【大正探偵小説】京都闇帳簿事件 ー三流探偵、巨悪の影を追うー(約19,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
【大正探偵小説】京都闇帳簿事件 ー三流探偵、巨悪の影を追うー
## 第一章:霧の都
大正九年、京都の街は早朝の霧に包まれていた。人口わずか数十万の古都。千年の歴史を持つ旧都は、日本近代化の波に洗われながらも、その本質は変わらず、金と権力を求める者たちの隠れ家となっていた。そして私、狼谷真一郎は、この金持ちたちの秘密を掘り起こす仕事で細々と食いつないでいた。
私のあばら家は、古い町家の二階。窓からは東山が見える。今朝も例のごとく、頭痛と共に目を覚ました。安物の醸造酒のせいだ。机の上には昨日の夜食の残りと積み上げられた未払いの請求書。
階段を上がる足音が聞こえ、戸が開いた。私の秘書、紅山真佐子が入ってきた。彼女は今日も完璧だった。真紅の着物に身を包み、漆黒の髪は肩で揺れる。彼女の存在だけで、この汚らしい部屋が別世界に見えた。
「おはよう、狼谷さん。今日も素敵な朝ね」
彼女の声は蜜のように甘く、そして危険だった。私は無愛想に頷いただけだ。
「新しい依頼よ」真佐子は微笑んで言った。「禄山家からの依頼。彼らの娘、杏奈が失踪したの」
「禄山家? あの銀行家か?」
「そう。日本帝国銀行の取締役」
私は蒲団から身を起こした。禄山家は京都で最も影響力のある家系の一つだ。彼らが私のような三流探偵に依頼してくるとは思えない。
「なぜ警察じゃない?」
真佐子は肩をすくめた。「噂話を恐れているのよ。杏奈さんは問題児だった。阿片、不良交際、家族の恥さらし」
「それで、私に何を期待してる?」
「単純よ。彼女を見つけて、静かに家に連れ戻すの。報酬は……」彼女は紙片を滑らせた。
私は数字を見て、思わず口笛を吹いた。「冗談だろう?」
「真面目よ。前払いもある」真佐子は封筒を取り出した。「でも、一つ条件があるの。絶対に公にしないこと。禄山家の評判を傷つけるような情報は、すべて闇に葬ること」
私は煙管に火をつけた。「探偵が真実を隠す仕事をするなんて、皮肉なものだな」
真佐子は微笑んだ。「あなたはお金が必要でしょう? 家賃も三ヶ月滞納してるわ」
私は深く煙を吸い込んだ。彼女の言う通りだ。この千年の都で、私のような男が生き残るには、時に原則を曲げなければならない。
「分かった。引き受ける」
真佐子の唇が微かに曲がった。「賢明な判断ね」
彼女が部屋を出た後、私は窓際に立ち、霧に包まれた街を見下ろした。表面上は美しく穏やかな京都。しかし私は知っていた。美しいものほど、内側は腐っているものだと。
杏奈の写真を見つめながら、私は考えた。彼女は本当に逃げたのか? それとも、誰かが彼女を消したのか? どちらにせよ、私はこの仕事で自分の手を汚すことになるだろう。それが、この古都で生きる唯一の方法なのだから。
私は羽織を引っ掛け、脇差を帯に差した。今日も長い一日になりそうだ。
## 第二章:富の迷宮
禄山家の邸宅は東山の麓にあった。まるで小さな御所のようだ。石垣に囲まれ、庭には手入れの行き届いた枯山水と茶室が並ぶ。私は玄関の鈴を鳴らし、名前を告げた。
門が開くと、長い石畳の道が現れた。私は足を引きずりながら、邸宅へと向かった。右膝は五年前の刀傷以来、雨が近づくと痛む。今日も雨の予感がした。
玄関で私を迎えたのは、年老いた老女中だった。彼女は私を光り輝く板張りの広間へと案内した。壁には名のある画家の掛け軸が飾られている。一枚だけで、私の一年分の生活費になるだろう。
「狼谷さん、お待ちしておりました」
低い声が響き、私は振り向いた。そこには、禄山五郎が立っていた。六十代半ばの男。髪は白いが、その目は鋭く、力強さを失っていなかった。灰色の袴姿は完璧に整えられ、その姿勢からは揺るぎない自信が漂っていた。
「お嬢さんの件で」彼は私を書斎へと招き入れた。「秘書から詳細は聞いていると思いますが」
私は頷いた。「基本的なことは。しかし、もっと知る必要がある」
禄山は重々しく溜息をついた。「杏奈は……扱いにくい子でした。母親が早くに亡くなり、私は仕事に没頭していた。彼女を甘やかしすぎたのかもしれない」
「いつから連絡が取れなくなりました?」
「三日前です。彼女の部屋は荒らされていました。何者かが侵入した跡がある」
「警察には?」
「言ったはずです。警察は関わらないでほしい」禄山の声には怒りが滲んでいた。「我々の家は京都の経済を支えている。噂話は許されない」
私は煙管を取り出したが、禄山は不快そうな顔をした。仕方なく、懐に戻した。
「お嬢さんの友人は? 恋人は?」
「彼女の交友関係は……複雑です」禄山は言葉を選んでいた。「最近、彼女はとある絵師と付き合っていました。仁科一真という男です。私は認めていませんでしたが」
「彼も行方不明?」
「いいえ。しかし、彼女の失踪について何か知っているはずです」
禄山は金庫を開け、厚い封筒を取り出した。「これが前払いです。結果を期待しています」
私は封筒を受け取り、立ち上がった。「杏奈さんの部屋を見せてもらえますか?」
彼は渋々頷き、私を二階へと案内した。杏奈の部屋は若い女性らしく、しかし明らかに高価な調度品で満たされていた。禄山の言う通り、荒らされた跡があった。抽斗は開けられ、着物は床に散乱していた。
私は部屋を調べ始めた。禄山は私を一人にし、下に戻った。数分後、私は屏風の裏から小さな手帳を見つけた。中には暗号のような記号と、いくつかの名前が書かれていた。その中に「仁.一」という署名と、「春舟画廊、木曜二十一時」というメモがあった。
仁科一真だろう。今日は木曜日だ。
部屋を出る前に、杏奈の写真を一枚懐に滑り込ませた。黒髪の美しい娘だ。彼女の目には、どこか虚ろな影が見えた。富と特権の中で育った孤独な魂。
邸宅を後にし、人力車に戻った。御者に声をかける前に、真佐子に電話する必要があった。近くの公衆電話から連絡した。
「仁科一真について調べてくれ。絵師らしい」
「了解。他には?」真佐子の声は相変わらず甘かった。
「春舟画廊も。今夜、そこに行くつもりだ」
電話を切り、私は通りを見回した。黒い洋装の男が道の向こうに立っていた。誰かが私を監視している気がした。こんな小さな都では、秘密は長く保たない。
人力車を走らせながら、私は考えた。杏奈は本当に誘拐されたのか? それとも自ら姿を消したのか? 京都という、金と秘密の都で、何かが起きている。そして私は、その闇の中に足を踏み入れようとしていた。
