第4話 絡み合う手指

 切れ目の無い灰色の雲から、ぽつり、ぽつりと、ふり始める春の冷たい雨。

 車の排気ガスが染みついたアスファルトが雨粒で湿り、独特な匂いを立ち上らせる、早朝の通学路。


 雨に湿った歩道とは対照的に、傘もささずに私は歩いた。

 スマホの予報では5分程で止む、湿る程度の小ぶり雨。普段ならそれでも傘をさすけれど、今回はあえて雨に濡れる。


 いつもより早く起き、念入りに髪を整え、それをあえて雨に濡らす。

 完璧で、特別な日々を迎える為に、あえて最初は完璧を崩す。


 ──そうすれば、ほら、油断した好物が来てくれるから。


「ヘビ先輩!傘!あの一緒に入りましょう!」


 同じ通学路の蛙声あせいちゃんが、焦った様子で私に傘を差し出す。


 一緒に入りましょう。なんて、言ってくれるのね。

 背丈の離れた私と貴方、一生懸命に背伸びをして、私に傘をさそうとしてくれる。


 ふふ、可愛くて、少し揶揄ってしまいたくなるけど、今は我慢。

 私は、あせいちゃんの差し出す傘を軽く掴んで、それを持つ。


「ありがとう、あせいちゃん」


 それだけ言って、傘を彼の方に傾けながら、歩き出す。


「あっ……あ、えっと、僕、今日は雨に濡れたい気分かなぁー!傘はヘビ先輩が使って!」


 そう言ってあせいちゃんは、傘から逃れ、私から離れようとする。

 そんな、不器用な優しさを見せる彼を見て、私はクスリと笑って、あせいちゃんの真似をした。


「なら、私も濡れてしまおうかしら」


 そっと傘を閉じて、雨に濡れる。彼の優しさを空回りさせて、振り出しに戻る。

 あせいちゃんにとっては、きっと思い通りには行かなかった結果。

 だけれど、私にとっては、これから思い通りになる結果。


「あっ、ヘビ先輩。ダメですよ、傘ささないと」

「ふふ、いいでしょ?あせいちゃんだけ濡れちゃ悪いもの」

「ダメですって!先輩の髪、綺麗なんだから傷んだら可哀想ですよ!」


 彼から引き出した、思い通りの言葉。思い通り過ぎて、まるで何度も味わったかの様に、甘美な響きが私の耳に入る。


 少し口惜しいけれど、嬉しいわ。

 けれど、私は我儘で、邪な蛇。甘美な響きの中に紛れたこの口惜しさは、払拭しなければ気が済まない。


 響きだけでは、我慢できない。

 少しばかり、揶揄かじってしまおう。


 始まった特別な日々、始まってすぐだというのに、邪でいやらしい蛇が、私をそそのした。


「……ごめんね」


 欲望に唆され、甘美な彼の優しさを無下にし、私は悲しげな表情を隠して、傘をさす。


「えっ……と、ごめん……なさい、そんなつもりじゃ」


 傷ついた仔犬のような声が聞こえ……背徳、罪悪……そして加虐心が私の背骨を伝い、ピリピリと快楽の針が突き刺さった。


 あぁ、良かった。我慢なんてせずに、唆されてしまえば、こんなにも甘美な一瞬を過ごせるだなんて……。


 ならもう少しばかり、齧ってしまってもいいでしょう。


「……きて、あせい君」

「へ?あ……はい」


 つやめいた声を抑え、私は小さな声であせい君を呼び寄せる。

 私を傷つけた。そう思った罪悪感のせいか、彼は深く考える事もなく、すぐに私のそばに来た。


 何も、わかっていないんだ。貴方はもう、腹を空かせた蛇の前に、無防備にも近づいてしまったのよ。


 私は何も言わずに、学生鞄を持った手を、あせいくんの空いた手にねじ込んだ。


「へ!?ヘビ先輩──「重いから、一緒に持って」

「……えあ、ヘビせん……ぱいは、良いんですか?」

「ん……いいのよ、あせい君なら」


 ねじ込み、無理矢理繋いだあせい君の手が、僅かに強張った。

 ……鞄と私の手に挟まれた彼の手は、もう、自分の意思では抜け出せない。


 手を離せば、私の鞄は落ちてしまう。優しい彼には、そんなことできない。

 そうわかっているから、私は鞄をくさびに、彼を絞めつけた手を繋いだ


 もっと……もっと楔を打ち、絞めるこの手を、逃れられないものにしたい。


「ねぇ、昨日の返事は……聞いてもいい?」

「返事……」


 いつしか、ぽつりと降っていた雨は止み、湿った歩道も、落ち着いていたけれど、私とあせい君の手は、指先は、互いの手汗で湿っていた。


「……ねぇ、あせい君は、かきたい?私を」

「……っ」


 くちゅり、くちゅりと、小さく、湿った手が擦り合い、絡みあう。


 鞄の持ち手を間に、静かに、けれど内側の硬い骨と、柔らかい皮膚が感じられる強さであせいくんの手指を擦り、絡める。


 繋いだ手を、擦っているだけのこの行動は、いやらしいのせいで。


 濡れた汗が、唾液のように。

 細い指先が、舌のように。

 まるで獲物を捕らえた蛇が、口内でそれを転がし、味わい、凌辱するかの様に、弄ぶ。


「……はやく」

「……描きたい……です」


 ドサリと、間に挟んでいた鞄が、硬いアスファルトに落ちた。

 その音を聞いて、私は幾分か蛇から遠ざかる事ができた。


「……雨、止んじゃったわね」


 そう言って私は、落ちた鞄をゆっくり抱え、傘をあせいちゃんに返す。


 返す間際、まだ物足りない蛇を満足させる為に、あせいちゃんの耳に囁いて。


「──また、帰りも降るといいね」

「──っ!」


 これ以上はダメ。


 とても手遅れに、最後に叫んだ私の理性に押され、私は早足に学校へと向かった。


 でも……その理性も、すぐに蛇に咬み殺された。


「……あったかい」


 ──あせいちゃんの体温と湿りが残った手が乾かぬうちに、唾液が通る喉へと押し当て、呟いた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヘビ先輩のヨコシマ恋模様 古時計 @furudokei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