海をおよぐカバ
青切 吉十
黄金に輝く
「おかしな夢を見たよ。赤羽町の太平洋ロングビーチでぼくはのんびりしていた。水面が黄金に揺れててさ。あれだね、春の海ひねもすのたりのたりかなの心境になっていた。与謝蕪村だよ。そしたらさ、なにが起きたと思う。カバだよ。十数頭のカバが海辺に現れて、およいでいるじゃないか。カバは漢字で河の馬と書くから、たぶん、海でおよぐことはないと思うんだ……。この夢、どういう意味があるんだろうね?」
アパートメントの広いリビングダイニングに、ぼくの声だけが響く中、妻は先ほどから、相槌を打つこともなく、黙って話を聞いていた。
三月の昼の日差しがレース越しに部屋を照らしていた。しかし、部屋の中はうすら寒かった。
妻がひとつくしゃみをしてから言った。
「くだらない話はそれでおしまいかしら。そんな話は私じゃなくて、占い師にしてよ」
妻の言に、「田原に占い師なんているのかな」とぼくが答えると、「豊橋でも名古屋でも、行って来ればいいじゃない」と妻が怒鳴った。
それに対して、ぼくが、「夢を占うために、いちいち出て行くのはめんどうだな」と応じたところ、妻はその言葉尻をとらえて、「そうよ。なにをするにもめんどうなのよ、ここは」と吐き捨てるように言った。
「また、そんなことを言って。ここはいいところじゃないか」
「なにもないわ」
「なにもないのがいいんじゃないか」
「空気が乾燥しているし、いつも風が強いし」
「きょうはいい天気だよ」と応じてから、ぼくは、「伊良湖の春は~」と『襟裳岬』の替え歌をうたいはじめた。それが妻の癇に障ったらしく、「あなたのそういうところが本当に嫌い」と冷めた声で言った。
「もう限界なの、私。あなたは毎日サーフィンができて楽しいんでしょうけど、私はちっとも楽しくないの。こんな、私にとって、なにもないところ」
泣き出した妻に対して、「きみは運動音痴だからね。でも、慣れれば楽しいよ。サーフィンも」とぼくは言ったが、もう、「そういう意味じゃない」とすらも彼女は言わなかった。
しばらくすると、泣き声がやみ、「私、名古屋の実家に帰るわ。ともだちから仕事を手伝ってくれるようにお願いされているし」と妻が言い出した。
ぼくは慌てて、「ちょっと待ってくれ」と口にしてみたが、どうも、妻の考えを変えさせるのは難しそうだった。
「しばらく、距離をおきましょう。でもね、私はここに戻る気はないわ。あなたが、海辺の分譲住宅を買っても、私は住まない。どうしても住みたいのならば、離婚して、ひとりで住んで」
妻のことばに対して、ぼくは、「それで、最終的に、きみはどうしたいんだい」とたずねた。すると、彼女は「名古屋にマンションを買って、そこで暮らしたいわ。そろそろ子供も欲しい」と言った。
「だったら、それこそ、自然豊かな田原でいいじゃないか」
ぼくがそのように言うと、「せっかくだから、いい学校に行かせたいじゃない」と妻は反論した。
右の親指をこめかみにあてながら、ぼくはしばらく考えてから口を開いた。
「いったんは、きみの好きにするといいさ。お互い、妥協の余地がまったくないわけではなさそうだからね。きみも、名古屋にしばらくいれば、考えが変わるかもしれないし」
ぼくのことばに、妻は不機嫌そうに「こっちにいたら、あなたはますます、自分の考えに凝り固まりそうよね」と応じた。
それに対して、ぼくは首を横にふった。
「わからないよ。ひとりのさみしさにたえられないかもしれない。何にせよ、ぼくはきみを愛しているからね」
「本当に?」と妻が近づきながら言ったので、ぼくは「本当さ」と答えながら、彼女を抱きしめた。それから、どういういうわけかよくわからなかったが、どちらから誘ったわけでもなく、ぼくたちはソファでセックスをした。
次の日は日曜日だったが、昼前には、妻はさっそく、荷物をトヨタのパッソに積み込んで、実家へ戻って行った。
ぼくはまあいいさと、だれも文句を言う者がいないのをよいことに、昼間から白ワインを開けた。しかし、きのうのことで何だか疲れていたのだろうか、ボトルを半分も空けないうちに、そのままソファで寝てしまった。だが、寝てすぐに、妻から電話がかかってきた。寝入りを襲われたかっこうのぼくが生返事をすると、「あなた、大丈夫?」と妻が叫んだ。「なにが?」とたずねると、「カバよ」と素頓狂なことを言いだした。
ぼくは「カバがどうしたのさ。きのうの夢の話か。きみはさっそく占い師にでも就職したのかい」と眠気と戦いながら言った。
すると、「いいから、テレビをつけて」と妻が口を開いたので、ソファに横になったまま、テレビをつけた。「NHK、CBC、それともテレビ愛知かい?」とぼくがたずねると、「どこでもいいわよ」と声が返ってきた。
テレビをながめると、スタジオが映し出され、女性アナウンサーが深刻な表情で次のように告げていた。
