第五十一

「――この辺りでは見かけない子ね。かわいらしい狐さん。あなた、どこから来たの?」

 

 柔らかな声がした。

 しっとりと染み入るような、穏やかさと慈愛に満ちた。


 目を開けば、優しげな顔立ちの女性が自分を見下ろしていた。

 華やかな美貌、という訳ではないが、声同様に、心が解けてしまうような。

 故郷を追われ、母を喪い、ささくれ立った心が、からりと軋む。

 

「あ、な、たは……?」

「ふふ。気付いたのね。よかったわ。まずはお水をどうぞ」


 女性の手に、瑞々しい葉が一枚。透明な水がその表面に湛えられている。

 その水を、ひとくち口に含んだ途端、全身を覆う苦しさや冷たさ、怠さがたちどころに吹き飛ぶのを感じた。


「あなた、お名前は?」


 はっと墨紫は頭を下げた。

 どう見ても、この佇まいも、纏う気配も、常人のそれではない。

  

「……胡墨紫こ・ぼくし、と申します」

「あらあら。畏まらなくたって、いいの。楽にしてくれて。――あなたがわたくしの下に来たから、気になって声を掛けてみたのよ」

 

 柔らかに云う女性の言葉に、「下――?」と、墨紫が、己に差す影に気付いて見上げる。 


 ――その瞬間、風が、青みを含んだ香を運んだ。

 なんとも言えず、清らかなその香り。

 ただの葉とも、花とも言えぬその香りが、そっと鼻腔を撫でる。


 さらりと濃い緑の葉が揺れた。

 

 それは――巨大な大樹だった。

 どこまで続くのか、上は分厚い雲に覆われて見えない。

  

 天地を貫く大樹――建木けんぼく

 その神の名を、墨紫は聞いたことがあった。

 都廣山の神・都廣山公の夫人である――

 

「権夫人の御所に、ご無礼を――」

「ふふ。礼儀正しい狐さん、墨紫というの。艶やかな潑墨紫ぼたんの――素敵なお名前ね。胡、ということは霊狐族の方ね?」


 「」の音は「」に通じ、霊狐族が人の姿と化した際、そう名乗ることが多い。

 本来、父王と同じ姓を名乗るべきであったが、父王が倒れて以来、墨紫がそれを名乗ることは許されていなかった。


「どんな縁で我が君の山にいらっしゃったのかしら? でも、まずはゆっくりしてらして。ね」


「――夫人。……何ぞ拾ったのか……」 

 

 低い声が、岩肌を擦るように空から降ってきた。

 風もないのに、建木の周りの葉がざわりと鳴る。

 と同時に、墨紫の尾の毛が逆立った。

 

 姿は見えないが、墨紫にもひやりとするほどの威厳と圧に満ちた。――が、権夫人は柔らかく微笑んだまま、応じる。


「あら、旦那様。だって、こんなに美人でかわいらしくて賢い狐さんなんて、滅多にお目にかかれないですわ!」

「そうか。……夫人の望むように」


 声は、神威に溢れて本能的な畏れを墨紫に抱かせはしたが、その響きは存外に穏やかだった。

 

「ありがとうございます、旦那様」

 

 直後、気配が遠ざかる。

 詰めていた息を吐き、墨紫は身の震えを抑える。

 

「さあ、旦那様にお許しもいただきましたから。――皆、お客様よ」


 権夫人の声に、細い鈴のような声が、枝々の間で重なった。

 

「珍しい、お客様」

「狐さん」

「歓迎しないと」


 声で、また風が柔らかに吹き、花が舞った。

 建木の周りの木々の影から、色とりどりの衣を纏った少女や女性達がにこやかな表情で現れた。

 

「ようこそ、小さな狐さん。都廣山へ――」


 

   * * *

 


