終ノ舞
「会員はタイムスケジュールに応じて、対局を開始してください」
奨励会幹事の声によって、固着していた院の空気が流れた。
奨励会は月に二度、昇級段を決める対局が行われる例会が関西、関東の将棋院で執り行われる。二段までは関西、関東独立した例会で行い。棋士と呼ばれる四段に昇段するための前哨戦たる三段リーグは関西、関東所属の三段のすべての奨励会員で行われる。
将棋の修羅が一同に介する将棋院、いつもは指導棋士による将棋教室や将棋サロンで賑わう院も今日は静まり、院内に流れる空気は冷たく、密やかな殺気が籠もる空気に包まれている。しかし、会員は皆、表情を変えることなく、内に闘志を押さえ込んで淡々と対局に向かっていく。
例会は奨励会員にとって、運命を決める日。たった160人しかなることのできないプロの職業将棋指し、すなわち棋士となるために、その棋士養成機関である新鋭棋士奨励会に棋士と同数の160人の奨励会員がいる。そして半期六ヶ月ごとに二名だけが棋士になることができる。そのたった二名の椅子に座るため、思春期から青年期のいわゆる青春と呼ばれる時期を賭けてこの椅子を目指す。
しかし、そんな修羅道に耐えられる人間など、多くいるわけがない。見切りをつけ自ら退く者、他に希望を見出し去る者、様々な結末がある。中には将棋から目をそらし享楽に溺れながらも、将棋を捨てることができず年齢制限を迎え悲劇的な結末を迎えるものもいれば、才溢れながらも3段リーグを勝ち切ることができず、泣く泣く年齢制限で去っていくものもいる。すべてを将棋に賭け、それが報われなかった者の苦難や悲劇は、この奨励会の日常として吐いて回るほど転がっている。
俺もここに来るまでに奨励会表と裏をある程度メディアを通し知っていたが、ここまで影のある世界とは思わなかった。だからこそ恐怖と、それに飲み込まれない強い意志と負けないという闘志が必要だと実感した。
将棋界は早熟であればあるほど良いといわれる。すべてを柔軟に吸収する幼少期から少年期に将棋に真摯に向き合う。将棋は必ず終わりに勝敗が決まる。その勝敗に偶然はなく、否が応でもその事実を減縮に受け止めなければならない。
望みはただ一つ、四段昇段、棋士になることこそ我が望み、棋士になることが自分の運命(さだめ)であると、息を吸うように当たり前のことと信じて邁進するだけだ。
さも自分は棋士になって当然と思っている人間が、この修羅の中に幾人もうごめいているわけだが、中でも異彩を放つのが、黒亀、田村の両名だ。ほぼ同級に敵となる存在はなく順当に勝数を重ね昇級を決め、次の階層を目指しており、俺とは既に対局が組まれない級差がついてしまっている。
だが、黒亀2級、田村2級もいずれは倒さなければならない障壁ではある、が、追いかける存在ではない。俺の追いかける存在は今も昔も変わらない。今やすでにその大器の片鱗を見せつけている将棋の修羅、伏見真改、俺の親友にして恐るべき敵だ。
長々と続く残暑にそろそろ飽きを感じる12月上旬、後期第5回目の例会。入会以後不敗で驀進するのが神童・伏見真改だ。例会18連勝で伏見はすでに3級に昇級、俺は伏見の尻を追いかけて4級昇級を果たしていた。既に伏見は最短で奨励会を駆け上がろうと野心が溢れ、目はいつも以上に怜悧でぎらぎらしている。
奨励会に入って以来、ついに伏見真改と会いまみえる時が来た。公式戦でいうと、小学生名人戦以来だ。
話題の欠かない奨励会員同士の一騎打ちということで、一部の将棋関係者から注目が集まっており、将棋帝国の記者のインタビューが軽く俺と伏見に行われた。将棋帝国の巻末に「The Way of the KISI」と、いう奨励会の様子や注目会員を紹介する連載が数ページ設けられており、その中の記事になるという。
元小学生名人にして、すでにその才気を周囲に誇示している伏見は、その才気煥発、大器早成の暁には鳳凰のごとく天翔するであろうと一門の人間からの期待大きく、タイトル通算19期、現役時代は棋界の悪魔と呼ばれ、現将棋院の会長を務める伏見の師・山縣から直々に自身最後の後継者として弟子入りを薦められ、将来の永世名人に間違いないと太鼓判を押されている。その山縣永世十段から鳳凰の雛を意味する「鳳雛」と呼びかわいがられ、すでに名の通りの実力と結果を見せつけ奨励会で通り名になろうとしている。
