない信憑性があった。理性と声は同期する。エイダはこういう場面で頼りになる。
「ミナがこんなところで出血死というのはつまらないわ。この女はヘルシングの目の前で潰してやらなくちゃ。」ジョアンナは無表情に呟いた。
オランダ、アムステルダム、ヘルシング教授の研究室。助手が電報を持って入室し、教授に渡す。
「ジョナサン シス。ミナ ショックデリュウザン。シキュウソウダンシタシ。 ジョン・セワード。」
ヴァン・ヘルシングは怒りと悲しみでわなわなと震えだした。
「何ということだ!何ということだ!神よ!悲劇の上に悲劇を重ねられるのですか?」
「あの女は一命を取り留めたようね。」ジョアンナは誰に語るともなく言った。
「はい、セワードの緊急処置が適切だったのと、婦人科の病院が近くにあったのが幸いしたようです。」ワイルドが報告した。
「次はアーサー・ホルムウッドかジョン・セワードだけど、どうするの?」殺人の高揚感が抜けないサロメが張り切って質問した。
「セワードはヘルシングの連絡用に取っておかなければならないから、必然的にアーサーでしょう。誰か何か作戦案はありますか?」
「誘い出してガブリじゃダメなんですか?」カロリーヌが無邪気に答えた。
「相手は大貴族よ。そう簡単に誘いに乗るとは思えないし、単独行動もしないでしょ。武装した護衛が必ず何人か付いているはず。」
「忍び込んで魅了して闇の中に連れ込むのは?」
「大貴族の頭領なんだから王様みたいなものよ。単独で家の外にふらふらと迷い出るなんてことを周りが止めないわけがない。」
「もう少し状況を精査する必要があるでしょう。」エイダが冷静に結論づけた。
リスト、撃たれる
ロンドン、ナイツブリッジ、ゴダルミング家の館。
「良く来てくれたね、エミリー!」アーサーは諸手を上げて訪問者を歓迎した。
エミリーと呼ばれた女はテンガロンハットにウェスタンシャツ、皮のズボンにチョッキとブーツ、典型的な西部劇のガンマンスタイルで、背中に大きな背嚢を背負っていた。
i956807/
「アーサー、招待してくれてありがとう!これで兄さんの足跡を辿れるよ。」
「去年クインシーが亡くなった後、アメリカで執り行われた葬式にも出られずに失敬した。20世紀間近とはいえ、イギリスとアメリカはまだまだ遠い。」
「手紙に書いてあったけれど、兄さんと一緒にドラキュラ討伐にトランシルヴァニアまで行って、兄さんと一緒にドラキュラに最後の一撃を加えたジョナサン・ハーカーという方が謎の死を遂げたんですって?」
「ああ、ぼくは報告を受けただけで現場も見ていないのだが、首に刺し傷があって大量の失血死だ。」
「刺し傷はナイフか何か?」
「いや、鋭利な牙のようなものらしい。」
「獣の類い?」
「いや、傷の大きさと失血の量の割合がおかしい。ただの傷ではなかったようだ。」
「ではやはり...」
「ヴァンパイアの仕業だろう。」
「なぜ今になって?ドラキュラの敵討ち?」
「わからない。だが敵は一体ではなさそうだ。」
「アーサーも狙われる危険があるのかしら?」
「わからない。まあ護衛が堅牢だし油断をするつもりはないので大丈夫だとは思うが。」
「私が守るよ。」エミリー・モリスは白い歯を見せて微笑んだ。
イギリス、エセックス、パーフリート。セワード精神病院。
「お呼びだてして申し訳ありません、教授。」セワードは恐縮して頭を下げた。
「いや、これは由々しき事態だ。放ってはおけない。」ヘルシングは旅装を解きながら話を続けた。「次に狙われるのは君か?それともアーサーくんか?」
「見当が付きません。そもそも敵の意図がわかりません。ドラキュラ伯爵の敵討ちなのでしょうか?」
「おそらく違うだろう。無関係だとは思えないが、そんな単純な動機ではあるまい。」
「私も狙われるのでしょうか?」
「断言はできんが否定もできん。」
「護衛を雇ったほうが良いでしょうか?」
「ヴァンパイア相手に戦える人材なら雇う価値はあるだろう。」
「どんな人材が必要なのですか?」
「筋力が少なくとも常人の3倍、銀の弾丸を正確に撃てる技量...まあ人間離れした戦士だ。そんな人材がいればだが。」
「アーサーなら募集をかけられるかもしれません。」
ゴダルミング家、中庭。エミリーが旅装を解き、ヴィクトリア朝スタイルのドレスを着て同世代の女性と話している。アーサーの妹ドロレスだ。
「こんな豪華なドレスを貸してもらっちゃって、申し訳ないね。」エミリーは恥ずかしそうにもじもじした。
「いいえ、ロンドンでウェスタン・スタイルは目立ちすぎますもの。」ドロレスは微笑んだ。
「兄もこっちのスタイルに合わせていたのかい?」
「はい、とってもダンディでしたのよ。町を歩くご婦人方が目を見張ってらっしゃいました。ご本人はまるで気にも留めていらっしゃいませんでしたが。」
「兄さんらしいよ。無口で無骨、そして向こう見ず。典型的なテキサスの男だった。」エミリーは遠くを見た。
「亡くなられたクインシー・モリス様はとても勇敢な方だったのですね。その最後が、異国の地でジプシーのナイフに倒れるなんて、さぞかし無念だったことでしょう。でも、兄から聞きましたが、最後の力を振り絞ってあの魔物に一太刀を浴びせ、勝利を勝ち取ったそうです。モリス様のボウイナイフとハーカー様のククリナイフが伯爵の胸を貫いたのです。」ドロレスは兄から聞いたクインシー・モリスの最後を少し声を震わせながら語った。
エミリーは、ドロレスの言葉に深く頷いた。「ああ、クインシーは最後までクインシーだった。自分の信じたことを貫き通した男だ。不器用で、口下手だったけれど、誰よりも優しくて...正義感の強い男だった。」彼女の瞳には、かすかに涙が浮かんでいた。
「あなたも、お兄様のことをとても大切に思っていらしたのですね。」ドロレスは、エミリーの悲しみに寄り添うように、優しい声をかけた。
「ああ...私たちはたった二人の兄妹だったから。」エミリーは、遠い故郷を思い出すように、寂しげに微笑んだ。「テキサスの荒野で、二人で星空を見上げた夜が、昨日のことのように思い出されるよ。」
「クインシー様は、あなたのような素敵な妹さんをお持ちで、きっと心強かったでしょう。」ドロレスは、エミリーの肩にそっと手を置いた。「もし、何かお話したいことがあれば、いつでも私に話してください。少しでも、あなたの心の痛みを和らげることができれば...」
エミリーは、ドロレスの温かい言葉に、感謝の気持ちで頷いた。「ありがとう、ドロレス。あなたの優しさが、兄の魂を慰めてくれるようだ。」
二人の間には、言葉を超えた静かな共感が流れていた。異国の地で失われた兄を偲ぶ妹と、その勇敢な友を悼む妹。境遇は違えど、大切な人を失った悲しみは、二人の心を深く結びつけていた。
「ねえ、勝手にこんなところまで出てきて大丈夫なの?」カロリーヌが心配そう顔をした。
「なに、ただの散歩ですよ。曲想を練るのに良い日和です。」リストは意に介さない。
「お腹が空いたんだけど。」カロリーヌはふくれっ面を見せた。
「そのへんの野良犬の血なら大事にならないでしょう。」
「ふざけないでよ!私はレディーなのよ!」カロリーには本気で怒り出した。
「おや、ここは...ゴダルミング家。お城のような大邸宅ですね。」リストは意に介さない。
「次のターゲットの家?」カロリーヌの目が紅く輝く。
「お行儀が悪いですよ、淑女が公道であからさまに生き血を求めるなんて。」リストは冷ややかに笑ってカロリーヌの肩を叩いた。
「いっそのこと、私が飛び込んで仕留めてやろうかしら。」カロリーヌは今にもコウモリかエーテル体に変身しそうだ。
「やめなさい。ドン・キホーテじゃあるまいし。猪突猛進は私たちの流儀じゃないでしょ。エレガントに、綿密な計画の元でエレガントに仕留めないと。」リストは右手の指で見えない鍵盤を叩きながらカロリーヌを諭した。
そのとき通用口からエミリーが出てきた。ドレス姿ではなくウェスタンスタイルだ。2人の姿に気づくと,訝しげに見つめた。少女の目に隠しきれない殺気を感じる。「まさかね」と呟いて、エミリーはポケットから小さな十字架を取り出してかざした。2人のヴァンパイアは威力に怯えるようにのけぞった。
「そうかい、あんたたちかい。」エミリーは腰のリボルバーを抜いた。
「目を血走らせているおまえからだ!」エミリーはカロリーヌに照準を合わせた。
「くらえ!特製の銀の弾丸だ!」銃声が轟いた。その瞬間、リストはカロリーヌをかばって前に出た。そして弾丸を浴びて倒れた。「に、逃げなさい...」それがリストの最後の言葉だった。カロリーヌはエーテル体になってその場を離脱した。
さらわれたドロレス
「何だって!屋敷の前でヴァンパイアを倒したって!?」アーサーはエミリーの話を聞いて度肝を抜いた。
「一匹逃がしたけどね。」エミリーは平然と答えた。
「で、死体は、死体はどうした?」
「下男たちにお願いして庭に転がしてある。」
「大変だ、もし人間だったら殺人事件だ。」アーサーは慌てふためいている。
「人間じゃないよ。逃げたやつは半透明になって飛んで行ったし。」
「ともかく医師に鑑定してもらおう。そうだ、ジョンに電話だ。」
「武装してたときに出会って良かったよ。ドレス姿だったら噛まれてお陀仏だったかもしれない。しかし屋敷のすぐそばまでやって来るなんて、警備態勢を強化しないと。」
ケンジントン、ヴァンパイアの拠点。
「何ですって?リストが...!」泣きじゃくるカロリーヌの報告を聞いてジョアンナは絶句した。「あのリストが、こんな、こんなことで…!」ジョアンナは信じられないといった表情で、カロリーヌの肩を掴んだ。その目は怒りと悲しみで紅く染まっている。
「フランツは私をかばって撃たれたのよ。フランツを撃った女...許さない。必ず、必ず復讐してやる!」カロリーヌは震える声で叫んだ。その小さな体から、抑えきれないほどの憎悪が溢れ出ている。
「落ち着きなさい、カロリーヌ。」ジョアンナはカロリーヌを抱きしめ、優しく背中を撫でた。「怒りに我を忘れてはいけません。リストの仇を討つためには、冷静な判断が必要です。」
カロリーヌは人間だったときのことを思い出していた。憧れのピアノの先生。自分と同い年なのに、すでにステージの花形だったフランツ・リスト。その彼にピアノを教えてもらい、そして秘密の関係も持てた。友人たちに隠していたその関係は彼女の誇りだった。そして、その彼に選ばれて眷属にしてもらった。記憶をたどるごとに深い喪失感がカロリーヌを苛む。さっきまで火のように燃え上がっていた悲しみと怒りが、今は彼女の心を冷たく凍らせた。
「..してやる。殺してやる。これ以上ないような惨めな死を与えてやる。」カロリーヌは唇を噛んだ。
「リストは私たちにとって、かけがえのない仲間でした。作戦では卓越した手際の良さを見せ、団らんのときには優雅なピアノ曲で私たちを慰めてくれました。そんな彼の死を無駄はできません。復讐を、犠牲の何倍もの復讐を果たしましょう。」ジョアンナはカロリーヌの目を見つめ、優しく言った。「私たちには、エレガントに、綿密な計画の元で仕留めるという流儀があるでしょう?協力してくれるわね?」
