第33話 外伝2 逃げた先の春
『柚葉、ちょっと柚葉?聞いてるの?』
スマホの向こうで、相変わらず少し苛立ったお母さんの声が響く。
私は姿見の前に立ち、もう見慣れてしまったセーラー服におかしなところがないか最終チェックをしながら返事をする。
「ちゃんと聞いてるよ。この前みたいにお祖母ちゃんに迷惑かけないこと。でしょ?」
言いながら、私は肩にかけたカバンの位置を直し、部屋を出た。
廊下を歩きながら、わざと少し声を明るくする。
「後は——しっかりしなさい、だよね」
その言葉を口にした瞬間、受話口の向こうで、母が息をのむ音がはっきりと聞こえた。
お母さんの態度は、相変わらずだ。
仕事に没頭しているところも、私のことを立派に育てたいと思っているところも。
でも、あの日は違った。
アンを探して冬空の下を走り回り、遅く帰ってきた私は、お母さんとお祖母ちゃんにこっぴどく叱られた。
けれど、その日、勇気を出して本音をぶつけたことで、母の声は小さく震えた。
「……ごめんなさい。あなたの気持ちを考えなかったわ」
そして、それ以降、もう「しっかりしなさい」とは言わなくなった。
驚いて、言葉が出なかった。
あの一言は、今でも耳の奥に残っている。
その後、私がいじめにあっていたことを、親友だった子が罪悪感からか説明してくれて母はようやく理解してくれた。
「ちゃんと言えばよかったのに」なんて言われたけれど。
「それじゃあ、私これから学校行くから」
一階に降りてそう伝えると「いってらっしゃい」という声と同時に通話は切れた。
階下から漂ってくる味噌汁の香りに、頬がふっと緩む。
「柚葉、おはよ」
私は笑って「おはよう」と返し、朝食を準備しているお祖母ちゃんを手伝う。
「今日から三年生だね」
「……うん」
窓の外に視線を投げる。
桜の花びらのひとひらが陽光に透けて、ひらひらと舞い落ちる。
そう。アンと『le lien ル・リアン』が消え、あの凍えるような冬から、いまはもう、綺麗な桜が舞う春が訪れている。
葵さんは話すときに時々、言葉を探すように立ち止まることがある。
それは、誰かをまた傷つけてしまわないようにと慎重になっている証拠で、それでも、少しずつ自分を取り戻しているように見えた。
盛岡さんたちは相変わらず一緒に行動している。
ただ、もう影口を言うことはなく、代わりに葵さんをいないモノのように扱っていた。
クラス替えで彼女たちと離れた葵さんは、その態度すら意に介さず、彼女もまた距離を置いていた。
悠真もまた、少しずつ変わっていた。
家の和菓子屋のことで親と衝突しているのは変わらない。
未だに「ゲームなんてつまらない」と言い切るお父さんだけど、後藤くんが何度も食い下がった末に『成績を上げること、学費の一部は自分で工面すること、そして店の手伝いはこれまで通り続けること』そんな条件を飲むことで、専門学校に通うことを許してくれたらしい。
頑固な人だからこそ、本気を試されているのだろう。
結構厳しい条件なのに、後藤くんはそれが付いただけでも嬉しそうに、愛斗くんにそのことを話していた。
「今日は少し早く出るんだったね」
綺麗な黄金色の卵巻きを口に含んでいるときに話しかけられて、慌てて飲み込みながら答えた。
「うん。ちょっと寄るところがあって」
最後の一口を流し込むと「ご馳走様です」と両手を合わせる。
片付けを済ませ、鞄を手に玄関へと向かった。
「それじゃあ、行ってきます」
勢いよく玄関の扉を開ける。
背後から「いってらっしゃい」と温かい声が追いかけてきて、胸の奥が少し緩んだ。
急いでお祖母ちゃん家の坂を下りると、もう見慣れた後ろ姿が目に入る。
「愛斗くん、お待たせ」
振り返った彼が、私と目が合うと、ふっと笑った。
「おはよう、柚葉」
やっぱり、名前を呼ばれるのは少し恥ずかしなと思っていたら、愛斗くんが自転車にまたがり、後ろを軽く手で叩いて合図した。