 はた、と墨紫は目を覚ました。

 杜尤を襲った霊狐を追い、墨紫は颱までやってきていた。

 かなり身を隠すのが巧みなようで、数日探しても、中々その痕跡は見つからなかった。

 疲れて少し一休みと思って、眠っていたらしい。


 懐かしい夢を見た。

 途方もなく昔――霊狐族の王族として、母と二人、冷遇されながらも、支え合って生きていた。

 玻璃のように脆くも、穏やかな日々。

 

 そして、霊狐として導いてくれた、権夫人との出逢い――。


 柔らかな、権夫人の声。

 そして、最期の、母の微笑み。

 

“子に命を継ぐは親の役目。――そうやって、命は繋がれてゆくのよ”

“だから――生きなさい”


 声が、微笑みが、言葉が、ずきりと胸を刺す。

 自らの犯した罪を、突きつけられるようで。

 

 あの黄泉の冷たい水に浸る墨紫の前には、誰も現れはしなかった。

 誰も。

 

 人と異類とでは行く先が違う。それも当然ではあった。

 いっそ、あのまま永遠に目覚めなければ――と、愚かしくも、心は揺らぐ。

 他ならぬ自分で封印から解かれるように動いた筈なのに。何を、と。

 尾の先が、静かに地面を打った。

 

 寒空の下、杜尤を外に放り出したまま出てきてしまった。

 凍えないように術は掛けてはおいたが――。

 

 そんなことを思いながら、吹き付ける風の冷たさに震える。

 

 杜尤の元で過ごした日々で、文字通り、夢を見てしまったのだ。

 いけない、と気を奮い立たせる。

 

 のんびりしてなどいられない。

 本来の目的を、忘れてはならない。

 

 何としても、魄一族の秘法を手に入れる。

 それは数百年前から変わらぬ、墨紫の悲願だ。

 

 黄泉の底方に封じられながら、それでも長年の修練により、墨紫は己の魂を分け、憑いた相手を操る――分魂の術を会得していた。

 それによって人界の情報を得、人を襲い、力を蓄え、ついには黄龍と玄武の封印を解くことに成功したのである。


 それなりに危険な術ではある。

 それ故、分魂の術を用いている間に見聞きしたことが現実なのか、夢なのか、混濁することがあった。

 月寵子が、単なる護衛ではなく、浩の皇太子だとすぐに気づけなかったのも、その為だ。


 その月寵子を動かし、やっと秘法を手に入れられるかと思ったのに――邪魔が入って失敗してしまった。

 

 だが、収穫もあった。


 なぜあの場に、敵対する浩の皇太子と颱の皇太子が居合わせ、行動を共にしていたか。

 その、所以。

 浩の宮中や遺都で漏れ聞いた噂などと合わせれば、二人が行動を共にしていた理由にも、おおよその推察はついた。


 数多の人間を、欺き、誑かし、意のままに導いてきた墨紫である。

 人の目を眩ます美貌は勿論――何よりも卓越していたのは、人の心の機微を見抜く眼力であった。

 

 一般には浩の皇太子が迎えた妃は、颱帝の第二子・妹の皦玲ということになっている。

 しかし、実際に浩に嫁いだのは妹・皦玲ではなく、姉の皇太子・皓月の方なのだ。

 逆に、姉が皇太子妃となったあと、颱の皇太子として振る舞っていたのが皦玲――。


 もし、皇太子としての名望篤い皓月が浩に嫁いだということが明るみになっていたならば、皦玲が嫁いだときの衝撃の比ではなかっただろう。

 それ故、秘されたのだろう。

 

 

 玄冥山での戦いで、墨紫は颱の皇族を一人、谷底へと落とした。


“きゃああああああああああああああああっ――――!!”

!!”