ジョアンナは静かに周囲を見渡した。部屋には、他のヴァンパイアたちが集まっている。皆、悲しみと怒りを押し殺したような、重い表情をしていた。
「皆、聞くのです。」ジョアンナは低い声で言った。「リストは、私たちのために命を落としました。彼の死を悼むと同時に、私たちは立ち上がらなければなりません。あのガンマンの女...彼女は私たちヴァンパイアにとって、決して許すことのできない存在となりました。彼女を始末し、二度とこのような悲劇が起こらないように、私たちは行動を起こします。」
ジョアンナの言葉に部屋の空気は一変した。悲しみは静かな決意へと変わり、それぞれのヴァンパイアの瞳に新たな光が宿った。
「ゴダルミング家の情報が必要です。屋敷の構造、警備体制、使用人を合わせて屋敷に何人常駐しているか。徹底的に調べなければなりません。」
ゴダルミング家、裏庭。ジョン・セワードとヴァン・ヘルシングがリストの死体を検分している。
「脈もありませんし、体温も地表と同じです。死体でしょう。」セワードが確認した。
「ふむ、倒れて意識を失っているが、絶命というわけではないな。」ヘルシングが言った。
「そうなんですか?」セワードは驚いて聞き返した。
「ヴァンパイアだからそもそも脈や体温はない。奴らを動かしているのは血管内にある魔血球の働きだ。銀の弾丸はその魔血球を凝固させる。弾丸が取り出されればまた動き出すだろう。」ヴァン・ヘルシングは顎を撫でながら説明した。
「どうすればとどめを刺せるの?」興味深げにエミリーが尋ねる。
「なに、いつもの古典的な方法さ。心臓に杭を打ち、首をはね、火をかけて燃やす。」
「ではとっとと始末してしまおう。仲間にさらわれたら大変だ。」アーサーが下男に指示を出した。
「死体は残らんと思うが、念のため教会から聖水と聖餅をもらってきてくれ。」ヘルシングは女中を呼んで手配させた。「おっと、さらに念のためだ。処置が終わったら、聖職者に祈祷をお願いしよう。」出かけようとした女中を呼び止め、用件を伝えた。
ケンジントン、ヴァンパイアの拠点。
「そうですか、アーサーには妹がいるのですか。」報告を聞いたジョアンナが残酷な笑みを浮かべた。「まずその妹を殺してやりましょう。どうせ一族皆殺しにするのです。誰かが最初の犠牲にならなければなりません。ドロレスというその妹、定期的に外出することはありますか?」
「毎週火曜日か水曜日に音楽のレッスンに行っています。」エイダが記録に目を通しながら答えた。
「護衛やお付きは?」ジョアンナが険しい目で尋ねた。
「護衛2人に女中が1人。護衛はおそらく武装しているでしょう。」
「なるほど、ならば作戦は慎重に進めなければなりませんね。」
ヴァンパイアたちはざわめいた。皆、作戦実行に参加したくてたまらないようだ。
「静かに!」ジョアンナが静かな声で注意を促すと、一同は水を打ったように静まりかえった。
「失敗は許されません。確実に仕留めるためには...」ジョアンナはしばらく思案すると何かを思いついたように目を輝かせた。「そうだわ、何も最初から殺してしまわなくても良いのだわ。奴らに苦しみと悲しみを与えるために、その娘を人質にしましょう。」
エイダが記録を手に近づいてきた。「ドロレスのレッスンの場所は確認済みです。次の火曜日、彼女が出発する時間とルートも把握しています。ですが、ジョアンナ様、2人の護衛ですが、どちらも相当な手練れのようです。迂闊に手を出せば、我々も被害を受ける可能性があります。」エイダが懸念を示した。
「私が行きます。フランツの仇を...」カロリーヌが固い決意で手を挙げた。
「いけません。あなたは昂ぶっている。危険です。」ジョアンナは有無を言わさぬ威厳で彼女を制した。
「計画実行は3人。2人は護衛を無力化。1人がドロレスをさらう。女中は好きにしなさい。護衛を無力化するのはバイロンとワイルド。おそらく銀の弾丸の銃で武装している護衛に対抗するため、2人には武器を渡します。まず煙玉。これは煙だけじゃなくて最初に激しい閃光を発生させて一時的に視覚を奪います。次に発生する闇の煙幕で敵はあなたたちを視認できなくなるでしょう。でもヴァンパイアのあなたたちはよく見える。そしてこれはミスリルの鞭、5メートル先まで伸びるわ。これで銃をたたき落とすか絡め取りなさい。武装を外したら,鞭で拘束して牙を刺し込みなさい。ドロレスを誘拐するのはエイダ、あなたに任せます。サロメでは興奮して噛み殺しかねませんからね。」ジョアンナは最後に言ったことがおかしくてついくすっと笑ってしまった。
「私、そんなはしたない真似しませんよお。」サロメはふくれっ面を見せた。
戦力補充 ――新しい眷属
ロンドン、リージェンツ・パーク。ドロレス、お付きの女中、護衛2人が、公園の木立の道を歩いている。
「来たな。」バイロンが目配せする。
「木立の道を選ぶとは愚かなことだ。」ワイルドが冷ややかに笑う。
「私がタイミングを計測して合図します。」エイダは冷静に距離を目測している。
「今です!」
3人のヴァンパイアは潜んでいた樹上から跳んだ。次の瞬間、すさまじい閃光があたりを真っ白に染めた。そして次に闇が広がる。護衛2人は銃を抜き警戒するが何も見えない。うろたえているうちにバイロンとワイルドの鞭が護衛の武器を絡め取った。右往左往する護衛たちは、ミスリルの固い鞭によって拘束され動けなくなった。「悪く思うなよ...」2人のヴァンパイアは護衛の首に牙を刺し込んだ。鮮血が吹き出て2人は絶命した。そのすきに、おろおろしている女中を蹴り飛ばしたエイダがドロレスに抱きついて、「おっと、動かないでね。牙が刺さっちゃうと危ないわよ。」と耳元で囁いた。
「しばらく目隠しさせて頂くわ。あ、あの女中さん、どうしちゃおうかしら?下手に騒がれても面倒だし、殺しちゃいましょう。」女中は気絶していたが、エイダは抱き起こしてゆっくりと血を吸った。
ケンジントン、ヴァンパイアの館。
「さてお嬢さん、あなたにはこの部屋にしばらく住んでもらうわ。食事は与えるし、シャワーもトイレも完備しているから大丈夫。お宅ほどじゃないかもしれないけど、ここもなかなか良い邸宅じゃなくって?」ジョアンナは舌なめずりをしながらドロレスを部屋に監禁した。その背後からカロリーヌが激怒した野良猫のようにドロレスを威嚇する。
「ジョアンナ様、人質と言いますと、何かと交換するのですか?」エイダが尋ねた。
「いいえ、ドロレスを最も愛している者の目の前で派手に殺すの。」
「となるとアーサーですね。」
「そう、アーサーを誘い出さないと。」
「コダックカメラでこの娘を撮影して写真を送りつけてやりましょう。」エイダは人間だったころの彼女にとって未知の科学技術だったものを熟知している。
ゴダルミング家、裏庭、フランツ・リストに対する処置が実行される。処置後の祈祷と当局に対する証人になるため聖職者も同席している。
「では杭を打ち込もう。アーサー、当主である君に頼む。」ヘルシングはアーサーに杭と槌を渡した。アーサーは、かつてヴァンパイア化した婚約者ルーシーの胸に杭を打ち込んだことを思い出したが、怯まずそれを受け取って構えた。万が一に備えて聖職者たちは調伏の祈祷を唱える。杭がフランツ・リストの胸に深く打ち込まれた。その瞬間、閉じていたリストの目がカッと見開かれ口からは断末魔の唸りが漏れた。リストの身体は水分を失ってカサカサの古木のようになってしまった。
「よし、次は首だ。」ヘルシングはアーサーに斧を手渡した。古木の身体は簡単に2つに割れ、首が転がった。下男たちが集めてきた枯葉にリストの身体を埋めて火が付けられた。胸が悪くなるような匂いとともに炎が吹き上がり、一同は衣服やハンカチで鼻と口を覆った。一通り燃えて鎮火すると、黒い燃えかすだけが残った。ヴァン・ヘルシングは聖職者たちに目配せして、聖水と聖餅で焼け跡を浄化させた。
郵便配達人が来て女中が対応した。女中から差出人の名前がない書簡を受け取ったアーサーは中を見て凍り付いた。愛する妹の写真だった。妹は目に恐怖を浮かべて何かを伝えたそうな顔をしている。書簡には血文字でしたためられた短いメッセージが添えられていた。
「ドロレスはわれわれの手にある。妹を返して欲しければ、単身でハイゲイト墓地に来い。良いか、われわれは見ている。警察大隊などを連れてきたら、娘の命はないものと思え。」
「行かなければ、たとえ罠だとしても行かなければ。」アーサーは拳を握りしめ,怒りで震える声で言った。
「どうする?」エミリーが不安げに尋ねる。
「約束の時間は夜だ。まず昼間のうちにハイゲイト墓地を調べよう。」ヘルシングが提案した。
「支援するわれわれが隠れる場所を見つけないと。」セワードは恩師の意図を読んで説明した。
「ドロレスが誘拐されたということは、護衛と女中がやられたということね。護衛は銀の弾丸を詰めた銃で武装していたんでしょ?それが無効化されたとなると、敵もおそらく何らかの対策をしていたはず。油断はならないわ。」エミリーは兄譲りの洞察力で注意を促した。
ケンジントン、クイーンの館。
「約束の時間は夜だから、まだかなり時間があるわね。作戦に備えてしっかり休息してちょうだい。」クイーンは仲間たちにそう告げて、時空器の間に入った。
「リストが消されて戦力が減った。今夜の作戦でもしさらに減らされることがあったら,今後に影響するわね。補充しようかしら。」ジョアンナはしばし思案した。「銃弾をもはじき返す鋼の男...無理ね、文字通り歯が立たないわ。噛み付けないなら眷属にできない。」ジョアンナは自らの愚かな考えを振り払うように頭を振った。
「前回は花婿という枠にこだわって芸術家ばかり選んでしまった。たしかに良い男揃いだったけれど、戦力という面から考えれば必ずしも最適な選択ではなかったかもしれない。戦闘に特化した強くて素早い男を選ぶことにしましょう。」しばし考えた末にジョアンナは時空器の前に進み、短い呪文の後で「1880年、アメリカ、ニューメキシコ」と呟いた。
「脱走したのね?」ジョアンナは若い男に声をかけた。
「誰だ!」突然声をかけられた若い男は銃を抜いた。
「あらあら、レディーにそんな振る舞いをするものじゃなくってよ。」
「おまえは誰だ?妙な出で立ちで何をしに来た?」男の銃は今にも火を噴きそうだ。
「助けに来たのよ、あなたを。」ジョアンナは余裕の笑みを浮かべた。鉛玉なら当たってもどうということはない。
「助けるだと?」
「そう、あなた、このままだと保安官に闇討ちされて死ぬわよ。保安官の牢屋から逃げ出したんでしょ。彼、追いかけてきて、丸腰のあなたを撃ち殺すわ。」
「な、なんだと?!」男は混乱しつつも、あの保安官ならそれくらいのことはやりかねないと思った。
「だから、ここから連れ出してあげる。ロンドンへ。」
「ロンドン...」確かにロンドンならもう誰の追撃も恐れる必要はない。
「船に乗らなくてもすぐ連れて行ってあげられるわ、ビリー。」名前を呼ばれてビリー・ザ・キッドは驚いた。この不思議な女は誰だ?
ジョアンナは一瞬で霧になって姿を消し、ビリーの背後に現れた。「これで...楽になれるわ。」ジョアンナの牙がビリーの首に刺さり、うっすらと血が湧き出る。「痛みなんかないのよ。甘美な快感に包まれるはずだわ。だって私はヴァンパイア・クイーンですもの。」
決戦を前にして
ロンドン、ゴダルミング家の屋敷。
「旦那様、ロンドン市警から呼び出しの電話がありました。当家の護衛2名と女中1名の死体がリージェンツ・パークで発見されました。遺体の引き取りに警察の遺体安置所まで来るようにとのことです。」執事が手短に伝えた。
「ハイゲイト墓地に行かなければならないが、放置はできないな。ぼくは警察署に行ってから、あとで合流する。みんなは先に行っててくれ。」そう言うとアーサーは下男を5人引き連れて警察署に向かった。
「墓石だらけだから身を隠す場所には困らないわね。」エミリーがあたりを見渡した。
「だが奴らは夜目が利く。片やわれわれは闇に閉ざされる。」ヘルシングは腕組みをした。
「照明弾を使うしかない。」セワードはノートに記録した。
「敵は私が掃射する。」エミリーは背嚢から大きな銃器を出した。
「それは?」ヘルシングが興味を抱いた。
「コルト・ブロウニングM1895。特注の小型改良型。できたてのほやほやよ。アメリカを出るときに納品されたの。試し打ちがまだなのでちょっと見ててね。」エミリーは腹ばいになると、地上に固定した機関銃を撃った。ダダダダっと数百発の弾丸が数秒のうちに発射された。
「すごい威力だな。」セワードが驚いて感心した。
「いまのはふつうの弾丸だけど、ヴァンパイア相手にはこれ、ゴダルミング家の財力に任せて作ってもらった銀の弾丸。1000発あるわ。」
「これなら連中もひとたまりもあるまい。」ヘルシングは満足そうに微笑んだ。
「準備もいろいろあるのでいったん屋敷へ戻ろう。」セワードが促した。
ケンジントン、クイーンの館。
「みんな集まって!」ジョアンナの呼びかけに一同は広間に集まった。
「新しい仲間ができました。」ビリーはジョアンナに促されて前に出た。
「さあ、自己紹介なさい。」
みんなの興味の視線が集まる中、ビリーは気まずそうに自己紹介した。
「ビリー・ザ・キッドと呼ばれていた。アメリカ西部でガンマン、つまりアウトローをやってた。保安官に追われているところをクイーンに助けられた。得意技は早撃ちだ。よろしく頼む。」
バイロンとワイルドが握手のために手を差し出した。カロリーヌとエイダは気後れして固まっている。「みんな仲良くしてあげてね。」クイーンが微笑んだ。
ロンドン市警、遺体安置所。
「ロンドン市警のフリードマン警部です。ゴダルミング卿、お呼び出しすることになって恐縮です。」
「いえ、家の使用人たちですから来るのは当然です。遺体はどんな状態ですか?」
「失血死です。大量の血液を失っています。みんな首に噛み跡のような傷が残されていました。」
「考えたくないが、やはりヴァンパイアの仕業でしょうか?」
「断定はできませんがその可能性が高いと思われます。だとすると、もう警察の手に負える事件ではありません。」警部は残念そうに下を向いた。
「我が家にはヴァンパイア・ハンターとして高名なヴァン・ヘルシング教授が滞在しています。彼ならば必ずや事件を解決してくれるものと確信しています。」
「おお、それならば...」警部は安堵したように息を継いだ。
「遺体は下男たちに運ばせます。近日中に手配して葬儀も済ませます。」
ケンジントン、クイーンの館。
夜の作戦に向けて広間に集まっている一同に向かって、クイーンが目を輝かせながら言った。
「みんな、聞いて!あの娘、兄の目の前で殺してやろうと思ったけれど、もっと楽しいことを思いついてしまったの。」
一同は興味津々でクイーンを見た。
「目の前で殺されるよりもっと残酷な兄への仕打ち、あの子を兄の目の前で眷属にしてやるのよ。」
突然の提案に意表を突かれ、一同は固まった。そして、カロリーヌが前に出た。
「その役、私がやる。殺さないように眷属にしてみせる。ドロレスはあのエミリーの親友よ。こちらの手に落とせば、エミリーの衝撃は計り知れないわ。フランツの仇討ちの前段階よ。お願い、私にやらせて。」カロリーヌの真剣な懇願にジョアンナの心が動いた。
「良いでしょう。やって見せなさい。たとえ失敗して殺してしまっても、それは元の計画に戻るだけ。それほどの被害はないわ。思う存分やりなさい。」
カロリーヌは深く息を吸い込み、決意を固めた。「ありがとう、ジョアンナ様。必ず期待に応えてみせます。」
「では、作戦の詳細を詰めましょう。カロリーヌがドロレスを眷属にする間、バイロンとワイルドは周囲の警戒を担当して。エイダは墓石に隠れて銀の弾丸が飛んでくる方向を目測して。相手は4人、おそらく全員が銃で武装しているはず。エイダが計測した弾道をたどって、ビリー、あなたが撃ち返しなさい。墓石に隠れていても、木の上から狙えば隙だらけよ。私は全体の指揮を執る。」
「了解しました。」一同が声を揃えて応じた。
夜、ハイゲイト墓地。
「約束通り1人で来たぞ。妹を帰せ!」アーサーが怒鳴る。
闇の中からドロレスを伴ったジョアンナとカロリーヌが現れた。
「まあ、律儀に1人で来たのかしら。」ジョアンナは冷たく笑った。
「きっと仲間が隠れているけどね。」カロリーヌが無感情に言った。
「あなたが妹の代わりに人質になるの?」ジョアンナは挑発した。
「それが望みなら、かまわん、私を連れて行け!」アーサーは毅然と答えた。
「ふふふ、ドロレスが帰りたがっているなら、それも良いわ。」ジョアンナが目配せした。
「あっ!」ドロレスが短い悲鳴を上げた。カロリーヌの小さな牙がドロレスの白い項に突き刺さった。崩れ落ちそうになるドロレスをカロリーヌは抱きかかえて支えた。
「やりました、ジョアンナ様!」口角からうっすらと血を流しながらカロリーヌは微笑んだ。
何が起こっているのか理解できないアーサーは、飛び込んでドロレスを奪還しようとしたが、一瞬遅く、ドロレスはカロリーヌに抱きかかえられながら後方へ飛んだ。
ハイゲイト墓地の戦い
「ドロレス!」アーサーの叫びは、夜の墓地にむなしく響いた。彼は銃を抜き、ジョアンナとカロリーヌを睨みつけた。「貴様ら、一体何をするつもりだ!」
ジョアンナはせせら笑った。「見ての通りよ、愚かな兄さん。あなたの可愛い妹は、これから私たちの仲間になるの。」
カロリーヌは、恍惚とした表情でドロレスの首筋を舐めた。「大丈夫、魔血球が入り込んでいるわ。」血の味でそれを確認すると、カロリーヌはさらに後方に下がった。
その時、背後の墓石の陰から、エミリー、ヘルシング、セワードが現れた。エミリーはコルト・ブロウニングM1895を構え、銃口をジョアンナたちに向けた。
「動くな、ヴァンパイアども!」エミリーの気迫あるな声が墓地に響き渡る。「その娘から手を離せ!」
セワードは懐から照明弾を取り出し、空高く放り投げた。夜空に閃光が広がり、墓地全体を明るく照らし出す。エミリーの機関銃が火を噴いた。
「くっ、これはまずいわね。」ジョアンナの顔に焦りが浮かぶ。「ビリー!あれを何とかして!」樹上からビリーのリボルバーが火を噴いた。弾はエミリーの近くの墓石にあたり、跳弾がジョアンナのもとへ跳んできた。エミリーは態勢を整えると、銀の弾丸を雨のように掃射した。
「撤退よ!被弾した仲間を連れてここから離脱して!」ジョアンナは大声で叫ぶと、被弾したドロレスを抱いて風のように立ち去った。ヴァンパイアで無力化されたのは、他にバイロンとワイルドだった。エイダとビリーが彼らを抱きかかえて離脱した。
ケンジントン、クイーンの館。
「無力化された仲間から速やかに銀の弾丸を摘出しなさい!」ジョアンナの指示が飛ぶ。
「眷属になったばかりなのに無力化されるなんて...」ドロレスから弾を摘出しながら,カロリーヌは彼女を撫でた。「自分が初めて眷属にしたからかな、敵の妹だったけれど、少し情が湧いてきちゃった。」
「このままではまずいわね...」ジョアンナは歯がみして呟いた。「あの機関銃を何とかしないと。」
「ジョアンナ様、あの機関銃に対応する良い方法があります。」エイダが進み出て具申した。
「最新の科学ニュースによると、ポーランドの司祭が防弾チョッキなるものを発明したそうです。シルクの層を重ねることで銃弾の衝撃を吸収する仕組みです。これをロンドン市内の複数の仕立屋に発注して、一番性能の良い布を用いてわれわれのマントにするのです。」
ジョアンナは,エイダを眷属にしたバイロンの慧眼に感謝した。次世代の科学を作り出す女、敵にすれば恐ろしいが、味方にすればこれほど頼もしい存在はない。「わかったわ、では仕立屋への発注をお願いできるかしら。シルクと防弾の仕組みもあなたが最もよく説明できるでしょうから。」
ゴダルミング家の館。1人の黒髪の少女が女中に取り次ぎを頼んでいる。
「旦那様、東洋人の乙女が面会を望んでいます。ベイカー・ストリートの探偵ホームズ氏の紹介状をお持ちです。」執事がホームズの紹介状を手渡した。
拝啓
貴殿の邸宅に、高名なるヴァン・ヘルシング教授が滞在しておられるとのこと、承知いたしました。現在、貴家が直面するするであろう特別な問題に対処するため、教授の 卓越した知識と経験が不可欠であると拝察いたします。
つきましては、微力ながら、教授の助手として、若いながらも特別な才能を持つ女性をご紹介させて頂きたく、筆を執った次第でございます。その名は御巫翡翠(みかなぎ ひすい)と申します。 東洋の新興文明国として頭角を現している日本という国から ロンドンにに留学中の身であり、 の血筋と鍛えられた技術から、特別な資質を備えた存在です。翡翠嬢は、古い家系に伝わる調伏術の継承者であり、数々の困難な局面で冷静さと高い判断力を発揮してきました。その洞察力と毅然とした態度は、貴殿の知るべき人物として極めて重要であることを確信しております。また、彼女の霊的知識や文化的背景は、我々の協力関係をさらに豊かにするでしょう。
つきましては、もし可能であれば、翡翠嬢に貴家にて一時的な滞在と、ヘルシング教授への協力の機会を与えて頂けないでしょうか。彼女の才能が、貴家の問題解決の一助となることを願ってやみません。
敬具 シャーロック・ホームズ 221B ベーカー街
読み終わったアーサーは、その娘を丁重に案内するように執事に命じた。
「初めまして、御巫翡翠と申します。巫女という職業なのですが、何と説明すべきかしら、プリーステス...、いえここはむしろ古代ギリシャ風に、ヒエロファントでしょうか。」
「ホームズ氏とはどこで知り合われたのですか?」アーサーはにこやかに尋ねた。
「父が元々ホームズさんと知り合いで、私が渡英することになったので、手紙を書いて引き合わせてくれたんです。」
「われわれは恐ろしい魔物と戦っている。怖くはないのかね?」ヘルシングが尋ねた。
「うちの家系はそもそもが長い歴史の中で魔物と戦ってきたのです。魔物に対抗するための技術や方法は存じております。必ずやお力になってみせましょう。」翡翠は力強く宣言した。
ミナの怒り、翡翠の飛翔
ロンドン市立病院、ミナが入院している病室。