翻って俺は、その受け将棋からお師さんが関係者に言い触らしたイージスシステムから、イージスの盾と呼ばれるようになったが、完全に名前負けしている……
インタビューは個別で行われ掲載は再来月と聞いている。伏見と俺はお互いどんな取材だったのかは話さずだが、やはり注目されている伏見は30分ほどのインタビューと、奨励会員としては異例の長さで一部の会員からは師である将棋院の会長の忖度があったのではないかと邪推するものもいたが、そんなものではなく、やはりその異質の強さとその風貌からくる存在感だからこその注目度といえた。
俺は結局、女流棋士唯一の現役女流六段棋士である栗林杏樹のこれまた女流棋士の弟子として、初めて奨励会に入った会員という立場が注目され、かつ伏見と小学生アマ大会で何度も戦った経験のある友人なだけであり、結局俺へのインタビューも伏見についての質問が多かった。
奨励会員も将棋関係者もその伏見の持つ潜在に能力に大きな期待を持った空気が微量ではあるが流れている。将棋帝国の年配の記者がポツリと言ったことだが、この空気は有栖川世代と呼ばれる世代が奨励会に激震を走らせたあの時期によく似ているという。圧倒的な強さ故に、対局者が萎縮し、それが更に当事者たちの昇段を早めるという。
対局者が萎縮して・・・・・・という下りは、個人的に疑問ではある。奨励会の一勝は自分の命を削ってでも渇望するものだ。萎縮している暇などない。刺し違えてでも一勝というのが、奨励会会員が共有する唯一の価値観だと思う。それを奨励会に入り、俺が一番肌で感じたことだ。
正直な話、伏見の活躍により伏見に視線が行けば行くほど、俺に注目は集まらない。陽の当たる場所は俺には似合わないし、柄でもない。当の伏見は外野が騒いでもどこ吹く風だ。冷静に、そして醒めた目線でそういう周囲の反応を見ている。模範解答のような言葉を並べ、諸々の挙動も隙が無い。あるとするならば、俺にだけ対応が甘く周囲がいわゆるボーイズ……と、誤解するような仲のよさがあるだけで……俺は全くそんな気はないのだが……基本的に周囲からはできた突きどころのない人物として見られている。
が、伏見を知っている身の俺から見ると、彼の口元は笑っていても目は怜悧でむしろ自分の道化加減にうんざりしている怒りを感じているし、周囲の無責任な期待を心底、いやがっているのがわかった。
伏見は確かに勝利への渇望というのが濃い、が、それに至る過程を同等に重視する。いや、将棋の手練れになれば、勝利に至る道程をも美しく指したいと思うが必然である。伏見は勝利と同様に美しさを求める。だからこそ、そういった、結果ばかりを期待する人間が好みではないのだろう。勝利を誰よりも望む気持ちを持ちながら、そこに至るまでの美しさを求める高潔さ、彼にとってはその両方が大事であり、将棋に対する姿勢の両輪だ。
だから、勝利だけを求める者も、結果しか見ない周囲の者を冷ややかな思いで見ている。それは無論、直接戦う奨励会員にも言えることである。
勝利のために常軌を逸脱したやりかたで勝利を得ようとする者に対しては怒りを見せ、相手の全てを否定しに行く。よく棋界ではそういう、相手に慈悲のない徹底して相手を潰すような指し手を「辛い」という。相手を徹底的に叩きのめし、二度と自分には勝てないと思い込ませるような敗北感を与える、そういう指し手を棋界では『千年縛り』という。
実際、奨励会は勝利をとる為にはなんでもあり、という雰囲気が少なからずある。棋士になるために課程やプロセスなどどうでもいいという会員が入るのは当然だ。奨励会は勝つことが正義なのだから。
だからこそだろう、伏見は奨励会に入り逆にその自分の美学を意固地に尖鋭化しているように思えた。これまでそのように向かってくる奨励会員には容赦なく『千年縛り』を発動させ、入会から三ヶ月の間に盤面に座れなくなり例会を休会し退会する人間を数人、量産していた。
相手に投了するための形づくり……つまり思い出王手等とよく隠語でいうが、対局の中で王手をかけずに終わることは、将棋の指し手として羞恥を感じる。相手との力量に差がありすぎるという証明にもなるからだ。そのため、棋譜には一度は王に迫ることができたという足跡を残したいというのが人情だ。そのため、自身の詰みが見えると形づくりとして王手をかけるのが普通だ。だが、千年縛りは相手にそんなぬるい慈悲など与えぬ、いわゆる「フルぼっこ」で、相手の全てを否定し、圧倒的な差をつけて相手の心を折るでなく、粉砕する。それがその名の通り、千年勝つことができなくなるほどの圧倒的敗北感を与える「千年縛り」だ。