## 第三章:墨絵と欺瞞
春舟画廊は、京都の中心部、鴨川沿いの古い町家にあった。外観は地味だが、中に入ると別世界だ。白い壁、高い天井、現代的な絵画が所狭しと並んでいる。
私は二十一時前に到着し、客を装って展示を見て回った。人はまばらで、ほとんどが和服の旦那衆か、洋装した芸術家らしき者たちだ。
「興味のある作品はありますか?」
背後から声がかかり、私は振り向いた。三十代前半の男。長い黒髪を後ろで結び、銀縁の眼鏡をかけている。彼の羽織は高級そうだが、意図的に乱れた印象を与えていた。
「仁科一真さんですか?」私は直球で訊いた。
彼の表情が固まった。「あなたは?」
「狼谷真一郎。杏奈さんについて話がある」
「ここではない」彼は周囲を見回し、小声で言った。「閉館後、裏口で会おう」
彼は他の客に対応するふりをして離れていった。私は時間を潰すため、展示を見続けた。抽象的な墨絵ばかりで、私には何が描かれているのか皆目見当がつかなかった。私の芸術的センスは、安酒の味と古い謡曲に限られる。
閉館時間が近づき、客は徐々に減っていった。最後の客が去ると、画廊の職人たちも次々と帰り始めた。私は建物の裏に回り、待った。
十分後、戸が開き、仁科が顔を出した。「中に入って」
私は彼の後に続いた。画廊の裏は小さな工房になっていて、絵の具や筆が散らかっていた。仁科は机から煙管を取り出し、一服した。私も煙管を取り出し、火を借りた。
「杏奈はどこだ?」私は単刀直入に訊いた。
「知らない」彼は煙を吐き出した。「彼女が消えたとき、私は大阪にいた」
「彼女と最後に会ったのはいつだ?」
「先週の金曜日。ここで展示の準備をしていた」
「彼女の様子は?」
仁科は考え込むように煙を見つめた。「怯えていた。誰かに追われているようだった」
「何かを話していたか?」
「直接的には言わなかったが……彼女は何かを見つけたようだった。彼女の父親に関する何か」
「禄山家の秘密?」
「そうだろう。彼女は『これが公になれば、父は終わる』と言っていた」
私は仁科の表情を探った。彼は本当に心配しているように見えた。それとも、ただの演技か?
「彼女を助けたいんだ」彼は真剣な眼差しで言った。「彼女は繊細な魂だ。この世界に押しつぶされそうになっていた」
「彼女が隠れそうな場所は?」
「彼女の叔母が大津に別荘を持っている。時々そこに逃げ込んでいた」
私はメモを取った。「他には?」
「彼女はある場所について話していた。『影の国』と呼んでいた。その正確な場所は教えてくれなかったが、京都と滋賀の国境近くだと思う」
「影の国?」
「彼女の言葉だ。『秘密が埋まっている場所』だと」
会話を続けていると、突然、外で足音がした。仁科は窓から外を覗き、顔色を変えた。
「誰かが来た。裏口から出ろ」
私は立ち上がったが、遅かった。正面の戸が勢いよく開き、二人の男が入ってきた。黒い背広に身を包み、薄い色の眼鏡をかけている。典型的な用心棒だ。
「狼谷さん」先頭の男が言った。「お話があります」
私は本能的に脇差に手をかけたが、相手も同じ動きをした。「誰の差し金だ?」
「雇い主の名前は必要ありませんよ」男は冷たく笑った。「ただ、杏奈さんの捜索はやめていただきたい。あなたの身のためです」
「脅しか?」
「忠告です」男は一歩前に出た。「この街には、あなたの想像を超える力を持つ人間がいる。その人たちの邪魔をすれば、どうなるか……」
緊張が高まる中、仁科が突然動いた。彼は近くの墨壺を掴み、男に投げつけた。混乱に乗じて、私は二人目の男に飛びかかった。拳が顎に当たり、男はよろめいた。
「逃げろ!」仁科が叫んだ。
私たちは裏口から飛び出し、暗い路地を走った。後ろから足音が追ってくる。角を曲がり、私は懐から小銭を取り出した。
「付いてこい!」
仁科は躊躇なく路地を駆け抜けた。いくつかの街路を曲がりながら、私たちは追手を振り切った。
「誰だった?」私は息を切らしながら訊いた。
「分からない」仁科は後ろを振り返った。「でも、杏奈が言っていたことが本当なんだろう。彼女は危険なものを見つけてしまった」
私は通りを見回した。黒い人影が見える気がした。さっきの男たちだろう。
「しばらく身を隠した方がいい」私は言った。「安全な場所を知ってる」
街の灯りが後方に消えていく中、私たちは東山の山道を駆け上がった。この古都の闇は、想像以上に深いようだった。そして私はその闇の中心に向かっていた。
## 第四章:秘密と影
私の住まいは狭く、乱雑だった。仁科は居心地悪そうに立っていた。
「飲むか?」私は醸造酒の瓶を取り出した。
「いや、結構」
私は一人分だけ盃に注ぎ、一気に飲み干した。喉が熱くなる。
「話すんだ」私は厳しい目で仁科を見た。「杏奈が何を見つけたのか、本当のことを」
仁科は長い間黙っていた。やがて、懐から小さな巻物を取り出した。
「彼女がくれたものだ。『もし私に何かあったら、これを公開して』と言われた」
「中身は?」
「見ていない。理解できなかった」
私は巻物を受け取った。「何の記録だ?」
「彼女の言葉によれば、帳簿の写しだという」
私は巻物を広げた。そこには「影の帳簿」と題された詳細な記録があった。禄山銀行を通じた資金の流れの詳細な記録だ。関与している人物の一覧には、京都の高官、政治家、そして裏社会の名前が並んでいた。
「これは……」
「爆弾だ」仁科が覗き込んだ。「これが公になれば、京都の金融界全体が崩壊する」
「杏奈はこれをどこで見つけた?」
「彼女の父親の蔵だろう。彼女には父親の秘密を探る方法があったらしい」
私は記録を見続けた。金額は膨大で、取引は複雑に絡み合っていた。杏奈は危険な情報を手に入れてしまったのだ。
「彼女はこれを公開するつもりだった?」
「最初はそうだったと思う」仁科は窓際に立った。「でも、それが意味することを理解すると、怖くなったんだ。彼女は父親を憎んでいたが、完全に破滅させるつもりはなかった」
「では、彼女は……」
「逃げたんだ。この情報を持って」
その時、戸を叩く音がした。真佐子からだ。
「狼谷さん、聞いて。大津の別荘を調べたわ。杏奈さんはそこにいたけど、今はいないわ。でも、言伝てを残していったの」
「なんて?」
「『影の国で待っている』だって」
私は仁科を見た。「彼女の言う『影の国』がどこか分かるか?」
「正確には……」彼は躊躇った。「比叡山の麓に、古い山小屋がある。彼女はそこを『影の国』と呼んでいた。二人だけの秘密の場所だった」
「場所を教えろ」
仁科は地図を描き始めた。その時、再び戸を叩く音がした。今度は誰だ?
「狼谷か?」低く、重々しい声。禄山五郎だ。
「ああ」
「進展はあるか?」
「調査中だ」私は曖昧に答えた。
「注意してほしい」彼の声には緊張感があった。「私の娘は……危険な状況にいる可能性がある」
「どういう意味だ?」
「彼女は……特定の情報を持っているかもしれない。その情報は多くの人間にとって危険なものだ」
「あなた自身にとっても?」
長い沈黙。「私の娘を見つけてくれ。彼女の安全が最優先だ」
足音が遠ざかった。私は仁科を見た。「準備しろ。『影の国』に行く」
雨が降り始めていた。私は膝の痛みを感じながら、窓の外を見た。京都の夜は暗く、そして危険だった。
## 第五章:影の国
比叡山への道は細く、曲がりくねっていた。雨は激しさを増し、私と仁科は蓑笠をかぶっても完全に濡れていた。借りた荷車は泥道で難儀しながら進んでいる。
「あそこを右に」仁科が言った。
石畳の道から外れ、私たちは獣道に入った。荷車の灯りが森の木々を照らし出す。雨の中、すべてが灰色に見えた。
「どれくらい?」
「あと少し」
私たちは黙って進んだ。やがて道は消え、森の中の小道になった。
「荷車はここまでだ」私は馬を繋いだ。
懐中提灯を取り出し、私たちは歩き始めた。雨の中、泥だらけになりながら、三十分ほど歩いただろうか。木々の間から小さな山小屋が見えてきた。
「あれだ」仁科の声には興奮が混じっていた。
小屋に近づくと、中から微かな灯りが見えた。誰かがいる。私は脇差を抜き、仁科に後ろに下がるよう指示した。
「杏奈さん?」私は戸をたたいた。「杏奈さんか?」
返事はない。私は慎重に戸を押した。鍵はかかっていなかった。
中は驚くほど清潔で、暖かかった。囲炉裏に火がついており、机の上には行灯が灯っていた。しかし、人の姿はなかった。
「杏奈!」仁科が叫んだ。
彼は小屋の中を駆け回ったが、誰もいなかった。しかし、机の上には和紙の封筒が置かれていた。宛名は「一真へ」と書かれている。
仁科は震える手で封筒を開けた。中から一枚の手紙が出てきた。
「『愛する一真』」彼は声を震わせながら読み始めた。「『もしこの手紙を読んでいるなら、あなたは私の残した手がかりを理解してくれたのね。私はもうすぐここを離れます。帳簿を持って。父の罪の証拠を持って』」
仁科は読み続けた。「『私はこの情報を新聞記者に渡すつもりです。世界は真実を知るべきです。父とその仲間たちがどれだけ多くの人々から盗んできたか。どれだけ多くの人々を破滅させてきたか』」
「『あなたに会いたかった。さようならを言いたかった。でも時間がありません。彼らが近づいています。私を探さないで。私は自分の道を選びました。愛しています。永遠に。杏奈』」
仁科は手紙を握りしめ、座り込んだ。彼の目には涙が浮かんでいた。
「彼女はどこへ行った?」私は尋ねた。
「分からない」彼は頭を振った。「でも、彼女は……」
その時、外で物音がした。私は脇差を構え、窓から外を覗いた。闇の中から、複数の提灯の光が見えた。
「誰かが来る」私は小声で言った。「裏口はあるか?」
「ある」仁科は立ち上がった。「台所の奥だ」
私たちは急いで裏口へ向かった。しかし、開けようとした瞬間、戸が勢いよく開き、二人の男が立っていた。先日画廊にいた男たちだ。
「動くな!」男が叫んだ。
同時に、正面の戸も開き、別の男たちが入ってきた。すっかり包囲されていた。
「狼谷さん、仁科さん」リーダー格の男が言った。「お二人とも、大人しく来てもらおう」
「誰の命令だ?」私は脇差を下げなかった。
「それは間もなく分かる」
私は周囲を見回した。六人の男たち、全員武装している。逃げる道はなかった。
「降参だ」私は静かに言った。そして突然、行灯を男に向かって投げつけた。
一瞬の混乱。私は仁科の腕を掴み、窓に向かって飛び込んだ。障子が破れ、私たちは外に転がり出た。
「走れ!」
私たちは雨の中、闇に紛れて森の中へと逃げ込んだ。後ろから怒号が聞こえた。
「荷車に戻るんだ!」私は叫んだ。
しかし、私たちが来た方向からも提灯の光が見えた。すでに荷車は押さえられていた。
「こっちだ!」仁科が別の方向を指した。
私たちは森の奥へと走った。足元は泥でぬかるみ、枝が顔を引っかく。私の膝は悲鳴を上げていたが、恐怖が痛みを押し流した。
どれくらい走っただろう。やがて、小さな崖の前に出た。下には急流が流れている。
「行き止まりだ」仁科は息を切らした。
提灯の光が近づいてきた。私たちは崖の縁に立っていた。
「選択肢がない」私は言った。「飛べ!」
私たちは同時に飛び込んだ。冷たい水が全身を包み込み、激流が私たちを下流へと押し流した。
## 第六章:真実の重み
私が目を覚ましたのは、川岸の小さな洞窟の中だった。体は濡れ、喉は渇き、全身が痛んでいる。
「起きたか」
声に顔を上げると、仁科が小さな火を起こしていた。外はまだ暗い。夜明け前だろう。
「どれくらい気を失っていた?」私は起き上がろうとして、痛みに顔をゆがめた。
「数時間」彼は水筒を差し出した。「飲め」
水を飲み、私は周囲を確認した。
「ここはどこだ?」
「琵琶湖に近い。川の下流。一里は流されたと思う」
「追っ手は?」
「見ていない。でも、捜索は続いているだろう」
私は懐を探った。幸いなことに、防水の油紙に包んでいた巻物はまだあった。
「あの帳簿が彼らの狙いだ」私は言った。「杏奈さんは同じ帳簿の写しを持って逃げた」
「彼女は……」仁科は言葉を詰まらせた。「生きているだろうか?」
私は正直に答えられなかった。「分からない」
「大津の船着場」仁科が突然言った。「彼女はそこから船で逃げるつもりだったかもしれない」
「それなら、まだ間に合うかもしれない」私は立ち上がった。痛みに歯を食いしばる。「何時だ?」
「朝の四つ時(午前四時頃)」
「行くぞ」