“途切れさせるでない”

“――! しかし、母皇上”

“颱の皇子なれば、自力でなんとかせねば。そうであろう”

“……母皇上……”


 ――あの時。

 落ちた皇族は、「皦玲」と呼ばれていた。

 咄嗟にそう呼んだからには、落ちたのは「皦玲」の方で間違いないのだろう。

 生死を含め、その後どうなったかは確認していなかった。

 

 だが、先日出くわした霊狐がその身体を奪っていたということは、そういうことなのだろう。

 

 しかし、颱の皇太子が亡くなったという話は聞かない。

 そして、浩の皇太子妃が亡くなったという話も。


 このことが意味するのは。


「……」

 

 警戒心の強い、あの浩の皇太子を動かすのは、至難の業である。

 単純に、浩の皇太子だけを動かそうとすれば。

 

 だが、玄冥山で浩の皇太子は、颱の皇太子を救うため、秘法を探すことをすんなり承諾した。


 あの冷ややかな青銀の瞳に垣間見えた熱。

 語りかける声の柔らかさ。

 焦がれるようでいて、僅かに触れるのすら躊躇するような扱いよう――。


 その目を、声の響きを、仕草を――墨紫は知っていた。


 振り返ってみれば、明白であった。

 浩の皇太子を動かす鍵は、ただ一つ、颱の皇太子・皓月だと。


“……無辜の民の命を盾にするとは!!”


 玄冥山で対峙した時――僵尸を颱の里に放ち、民を襲わせるとほのめかした墨紫に対し、怒りを露わにした。

 あの真っ直ぐで、民想いの気性。

 墨紫からすれば、浩の皇太子や南麗雅を動かすよりも遥かに容易い。


 そして、皓月本人にも魄の血が入っていることは、玄冥山で確認済みだ。

 彼女から魄の秘法に近づけるかもしれない。 


 杜尤を害した件以外にも、あの霊狐を追う理由が、もう一つできた。

 あの霊狐が使っている器――風皦玲と思われる――あれを得れば、皓月を誘き出すことは、より容易い。


 手段など選んでいられない。


 この手で壊してしまったものを、元通りにするのだ。

 全て。

 そのために、いかなる罪を負うとしても。


 黎明の穹の光が、墨紫を照らす。

 冷たく他を圧するその光が、あの日――権夫人や姉と慕った木精達を焼いた朱の炎のように見えて、墨紫は目を細め、臍をかんだ。


  * * *


 夜、激務に疲れた皓月はぐったりとして湯に浸かっていた。


「あら? 皓月様……」


 皓月の入浴の世話をしていた侍官の一人が、戸惑うような声を出した。


「――どうした?」

「鎖骨の下に、何か……」


 鏡を覗き込んだ皓月はぎょっとした。

 己の鎖骨の下に、金の花片のような痣が、くっきりと浮かび上がっていたのだった。



――――――――――――――――

お読みいただき、ありがとうございます。


【簡易まとめ】

長いシリーズなのと、ややこしいシーンなので、整理しておきます。

不要な方は読み飛ばしOKです!


もともと墨紫は、月寵子――すなわち旣魄の母后も狙っていました〔巻二〕。

その母后を陥れるために、心臓抜き取り事件を仕掛けていました〔巻一・巻二〕。


さらに、その子である旣魄も標的としており、彼を動かすためにも同様の事件を起こしていました。〔巻二〕


ところが、行方不明の母皇を探す皓月に旣魄が同行する形で玄冥山へ出てきたことで、結果的に思わぬ形で“成功”してしまいました〔巻二〕。


もっとも、分魂の術の反動〔本話〕や皓月と皦玲の入れ替わりなどが絡み、

すぐには「旣魄=浩の皇太子」とまでは気付かなかった様子〔巻二〕。


ですが、ここに来て、皦玲と皓月の入れ替わり、

旣魄と皓月の関係性を含め、すべてを理解しました。


墨紫の狙いは一貫して、魄の秘術『十三靈耀大法』。


そして彼女は今、旣魄を動かすよりも、

皓月を動かした方が「早い」と気付いてしまった様子(..;)


果たして……?


というわけで、次話へ続きます!


【追記】

「続きます」と書いておりますが、ここで一度、お休みをいただきます。


一通り書きおえてから連載の再開させていただきます。

2月頃を目標に、頑張ります!!

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【第六十七執筆中】昊国秘史〈巻三〉~元皇太女、琥珀の曠野に號令す~ @xiaoye0104

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