参伍ノ舞
院内に入り、入口近くのソファーに腰をかけた。鼻血は止まったが、鼻の中では血がパリパリに固まり偉いことになっていた。鼻をぬぐおうと俺は手でこすろうとするが、その手を制して乙葉は首に当てていたタオルでそっと鼻をぬぐうと俺にタオルを手渡した。タオルには赤い色が広がっていた。
「きっと……あなたはわたしに弁償するわ。間違いない……」
まるで対局しているような表情で乙葉は言った。鼻の通りがよくなり、俺の体を支えるために寄り添っていた彼女の濃い香りが広がりむせる。でも嫌ではない、母やお師さんとは異なる抱擁感を感じる。むしろずっと身をまかせ感じていたい気分にさせた。
「努力はしますけど、簡単に勝てるほど、奨励会は甘いものじゃない。それは乙葉さんが一番知ってるでしょう?」
「そうね、けど、田村くんもそうだけど……伏見くん、そして黒亀くん、あなたは、きっと新しい潮流を生む。きっとあの30年前、奨励会で起こったアンファンテリブルス、『恐るべき子ども達』ようにね」
「悔しいが伏見は本物です……宗歩以来の天才・菅野先生、超音速棋士・井上先生、皇帝・有栖川先生、魔人・瀬島先生に続く中学生棋士になりますよ……」
「修身」と、鋭い勝負師の眼光で乙葉は睨む。「人の事はいいわ……あなた自身はどうなの?」
「俺が……中学生棋士に?」
考えたこともない。奨励会入会は下で十歳から上は年齢制限の二六歳まで。六級から始まり勝利数で昇級段していき、第一関門は初段に二十歳までに昇段しなければ退会、その後二六歳で四段昇段しなければ退会となる。
実態は第一関門をクリアするまでに八割の者が自らの限界を悟り退会していく。それこそ都道府県、全国で負け知らずだった猛者達が、だ。天才同士が鎬を削り、ライバルを潰し喰らい、上へのし上がっていく、才能の限界を悟る者、自分自身に負けていく者、退会の理由はそれぞれあるが、結局は戦いきれず勝てなかった者が淘汰されていく。
統計として同期で入会した全体の八割が初段昇段を待たず退会。残り二割の内一割五分が年齢限界まで挑戦し、残りの五分が三段昇段し棋士になるための前哨戦三段リーグを戦う事になる。同期内で四段昇段し棋士を名乗ることができるのは同期全体の一分程度の確率だ。
中学生棋士となるには最低でも一一か一二で奨励会に入会し、一五歳までに四段昇段を決めなければならない。俺で四年程度の時間的猶予があるが、奨励会の実情を念頭にそして棋士になる確率を鑑みても、天才を越える存在でなければ達成することかなわない。
人外の者であることを証左に中学生で棋士になった者は皆輝かしい経歴をもっている。宗歩以来の天才・菅野は永世称号を持たぬがタイトル通算十期棋士歴六十年の超人。超音速棋士・井上は一七世名人資格と最年少名人就位記録を保持している。皇帝有栖川は前人未踏のタイトル保持通算90期、七つあるタイトルの内永世称号を六つ持つ生きるレジェンド。魔人・瀬島は有栖川が唯一保持しないと同時に棋界でただ一人永世聖帝の資格をもち、また現役棋士で唯一有栖川に勝ち越している棋士である。
中学生棋士となった者たちは、いずれも皆成功を約束されている。が、その頭脳たるや悪魔の頭脳といえる。
――天才を越えた人外の者……とてもじゃない……が……
俺ができる芸当に思えない。奨励会に入った事で天才とも言えるのだろうが、天才の中の天才には、ましてや人外の者になれるわけもない
――煉獄であるのならばもしくは……
俺の中で戦慄が走る。逆を言えば煉獄を使えば俺は人外の者になれるのだと……
この疲れ切った体の中に蠢く感情。奨励会に入会を許されたことで、勝利への渇望が今までになくわき上がることに気がついた。同時に、力そのものへの渇望、あの悪魔の力を。