私たちは洞窟を出て、道路を探した。歩くうちに、遠くに街の明かりが見えてきた。そこから道路に出れば、大津へ向かえる。
「あそこだ」私は街道を指した。
しかし、その瞬間、後ろから車の音が聞こえた。私たちは咄嗟に茂みに身を隠した。
自動車は私たちの前で止まった。そして、驚くべき人物が降りてきた。紅山真佐子だ。彼女は辺りを見回し、声を上げた。
「狼谷さん? いるの?」
私は躊躇った。彼女をどこまで信用できるか分からなかった。
「狼谷さん、危険よ!」彼女は続けた。「禄山が暗殺者をよこしたわ。彼は娘が持っている帳簿を恐れているの」
私と仁科は顔を見合わせた。そして、私は決断した。
「ここだ」私は茂みから出た。
真佐子は振り向き、安堵の表情を見せた。「良かった。急いで!」
「どうやって私を見つけた?」
「あなたの行動は予測できるわ」彼女は微笑んだ。「さあ、早く車に」
私たちは彼女の自動車に乗り込んだ。真佐子は都会的な洋装から一転、機能的な黒い和服と草履を履いていた。
「大津へ」私は言った。
「船着場ね」彼女は頷いた。「杏奈さんがそこにいると思うの?」
「可能性はある」
彼女は車を加速させた。車体は山道を駆け下りていく。
「あの帳簿、まだ持ってる?」彼女は運転しながら尋ねた。
「ああ」
「それがすべての鍵ね」彼女は静かに言った。「京都の金融機構の裏側を示す記録。銀行の重役たち、政治家たち、そして……」
「禄山自身」私は付け加えた。
「そう」彼女は頷いた。「彼は京都で最も影響力のある人物の一人。でも、このことが明るみに出れば、すべてを失う」
「だから娘を黙らせようとしている」
「正確には……」彼女は言葉を選んでいるようだった。「彼は娘を保護しようとしているのよ。彼女が公開すれば、多くの危険な人々が彼女を標的にする」
「あなたは信じてるのか?」
「私は……」彼女は一瞬、言葉に詰まった。「真実は複雑よ、狼谷さん」
私たちは暗黙の了解のもと、残りの道のりを黙って進んだ。空が少しずつ明るくなり始めていた。
約三十分後、私たちは大津の船着場に到着した。この時間、船着場はほとんど活動していなかった。
「あの人」仁科が指さした。波止場に一人の女性が立っていた。「杏奈だ」
私たちは車を降り、周囲を見回した。船着場は静かだった。
「向こうだ」真佐子が小さな小屋を指した。
私たちはそこに向かった。中には数人の旅人がいたが、すぐに杏奈を見つけた。彼女は窓際に座り、茶を飲んでいた。
仁科が駆け寄ろうとしたが、私は彼の腕を掴んで止めた。なぜなら、杏奈の向かいに男が座っていた。黒い羽織を着た、見覚えのある男だ。
「あれは……」真佐子が息を呑んだ。
「禄山五郎」私は静かに言った。
私たちは建物の外から、二人の様子を窓越しに見守った。彼らは真剣な表情で話していた。杏奈の表情は硬く、時折首を振っている。禄山は何かを懇願しているようだった。
やがて、杏奈は袂から何かを取り出した。小さな巻物に見える。彼女はそれを机の上に置いた。
「彼女は帳簿を渡すつもりだ」私は言った。
「止めなきゃ!」仁科が叫んだ。
その瞬間、建物の裏から数人の男が現れた。私の背後で真佐子が動いた。振り向くと、彼女は短刀を私に向けていた。
「動かないで、狼谷さん」彼女の声は冷たかった。
「真佐子……」
「残念だけど、これが仕事よ」彼女は微笑んだ。「最初から私は禄山のために働いていたの」
「そうか」私は静かに頷いた。「だから私を杏奈の捜索に向かわせた」
「彼は杏奈を見つけたかった。彼女を説得するために」彼女は短刀を手に、私を建物の中へと促した。「さあ、中へ」
私たちは中に入った。禄山と杏奈は振り向き、驚いた表情を見せた。
「お父様!」杏奈は立ち上がった。「約束したじゃない。お一人で来るって」
「心配だったんだ、杏奈」禄山は疲れた声で言った。
「一真!」杏奈は恋人を見て、顔色を変えた。
「杏奈」仁科は一歩前に出た。「帳簿を渡すな」
「もう遅いわ」彼女は悲しそうに言った。「これが最善の道なの」
「真実を公開すべきだ!」仁科は熱っぽく言った。「彼らの犯罪を!」
「そう単純じゃないのよ」杏奈は静かに言った。「この記録が公開されれば……多くの無実の人々が傷つく。銀行の従業員、その家族たち。そして……」彼女はためらった。「私の父も」
禄山は黙って娘を見つめていた。彼の目には、私がこれまで見たことのない感情が浮かんでいた。悔恨だろうか。あるいは恐怖か。
「大津の船着場」突然、私は思い出した。「『影の国』の意味は……ここか」
杏奈は驚いた目で私を見た。
「ここは京都と滋賀の境界」私は続けた。「光と影の境界。秘密と真実の境界。あなたはここで決断しようとしていた」
「賢いわね、探偵さん」杏奈は微かに笑った。「そう、ここが私の『影の国』。決断の場所」
その時、建物の外で騒がしい音がした。窓の外を見ると、黒塗りの自動車が数台到着し、背広姿の男たちが降りてきた。
「終わりだ」禄山は立ち上がった。「彼らが来た」
「誰だ?」私は尋ねた。
「私の『同僚』たち」禄山は苦々しく言った。「彼らは帳簿を確保するためなら、何でもする」
「お父様」杏奈は震える声で言った。「彼らを止めて」
「もう無理だ」禄山は頭を振った。「私にはもう力がない」
建物の戸が開き、黒い背広の男たちが入ってきた。先頭に立っていたのは、見覚えのある男だった。かつて禄山の右腕と呼ばれていた銀行家だ。
「ご苦労様でした、禄山殿」男は冷たく微笑んだ。「あとはお任せください」
「帳簿を渡せば、皆を解放すると約束したはずだ」禄山が言った。
「ええ、もちろん」男は頷いた。しかし、その目は嘘を語っていた。「帳簿をください」
杏奈は机の上の巻物を見つめていた。そして、決断したように立ち上がった。
「一真」彼女は恋人を見た。「あなたは正しかった。真実は隠されるべきじゃない」
