第32話 外伝1『アン』



私は、ただの野良猫だった。


名もなく、居場所もなく、寒さと飢えに震える、いつこの世からいなくなってもおかしくない命。

腹をすかせ、冷えた地べたに身を丸め、ただ今日一日を生き延びることで精一杯の生だった。


その日は、とりわけ運の悪い日であった。


せっかく手に入れた食を、この町を牛耳ぎゅうじる性悪のボス猫に奪われ、さらに幼き人間に石を投げられ、傷だらけで逃げ出した。

辿り着いた草むらの中で身を丸め、ただ必死に傷を舐めていた。


「だいじょうぶ?猫さん」


その声に顔を上げると、そこにはまだ幼い少女が立っていた。

髪を二つに結び、白いワンピースを風になびかせながら、じっとこちらを見ている。


(また子供か)


近づこうとするその足音に、私は思わず背を丸め、「シャーッ!」と牙を剥いて警告した。

彼女は一瞬だけ目を見開き、驚いたような顔をする。

だけど次の瞬間、まるで拍子抜けするように、バカみたいな笑顔を浮かべたのだ。

私が呆然としている隙に、彼女は私を抱き上げた。

汚れた毛並みや血の滲む足を見ても「汚い」と罵ることもなく、微塵みじん嫌悪けんおも浮かべなかった。


「よしよし」


小さな腕に抱かれながら、その声を耳にした瞬間、胸の奥がざわめいた。

人間の手も声も、恐ろしく冷たいものだとばかり思っていたのに、彼女の腕の中は、もういつのことかも忘れてしまった母の懐のように、とても暖かい。


「家に帰ろう」


そう言って私を抱えたまま歩き出した少女は、ただの小汚い野良猫に、心を燻らせるような春を与えてくれた。


———それが、露木愛斗の祖母、春子との出会いだった。


それから彼女は、私に『アン』と名前を付け、自分の妹でもあるかのように愛を注いでくれた。

朝になると、まだ眠たい目をこすりながら「おはよう」と声をかけてくる。

学校から帰ると真っ先に駆け寄り、給食の残りを懐から取り出して私にくれたりもした。

時には縁側に腰を下ろし、膝の上に私を乗せては、髪を梳くように毛並みを撫でてくれた。

もっとも、台所の魚をつまみ食いしたり、障子を爪で破いたりといった悪戯をした時には、小さな眉をきゅっと寄せて「こらっ」と叱られたが。

けれどその声には冷たさはなく、むしろ心地よい響きさえあった。

かつて誰一人として私に居場所を与えなかったこの世界で、ただ一人、春子だけが私を受け入れてくれた。

私にとって、それは生まれて初めて『生きていた』と言える時間だった。


だけど、人間と動物では、生きる時間があまりにも違う。


春子が大人になっていく姿を、ずっとそばで見ていたい。

いつまでも隣にいたい。

そう願ったけれど、時は残酷で。

私は老いぼれ、まだほんの少しだけ大人になった春子を残して、離れなければならなかった。


どうか、春子があまり悲しまないように。

そのときの私は、ただひたすらにそう願うしかなかった。


次に目を開いたとき、私はもう彼女には見えない存在になっていた。

泣きじゃくる春子の足に身体をすり寄せても、にゃあと鳴いても、彼女の手が私を撫でることは、二度となかった。


それでも、良かった。

姿は見えずとも、彼女の隣に居られるのだから。

春子は子供から、やがて綺麗な大人へと姿を変えていった。

笑い声はそのままに、瞳はより深く澄み、誰かを思いやる優しさを失わなかった。

やがて結婚をし、母となり、子を抱く姿を目にした時、私は胸の奥が不思議と温かく、そして少しだけ寂しくなった。

もう彼女は十分に幸せそうで、そろそろ上で待っていようか。

そう思った矢先だった。

彼女の大切な宝物が、ぽつりと、この世に現れたのは。


露木愛斗。


初めて出会った頃の春子のように小さく、かつての私のように、みすぼらしい姿をした人間の子。

自分の親に見捨てられた愛斗。そして、その親が自分の子であるという事実に、深い罪悪感を抱いていた春子は、今まさに芽吹めぶいた春ののように、愛斗を誰よりも大切に、誰よりも強く守ろうと育てていた。