促されるままに私は後ろに乗り込み、ハンドルを握る彼の背中をそっと掴む。
「もうちょっと強く掴んでいいよ」
そう言って、私の腕を自分の腰に回した彼の仕草に、心臓がドキドキと騒ぎ出す。
音が外に漏れてしまうんじゃないかと思うほどに。
満足そうにこちらを振り向いた愛斗くんは、照れ隠しのようにペダルを踏み込んだ。
春の風が頬をすっと撫でていく。
まだ少し冷たいのに、どこか甘い匂いを運んでいて、スカートの裾をやさしく揺らした。
坂道を抜けると、田んぼ一面に水が張られ、空や雲を映す鏡のように煌めいていた。
風が吹き渡り、水面に小さなさざ波が広がる。
その間を、私たちを乗せた自転車は駆け抜けて行く。
やがて、自転車は止まった。
そこは、かつて『le lien ル・リアン』があった場所。
だけど、今は小さな飛び石も、綺麗に咲いていたコスモスも、御伽噺に出てきそうな洋風の建物も、跡形もない。
元々そこには何も存在していなかったかのように、ただの空き地が広がっている。
私たちは、あれから何度もこの場所を訪れていた。
私たちを出会わせてくれた、不思議な経験をした大切な場所。
いつか、あの意地悪で気まぐれな猫がまた現れるんじゃないか。そう思ったから。
隣に立つ愛斗くんの横顔を見つめる。
あれから、柊が姿を見せることはなかった。
まだ愛斗くんに未練があるように見えていたから、いつまた現れるかはわからないけれど。
それから、祖父とは長い時間をかけて語り合ったらしい。
どうしてもピアノを心から愛していることを、そのままの言葉で伝えたのだと思う。
祖父に嫌われるのが一番怖い彼にとっては、とても大きな勇気だったに違いない。
ピアノを弾いて柊のようになることを何より嫌っていた祖父は、最初は黙っていたけれど、それでも最後まで耳を傾けてくれたんだと、彼は話してくれた。
長い沈黙の後で「好きにしろ」とだけ言ったらしい。
その時、ふと彼と目が合った。
見つめていたことがバレてしまい、思わず息をのんだ。
彼は目を細めて柔らかく笑って、その視線から目を逸らすことができなかった。
そして、彼がゆっくりと一歩近づく。
伸びてきた手に胸が高鳴って、私は思わず、ぎゅっと目を閉じてしまった。
だけど、時間が過ぎても、なんの感触もない。
「……え?」
と思った瞬間、彼が「ふっ」と笑い出した。
彼の手のひらには、一枚の桜の花びらが乗っていた。
「ごめん。髪に花びらがついてたから、取ってあげようとしたんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、思い違いに気づいて、カアッ!と顔が熱くなり、思わず視線を逸らした。
「か、帰ろう!学校、遅刻しちゃうかも!」
そう言って両手で頬を覆いながら、くるりと背を向ける。
歩きかけた足が、ふと止まった。
背後から、あたたかな手が手首を掴んだ。
ゆっくりと振り返ると、そこには愛斗くんのまっすぐな瞳。
何かを言おうとしたけれど、言葉より先に彼の唇が、そっと私の唇に触れた。
鼓動が跳ねる。
触れるだけの、ほんの一瞬だったのに、胸の奥がふわっと熱くなった。
そして私たちは、何も言わずに手をつないだ。
「行こうか」
そう言った彼の後ろ姿からも、耳が赤くなっているのがわかる。
彼もまた、私と同じ気持ちなんだと思うと胸の奥が、くすぐったくてしかたなかった。
もう一度、後ろを振り向く。
未だに荒れた空き地が広がっているその場所で、ほんの一瞬、アンが微笑んで、こちらを見ているような気がした。
風が吹いて、花びらがひとひら、空き地に舞い落ちる。
私はそっと目を閉じて、かつて逃げ込んだこの場所を、今は自分の足で歩いている気がした。
逃げた先に。 夜凪いと @yonagiito
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