彼女は突然、巻物を掴むと、窓に向かって投げつけた。障子が破れ、巻物は外に飛び出した。
「撃て!」男が叫んだ。
しかし、その瞬間、禄山が動いた。彼は娘の前に立ちはだかり、短刀の一撃を受けた。彼は血を流しながら床に倒れた。
「お父様!」杏奈が絶叫した。
私は咄嗟に脇差を抜き、男に向かって突進した。真佐子も動き、しかし彼女の短刀は意外にも、黒服の男たちに向けられていた。
「逃げて!」彼女が叫んだ。
混乱の中、私は仁科と杏奈の腕を掴み、裏口へと走った。外に出ると、朝日が東の空から昇り始めていた。
「船だ!」私は叫んだ。
波止場に停泊していた小舟に飛び乗り、私は櫓を漕ぎ始めた。湖面が揺れる中、船は船着場から離れていった。後部で杏奈が泣いていた。
「お父様……」彼女はすすり泣いた。「彼は私を守った……」
「彼は最後に、正しいことをしたんだ」仁科が彼女を抱きしめた。
私は後ろを振り返った。岸から男たちが追ってくる気配はなかった。真佐子の助けがなければ、私たちは逃げられなかっただろう。
「どこへ行く?」仁科が尋ねた。
「西へ」私は言った。「そして、その帳簿について決めなければならない」
杏奈は袂から別の巻物を取り出した。「写しよ」彼女は微かに笑った。「常に用心するように、父に教わったから」
船は琵琶湖の広い水面を進み、朝日に照らされた比叡山の影に向かって漕ぎ続けた。
## 第七章:交錯する陰謀
船は西岸の小さな漁村に着いた。私たちは静かに上陸し、近くの茶屋で一息ついた。杏奈は落ち着きを取り戻していたが、その目には深い悲しみが残っていた。
「あの帳簿を見せてくれ」私は言った。
杏奈は袂から巻物を取り出し、私に渡した。「これが父と彼の仲間たちの犯罪の証拠」
私は巻物を広げた。そこには複雑な数字と名前の羅列があった。表面上は普通の帳簿だが、注意深く見ると、膨大な金額が闇に消えていることが分かる。
「何がここに記録されている?」私は尋ねた。
「父の銀行は戦争で儲けたの」杏奈は静かに言った。「軍需産業に投資し、政府から秘密裏に資金を集め、そして……」彼女は声を落とした。「市場を操作した」
「市場操作?」
「株式市場。彼らは内部情報を使って、何百万という金を稼いだ」仁科が説明した。「そして、その金で政治家を買収した」
「この記録が明るみに出れば、京都の金融界は崩壊する」杏奈は肩を震わせた。「でも、それが正しいことよ。彼らは罰を受けるべき」
「あなたの父親も?」私は冷静に尋ねた。
杏奈は一瞬黙った。「父は……複雑な人物だった。彼は事業を成功させるために多くの妥協をした。でも、彼は私を守るために命を危険にさらした」
「彼はあなたを愛していた」
「そうね」彼女は涙を拭った。「だからこそ、私は真実を明らかにする。彼の弱さと罪を含めて」
私たちは茶屋の小さな部屋で策を練った。この情報をどうするか。誰を信用できるか。仁科は新聞社への持ち込みを主張し、杏奈も同意した。
夕方になり、私たちは京都へ戻る計画を立てていた。しかし、その時、茶屋の主人が慌てた様子で部屋に入ってきた。
「お客人、大変です! 警察が村中を捜索しています。あなた方を探しているようです」
窓から外を見ると、確かに数人の警官が家々を回っていた。
「裏口はあるか?」私は主人に訊いた。
「はい、台所から出られます」
私たちは急いで荷物をまとめ、裏口から脱出した。村の裏手は山に続いており、私たちは森の中に身を隠した。
「どうして警察が……」仁科は首を振った。
「禄山の仲間たちの影響力は広範囲に及ぶ」私は言った。「彼らは公権力も掌握している」
「では、どうすれば?」杏奈が訊いた。
私は考え込んだ。「信頼できる人間がいる。以前、私が助けた新聞記者だ。彼なら、この情報を公正に扱ってくれるだろう」
「どこにいる?」
「京都市内。しかし、今は街に戻るのは危険だ」
「じゃあ、どうするの?」
私は地図を取り出した。「迂回して北から入る。山を越えて」
私たちは森の中を進み、日が暮れる頃には北山の麓に到着した。小さな寺院が見え、私たちはそこに宿を借りることにした。
和尚は質問をせず、私たちに一室を提供してくれた。夜になり、私たちは計画を練った。
「明日の夜、京都に入る」私は言った。「そして記者に会う」
「どうやって連絡を取るの?」杏奈が尋ねた。
「寺の電話を借りる」
私は寺の公衆電話で高原岳史に電話をかけた。彼は『京都新報』の記者で、以前私が解決した失踪事件で知り合った男だ。
「高原か? 狼谷だ」
「狼谷? あんた、今どこにいる?」高原の声は緊張していた。「警察があんたを指名手配している」
「何の容疑だ?」
「禄山五郎の殺人未遂だ。彼は重傷を負って病院にいる」
私は驚いた。「バカげている。話があるんだ、会える場所はないか?」
高原は一瞬ためらった。「明日の夜、祇園の裏通り。『鴉』という店の裏口だ」
「分かった。一人で来い」
電話を切り、私は杏奈と仁科に状況を説明した。
「私の父は……生きている?」杏奈の目に希望の光が戻った。
「そのようだ」
「良かった」彼女はほっとした表情を見せた。「でも、あなたが容疑者にされているなんて」
「奴らの手だ」私は冷たく言った。「帳簿を取り戻すための」
翌日、私たちは寺を出て、山道を通って京都へと向かった。夕方になり、街の灯りが見え始めた頃、私たちは人目を避けて裏路地を進んだ。
祇園の賑わいが聞こえる場所に『鴉』はあった。私たちは店の裏口に回り、待った。
やがて、一人の男が近づいてきた。高原岳史だ。彼は私たちを見ると、驚いた表情を浮かべた。
「狼谷……そして、あなたは禄山杏奈さん?」
「そうです」杏奈は頷いた。
「中に入りましょう」高原は裏口を開けた。
店の奥の小部屋に通され、私たちは高原に全てを話した。帳簿のこと、禄山の陰謀のこと、そして船着場での出来事まで。
高原は黙って巻物に目を通した。「これは……爆弾ですね」彼は声をひそめた。「これが本物なら、京都の経済界は根底から揺るがされる」
「公開するつもりか?」私は訊いた。
「もちろん」高原は決然と言った。「しかし、慎重に進める必要がある。裏付け取材が必要だ」
「時間はない」仁科が口を挟んだ。「彼らはすでに私たちを追っている」
「分かっている」高原は頷いた。「だから今夜、『京都新報』の印刷所に持っていく。明日の朝刊に間に合わせる」
突然、外で物音がした。誰かが店に入ってくる音だ。
「ここにいろ」高原は立ち上がった。「確認してくる」
彼が部屋を出て数分後、銃声が聞こえた。
「罠だ!」私は叫んだ。
私たちは急いで窓から外を見た。店の前には数台の自動車が停まり、黒い背広の男たちが降りてきていた。
「裏口だ!」
しかし、裏口に向かうと、そこにも男たちの姿が見えた。完全に包囲されていた。
「他に出口は?」私は杏奈に訊いた。
「屋根裏」仁科が指さした。「天井に出口がある」
私たちは急いで天井の板を押し上げ、屋根裏に上がった。そこから隣の建物への通路があった。
私たちは暗闇の中を進み、やがて隣の建物の屋根裏に出た。下からは男たちの怒号が聞こえてくる。
「ここから下りられる?」杏奈が周囲を見回した。
「そこだ」私は小さな窓を指した。
窓から外を見ると、細い路地が見えた。一人ずつ、私たちは窓から抜け出し、路地に降り立った。
「どこへ行く?」仁科が息を切らしながら訊いた。
「分かれるんだ」私は決断した。「彼らが追うのは帳簿だ。私がそれを持って囮になる。二人は安全な場所に隠れろ」
「だめよ!」杏奈が抗議した。「あなたが殺される」
「心配するな」私は淡々と言った。「これが私の仕事だ」
私は巻物を懐に入れた。「東山の裏、落柿舎の近くの茶屋で待っていろ。明日の朝までに合流する」
別れ際、杏奈が私の手を握った。「気をつけて」
「当然だ」私は微笑んだ。「探偵の本分さ」
私たちは別々の方向に走り出した。私は路地を抜け、かつて綿密に記憶した京都の裏路地を進んでいった。追手の足音が遠くから聞こえる。
彼らは私を追って来ていた。計画通りだ。
## 第八章:光と影の境目
京都の夜は深く、月明かりすら雲に隠されていた。私は息を殺し、古い神社の境内に身を潜めていた。追手の足音はまだ近くを徘徊している。
巻物は確かに懐にある。この小さな紙片が、京都の権力者たちを震撼させる爆弾だ。しかし、誰に渡せばいいのか。高原は恐らく捕まった。あるいは最悪の場合、命を落としたかもしれない。
私は次の一手を考えた。新聞社は危険だ。警察も信用できない。唯一頼れるのは……
「やはりここにいたか」
静かな声に振り返ると、薄暗い境内に人影が立っていた。真佐子だ。
「よく見つけたな」私は脇差に手をかけた。
「あなたの行動様式は分かっているわ」彼女は一歩近づいた。「その帳簿、渡して」
「真佐子、お前は誰の味方だ?」
彼女は月明かりの下で微かに笑った。「難しい質問ね」
「船着場では、お前は私たちを助けた」
「状況は常に変わるもの」彼女は肩をすくめた。「今は、その帳簿を回収するよう命じられている」
「禄山から?」
「彼はもう指示を出せる状態じゃないわ」彼女の声が冷たくなった。「新しい権力者からよ」
私は周囲を見回した。逃げ道はある。しかし、真佐子は私の動きを熟知している。彼女との戦いは避けたい。
「その帳簿に何が書かれているか知っているのか?」私は時間を稼ぐために訊いた。
「詳細は知らないわ」彼女は正直に答えた。「でも、それが京都の富裕層を滅ぼす力を持っていることは分かってる」
「そして、お前はその富裕層のために働いている」
「私は生き残るために働いているの」彼女の目が鋭くなった。「この世界で女が一人で生きていくには、時に忠誠を売ることも必要なのよ」
静かな理解が私たちの間に流れた。彼女も私も、この都の暗部で生きる者同士。原則より生存を選ぶ者たち。
「私なら、あなたを生かしてあげられる」彼女は言った。「帳簿だけ渡せば」
「そして、杏奈は? 仁科は?」
「彼らはもう見つかったわ」
私の心臓が止まりそうになった。「嘘だ」
「嘘じゃないわ。彼らは東山で捕まった。今頃は……」
私は怒りに身を震わせた。「彼らに何かあったら……」
「それはあなた次第よ」真佐子は手を差し出した。「帳簿を渡して。そうすれば、彼らの命は助かる」
私は苦渋に満ちた表情で懐に手を入れた。巻物を取り出し、彼女に差し出した。
「賢明な判断ね」真佐子は巻物を受け取った。
その瞬間、私は彼女の隙を突いて動いた。腕を掴み、巻物を奪い返そうとした。しかし、彼女の反応は予想以上に速かった。
短刀が月明かりに輝き、私の腕を掠めた。熱い痛みが走る。
「残念だわ、狼谷さん」彼女は後ずさりした。「あなたは最後まで素直じゃなかった」
私は傷から血を流しながらも、なおも彼女に向かって歩み寄った。「奴らは信用できないぞ。帳簿を渡しても、杏奈たちを解放するとは限らない」
「私にはもう選択肢がないの」彼女は悲しそうに言った。
その時、境内の向こうから声が聞こえた。複数の人間が近づいてくる。
「彼らが来たわ」真佐子は耳を澄ませた。「もう終わりよ」
しかし、次の瞬間、彼女は意外な行動に出た。巻物を二つに引き裂き、半分を私に投げ返した。
「真佐子……?」
「これが私の選択よ」彼女は微かに笑った。
「半分ずつ持っていれば、どちらも生きられる可能性があるわ」
足音が近づいてくる。真佐子は私を見た。「東へ逃げて。川沿いに」
「お前は?」
「私は西へ行くわ。彼らを引き付けておく」
「なぜ?」
「私にも守りたいものがあるの」彼女は短く答えた。「さあ、行って!」
私は躊躇したが、彼女の決意を見て頷いた。「真佐子……気をつけろ」
「あなたこそ」
私たちは別々の方向に走り出した。私は東へ、鴨川に向かって。彼女は西へ、男たちの声がする方向へ。
数分後、後ろから怒声と足音が聞こえた。彼らは真佐子の後を追っている。私は一瞬立ち止まりかけたが、そうはできなかった。私には杏奈と仁科を救う使命がある。
鴨川に出ると、私は川沿いを北へ向かった。東山の方角を目指して。もし真佐子の言う通り、二人が捕まっているなら、彼らは禄山の邸宅に連れて行かれている可能性が高い。
夜明け前、私は東山の麓に着いた。禄山邸は静まり返っていたが、数人の見張りが門で立っていた。正面からの侵入は不可能だ。
私は邸宅の裏手に回った。以前、杏奈の部屋を調べた時に、庭からの侵入路を確認していた。高い石垣があるが、一箇所だけ登れそうな場所がある。
痛む腕を押さえながら、私は石垣を登り始めた。額から冷や汗が流れ落ちる。傷は深く、腕の力が入らない。それでも、私は歯を食いしばって上へと進んだ。
やがて庭に降り立ち、邸宅の裏手に近づいた。建物は暗く、人の気配はない。しかし、離れの一室に明かりが灯っていた。
私はそっと近づき、窓から中を覗いた。そこには杏奈と仁科が座っていた。二人とも縄で縛られている。部屋の隅には見張りが一人立っていた。
杏奈は怯えた表情で、時折仁科を見ていた。仁科は怒りに満ちた目で見張りを睨みつけている。
私は窓から離れ、周囲を偵察した。他に見張りはいないようだ。この離れだけが使われているのかもしれない。
戦術を考える。見張りは一人。武装しているだろうが、不意を突ければ倒せる。問題は二人を無事に逃がせるかどうかだ。
私は懐から残りの帳簿の断片を取り出した。これが二人を救う切り札になるかもしれない。あるいは、私たち全員の命を奪うものになるかもしれない。
覚悟を決めて、私は離れの裏口に回った。鍵はかかっていない。静かに戸を開け、廊下に足を踏み入れた。
離れの中は静寂に包まれ、私の足音すら大きく響く気がした。部屋の前で立ち止まり、耳を澄ませる。中から見張りが独り言を言う声が聞こえた。
私は深く息を吸い、一気に戸を開けた。
見張りは驚いて振り向き、懐に手をやった。しかし私の方が早かった。脇差を抜き、彼の喉元に突きつけた。
「動くな」私は低く命じた。「声を出せば、命はない」
見張りは固まった。杏奈と仁科は驚きと安堵の表情を見せた。
「狼谷さん!」杏奈が小声で叫んだ。
私は素早く二人の縄を切り、見張りを縛り上げた。口に布を詰め、彼を部屋の隅に押し込んだ。
「無事か?」私は二人に訊いた。
「ええ」杏奈は頷いた。「でも、彼らは何人もいるわ。屋敷の主棟にも」
「何を聞かれた?」
「帳簿の場所」仁科が答えた。「私たちは知らないと言い続けた」
「帳簿の半分は真佐子が持っている」私は断片を見せた。「もう半分はここだ」
「真佐子が?」杏奈は驚いた表情を見せた。「彼女は父の手下だと思っていた」
「彼女は……複雑だ」私は言葉を選んだ。「今は逃げるぞ。来た道を戻る」
私たちは静かに離れを出て、庭に向かった。しかし、主棟の明かりが突然灯り、人の声が聞こえてきた。誰かが見張りの不在に気づいたようだ。
「急げ!」私は二人を石垣に向かって導いた。
杏奈が先に登り、次に仁科。私が最後に登ろうとした時、背後から怒声が聞こえた。
「止まれ!」
振り返ると、黒い背広の男たちが庭に飛び出してきた。一人が武器を構えている。
「行け!」私は二人に叫んだ。「東山の裏、落柿舎だ!」
杏奈と仁科は躊躇ったが、私の決意を見て頷き、石垣の向こうに消えた。
私は男たちに向き直った。「どうやら、対話の時間だな」
男たちが近づいてくる。彼らの顔には冷酷な決意が見える。私は脇差を構えた。
「帳簿を渡せば、見逃してやる」隊長格の男が言った。
「惜しいな」私は微笑んだ。「帳簿は私が持っていない」
「嘘を言うな!」男は怒鳴った。「お前が持っているはずだ」
「本当に知りたいなら、お前の主人に訊け」私は冷静に答えた。「禄山はもう死んだのか?」
男の表情がわずかに変わった。「それはお前には関係ない」
「では、新しい主人は誰だ?」私は畳み掛けた。「帳簿に名前があった銀行家か? それとも高官か?」
「うるさい!」男が私に飛びかかった。
私は素早く身をかわし、脇差で彼の腕を切りつけた。彼は痛みに叫び、後ずさった。別の男が後ろから忍び寄ったが、私は振り向いて蹴りを入れた。
しかし、三人目の男が不意を突き、私の傷ついた腕を掴んだ。激痛が走る。私は膝をつき、脇差を取り落とした。
「ようやく大人しくなったな」リーダーが冷笑した。「さあ、帳簿はどこだ?」
私は痛みを押し殺し、にやりと笑った。「言ったろう。私は持っていない」
「ならば、お前にはもう用はない」
男が武器を構える。私は死を覚悟した。しかし、その瞬間、庭の入口から声が響いた。
「そこまでだ!」
全員が振り向いた。そこには、警察の制服を着た男たちが立っていた。先頭に立つのは、よく知った顔。田川警部だ。
黒服の男たちは一瞬ためらったが、逃げようとした。しかし、警官たちはすでに庭を囲み、逃げ道はなかった。
「投降しろ」田川が命じた。「さもなければ撃つ」
緊張した沈黙の後、男たちは観念して武器を置いた。
田川が私に近づいてきた。「相変わらず面倒事に首を突っ込むな、狼谷」
「久しぶりだな、田川」私は痛む腕を押さえながら立ち上がった。「何でここに?」
「密告があった」彼は言った。「禄山邸で誘拐された若い二人が監禁されていると」
「誰からの密告だ?」
「匿名だった。女の声だったがな」
真佐子か。それとも別の誰か。
「お前は何をしている?」田川が訊いた。「禄山殺人未遂の容疑者だぞ」
「冤罪だ」私は淡々と答えた。「禄山を刺したのは彼の仲間たちだ」
「証拠は?」
私は懐から帳簿の断片を取り出した。「これが全ての始まりだ」
田川は断片に目を通し、表情が硬くなった。「これは……」