――手にすれば……
「そんな顔するのね」と、言われ俺は正気に戻る。
「私とのブイエスではその眼光は無かった、まるで射殺すかのような殺気のこもった目。勝負師の目、それに……」と、乙葉は微かに言い淀んだが、続けた。「笑っていた……」
「笑っていた? 俺が?」
「えぇ、随分と自信がおありのようで」
「自信だなんてそんな……」
「期待してるわ、中学生棋士の誕生を」と、言って乙葉は不敵な笑みをうかべて言った。
言われた俺は苦笑したつもりだったが、その笑いは自分でもわかるほど随分と引き攣った笑いだった。
「しゅーしん!」と、院内に声が響いて俺は顔を声の発生源に向けた。
その瞬間、院内の空気の質がその人物の半径15メートル前後でがらりと変わった。その人物の持つ固有結界が発動したのだ。おおよそ、修羅が集い戦う闘技場ではなく、桃色吐息に満ちた銀座の夜の世界。
「か、母さん」
丁度、開店準備の時間だ。既に母は戦闘服に身を纏い戦いの化粧を終えており、どこからどうみても、お水の女王たる姿だった。院内に残る関係者やまだ残っていた受験者に奨励会員も目を丸くして視線が集まっている。
「会いたかったわ、しゅうしん」と、飛びかからんばかりの様相で俺に近づくが、母は何とか堪えたようだ。
俺は「?」を頭に浮かべたが、隣に座る乙葉の姿を見て思いとどまったようだ。乙葉は俺を支えるように腕を組んだような状態だったからだ。
一瞬母の目の質が変わったような気もしたが、それ以上に乙葉が目を丸くして、驚きどころか混乱している状態だった。
「しゅうしん、将棋の修行お疲れ様でした。そして奨励会試験合格、入会おめでとう。そして素敵なガールフレンドもできたのね……」と、母は口元を押さえ堪えるように言った。
――な・・・・・・これは
変な考えを抱いているのではなかろうか、母のことだ邪な妄想を膨らましてきっと自分の思い描いた結論に納得しているに違いない。母は変に頭の回転が速すぎて、よい方向に回転が速いと一を知って五十知る位の人間だが、時として一を知ってマイナス五十まで行くことがある。
――修正しなければっ・・・・・・
「いや、母さん、この人はお師さんの研究会で一緒になった……」
「初めまして、お母様。わたくし修身さんと研究会でご一緒させていただいています、天羽乙葉と申します」
混乱して思考停止していたかと思われた乙葉が立ち上がり、いきなり深々と挨拶を行う。声がワントーン高く、テレビやネットでしか見たことがない千年に一人の美少女がそこにいた。
――だめだ・・・・・・何かがおかしい・・・・・・ぞ
「まぁ、ご丁寧に。わたくし、修身の母の小絵でございます。息子が大変お世話になり・・・・・・あぁっ」と、母はまるで神に助けを請うような声を出す。「これは、息子が大変なことを・・・・・・」
母はいきなり乙葉を抱き寄せる。
「ん・・・・・・」と、乙葉の息が詰まる声が聞こえた。
「息子が大事な服を汚してしまってごめんなさい。年頃の女性が、しかも血液で汚してしまって」そう言った母は抱き寄せた乙葉と向かい合う、乙葉は息苦しさなのか顔を赤らめていた「そうだわ、乙葉さんもお送りいたしますわ。そんな姿で往来を歩くのは乙女にとって恥ずかしい事でしょう」
「い、いえお母様」と、乙葉は断りを入れようとする。
「乙葉殿そうしてもらいなさい。貴殿のこと、恥ずかしくないといって我を張るに違いない。幸い小絵殿は車で来てくれておる故、送っていただきなさい」と、後ろから穏やかな笑みで近づいてきたお師さんが言った。
「そんなわたしは、そんなつもりで・・・・・・」と、顔を真っ赤にしたままの乙葉は狼狽えた。
「それに・・・・・・修身殿はまだ、一人で動けまい。付き添ってやってくれぬか?」