「繰り返します。愛知県田原市の太平洋側の海岸から、無数のカバが上陸し、キャベツ畑や菜の花畑を襲っています。住民の方は家屋内など、安全な場所に避難願います。これはバラエティ番組の企画などではありません。住民のみなさんは、安全の確保をお願いします。……それでは、準備が整いましたので、ヘリコプターによる、上空からの映像をご覧ください」
アナウンサーの声に応じて画面が切り替わり、上空からの海岸の映像が流れた。おそらく、赤羽根西海岸だろう。話の通り、無数のカバが群れている様子が見てとれた。一部は海岸から離れて北上し、住宅地に向かっている。ヘリコプターからの映像が、その住宅地の先にあるキャベツ畑を映し出した。カバのために、無残な光景がすでに広がっていた。
ソファから立ち上がり、呆然としているぼくの耳元で、スマホから「あなた、大丈夫?」と妻の声がした。ぼくが「ああ、大丈夫。いまのところはね」と答えたところで、ガラスの割れ落ちる音が室内に響いた。
その方向を見ると、なんと、一匹の大きなカバが、リビングダイニングの大きな窓に体当たりをしていた。ぼくは寝室に逃げようかと思ったが、それでは逃げ場がなくなると考え、思い切って、玄関から外へ出ることにした。
玄関を開けてみると、数頭のカバが駐車場にたむろしていた。ぼくは自分のマツダ・ロードスターに乗り込もうとしたが、まるでその動きに反応したように、一頭のカバが車にぶつかった。そのため、買ったばかりのぼくの愛車は半転して、となりのアルファードにもたれかかる形となった。それから、カバたちがゆっくりと、ぼくを囲むように近づいてきた。
どうしようと思ったとき、ぼくの視界に駐輪場の自転車が目に入った。カバたちを刺激しないように駐輪場に近づくと、一台だけ、鍵のかかっていないママチャリがあった。ぼくはそれに急いで乗り、とりあえずアパートメントから離れることにした。カバたちの間をすり抜けようとしたところ、二匹が自転車に体当たりしようとして、お互いの頭をぶつけ、その場に倒れ込んだ。いい気味だった。
自転車で北上していると、キャベツ畑や菜の花畑をカバたちが荒らしていたが、どういうわけか、ぼくの存在に気がついた途端、カバたちはごちそうそっちのけであとをついてきた。
田原バイパスに入ると、まったく進まない車の列が、けたたましいクラクションの音を鳴らしていた。ぼくは車の間を縫うように、先へ先へと進んだ。途中で振り向くと、カバの群れが車を蹴散らしながら、ぼくのあとを追っていた。「おい、おい。何か、用かい」と、ぼくは思わず、つぶやいた。喉がからからだったが、水分を補給する暇はなかった。
自転車を走らせていたら、前方に道の駅「田原めっくんはうす」の看板が見えてきた。ぼくはそこで、道路を左にまがり、田原駅前通り線に入った。渥美半島を出て豊橋に逃げるなら、そのまままっすぐ国道259号線を進むべきだったが、カバの群れが立ちふさがっていて、それはできなかった。だから、ぼくは左にまがったのだった。
全身、とくに両腿に疲労をおぼえながら、ぼくは北上し、カバに占拠されていた三河田原駅を通り過ぎた。
しかし、殿町の交差点でまたしてもカバどもにじゃまされて、左折しようとしたところで、カバの突進を受けた。そのためにぼくは自転車のハンドル操作をあやまり、ひどくこけた。体中傷だらけになったぼくは、自転車を諦めて走りだした。
だが、ぼくの体力はすでに限界だった。そのため、目の前にあった田原市博物館へ逃げ込んだ。
博物館の中にひと気はなく、カバもまだここまで来ていなかった。
ぼくは安全に休める場所を探して館内をさまよったが、とうとう疲れ果ててしまい、悲劇の蘭学者である渡辺崋山の自刃した刀が展示されている部屋で倒れ込んだ。
もう、どうでもいいと思ったが、強烈な獣臭さと同時に、激しい物音がしたので、立ち上がらざるを得なかった。
すると、どういうことだろう。金色に輝く一頭のカバが、ぼくの前にのそのそと現れた。その姿に見とれていると、カバはブーブーと一鳴きしたあとで、ぼくに突進してきた。それを何とかよけると、カバは刀が収められているケースにぶつかった。その衝撃でケースがはずれ、刀が床にころがったので、ぼくはそれを手に取り、黄金に輝くカバの眉間に突き立てた……。
……昼寝から目がさめたぼくは、アパートメントの外に出た。駐車場をながめると、まだローンの残っているロードスターは当然無事だった。もちろん、アルファードも。
近所のミカン畑の無人販売所をのぞいてみたところ、もうミカンは置いていなかった。もうすこしすれば四月。春の本番が近い。一面に広がっているキャベツ畑がきれいだった。
海をおよぐカバの群れ。どういう意味があるのだろうか。名古屋で、夢専門の占い師に占ってもらうおうか。
ぼくは占い師にたずねる。この田原と名古屋。さて、どちらに住むべきなのでしょうかねと。
海をおよぐカバ 青切 吉十 @aogiri
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