露木愛斗もまた、ようやく手にした『誰かの愛情』を、決して手放すまいと、必死に応えようとしているように見えた。


彼女は悩んでいた。

露木愛斗が誰かの愛情に飢え、自分を偽っていることに。

そして父のようにピアノを愛しながらも、祖父である露木秀男にうとまれるのを恐れ、その想いを胸に隠していることに。


春子は教えたかったていた。

「あなた自身であることが、何よりも大事な宝物なのだ」と。

けれど、その願いは叶わなかった。

春子は、ガンという恐ろしい病に蝕まれてしまったのだ。

医師と呼ばれる白衣の人間は「もう、手の施しようはない」と淡々と告げた。

治療を諦め、家で静かに療養していた彼女の身体は、日ごとに衰弱していった。

やがて布団の中から起き上がることすら叶わなくなり、私はただ、その傍らで蹲ることしかできなかった。


「……アン……?」


力なく、息を紡ぐだけで精一杯の声が、もう一度私の名を呼んだ。

その弱々しい眼差しが、確かに私を見つめた瞬間、身体の奥底から悲鳴を上げたいほど、私は嬉しかった。


「……ずっと、そばに居てくれたんだねぇ……」


かすかな笑みとともにそう告げた春子の頬に、私は「そうだよ」と答えるように顔を擦り寄せた。

けれど彼女の手はもう、私に触れることはできない。

見えるだけで、触れることの叶わぬ距離が、ひどくもどかしかった。


「アン、一つだけ……お願いを、聴いてくれる?」


にゃあと、私は鳴くしかできなかった。


「私の……そばに居てくれたみたいに、愛斗……あの子の、そばに居てくれないかい?」


息をするだけでも苦しそうで、言葉は途切れがちで、とげとげしかった。


「あの子に……愛ってものを教えてくれる誰かが、現れるまででいいから……」


それだけが心残りだと話す彼女の願いを、私が断れるはずがなかった。

私を救い、愛情を注いでくれた春子の最後の願いを、拒むことなどできるわけがない。


「にゃぁ」


わかった。私がそばに居るから、安心して。

そう伝えるようにまっすぐ見つめれば、

春子はしわくちゃになった顔のまま、けれど昔と変わらぬ笑顔で微笑んだ。


「……ありがとう」


そのひと言を残し、まもなく彼女は静かに息を引き取った。


春子がいなくなった露木家は、ひどく静まり返っていた。

悲しみの色しかなく、露木愛斗は絶望のどん底に沈んでいるように見えた。

私は、春子との約束を果たすために、彼のそばで見守っていた。

けれど、このままじゃいけない。

『愛を教えてくれる人』が現れる前に、愛斗のほうが先に春子の後を追ってしまうんじゃないか。

そんな気がして、怖くてたまらなかった。

このままじゃ、春子の願いを叶えるどころか、彼女を深く悲しませてしまう。

もしかしたら、私のことを嫌いになってしまうかもしれない。そんな考えすら、頭をよぎった。

だから、私は祈った。


(どうか神様。私に、ほんの少しでいい。ほんの小さな奇跡を起こせる力をください)


毎日のように願い続けたその祈りは、やがて神様へ届いたらしい。


気づけば、ただの猫だったはずのこの瞳に、人と人との【縁】が、細く、長い光の糸のようになって見えるようになっていた。


そして、露木愛斗の黒く淀んだ糸の群れの中から伸びる一筋の【縁の糸】。

その糸に触れようとしても、私にはそれが『見える』だけで、手を出すことは許されていなかった。

人間の縁は人間自身の手でつむぎ、選ばなければならない。それが、この世界の決まりらしい。

だから私は『Le Lien(ル・リアン)』という店を作った。

希望のようにかすかに輝くその糸の、もう一方の端を持つ者が現れるのを、ただ待って、待って、そして待ち続けた。

そしてようやく、その繋がりを持つ者が、私の目の前に姿を現した。


「これはこれは……」


お願いだ。


「珍しく、見事に縁の糸が、すべて絡まっておるのう」


どうか、春子の願いを。


「まあ、『契約』を結ぶなら考えてやらんこともないがのう」

「契約?」


そう、と私は、いやはアーモンド形の瞳で黄ばんだ『アルバイト募集中』と書いてある紙を見て、にゃあと鳴いた。


あの子を、救ってやってくれ。


――小谷野柚葉。




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