「お願いしてもよろしくて、乙葉さん」と、母が頭を下げる。
「いえ、お母様、そんな・・・・・・わかりました。修身さんもまだつらそうですし、お手伝いさせてもらいます」
俺は蚊帳の外で、事態は勝手に進んでいく。
美女二人と美少女一人に囲まれ・・・・・・端から見れば羨ましい状況に見えない、こともない・・・・・・しかし、借りを作りすぎたのではないだろうかと思う。
何故か、思いの他乙葉が母と仲良くしているのを見てよかったな、と思ったのは何故なのか、疲れで思考が曇った俺にはよくわからないことが気になった。
「ママ? さすがに建物の前に車ドヤ付けしてたら、感じ悪いですえ。ただでさえフルエアロの下品仕様のミニバンなんやし・・・・・・あっ、若!」と、言って、これまた店のドレスを着たままの奈々緒さんが俺に駆け寄ってきた。
「おめでとさん、長い間修行でお疲れさんやったね。それに、将棋のプロになったんやって?」
ソファーに座る、俺の視線に合わすように奈々緒さんが屈む。チューブタイプのドレスのせいで胸の谷間がものすごく強調されており、俺の視界に広がり、奈々緒さんの香りが広がる。
「ありがとう、ななおさん、でもまだプロじゃなくてプロの養成機関ですよ」l
「どっちでもええがな。夢に一歩繋がったんやろ?」
まるで、小さな事は気にしない。豪快な奈々緒さんらしい物言いで、ニコニコと笑ってくれている。
「確かにそうですけどね」
「ちょっと奈々緒さん、場所をお考えになって」
「んーママも似たようなものでっせ」
「んんっ」と、言葉を詰まらせながら母は奈々緒さんに告げる「しゅーしんには刺激が強いです」
「何言うてますん、一緒に風呂はいってますやん」
「「えぇっ」」と、お師さんと乙葉の声が院に響き渡る。
俺は慌てて「小さい頃の話ですよ」と、フォローをいれるが「修身殿、詳しい話を聞きたい」と、お師さんが見たことのないドスの効いた声で迫るし、乙葉は赤い顔を超えて蒼い顔で唇を震わせている。
――マズい・・・・・・
「アハハ、若は綺麗な人に囲まれてしあわせやなぁ」と、奈々緒さんは悪意なくニコニコ笑っている。「そやったら、早いこと約束遂行せなな。他の人にとられるわ」
「や、約束?」
「そうそう、夢に近づいたら大人の一歩教えたるいうてたやろ」
屈んだ状態から中腰になり白い透き通る腕が音もなく俺の首に手を回され引き寄せられ、奈々緒さんの顔が近づいてくる。
――な・・・・・・?
唇に独特の感触が広がり、唇を割るようにして滑りのある突起物が俺の口の中に差し入れられる。広がる甘い味が俺の感覚をどうしようもなく熱く、心臓の鼓動を早める。なすがまま、俺の口の中はうねうねとした粘体物に蹂躙されるが気持ち悪さは全くなく、むしろ蹂躙されていることがたまらなく心地よかった。ドロリとした液体が流し込まれ、それが口の中に拡散し心地よい甘さが染み、たまらず俺はその液体を飲み込んだむ。その飲み込んだ甘さの源泉が奈々緒さんの唾液だと言うことがわかると、今自分が何をされているかようやく理解できた。
「「「あー」」」と、いう声が俺の肌をふるわせるほどの絶叫が院に響き渡る。
奈々緒さんが離れ、奈々緒さんの唇と俺の唇の間に銀の橋が繋がり、重力に引かれて銀の糸がパンッと弾けた。
「ギャラリーが五月蠅いさかい、今日はここまで」
「奈々緒さん、なんてことを」
「は、破廉恥!」
「貴殿は、わたしの敵になろうというのか!?」
各の声が響く中、俺の意識は真っ白になり、鼻の下にナメクジが這うような感触とともに血液がダバダバと蛇口をひねったようにあふれ出し。俺の意識はそこで途切れた。
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