「ミナさん、お邪魔します。」オンブリーが心配そうな表情で病室に入ってきた。手には白い花束が握られている。
「あ、オンブリーさん、まあ、わざわざありがとうございます。」ミナはベッドの上で少し体を起こし、弱々しく微笑んだ。顔色はまだ青白いが、数日前の悲劇を乗り越え、いくらか落ち着きを取り戻したように見える。
オンブリーは花束を丁寧にベッドサイドのテーブルに置き、「当然のことです。ハーカー様のご訃報に接し、いてもたってもいられなくて。奥様のお身体がご心配で……」と、声を詰まらせながら言った。
ミナは目を伏せ、かすかに首を振った。「ご心配をおかけして申し訳ありません。まだ、信じられないような気持ちで……ジョナサンが、もういないなんて。」
オンブリーはそっとミナの手を握った。「今は何も考えず、ゆっくり休んでください。必要なものがあれば、遠慮なくおっしゃってください。私にできることなら、何でもいたします。」
ミナはオンブリーの温かい手に、少しだけ力を込めて握り返した。「ありがとうございます、オンブリーさん。あなたのそのお気持ちが、何よりの慰めになります。でも悲しみの淵に沈んでいるわけにはいきません。私の心を満たしているのは悲しみではないのです。」
「とおっしゃいますと?」オンブリーは不審そうにミナを見つめた。
i957541/
「怒りです。夫を殺し子どもも殺した得体の知れない敵に対する抑えきれない怒りの感情が私を満たしています。生まれて初めてこんな強い怒りを自覚しました。夫の首に噛みついて命を奪ったあの魔物のような女を放置してはおけません。こんなところで休息しているわけにはいかないのです。外に出て、武器を手に取って、探し出して、必ず殺してやらなければなりません。たとえ差し違えることになっても...」激しい感情の高まりでミナの脈が上がり、息が切れ、苦しそうに咳き込んだ。「ミナさん、落ち着いて!」オンブリーはナースを呼んだ。
ケンジントン、クイーンの館。
「ねえ、ドロレス、気分はどう?」カロリーヌはベッドのドロレスに優しく尋ねる。
「死んでいたみたいな気分よ。」ドロレスは力なく答える。
「今も死んでいるようなものだけど...」カロリーヌは言葉を濁した。
「なんだかすごく喉が渇くの。」
「わかるわ、その感覚。でも今はまだあれは無理。とりあえず赤ワインで喉を満たしなさい。」カロリーヌはワインを注いだ。
「よう嬢ちゃんたち。」ビリーが顔を出した。
「俺も喉の渇きが我慢できないんだ。外で満たしてきても良いかな?」
「クイーンに訊いて。勝手に外に出ると怒られるわよ。」カロリーヌはビリーを睨んだ。
ゴダルミング家の館。
「では、御巫様、この部屋を使ってください。必要なものがあれば遠慮なく女中に言ってください。」執事が翡翠を部屋に案内した。
「ありがとうございます。では少し外出してもよろしいでしょうか?戦いや巫術の道具を市中の自室に置いてますので。」
「ならば護衛を付けましょう。」
「いえ、大丈夫です。たとえ素手でも後れを取ることはありませんし、式神を展開すれば事前に敵の動向がわかります。こう見えて私、なかなかの手練れなんですよ。」翡翠は力強い笑顔で答えた。
ロンドン、イーストエンド。
「よお、東洋の姉ちゃん、俺たちと飲まねえか?」酔っ払いが翡翠に声をかけた。
「お誘いありがとうございます。でも急いでおりますので。」翡翠は笑顔で通り抜けようとした。
「おっと、待ちな!通り抜けはできねえぜ。」酔っ払いが立ち塞がった。
「通して頂けないと?」
「やることやってからだな。少し時間がかかるぜ。俺ら3人なもんでな。」酔っ払いは下卑た笑顔で翡翠に迫る。
「仕方がありませんね。少し痛いかもしれませんよ。」翡翠は笑顔で身構えた。
酔っぱらいは3人揃って翡翠に飛びかかった。が、翡翠はそこにいなかった。細道に並ぶ建物の壁の上に、いや上にという日本語の前置詞では表現できない、on the wall すなわちまるで壁に重力があるかのように、横向きに立っていたのだ。酔っぱらいたちは目を疑った。翡翠は優雅に宙を舞い、酔っ払いの頭を踏みつけた。踏んだ勢いでまた宙に舞い、次の酔っ払いを踏みつける。こうして酔っぱらいたちは全員その場に倒れた。翡翠は何事もなかったかのようにその場を後にした。
ケンジントン、クイーンの館。
「なあ,クイーン。外に出かけて喉を潤わせても良いか?」ビリーは尋ねた。
「あなた1人では心配ですね。エイダと一緒に出なさい。それからその服装、さすがに目立ちすぎです。この時代のイギリスの恰好をしてください。エイダが手配したマントも完成しています。それから、ピストルは置いていきなさい。銃声で余計な騒ぎを起こすべきではありません。ここはアメリカ西部ではないのです。」
ロンドン、ブルームスベリー。ロンドン大学キャンパスの近所。
「む、面妖な衣装。東洋人ですか?」ワイルドが翡翠の前に立ちはだかる。
「おや、これは奇妙な息づかい。人ではありませんね?」翡翠は印を切って霊気を高めた。
「そちらは人ですね。狩られる存在。」ワイルドが距離を詰める。
「丸腰のときに逢いたくはありませんでしたが。」翡翠は距離を取る。
「我の糧となるが良い!」ワイルドが仕掛けた。
「甘い!」翡翠は大地を蹴って飛翔し、ガス灯のてっぺんに着地した。
「ちょこまかと...」ワイルドは跳躍して翡翠に飛びかかる。
「無駄ですよ。」翡翠は跳躍の動きも見せずにガス灯の上から姿を消し、遙か彼方の建物の屋上に着地した。「いまは丸腰なので、今度ゆっくり相手をして差し上げましょう。オ・ルヴォワ、ムッシュー!」翡翠の姿はどんどん小さくなった。
ともに戦力増強
「こんな窮屈な格好をしなければならないのか、イギリス人は?」ビリーはマント姿に馴染めない。
「郷には入れば、というやつです。」エイダはいつも冷静だ。
「丸腰というのもなんだか不安だ。」ビリーの手はふだんガンホルダーがある場所でふらふらしている。
「ジョアンナ様も言ってました。ここはワイルドウェストではないのです。銃声はすぐに何十人もの警察官を動員することになります。」
「どうせ食うならやっぱり女が良いな。街娼なら簡単だし足も付かねえだろ。」
「お好きにどうぞ。私は見張っています。」
ケンジントン、クイーンの館。
「ねえ,カロリーヌ、私は死んでいるの?」ドロレスが尋ねる。
「死の向こう側ってバイロンは言ってたよ。」
「死の向こう側か。戻っては来られそうもないわね。」
「もう死ぬことも歳をとることもないのよ。」カロリーヌはドロレスの手を取った。
「でも、満たされない乾きがあるの。」
「そうね、ジョアンナ様に相談しましょう。いつまでも赤ワインでごまかすわけにはいかないもの。」
ゴダルミング家の館。
「ドロレスの行方はまだわからないのか?」アーサーは苛立っていた。
「警察にも協力を要請しています。ロンドン中を大捜索しています。」執事が答えた。
「くそっ!もし外国にでも連れ出されたら...」
「外国よりもっと遠いところに連れ出されたかもしれん。」ヴァン・ヘルシングが入室した。
「もっと遠いところ?」アーサーは訝しげに反復した。
「死の向こう側だ。」ヘルシングは躊躇なく言った。
「どういうことです?」アーサーは色めきだった。
「アンデッドだ。もう人間には戻れない。」
「そ、そんな...」アーサーは崩れ落ちた。
「残酷だが受け入れるしかない。アンデッドは救いようがない。」
「滅するしか方法はないのですか?」アーサーは涙ながらに尋ねた。
「滅するより残酷な結界への幽閉もあるにはあるが、何の希望もない。」
ケンジントン、クイーンの館。
「みんな集まって!」クイーンの号令にヴァンパイア一同は集合した。
「ワイルドの報告によると敵は新たな戦力を手に入れた模様です。東洋の巫術師。驚異的な身体能力と計り知れない霊力。丸腰でワイルドの攻撃をかわして離脱したとか。」一同はざわめいた。「そこで考えがあります。敵は戦力を拡大しました。われわれも補充しましょう。今までとは違って、見境なく数を増やすのです。低い階梯の眷属を増殖して敵陣へ突入させます。」一同はますますざわめいた。「静かに!」ジョアンナの一喝でバハ水を打ったように静まりかえった。低い階梯の眷属を館に入れるわけにはいきません。バイロン!あなたには兵隊たちの兵営となる場所を手配してもらいます。中心部からあまり離れていない廃墟が良いでしょう。お願いできますか?」
「お任せください、ジョアンナ様、ついでに兵隊も何人かご用意いたしましょう。」バイロンは口を閉じたまま舌なめずりをした。
「バイロンが兵営を準備でき次第、みなさんには兵隊を作って頂きましょう。選り好みしないで誰でも良いから数を増やしてください。お腹いっぱいになってしまいますね。」
ロンドン市立病院。
「ミナ・ハーカーさん、退院です。おめでとうございます。」医師がミナを祝福する。
「ありがとうございました。ここでの恩は忘れません。これで私も自分が成すべきことに専念できます。」ミナは拳を握りしめた。
ゴダルミング家の館、翡翠の自室。
「さて、準備を整えることにしましょう。」翡翠はベッドの上に道具を並べる。
「まず浄化の刃ね。代々伝わる悪霊を滅する小太刀。投擲武器は神月刃、これにも霊力が込められているわ。沈黙符と封印符、呪文を封じたり特殊攻撃を封じる護符ね。そして、敗色が濃くなったときのための離脱符。これで仲間全員とともに離脱できる。」
ロンドン、イーストエンド。地元の不動産屋。
「このあたりの廃屋ですか?何に遣うんで?」不動産屋は胡散臭そうな目でバイロンを見る。
「倉庫と人足部屋です。西アフリカからたくさん人足を雇い入れたので。」
「なるほど、奴隷部屋ってやつですか?」
「いや、そういうわけではありませんよ。人数が増える予定なので面積が欲しい。」
「なら、この物件なんかどうです?簡易寝台に寝る人足なら100人は収容できますよ。」
「なるほど。では現物を拝見してから決めましょう。」
ロンドン、リージェンツ・パーク。
「初めてなんだから無理しないのよ。」カロリーヌはドロレスの手を握る。
「大丈夫、私、あなたの眷属だから。」ドロレスは微笑み返す。
「あの子、行けそうよ。」カロリーヌが犬を散歩させている少女を指さす。
「わかった。行ってくる。」ドロレスは霧になって少女の背後に回った。
「がんばれ!」カロリーヌは祈った。
「え?」少女が異変を感じて振り返った。しかしその瞬間ドロレスの牙が少女の喉に突き刺さった。湧き出る鮮血はすべてドロレスの糧となった。
下級兵隊製造作戦
ドロレスが初めての狩りを成功させた瞬間、彼女の中に新たな感覚が芽生えた。少女の血を吸い終えたドロレスは、ふらつきながらもカロリーヌの元へ戻った。
「どうだった?」カロリーヌが優しく問いかける。
「すごく...満たされた気分。でも同時に、何か大切なものを失ったような気もする。」ドロレスは目を伏せた。
「それがヴァンパイアとしての宿命よ。満たされるたびに、少しずつ人間だった頃の感覚が薄れていくの。」カロリーヌは彼女の肩に手を置き、そっと支えた。「でも、それが死の向こう側に行くということなのよ。あなたはヴァンパイアとしての階梯が上がった。誇るべきことよ。」
犬の吠え声が聞こえた。大型の猟犬だ。血の臭いに反応したのだろう。面倒なことになる前にここを離脱しなければならない。
「良いこと、ドロレス、狩りの後は狩られる可能性が高いの。満腹で油断しているからね。覚えておきなさい。狩ったらすぐ離脱。」カロリーヌは、転生したときの年齢はドロレスより下なのに、すっかりお姉さん、いやお母さん気分だ。
ケンジントン、クイーンの館
「バイロン、廃屋は確保できましたか?」
「はい、イーストエンドにかなり大きな物件がありました。」
「何人ぐらい収容できそう?」
「100人は行けます。地元の大工に頼んで簡易寝台も制作中です。」
「あのあたりで殺人事件が頻発することになるわね。」
「元々治安が最悪な地区ですから、しばらくは目立たないでしょう。」
ゴダルミング家の館。
「旦那様、ミナ・ハーカー様という女性がお越しです。」執事がミナの来訪を告げる。
「おお、すぐに丁重にお通ししてくれ。大切な友人だ。」
「お久しぶりです、アーサー。それともゴダルミング卿と呼んだほうが良いのかしら?」
「アーサーで良いさ、ミナ。本当に...大変な目に遭ったね。」アーサーは気遣った。
「あなたこそ、妹さんがさらわれて...」
「おお、来たか、ミナさん。」ヘルシングが入室してミナを抱きしめた。
「教授、お会いしたいと思っておりました。」
「ドラキュラ討伐のとき、君のタイプライターの記録にはとても助けられた。時系列で出来事を整理し、複写して全員で共有する。まさに情報戦の要だった。」
「今回もお役に立てると信じてタイプライターを持参しました。ししてこれも。」ミナはレミントン・タイプライターの隣にモーゼルC96を2丁並べた。
「ミナさん、君は...」教授はそれを見て絶句した。
「私も戦います。戦わなければならないのです。」ミナの気迫に皆が圧倒される。「目の前で夫を殺されました。目の前でジョナサンが血の海に沈んだのです。あの女を生かしておくわけにはいきません。必ず...必ず殺してやります!」アーサーもヘルシングもこんなミナを見たことはなかった。静かで理知的で決して取り乱さない、頼りがいのある銃後の女...だったはずだ。
「わかりました。最大限協力しましょう。」アーサーが手を差し伸べた。「及ばずながら私もだ。」教授もミナの手を掴んだ。
ケンジントン、クイーンの館。
「兵隊の数は今何人かしら?」ジョアンナが一同に尋ねた。
「25名です。」エイダが記録を見ながら答えた。
ジョアンナは眉間に皺を寄せた。
「まだ少ないわね。低い階梯の眷属をもっと増やさしてください。質より量よ。あの西部劇女の機関銃に対抗するには数で蹂躙しなくては。弾丸の雨に対抗できない。」ジョアンナは冷徹な目で周囲を見渡した。「エイダ、今夜中にさらに10名増やせる見込みはある?」
「はい。街娼やホームレスを狙えば効率的です。」エイダは冷静に答えた。「下層の者たちは行方不明になっても注目されにくいですし、簡単に取り込めます。」
「いいわ。バイロン、廃屋の兵舎はどうなっていますか?」ジョアンナが振り返る。
「イーストエンドの廃屋はほぼ整いました。寝台も完成間近です。」バイロンは静かに報告した。
ジョアンナは椅子に座り直して皆に告げた。「万全の態勢で挑みましょう。数の暴力で敵を蹂躙します。敵の弾丸が尽きるまで下位の眷属の波が襲いかかる。敵が弱体化したところで私たちが各個撃破。こちらに犠牲者は出させません。あの男、エイブラハム・ヴァン・ヘルシングだけは私自らがこの手で葬り去ります。誰も手を出さないように。」
イーストエンド、路地裏。
「ドロレス、準備は良い?」カロリーヌがドロレスの目を見る。
「大丈夫、きっと上手くやってみせる。」
酔っ払いが街娼と交渉している。なかなか値段の折り合いが付かないようだ。酔っ払いが街娼の乳房を掴み、街娼が酔っ払いを平手打ちする。そのとき2人の背後にドロレスとカロリーヌが現れた。
「酒臭いわね。」カロリーヌの牙が酔っ払いの首に突き刺さる。
「白粉臭い!」ドロレスは顔をしかめて街娼の首に牙を突き立てた。
「あ...!」ドロレスの顔が青ざめた。「しくじった...」街娼の首から鮮血が噴き上がる。「殺しちゃった...私...また失敗した。」
「気にしないの。相手が悪かったのかもよ。」カロリーヌは笑顔でドロレスを慰めた。
そのとき犬の吠え声と警笛が鳴り響いた。巡回中の警察だ。
「逃げるわよ。」と言いつつカロリーヌはエーテル体になった。
「待って!」ドロレスはうまく変身できない。
「動くなっ!」警官がピストルを構えて近づいて来た。ドロレスはうろたえたが、牙をむき出しにして威嚇する。警官は躊躇うことなく発砲した。しかしドロレスは倒れない。訝しがる警官が2発目を撃とうとしたそのとき、カロリーヌが背後から警官を捕らえた。「ドロレス、今よ、こいつの血を吸いなさい!」ドロレスの細い牙が警官の喉に突き刺さる。今度は鮮血が噴き上がることもなく、吸血は成功した。警官は新たな兵士になった。
イーストエンドの死闘
ケンジントン、クイーンの館。
「バイロン、兵士の数は何人ですか?」クイーンは尋ねた。
「55人でございます。」
「順調に増えていますね。ところでバイロン、兵士の中に知性があるものはいますか?」
「はい、ドロレスが仕留めた警官のほか数名は意思疎通が可能です。」
「なるほど。ではその者たちを見張りに出すことにしましょう。ゴダルミング家の出入りを探らせるのです。エイダが定期的に報告を受けることにしましょう。ひょっとしたら単独で外出したところを襲うことができるかもしれません。」
「了解しました。さっそく見張り部隊を編成して現地へ送ります。」
「出先で決して吸血などさせないよう厳重に注意するのですよ。」
「はい、魅了のスキルを磨き上げたら服従のスキルができあがりましたので、命令に背くことは絶対にありません。」
「それは頼もしいですね。」ジョアンナは満足げに頷くとエイダに尋ねた。「見張り部隊の報告はどれくらいの頻度で受け取れるのかしら?」
「午前10時と午後3時に行ってきます。記録から法則性を見つけ出せればと考えています。」
「素晴らしい。ゴダルミング家の動向を把握することが、次の一手を決める鍵になるでしょう。」クイーンは一同を見渡しながら続けた。「そして、もし翡翠やエミリーが単独で動いているのを見つけたら、即座に報告するように。彼女たちは我々にとって最大の脅威です。決して安易に仕掛けないように。」
「承知しました。」一同は口を揃えて返事した。
「それから、ドロレス。」クイーンは彼女に目を向けた。「あなたの成長は目覚ましいわ。だが、まだ未熟な部分もある。カロリーヌ、彼女の訓練を続けてちょうだい。彼女の血筋は貴重なの。きっと素晴らしい戦力になります。」
「もちろんです、クイーン。」カロリーヌは微笑みながら答えた。「ドロレス、頑張りましょうね。私がついている。」
「はい、ジョアンナ様のためにも頑張ります。」ドロレスは小さく頷いた。
ゴダルミング家
「敵の情報は何も出ていないのか?」ヘルシングは焦り気味に尋ねた。
「具体的には何も。でも最近イーストエンドで不審死や消息不明者が増えているようです。」ミナが整理した記録の束を見ながらセワードが答えた。
「たしか敵の数はクイーンを含めて7名だったはず。そんなにたくさんエサが必要だとは思えないが。」ヘルシングは腕組みして考えている。
「増えたのでしょうか?」ミナが不安げに推察した。
「確かに連中は好きなだけ増殖できる。」そう言ってヘルシングははたと気がついた。
「そうだ、増殖だ。やつらは兵隊の数を増やしているのかもしれん!」
「怪しいのはイーストエンドですね。」記録に目をやりながらアーサーが言った。
「調べてみる価値はありますね。」セワードが顔を上げた。
「だが単独行動はいかん。必ず3人以上で行くことだ。」ヘルシングが念を押した。
「では私と...」セワードが手を挙げた。「護衛に私がつく。」エミリーが続いた。「私も参りましょうか?」翡翠が手を挙げかけたがヘルシングが制した。「いや、君は残ってくれ。エミリーと君が2人抜けると屋敷の防御が手薄になる。」アーサーは冷静に戦力を分析した。「私が参ります。」ミナが手を挙げた。「まだ実戦も経験していませんし、早くこれにも慣れなければ。」黒光りするマウザーC96がテーブルの上に置かれた。
ゴダルミング家の屋敷から200mほど離れた街角。
「セワードとエミリーとミナが外出ですか。わかりました。」エイダが元警官のヴァンパイアから報告を受けた。「では引き続き張り込みをお願いします。生前のスキルが活かせますね。」
ケンジントン、クイーンの館。
「ジョアンナ様、セワードとエミリーとミナがイーストエンドへ向かいました。」エイダが報告する。
「そうですか。では直ちに対応しましょう。良いですか、決して被害は出さないように。仲間が無力化されたら、すぐに抱きかかえて退却です。良いですね。今回の作戦の目的は、敵を1人確実に潰すこと。多くを望んではいけません。1人ずつ潰されたほうが,心理的ダメージは大きいものです。メンバーは、銃撃戦になるでしょうから、ビリー、期待してますよ。そしてスピードに長けているサロメ、敵を翻弄しなさい。最後に隊長として、バイロン、全員を無事に連れ帰ってください。」
「了解しました。お任せください。」3人は口を揃えて答えた。
イーストエンド、路地。夕暮れの薄明。ホームレス、酔っ払い、街娼、そして明らかに目つきの悪いアウトローがたむろしている。饐えた匂いが混じる湿った空気。長居すれば病気になりかねない。
「このあたりかしら。」ミナが周りを見渡しながら呟く。
「間違いないな。ダウジングが反応している。」セワードは銀の十字架を先端に付けた特性のダウジングマシンを操っている。
「出てきたらぶち殺してやる。」エミリーは拳銃を抜いた。
「きょうはあの大きな機関銃ではないのか?」セワードが尋ねる。
「さすがにコルト・ブロウニングM1895を持って町中を歩くわけにはいかないわ。きょうは通常のガンマン・モード、コルト・シングルアクション・アーミーよ。ピースメーカーという皮肉な愛称で呼ばれてるの。」エミリーは二丁拳銃で華麗なガンスピンを決めた。
そのころバイロンたちも動き始めていた。廃屋の屋根に登ったサロメが影のように俊敏に動きながら敵の位置を確認する。ビリーは路地の壁の後ろに隠れて狙撃のチャンスを狙っていた。「1人だけで良い。確実に潰す、それがクイーンの命令だ。」バイロンは2人に指示を出す。
ダウジングが激しく動いた。「来るっ!」セワードが叫び銃を抜く。エミリーが前に出て発砲した。屋根の上だ。サロメは気配を読んで跳躍し、道を挟んだ別の屋根に飛び降りた。このときセワードのガードが薄くなった。ビリーはその隙を狙った。物陰からの正確な射撃。セワードは倒れた。
「くっそー!」エミリーは二丁拳銃で弾幕を張りながら弾道の元へ迫る。そして、逃げようと飛び出してきたビリーとかち合う。
「ふっ、お姉ちゃん、俺と撃ち合おうっていうんだな?」ビリーは西部の決闘を思い出していた。百戦錬磨のバンディット・キング、その貫禄はエミリーを圧倒した。
「いかん、ビリー、退却だ!」バイロンが割って入ってビリーを抱き上げ宙に跳ぶ。それを追ってサロメもバイロンの隣に跳躍する...はずだった。
「許さない。逃がさない。殺す。殺してやる!」ミナがマウザーC96をサロメに向けて乱射した。「死ねっ!死ねっ!死ねっ!」1丁10発、合計20発の銀の弾丸がサロメの身体をハチの巣にした。そして跳弾がビリーの足の甲を貫いた。
「むうっ、これまでか。」バイロンはビリーを小脇に抱えその場から離脱した。
「セワードさん!」ミナはセワードに駆け寄った。
「ミナさん、どうもこれでお終いのようだ。私は医師だ。これが致命傷であることはわかる。アーサーとヘルシング先生によろしく伝えてくれ。」セワードは絶命した。
遺体を運ぶためエミリーが辻馬車を連れてくる間、ミナはサロメの身体を調べていた。杭がないのでとどめを刺せない。いやがる御者に倍の運賃を払って、動かなくなったセワードとサロメを乗せて,2人はゴダルミング家へ悲しい家路を急ぐのだった。
戦いの狼煙
ゴダルミング家の館。
「くっ、行かせるんじゃなかった!」アーサーは涙を拭った。
「ジョン・セワード君、君は最高の弟子だった。」ヘルシングは黙祷した。
「私がもっと早く気づいていたら...」エミリーは唇を噛んだ。
「それを言うなら私もです。」ミナも目を閉じて悔しさをにじませた。
「執事を教会へ遣わせた。聖職者がすぐにに来て通夜の準備に入る。」涙を拭いながらアーサーは当主としての役目を果たす。
「で、あの女ヴァンパイアだが....」ヘルシングは裏庭のほうを指さした。
「私が杭を打ちます。」ミナがきっぱりと言った。
「そうだな。君が処理するのがふさわしい。任せよう。」ヘルシングが頷いた。
ケンジントン、クイーンの館。
「どうしたのです、バイロン。なぜサロメを置いてきたのです?」クイーンはバイロンを詰問する。「必ず全員揃って帰還しろと命じたはずです。」
「申し訳ありません。ですが...あのミナ・ハーカーがあれほどだとは予想外でした。まさに鬼神、鬼です。激しい連射で一瞬にしてサロメをハチの巣にして、それからビリーも無力化されました。ミナ・ハーカーの隣には、あの女ガンマンも控えていました。すぐに離脱しなければ私も無力化され、誰1人として帰還することはできなかったと思われます。」
ジョアンナは唇を噛みしめた。「おのれ、人間どもめ、下等種が生意気に...。」
「ジョアンナ様、兵隊の数が76名になりました。ドロレスとカロリーヌの活躍の賜です。2人で毎日10人以上の眷属を増やしています。」
それを聞いてジョアンナの顔が明るくなった。「そうですか、ドロレスとカロリーヌがそこまで成長しましたか。ならば....ここで一挙に攻め込みましょう。兵隊76人、果たして凌ぎきれるか。1人でも2人でも襲撃に巻き込まれて死んでくれれば良いのですが、戦況が悪化したら兵隊を捨てて退却します。なに、兵隊は無尽蔵に作れますからね。」ジョアンナは残酷な微笑みを浮かべた。
イーストエンド、兵舎となった廃屋。
「そろそろ突撃か。」無気力な下等ヴァンパイアが呟いた。
「鉄砲玉だからな、俺たち。」元酔っ払いのヴァンパイアが愚痴った。
「喉が渇いた。血が吸いたい。」元娼婦のヴァンパイアが牙をむき出しにした。
「あいつら脳みそがなくて良いな。」下等ヴァンパイアが知性のない一群を指さした。
「突撃になったら俺たち死ぬんだろ?」元酔っ払いが言った。
「ふん、死人が何言ってるんだい。」元娼婦が毒づいた。
「まあ確かにな。」元酔っ払いは納得した。
「どうせ消滅するなら思いっきり血を吸いてえ。」下等ヴァンパイアが兵舎の外を指さした。
「行くかい?」元娼婦が煽る。
「怒られたってかまやしねえ!」元酔っ払いが立ち上がった。
数時間後、イーストエンドは戦場になった。警官隊と下級ヴァンパイアの乱闘になったのだ。警察官13名が殉職し、5名がヴァンパイア化した。彼らの武器では下級といえどもヴァンパイアに歯が立たなかったからだ。この事件は、翌日の新聞で大きく取り上げられ、ロンドン中を恐怖に陥れた。
ゴダルミング家の館
「新聞を読みましたか?」アーサーはテーブルに新聞を広げた。
「イーストエンドで警官隊と謎の一群の戦闘。警官が13名殉職、5名行方不明。」
「ヴァンパイアでしょうか?」翡翠がお茶を運んできて言った。
「おそらくな。現場には警官以外の死体が残されていなかった。通常では考えられない。あの界隈にヴァンパイアの巣があると考えるのが妥当だ。」ヴァン・ヘルシングは葉巻に火を付けた。
「きのうセワードの葬儀を済ませたばかりだというのに...」アーサーは顔をしかめた。
「警察の代表者を呼んでくれ。」ヘルシングがアーサーに指示した。
「こちらから行かないんですか?」アーサーは訝しんだ。
「われわれはおそらく監視されているだろう。うかつに外に出れば各個撃破されかねない。外に出るときは全員で決戦に赴くときだ。」
「わかりました。管轄の署長を呼びましょう。」アーサーは電話をしに部屋を出た。
「どうするのです?」ミナが訊いた。
「警察に事情を説明し、うかつに警察官を投入しないよう要請する。無駄な犠牲者を出したくない。それに...この行方不明者、これはおそらくヴァンパイア化したのだろう。大軍を投入すればするほど敵が強大になる。」
ケンジントン、クイーンの館。
「どういうことです、バイロン!」クイーン激しい剣幕でバイロンを問い詰めた。「服従のスキルで制御できていたのではないのですか?なぜ下級兵士が暴走したのです?」
「申し訳ありません。油断していました。やつらもヴァンパイア、血に飢えれば襲いかかります。定期的に連れ出して、目立たないところで少しずつ餌を与えるべきでした。」
「あそこから逃げ出した者はいないのですか?」
「数を確認しました。76名ときのうヴァンパイア化した警官5人、合わせて81名が兵舎にいます。」
「良いでしょう。兵士が増えた結果は上々です。ですが、命令に背いて暴動を起こした兵士には罰を与えなさい。二度と命令違反を起こさないように。」ジョアンナは冷静さを取り戻し、指示を続けた。「それから、ヴァン・ヘルシングたちの動向を引き続き監視しなさい。彼らは次に動くとき、我々を制圧しようとするかもしれません。」
ゴダルミング家の館
「なんですと、ヴァンパイアですか?」署長は驚きを隠せない。
「はい、なので通常の武器では歯が立ちません。13人もの殉職者を出して悔しい気持ちはお察ししますが、これ以上の部隊の投入は控えて頂きたい。無駄な犠牲も出したくありませんし、死ぬより恐ろしいヴァンパイア化という結果も起こりうるのです。今回の行方不明者もおそらく...」ヴァン・ヘルシングは言葉を選び慎重に説得を続けた。
「ではイーストエンド地区を放置しろとおっしゃるのですか?」署長は色をなして反発した。
「いえ、われわれが責任をもって対処いたします。私は長年ヴァンパイア問題に取り組んできたエイブラハム・ヴァン・ヘルシングと申します。私が信用に値するかどうかは、ベイカー街のシャーロック・ホームズ氏に問い合わせて頂きたい。なんなら今すぐここから電話ででも。」ヘルシングは段々なり振り構わなくなってきた。
「わかりました。そのお名前、たしかに耳にしたことがあります。お話も筋が通っていて、受け入れるしかないと確信いたしました。イーストエンドの件、どうかよろしくお願いします。」署長は納得して帰って行った。
「ふむ、これで安心して事に当たれる。諸君、われわれはこれよりイーストエンド浄化作戦を決行する!」ヘルシングは高らかに宣言した。
「では各自、武装の点検をするように。」アーサーの指令で各人は自室からそれぞれの得物を持ってきた。エミリーはコルト・ブロウニングM1895、ピースメーカー2丁、ミナは2丁のマウザーC96、アーサーはウェンチェスター・ライフルとウェブリー・リボルバー、翡翠は小太刀の浄化の刃、投擲武器の神月刃、そしてさまざまな呪符、そしてヴァン・ヘルシングは聖水。聖餅、十字架の教会セット、銀のボウガン、銀のナイフ、最後は特製の銀の杭だ。
「では行こう、イーストエンドへ!」
下級ヴァンパイア掃討戦
ケンジントン、クイーンの館。
「ジョアンナ様、ヘルシングたちに動きがありました。イーストエンドへ向かう模様です。」エイダが報告する。
「あら、決断が早いのね。では私たちは安全な場所から見物することにしましょう。誰か死んでくれないかしらね。」ジョアンナは期待に胸を膨らませた。
「ジョアンナ様、私たちもご一緒してよろしいの?」カロリーヌとドロレスが尋ねた。
「もちろんよ。あなたたちが苦労して集めた兵隊さんたちですもの、戦いを見物する権利はあるわ。」
「俺も行っても良いですか?」足から弾を摘出したビリーが訊いた。
「かまわないけれど、銃は置いて行きなさい。あなた、すぐ撃ちたがるから信用できません。それに、その西部劇の服は脱いでマントを着用してちょうだい。いざというときに銃弾をはじけないから。」
「了解しやした。」ビリーはテンガロンハットを持ち上げて頭を下げた。
「私たちはどうしましょう?」バイロンとワイルドが遠慮がちに尋ねた。
「あなたたちは私たちの後方で退路を確保する役目です。見物はできませんね。我慢なさい。」
「かしこまりました。」2人は黒い執事のように頭を下げた。
ロンドン、イーストエンド。
「だんだん近づいている。」セワードの遺品、十字架付きダウジング・マシンを操りながらアーサーが先導する。
「む、あの建物が怪しい。マシンが引き寄せられるように動いている。」
「大きいな。廃工場か?」ヘルシングが望遠鏡で確認する。
「ともかく近づいてみよう。」アーサーはダウジング・マシンをしまって、ウィンチェスターを構えた。ドラキュラ討伐に持っていったものだ。
建物に近づくと、もはや紛れもなくそこが魔窟であることがわかった。息が詰まるほどの瘴気、魔物の息づかいとうなり声。踏み込めばすぐに戦闘になる。敵の数はわからない。
「式神を放って中の様子を探らせます。」翡翠が懐から和紙を取り出し、器用に鳥の形にして宙に放った。
数分後
「戻ってきました。敵の数は70~80体。すべて下級ヴァンパイアです。」
「私が前衛を務めるよ。」コルト・ブロウニングM1895を構えたエミリーが前に出た。「撃ち漏らしたやつを背後から頼む。」
「中に入ったら聖餅で簡易結界を張るが,長くは持たない。」ヘルシングは教会セットを取り出した。
「私とアーサーが死に損ないを始末します。」ミナが2丁のマウザーC96を構えた。
「私も呪符で援護します。」翡翠は静かな謎の笑みを浮かべた。
「開けるぞ!」息を呑むような緊張の中、アーサーが扉を押し開けた。その瞬間、腐敗した空気が吹き出し、中に潜む下級ヴァンパイアたちの視線が一斉に向けられた。彼らの目は血に飢えた紅い光を放っている。
もはや声とは呼べないうなり声を上げてヴァンパイアたちは一斉に襲ってきた。エミリーの機関銃が火を噴く。20体ほどが倒れたが、その身体を踏みつけながら後続のヴァンパイアたちが襲いかかる。ヘルシングは部屋に入ると同時に結界を構築したが、ヴァンパイアたちはお恐れる様子がない。ミナとアーサーも確実に仕留めているが、敵の数が多すぎて前線が破られそうだ。エミリーの直前まで迫る敵もいる。そのとき翡翠が宙に跳んだ。不思議なことに宙に浮遊している。
「四七の原子、急々如律令!」翡翠の凜とした声が建物内に響き渡り、どうしたことだろう、ヴァンパイアたちが動きを止めてその場に倒れてしまった。
「え?!」顔を見合わせる一同。「何をした?」
地上に舞い降りた翡翠が微笑みながら説明する。「ヴァンパイアは銀に弱いので、銀の呪符を用いて銀の原子を自然界から集めてこの一帯に降らせました。銀の原子番号は47ですから。」
「今のうちに杭を打ち込んで滅ぼしてやりたいが、いかんせん数が多くて手が足りない。」ヘルシングは眉をひそめて考えた。「そうだ、こういうときのための警察だ。彼らも殺された仲間の仇討ちをしたいだろう。警官隊を動員して杭打ちを手伝ってもらおう!」
「それは良いアイディアですね。ではさっそく辻馬車でイーストエンド警察署へ行ってきます。」アーサーはさっそく飛び出した。こういうとき警察に顔が利く貴族は頼もしい。
20分ほどで署長自ら率いる警察官50人の部隊が到着し、ヘルシングの指示のもとでヴァンパイア消滅作戦が開始した。
「ヴァン・ヘルシング教授、殺された仲間の仇討ちの機会を与えて頂き感謝します。」署長は嬉しそうに頭を下げた。
ケンジントン、クイーンの館。
「何ですか、あのざまは!?」ジョアンナの怒りは、そこに並ぶ一同を凍り付かせた。「何ですか、あの東洋の女は?宙に浮いていたではありませんか。鬼になったミナ・ハーカーといい、宙に浮かんで兵団を全滅させる女といい、あの者どもは私たちよりよほど化け物ではありませんか。1人か2人殺してやるつもりだったのに、あちらは無傷でこちらは全滅ですか?人間相手にこのざまですか?バイロン、何か言うことはありますか?」ジョアンナの怒りはやがて八つ当たりに変化した。
「申し訳ありません。敵の戦力、とくに翡翠という東洋の女の戦力を把握していませんでした。」
「あの女なら以前戦ったことがあります。」ワイルドが重い口を開いた。
「何ですって?報告を受けていませんが。」矛先がワイルドに向かってバイロンは少し安堵した。
「戦闘結果にさしたる情報が含まれていなかったからです。戦いを挑みましたが逃げられました。」
「あなたから簡単に逃げおおせるとは聞き捨てなりませんね。どのようにして逃げたのです?」ジョアンナの追求は止まらない。
「それが、飛んで逃げて行きました。いまは丸腰だとかで。」
「飛んだのですか?なぜそれを報告しない!重要な敵情報ではありませんか。忌々しい、役立たずばかりだ。」ジョアンナは憤懣やるかたなしといった目でワイルドを睨んだ。
「ジョアンナ様。」エイダが進み出た。「この女についてですが、シャーロック・ホームズからの紹介でゴダルミング家に入ったようです。ホームズとヘルシングは知己の仲です。」
「しかし、さすがにホームズからあの女の情報を聞き出すのは難しいでしょう。何か方法はないかしら。情報なしに挑むのは危険すぎる。」
「私の限定的な東洋学の知識によりますと...」ワイルドがおずおずと口を開く。「あの出で立ちから、彼女は日本の巫女です。巫女は巫術や陰陽術と呼ばれる魔法を使える神職です。大学の図書館に行けば,ある程度は調べが付くと思います。」
「ならばその役目、ワイルド、あなたに託します。汚名を返上して見せなさい。」
「謹んで承知いたしました。」
オスカー・ワイルドの最後
ロンドン大学東アジア研究所図書館
「だめだ、一般的なことしか書いてない。そもそも巫術についての記載がまるでない。このままではジョアンナ様に会わせる顔がない。どうしたものか?」ワイルドは焦燥感に囚われ顔を覆った。「やはりあの女個人についての何らかの情報を得なければどうにもならない。ここは東アジア研究所だ。だれか彼女を知っている人間がいるかもしれない。」ワイルドは閲覧室から廊下に出た。誰か手頃な情報提供者はいないか?廊下を大学院生か助手ぐらいの年格好の女が歩いてきた。
「失礼、私はオスカル・ソヴァージュと申します。日本の巫術、とくに巫女について調べているのですが...」ワイルドはとっさにフランス人のふりをした。「辞典の類いに当たっても,通り一遍のことしか書いてなくて、具体的な巫術の実践については何もわからないのです。」
「申し訳ありませんが、私は中国が専門なので,日本のことはわかりません。日本のことでしたら、この建物の3階に日本学研究所があるので、そこでお聞きになったらいかがでしょう。」院生らしき女性はにこやかに微笑んで去って行った。
「よし、日本学研究所か。」ワイルドは一抹の希望を抱いて階段を上った。わりと小さなフロアに”Institue of Japanology”の看板が掛かっていた。
「失礼、私はオスカル・ソヴァージュと申し...」ワイルドがそう言いかけると、中にいた中堅の研究者らしい男が、「ふざけたことを言ってはいけないよ。君はオスカー・ワイルドだろう?なんだね、オスカル・ソヴァージュとは?仮にも作家ならもう少しマシな偽名を考えたまえ。ワイルドがソヴァージュだって?中学生か、君は?」と、ケタケタ笑いながらワイルドを指さしたのである。
「たしか君はロンドンにいられなくなってパリに逃げたんじゃなかったのかね?」男はワイルドの恥部をのぞき込むような目で見つめて言った。ワイルドが踵を返そうとすると、背後からその男はとどめを刺しに来た。
「この大学に何を求めに来たんだね?新しいアドニスでも探しに来たのかい?」
ワイルドの殺意は沸騰した。しかしここでこの男を殺せば、もうジョアンナ様に顔向けができなくなる。ワイルドは殺意を押し殺して答えた。
「いや、日本の巫女のことを知りたくて来たんだ。」
「ほほう、君は女性にも興味があるのか。結構結構、良い傾向だよ、オスカー・ワイルド君。日本の巫女か。現物が1人いるぜ。御巫翡翠、正真正銘の日本の巫女だ。なんとあのシャーロック・ホームズ先生のお墨付きと来たもんだ。日本の古い家系のでで、お父様とホームズ先生がお知り合いだとか。偉い人は偉い人同士でつながっているものだねえ、ワイルド君。君ももう少しで偉い人の仲間入りができたのに、運命は残酷だねえ。」
「その御巫嬢にはどうすれば会えますか?」ワイルドは必死だった。
「いまはゴダルミング家に仮寓しているから、入れてもらえれば会えるだろうけど、そう簡単に入れる屋敷じゃないだろう。」
「彼女の立ち回り先とかご存じありませんか?」
「おいおい、必死だね。ストーカーかい?」研究者は笑って取り合わない。
「せめて、彼女が何を学びに、この大学のどの学部や研究所に留学しているのか、教えて頂けませんか?」
「彼女の専門は哲学的自然学さ。理学部で訊いてみるんだね。」
「ありがとうございました。」ワイルドは踵を返した。尊厳と名誉は傷だらけになったが、手がかりは得た。
理学部棟に来た。通り過ぎる研究者も学生も皆白衣を着ている。さっきまでいた人文系の研究棟と違って、建物がとても大きい。哲学的自然学の研究所を見つけ出すのは至難の業に思えた。そして、さっきの苦い経験が、情報を得るために誰かに接触する勇気をワイルドから奪っていた。バイロンと違って、ワイルドは同時代人なのだ。顔がばれても何の不思議もない。ワイルドは巨大な理学部研究棟を当てもなく彷徨った。白衣の集団のなかで黒いマント姿のワイルドは悪目立ちしていた。「哲学的自然学。」ワイルドは口に出した。「なんだ、この据わりの悪い合成概念は?自然学は帰納で哲学は演繹じゃないのか。」白衣の集団はブツブツ呟きながら歩き回る黒マントの男を訝しげに見ている。「くそっ、出直すか...」ワイルドが半分諦めかけたとき、ワイルド以上に悪目立ちする姿が目に入った。巫女だ。探し求めていた御巫翡翠だ。どうする?声をかけるか?それとも不意打ちで仕留めるか?このまま何の情報も得られずに帰れば、ジョアンナ様から永遠に見放されるだろう。もしこの女をここで屠ることができれば、英雄として帰還できる。よし、ここは正々堂々と挑もう。
「御巫翡翠だな!」ワイルドは翡翠のまえに立ち塞がった。「故あって命をもらう!」
「あら、前にちょっかいをかけてきたヴァンパイアのおじさん。」翡翠は意に介さず、平然としている。
「屋上に来てもらおうか。この前のように逃げ出すなよ。」
「ああ、あのときは丸腰でしたからね。今日は大丈夫、相手をしてあげましょう。私は巫女ですが、小太刀は桃影流免許皆伝です。遅れは取りませんよ。」翡翠は微笑みながらも気迫を込めてワイルドを見つめた。
「よし、ならば屋上へ来い。」ワイルドは覚悟を決めた。敵の情報を知らずに戦いを挑むのは危険だが、もう後戻りはできない。
理学部研究棟屋上。
「行くぞ!」ワイルドはステッキの仕込み杖を抜いた。
「ふ、構えが甘い!」翡翠は代々伝わる悪霊を滅する小太刀、浄化の刃を構えた。
「はぁつ!」ワイルドが仕掛けた...が、翡翠の姿は消えていた。「甘いって言ってるでしょ!」中空から降り立つ翡翠の足がワイルドの頭を蹴る。のけぞって転ぶワイルド。「こんな弱い魔物を斬るなんて、浄化の刃もかわいそうね。」ワイルドは立ち直って、ポケットからデリンジャーを取り出して照準を合わせた。「あら、かわいらしい飛び道具ね。でもっ...」翡翠の左手から何やら光るものが飛んだ。「神月刃、これも浄化する飛び道具。どうかしら?その汚れた身体が耐えられるかしら?」神月刃が刺さったワイルドの腕が溶け始めた。デリンジャーは落ちて転がった。「あまり長くいじめるのも性に合わないのでこれで終わりにしてあげる。桃影流奥義、桃華円舞!」翡翠が舞うような動きを見せると,ワイルドの身体が蒸発した。「杭を打たなくても消滅させられるのよ、私。」
アルテミス・ムーンの悲劇
ケンジントン、クイーンの館。
「ワイルドが消えた?眷属の絆が消えている...エイダ!」
「は、ジョアンナ様。」
「ワイルドが消滅しました。おそらくあの巫女に倒されたのでしょう。愚かな!無謀な戦いを挑むなど...。エイダ、こちらの戦力は減る一方です。何としても敵の戦力を少しでも減らさなければジリ貧です。敵の戦力はどうなっていますか?」
「ヴァン・ヘルシングの指導の下、ゴダルミング家の当主アーサー、ハーカー家の寡婦ミナ、クインシー・モリスの妹エミリー、日本の巫女御巫翡翠です。」
「5名ですか。こちらは私を含めて6名。拮抗してますね。せめて1人は減らしたい。」
「ならばアーサーはどうでしょう?ドロレスを餌にすれば出て来るかもしれません。」
「なるほど、可能性はありそうですね。」
「家の外におびき出さなければなりませんが、前にジョナサン・ハーカーを殺したあの店はどうでしょう?公道や公園だと敵が支援のために潜む場所がありますが、狭い店内なら出入り口は1つです。」
「良いでしょう。計画を実行しなさい。」
ゴダルミング家の館。
「旦那様、郵便です。」執事が封書をアーサーに渡す。中身を確認したアーサーの顔が青ざめる。「ドロレス!」周囲の一同がざわめく。
「何があったの、アーサー?」ミナが尋ねた。
「いや、何でもないんだ。ドロレスからの手紙で、会いたいと。」
「罠ですよね。」お茶を運んできた翡翠が冷静に判断した。
「罠だろう。」アーサーは努めて冷静なふりをした。
3時間後、ピカデリーのミュージックホール「アルテミス・ムーン」。
「ドロレス!」暗い店内でアーサーは呼びかけた。
「お兄ちゃん、来てくれたのね。」ドロレスは1人でカウンターの椅子に腰掛けている。
「ああ、もう帰れるのか?」アーサーが近づくと、ドロレスが立ち上がってアーサーの手を取る。「ええ、もう離れないわ。」
その瞬間、店の扉が開き、エミリーが叫んだ。「アーサー、離れろっ!」
しかしアーサーはドロレスの細い腕に絡め取られていた。「お兄ちゃん、お兄ちゃんも死の向こう側に来て!」ドロレスの細い牙がアーサーの喉に突き立てられる。鮮血が吹き出した。「あ、お兄ちゃん!え?私、私、失敗したの?」
「このおっ!」エミリーのピースメーカーが火を噴いた。だがドロレスをかばったカロリーヌのマントに弾かれた。
「おっと,お嬢さん、良い場面じゃないか、こんな店の中でピースメーカーをぶっ放すなんてな。」店の奥からタバコをくわえたビリーが現れた。
「待って、ビリー!」カロリーヌがビリーを押しのけて前に出た。「この女、フランツを殺したこの女、私が殺す!」
i958216/
「そこまでにしなさい!」店の奥からジョアンナが現れた。「1人は潰したわ。ドロレス、怪我の功名よ。吸血に失敗して殺してしまったのね。」
「ジョアンナ様、この女を私に!」カロリーヌが懇願するようにジョアンナを見た。
「死ねっ!」エミリーのピースメーカー2丁が連続で火を噴いた。が、すべてジョアンナのマントで無効化され銀の弾丸は床に落ちた。その瞬間、カロリーヌがエミリーに飛びかかって組み伏せた。
「汚らわしいおまえは噛む価値もない。兄と同じように惨めに血を流して死ねっ!」カロリーヌは隠し持っていたダガーでエミリーの脇腹を刺した。刺して抉った。鮮血が店の床に広がった。「フランツ...仇は取ったよ...」
「あら、想定外でしたけど、2人も潰れてしまったわ。」この光景を見ていたジョアンナは満足そうに笑った。「さあ帰りましょう。採集決戦が近いわ。」
翌日、ゴダルミング家に2つの棺が運び込まれた。新聞には「アルテミス・ムーンの惨劇!」という大見出しが載った。
○月○日、ピカデリーのミュージック・ホール「アルテミス・ムーン」でゴダルミング家の当主アーサー・ホルムウッド・ゴダルミング氏とテキサスからの来客エミリー・モリス氏が何者かに殺害された。ホルムウッド氏は咬傷により失血死、モリス氏は刺創により、同じく失血死。なお刺創には深く抉られた跡があり、強い殺意のもとでの犯行だったと推定される。
「もうだめかもしれない。」ヘルシングは暗い顔で言った。「こうなったらもうだめかもしれない。われわれは全滅するだろう。私とミナさんと翡翠さん、もう3人しか残っていない。勝ち目はない。」ヘルシングは頭を抱えた。「撤退しよう。使用人も避難させなければ。執事を呼んでくれたまえ。」ミナが執事を連れてきた。
「知っての通り、この館の当主は亡くなられた。急ぎ顧問弁護士と連絡を取って、ゴダルミング家の解散手続きを取ってくれたまえ。弁護士は相続関係者も把握しているだろう。君たちの処遇も、弁護士の指示に従ってくれたまえ。急な話で申し訳ないが、こうなったからには仕方がない。われわれも早急にここを出て行こう。」
「悔しいです。」いつもは冷静な翡翠の唇が震えている。
「ジョナサンが殺されたあの店でアーサーまで殺されるなんて。」ミナの目は涙で真っ赤だ。
最終回
ケンジントン、クイーンの館。
「さて皆さん、ドロレスとカロリーヌの活躍で敵は3名にまで減ってしまいました。私たちの勝利は確定したも同然です。被害を拡大させる可能性のある機関銃女を潰せたのは僥倖でした。リストも喜んでいるでしょう。敵の3名に対して私たちは、バイロン、ビリー、エイダ、カロリーヌ、ドロレス、そして私と6名です。戦力差は2倍です。撤退される前に,一気に攻め落としましょう。」
クイーンの演説に一同は拍手し、誰もが士気の高まりを感じた。
ゴダルミング家の屋敷、運送業者と鑑定士が訪れ、競売にかけられる家財の品定めをしている。女中や下男が忙しく立ち回り、家財の整理をしている。
「撤退する前に襲撃されなければ良いのだが...」そう考えてヘルシングは頭を振った。「いかん、不安が的中するという言葉がある。ここは心の中で神に祈ろう。」
「ヴァン・ヘルシング様。」翡翠が穏やかに声をかけた。「できれば起こって欲しくないのですが、襲撃された場合の対処を考えましょう。」
「うむ、何か案はあるかね?」
「敵は正門から攻めてくるでしょうから、エントランスが戦場になると予想されます。まず使用人を奥に逃がし、迎え撃つ形になるでしょう。私が銀の呪符で足止めしようと思いますが、下級ヴァンパイアのようなわけにはいかないでしょう。銀の原子の雨で敵の行動が鈍ったところを、空中から神月刃を放ちます。上手くいけば2体か3体は倒せるかもしれません。その間に、ヘルシング様は皆さんを連れて脱出してください。私が最後は白兵戦で退路を守ります。使用人とともに裏庭の通用門からお逃げください。」
「君を犠牲にして逃げるなんてできない。」
「日本の戦には殿(しんがり)という役目があります。今回は私がそれを務めます。」
「ここはイギリスだ。逃げるときは皆一緒だ。」
「私も最後まで戦いますよ。」ミナが笑顔で付け加えた。「エミリーさんの遺品、コルト・ブロウニングM1895があります。勝利を確信して油断して攻めてくる敵の土手っ腹に風穴...あら、私、なんだか下品な女になってしまいましたわね。」ミナは照れて笑った。
「ともかく、正門に結界を張ろう。少しは足止めになるだろう。」ヘルシングはありったけの聖餅で結界を張った。「そうだ、執事を呼んでくれ!」ヘルシングは下男に執事を呼びに行かせた。
「お呼びでしょうか?」
「裏門から教会へ行って、ありったけの聖餅をもらってきてください。裏門にも結界を張らないと危険なので。」
「かしこまりました。」
「細心の注意を払って十字架を持って行きなさい。あと、帰りには聖水も分けてもらって、何か危険な目に遭ったら敵に投げつけて逃げるのです。」
「私は正門の後ろに狙撃用の櫓を組ませましょう。敵はマントで弾丸を防ぐようですが、上方からの射撃には対応が難しいと思います。」ミナは早速下男たちに指示を出した。
ゴダルミング家、裏門。執事が出かけたのを見計らったように、シルクハット、マント、モノクルという悪目立ちする男が裏庭に入ってきた。「なかなかの豪邸ですね...クックック...」男はすべてを知り尽くしているように、何の躊躇もなく通用口から屋敷に入った。
「夕暮れが近づくと気力が充実しますね。」バイロンは意気揚々と先頭を歩く。「私たちの身体はそのような作りになっているのです、お父様。」いつも冷淡なエイダが珍しくバイロンに微笑みかける。カロリーヌとドロレスは手をつなぎ、少し緊張の面持ちでジョアンナを見つめる。ビリーはマント姿に馴染めないようで少しぎこちない歩みで後に続く。
「この先の角を曲がるとゴダルミング家の邸宅、すなわち私たちの戦場です。私は後方から指示を出し、もし仲間が無力化されたらすぐに弾丸を摘出して蘇生させます。すなわち、私たちは無敵なのです。」ジョアンナの檄にヴァンパイアたちの士気が上がった。
戦端が開かれた。櫓から容赦なく銀の弾丸が降り注ぐ。「ジョアンナ様、結界があって入れません。」エイダが弾丸を避けつつ報告する。「こしゃくな!」ジョアンナが短く呪文を唱えると、聖餅はすべて焼け焦げて消失してしまった。「突っ込むぞ!」バイロンを先頭にヴァンパイアたちがエントランスになだれ込む。
「四七の原子、急々如律令!」正門の門柱から翡翠が銀の雨を降らせる。エイダとカロリーヌとドロレスが動きを止めた。それを見て翡翠は神月刃を放った。「危ないっ!」バイロンがかろうじてステッキで神月刃を払いのける。その隙をミナは見逃さなかった。マウザーC96が火を噴き、カロリーヌの額を貫通した。「あ、カロリーヌ!」ジョアンナは絶句した。額を貫通されては弾の摘出は不可能だ。カロリーヌの身体は次第に塵になって消えた。「カロリーヌ...」動きを封じられたドロレスの目に一筋の涙が流れた。「高いところに立って良い的だっつうの!」ビリーの放った弾丸が翡翠に着弾...する直前に翡翠は御幣でそれを叩き落とした。
「銃声が聞こえると思って見に来たら、なかなかの攻防戦ですね。」シルクハットにモノクルの男がマントを翻して玄関から現れた。
「君は誰だ?」ヘルシングが銃を構えて尋ねた。
「フランスからやってきたケチなコソ泥です。姓はリュパン、名はアルセーヌ、以後お見知りおきを...って、泥棒が自己紹介してはまずかったか。はっはっは。」
「君は何をしにここへ来た?」奇妙な闖入者に苛立ってバイロンが問いただした。
「泥棒ですから盗みに来たに決まっています。ゴダルミング家の家宝、この聖剣アスカロンを。」リュパンは右手に握った豪華な剣を掲げた。
この奇妙な闖入者が作った隙をミナは見逃さなかった。「拳銃はヴァンパイアには似合いませんよ。」装填が済んだコルト・ブロウニングM1895がビリーに集中砲火を浴びせた。ハチの巣になって倒れるビリー。ジョアンナが急いで弾を摘出しようとするが、100発以上食らっているので、簡単に摘出はできない。
「あのお、泥棒は泥棒らしく華麗に脱出したいので、そこをどいてもらえませんか?」リュパンはバイロンに頼んだが、逆に仕込み杖を突きつけられてしまう。「邪魔だ、曲者、死ね!」その瞬間、いつの間にか取り出していたリュパンの拳銃が火を噴く。バイロンにはもちろん効かない。「おや?ひょっとして魔物の類いですか。それは困りましたね。お宝を持ったまま魔物に殺されるわけにはいかないのですよ。そうだ、魔物ならこれはどうでしょう?」リュパンは聖剣アスカロンを抜くとバイロンの胸に突き刺した。かつてドラゴンを屠ったと言われる聖剣は、ヴァンパイアを一瞬にして消滅させた。「パパ...」エイダの目に涙が流れる。
「妙な怪盗君のおかげで君の仲間はずいぶん減ったな、ジョアンナ!」ヘルシングがジョアンナに呼びかける。
「黙れっ!エイブラハム・ヴァン・ヘルシング、貴様だけは許さない!」ジョアンナは目を紅く輝かせて牙を剥いた。
「君の目的は私への復讐なのだろう?」
「結界の牢獄に30年も幽閉された恨みだ。」
「私を殺せばそれで満足なのか?」
「ふ、知れたこと...復活したからには世界を闇に染めてやるさ。」
「そうか、私1人の犠牲で済むのならこの命をくれてやっても良かったのだが...それを聞いたからには引くわけにはいかない。君たち全員を殲滅する。」そう言うとヘルシングはリュパンから聖剣アスカロンを奪い取り、動きを封じられたエイダとドロレスを躊躇なく斬り殺した。
「今だ、翡翠君!」
「お命頂戴します!受けてみなさい。桃影流奥義、桃華円舞!」
ジョアンナの身体は一瞬にして塵となった。
「ちょっと先生、お宝返してくださいよ~」リュパンのおねだりはもちろんはねのけられた。
「ダメだね。この聖剣は大英博物館に収めるべきだ。欲しいなら大英博物館の警備を突破するんだな。」
ヴァンパイア・クイーンが眷属を増やしてヴァンパイア・ハンターに復讐する @schueins
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