特に伏見の千年縛りは強烈だ。そのプロセスはこうだ。終盤、自分に詰み筋があっても『意図的』に見逃し、自身の玉が絶対に詰まない形の略である『Z』に組み、相手の玉を積まさずに包囲していく。相手は詰まされることなく、真綿で首を絞められる思いで次第に勝つことのできない将棋に心が粉砕され、棋譜上詰まされないまま投了することになる。抱くのは圧倒的な敗北感と伏見真改への恐怖。結果、二度と伏見と戦いたくないとか感じる。これが伏見の『千年縛り』だ。
だが、俺は今まで伏見に数え切れないほど『千年縛り』を喰らっている。公式戦では全敗しているし、ブイエスでも七割は負けている。今でこそ、あいつの『千年縛り』を発動させないほどの棋力を身に付けたためしばらくはお目にかかってないが、伏見には散々を辛酸を舐めさせられた。正直、発狂しそうなくらい心は何度も砕かれているし、何度も将棋をやめようと思ったが、が、凝りもせずに俺は今も辞めずに指し続けている。
――むしろ、伏見に勝つことが俺の目標……
それが、俺の根底にある動機なのかもしれない。ある意味、俺は伏見の持つ人外の臭気に惑わされたのかもしれない。
俺は人の身でありながら、人外の者に憧れているのか、人外の者になろうとしているのか……
――わからない……
棋士を目指す俺として、同じ奨励会に属する伏見真改は俺の敵であることにはかわらない。倒さなければならない存在なのだ。
奨励会が鮨詰めのように並んだ長門の間。今、俺の前に俺の莫逆の友であり、最大のライバルであり、最強の敵である伏見真改奨励会3級が微笑みを浮かべ俺を待っていた。
「公式戦だね」
「あぁ、名人戦以来か」
「本当に楽しみにしていたよ」
「俺はお前とやるだけで吐きそうだってのによ」
「ブイエスではこの感覚は味わえないからね」
「全くよ」
「俺は」
「僕は」
「「ついて」」
「ねぇ」
「る」
俺は苦笑する。翻って伏見は屈託のない笑みを浮かべる。
「伏見よ、簡単に勝ち星はやらんぜ」
「あぁ、期待しているよ」口角を歪め、対局でしか見せない修羅の微笑みを俺に向ける。
「お前とは開きができてるからな、おっつかねぇといけねぇしよ」
俺たちは駒を大橋流に則って並べていく。
「君とはこれからもずっと戦うことになるからね」
「そこまで、俺が戦い続けられるかは未知数だぜ」
「間違いないよ」
「数年もすれば序列戦で戦うことになるよ、そう先のことじゃぁない」と、伏見は言う。その盤を深く読む時に見せる瞳孔が大きく開いた目で彼は俺を見つめる。
一体こいつは、その瞳で何をみていいるのか? 未来でも見えているのだろうか? だが、息を吸うように吐いた彼の言葉は、妙な説得力があり俺は背筋に寒気が走った。
「それを実現するためにも、手始めにお前に公式戦で黒星をつけてもらうぜ」と、俺は彼の予言めいた言葉を払うように告げる。
その姿を見て、再び修羅の笑みを俺に向ける。
――あぁ、この恐怖だ……
公式戦でしか味わえない伏見真改のこの気圧。懐かしやこの恐怖、この歓喜、俺はまた彼と同じ舞台で相まみえた。ここで戦うが俺の運命(さだめ)ならば、心を決めるしかない。この試練が明日に繋がると信じて……
「定刻となりました。対局を開始してください」
幹事の号令とともに全会員の声が室内に響く「「おねがいします」」
伏見と俺の視線が交錯する。赤く燃える炎が互いの瞳の中にある。仄かに火薬の匂いが俺の鼻を掠めた気がし、俺はむせる。互いの闘気が盤上でぶつかり、放電を起こす。
俺は初手2八にある飛車を手にした。ゆっくりと飛車を横にそして軽く6八飛車と指した。
「俺は四間飛車で行く……ぜ」
伏見は肩を震わせ、口角を上げて笑みを浮かべた。
―了―
盤上のイージス 升田キリコ @rydeen-ymo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
将棋のゾーン(将棋エッセイ)/清水らくは
★52 エッセイ・ノンフィクション 連載中 80話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます