霹靂
はい、覚えておりますよ。たしか……半月ほど前のことでございました。ご旅行でね、いらしたみたいで。エ、行先ですか? さて……すみません、そこまでは……。
怪しいところですか、ハハハ、まさか、まさか……。随分と、仲睦まじいご様子でしたよ。窓の傍の、そうです、そこの席。あすこにおふたり向かい合わせにおかけになって、なにやら楽しげにお喋りして、それから時々外を眺めておいででした。微笑ましいものでした。穏やかなお天気でしたからね、直前の、春の嵐が嘘のようで。雲間から差す柔らかな光によって、淡くはかない七色が浮かび上がっておりましたよ。ええ、三月の末に、ありましたでしょう、突然の雷雨が。七十二候じゃ
それで、……特に、そう、旦那さん。私の位置からは彼のお顔が丁度目に入ったのでございます。あの、どこかぼうっとしたかがやく瞳はきっと、いえ間違いなく、恋という狂気に感電しているものでございました。はい、狂気です。勿論わかりますとも、なぜって、それは、たくさんのお客様をね……ありがたいことに……この店で長年見てまいりましたから……。家族や友人、あるいは知人、それから恋人に夫婦……。どんな名前の関係性でも、あるいは名前のつかない関係性であっても、相手をどう思っているのかはその方の目を見ればわかります。どれだけ周到に隠そうとも、滲み出るものなのです。
ええ、ええ、ですからあなたが今わたしのことを無駄口を叩く老耄とお思いで、腹の底でわたしの言葉を訝しんでおいでなのも、よくよく分かっておりますとも。いやいや……アハアハ、冗談、冗談、ハハハハ……。
……まあしかしね、中でも恋というのは、兎角恐ろしいものなのでございますよ。
あなた、恋人は? そうですか、そうですか。ではお分かりになるのではないですか。
相手に誘われるがまま、普段自分の生きている道から一歩踏み出し、踏み外し、境界線の外側へと連れ出されてしまう。他者と触れあって、無茶苦茶に引き摺りまわされて、理解できなくて、理解されなくて、混乱して、困惑して、今までの自分とは別人のようになってしまう。気がついたときにはもはや手遅れでありましょう。しかしその苦しみをうっとりと受け入れる、至上の喜びと錯覚する、狂気に陶酔しているのです。無論、そのまま我を失い理性を倫理を打ち捨ててしまったならば、ひとの道を外れるならば、けものの行いでございますけれどね……。
きっとそれは事件ではなく、事故なのです。不意に襲い来るものから、圧倒的なものから、人間は逃れることができません。所詮、賢いフリをしているだけのけものに他ならぬのですから。ほら、恋に落ちることを雷に撃たれたよう、なんて言いますけれど……ね、やはり事故でございましょう。
そういえば、仲の良い夫婦は顔が似ると言いますが、あのお若いおふたり、それはそれは……不思議なほどそっくりなお顔立ちでいらっしゃいましたねえ。……
春嵐 蔦田 @2ta_da
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