「禄山銀行の闇帳簿の一部だ」私は説明した。「不正融資、賄賂、市場操作の記録がある」
「残りは?」
「安全な場所だ」私は曖昧に答えた。
田川は深く考え込んだ。彼は古い付き合いの警察官で、腐敗を嫌う男だった。そして、私のことも信用してくれている数少ない人間の一人だ。
「これを公にするつもりか?」彼は静かに訊いた。
「それは私の手を離れた」私は正直に答えた。「杏奈と仁科が決めることだ」
「彼らはどこだ?」
「安全な場所に」
田川は長い間私を見つめ、やがて頷いた。「分かった。お前は今夜のことは知らないことにしておく。この男たちは禄山邸への侵入容疑で逮捕する」
「ありがとう」
「ただし」彼は厳しい目を向けた。「三日以内に署に来い。話を聞かせろ」
「分かった」
私は傷の手当てをしてもらい、邸宅を後にした。空が明るくなり始め、東山の向こうから朝日が昇ろうとしていた。
私は約束の場所、落柿舎に向かった。比叡山から吹く風が心地よく、久しぶりに安堵の感覚を味わった。しかし、この静けさがどれだけ続くだろうか。帳簿の内容が公になれば、京都は激震に見舞われるだろう。
落柿舎に着くと、杏奈と仁科が待っていた。二人は私を見て安堵の表情を見せた。
「無事だったんですね」杏奈が言った。
「何とかな」私は疲れた微笑みを浮かべた。「お前たちは?」
「大丈夫です」仁科が答えた。「でも、これからどうしますか?」
私は帳簿の断片を取り出した。「これをどうするかだ」
杏奈は自分の決断の重みを感じているようだった。「私は真実を明らかにしたい」彼女は静かに言った。「でも、父が……」
「禄山は生きている」私は彼女に伝えた。「病院にいるらしい」
彼女の目に涙が浮かんだ。「会いに行きたい」
「危険だぞ」私は警告した。「彼の仲間たちはまだ自由だ」
「それでも」彼女は決意を固めた。「父と話してから決めたい」
私たちは議論の末、一つの計画に落ち着いた。杏奈は変装して父に会いに行く。私と仁科は別の道を取り、真佐子を探す。帳簿の残りの部分を取り戻すために。
朝日が東山の向こうから昇り、京都の街を黄金色に染めていく。光と影が交錯するこの都で、私たちの戦いはまだ終わっていなかった。
## 最終章:朝日の下で
三日後、京都の街は前例のない騒動に包まれていた。『京都新報』の一面には「京都金融界の闇」という見出しで、禄山銀行を中心とした巨大な金融醜聞が報じられていた。
高原岳史は奇跡的に生き延び、彼は杏奈から直接話を聞き、帳簿の写しを受け取っていた。彼の記事は具体的な名前を挙げて、京都の金融界と政界の腐敗を暴いていた。
私は約束通り田川警部に会いに行った。事情聴取は長時間に及んだが、最終的に私の無罪は認められた。禄山を刺したのは彼の「同僚」たちだったことが、複数の証言で明らかになっていた。
禄山五郎は依然として重傷で入院中だったが、回復の兆しを見せていた。杏奈は変装して父に会い、長い時間を共に過ごしたという。彼女の表情は晴れやかになっていた。
「父は知っていました」杏奈は私に語った。「自分の罪を。そして、私が帳簿を公開することも」
「彼は反対しなかったのか?」私は驚いて訊いた。
「いいえ」彼女は微笑んだ。「『時代は変わる。古いものは滅び、新しいものが生まれる。それが世の理だ』と言っていました」
禄山は自らの犯した罪の責任を取る覚悟を決めていたようだ。彼は杏奈に全財産の管理を委ね、正しい道に使うよう頼んだという。
仁科一真は予想外の才能を発揮していた。彼はこの騒動を題材にした墨絵シリーズを制作し、東京の画廊で展示会を開くことになった。「光と影」と題された作品は、京都の二面性を象徴的に表現していた。
真佐子の消息は分からなかった。彼女は帳簿の半分を持ったまま姿を消した。私は時々、彼女が私を救うために警察に通報したのではないかと考えた。しかし、証拠はない。
私は東山の高台に立ち、京都の街を見下ろしていた。朝霧が晴れつつある中、千年の都は新しい朝を迎えていた。表向きは変わらぬ優美さを湛えながらも、その内側では大きな変化が起きていた。
足音がして、振り返ると杏奈と仁科が近づいてきた。
「お二人とも、東京へ行くんだってな」私は言った。
「はい」杏奈が頷いた。「父の事業を整理して、新しく出直すつもりです」
「画廊を開くんだ」仁科が続けた。「真実と芸術のための場所を」
「良い考えだ」私は微笑んだ。「京都はしばらく落ち着かないだろうからな」
禄山銀行は解体され、関わった高官たちの多くが失脚していた。しかし、すべての真実が明らかになったわけではない。帳簿の半分は依然として行方不明だった。
「狼谷さん、一緒に来ませんか?」杏奈が誘った。「東京なら、新しい始まりができます」
私は首を振った。「ここが私の場所だ。この街には、まだ多くの秘密がある」
私は煙管に火をつけ、深く煙を吸い込んだ。
「それに」私は遠くを見つめた。「この都の影には、私のような男がいなければならない。光があれば影があり、表があれば裏がある。それが世の理だ」
杏奈と仁科は理解を示し、頷いた。私たちは暫し黙って京都の風景を眺めた。
やがて、二人は私に別れを告げ、東京への旅立ちの準備に戻っていった。私は一人、高台に残った。
煙管の煙が風に揺れ、消えていく。遠くから寺の鐘の音が聞こえてきた。
私は立ち上がり、東山を下りて街へと向かった。新たな依頼が、新たな秘密が、新たな闇が私を待っている。それが探偵の宿命だ。光と影の境界を歩む者の運命だ。
霧が晴れ始めた京都の朝。街は変わらず美しく、そして相変わらず謎に満ちていた。
私、狼谷真一郎の仕事は、まだ終わらない。
──了──
【大正探偵小説】京都闇帳簿事件 ー三流探偵、巨悪の影を追うー(約19,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます