春嵐
蔦田
春雷
車のエンジン音が、どんよりとした灰色の空気に溶け込むように静かに響いていた。ぬるい甘さを含んだ空気は湿度によって重苦しい。今にも雨が降りそうであったが、まだ降り始めてはいなかった。厚い雲が覆いかぶさり、一面に辺りを閉ざしている。
薄暗い車内ではFMラジオから不安定な音が流れている。曰く、隣町の兄妹が二日前から行方不明となっているらしい。警察は引き続き捜索を行っているが、依然手掛かりはつかめていないという。
「へえ、行方不明だって。見つかるかな」
助手席の女は窓の外を眺めながら呟いた。
「ウン……どうだろう」
運転席の男は前を見つめたまま答えた。
「失踪から一週間を超えると、発見の可能性はかなり低くなるらしいけど」
まだ、二日だから、分からないな。と言う男の声はしかし、かすかに遮られた。
近づいてきた雷鳴によってである。
春の雷には夏のような激しさはない。だんだんと近づいてきて、ほんのひとつふたつ、激しくなったかと思うとそれきり止んでしまう、穏やかな、優しさすら感じさせるものである。とはいえそれは人の身には耐えられない激情を孕んでいる。青白く閃く光には瞳を焼かれてしまう。空を裂く轟音は鼓膜を破る。電流が身体の内を走れば心臓は止まる。雷に撃たれたくなければただ、震えて隠れるほかに成すすべはないだろう。
おどろおどろと音が迫りくる。
それは空腹に耐える獣の腹の鳴る音である。
あるいは獣を射抜かんとする狩人の足音かもしれぬ。
この日は、春の嵐の日であった。……
信号は赤である。
旧国道沿いは山ばかり、煙るそれらは黒く揺らぎ、向かう細道の先にはトンネルが、ぽっかりと口を開けている。今か今かと待ちわびている。
天候のためか町の小ささゆえか、辺りに人も車も姿はなく、あるのはただ静寂だけだった。流れるラジオの音楽がどこか調子外れに響いている。
「ねえ、どこまで行くの」
女がふいに問いかけた。男の方を向いた拍子に、黒髪がはらりと一筋、柔らかな頬を撫でていた。
「なんだ、帰りたいのか」
男は依然、前を向いたままではあったが、横目でちらりと女を見た。
「あなたは?」
「俺は、帰したくないよ」
「ふうん……」
「何?」
「ふふ、別に」
意外と熱っぽいことを言うから、驚いただけ。と女は茶化すようにはにかんだ。
このひとの中にまだ知らないことがあるだなんて、と、驚いたのである。見えているはずが像を結ばず、掴んだはずがすり抜ける、そんな、ずっと曖昧だったものが、とうとう明瞭な輪郭を持ったのだった。なんだか面映いような心持ちになって意味もなく髪を耳にかけたり元に戻したりしていると、男が左手で無遠慮にぐしゃりと髪をかき混ぜてくるものだから、嫌がる女と揶揄う男が目を合わせ、束の間、薄暗い車内には似つかわしくない穏やかな笑い声が広がっていた。
ふと小さな振動を感じて窓を見やれば、ついにぽつり、ぽつりと雨が降り出した。気づけばごうごうと風が暴れている。
男は指を伸ばしてラジオを切った。
車の屋根を叩く雨音の間隔。ワイパーの往復。指先がハンドルに刻む無意識の
「なあ、だけど」
男は躊躇うように口を開いた。逡巡する瞳が揺れている。
「だけど、お前。……、……お前、今ならまだ引き返せる」
雨は瞬きのうちに激しさを増していた。強まる雨脚が細い声を掻き消すようである。大粒の雫が次から次へと暴力的に叩きつけ、視界の悪さで前方を見通すことさえ儘ならない。唸り声に似た雷鳴が、獲物を捕らえんと目を光らせ、徐々にこちらに近づいている。
しかし女は、
「呆れた。今更、物分かりの良いフリをしないでよ」
と、澄んだ声でからりと言った。
「私を攫ったのも、帰したくないって言ったのも、あなたじゃない」
「怒ってる?」
「怒ってない」
でもね。
「でも、ゆるさないよ。……だってもう、手遅れなの」
女は微かに笑った。ほんの一握りの諦念が紛れ込んだようないじらしい笑みであった。
それは可燃性の高いものに何かの拍子に火がついて、燃え広がって、手が付けられなくなってしまったときのような。そうして熱の苦しさから逃れるためには、すべてを捨て去らねばならないのだと、例えそれが最善ではないと分かっていても、そうするしかないのだと自分に言い聞かせるような、諦めと達観である。或いは砂粒ほどの小さな救いを求めて彷徨う愚か者の姿でもあった。
男は小さく息をのんで、それから女をジッと見つめた。そうして、ひどくよく似た表情を浮かべたのである。
「揺り籠から墓場まで。……ううん、それじゃ足りない。奈落の底まで」
ずうっと一緒にいてくれなきゃ、ゆるさない。
信号が青に変わった。
道ならぬ道を行くのは、ただ、ふたりきりの、ひとの姿をしたけものである。
ひとつ、閃光。それから轟音、瞬く間もなく。
春雷、随分近くに落ちたらしい。
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