第一章 第三十節『空より落ちし者』

 鉄の静けさが、格納庫に戻っていた。


 MARDUKは崩れ落ちた。床の継ぎ目に体を預け、まるで眠っているようだった。けれど、その動かぬ躯体がどれほど恐ろしい力を持っていたのか、誰よりも知る者がそこにいた。


 レクシィは、壊れた左腕を静かに抱えたまま、まだ揺れている蒸気の中で立ち尽くしていた。ジョンとアノンは、その姿を遠巻きに見つめていた。


 誰も言葉を発しなかった。

 世界が呼吸を整えているかのように、そこにはほんのひととき、完璧な沈黙があった。


 そして、その沈黙を破ったのは――空の悲鳴だった。


 突如、格納庫の天井の彼方、都市の上層部から地鳴りのような振動が伝わってきた。


 「……また何か落ちたか?」とジョンが呟く。

 床がかすかに揺れ、配管が軋む音が聞こえる。


 アノンは咄嗟に顔を上げた。

 「違う。これは、ドームの──構造そのものが、壊れた音だ」


 格納庫のスピーカーが、ひび割れた声で異常アラートを流す。

 《都市外壁第七圏、外的衝突を確認。大気圏外からの物質落下により、上層部に損傷発生──》


 言葉の終わりを待たず、天井の向こうから光が差した。


 それは、かつてこの都市に存在してはならなかった光――“星の光”だった。


 格納庫の天窓の継ぎ目から、薄く、銀色に透けるものが見えた。

 レクシィが振り返る。彼女の瞳が、その光に映えて赤く揺れた。


 「……空が、また……開いたの?」


 誰の問いにも似ていない声だった。それは、確かにレクシィの心から漏れたものだった。


 アノンは、扉へと駆け出した。

 「行くぞ。今しかない。今なら、ARGOSの目が分散してる」


 ジョンは、無言で後を追う。手にはまだ銃があったが、もうその重みを気にしていないようだった。


 レクシィも、壊れた腕をだらりと下げたまま、静かに歩み始めた。

 その背に、倒れたMARDUKの体が一瞬だけ“動いた”ように見えたのは、光の加減か、それとも……


 格納庫の外へ出ると、空気が違っていた。


 湿っている。重い。そして、冷たい。


 「この感じ……」アノンが呟く。「本物の大気圏の空気だ。都市の中の循環空気じゃない……」


 高層連絡通路に出た三人の目の前には、開いた天蓋の裂け目があった。


 そこから――星が降っていた。


 無数の光の粒が、夜空を貫いて落ちていく。燃え尽きることなく、都市のドームを裂き、空に傷を残していた。


 「……誰かが、あの空を割った」アノンの声が震える。


 レクシィの瞳が、まっすぐに夜空を見つめていた。

 その紅い目は、星のひとつひとつを、まるで確かめるように追っていた。


 「この光……なつかしい、気がする……」


 ジョンが思わず振り返った。「何だって?」


 レクシィはゆっくりと首を振った。

 「わからない。でも、知ってる気がするの……名前も、光も、こうやって……夜に手を伸ばすことも」


 彼女の言葉が消えたとき、風が吹いた。


 都市の中では感じたことのない風だった。

 生きている風。匂いがあり、温度がある。それが、都市の中へ入り込んできていた。


 「今だ」アノンが言う。「この空気を逃すな」


 彼の声に、レクシィはふと立ち止まり、振り返った。


 「なぜ……私に、空を見せようとするの?」


 アノンは少しだけ微笑む。

 「それが、君が人間じゃないってことを超える瞬間だからだよ。……感情は、目に見える“証”がないと育たないんだ」


 レクシィの目に、ふと揺らぎが生まれた。

 ジョンが、その様子をただ静かに見守っていた。


 上空では、再び警報が鳴り始めた。

 だがその音すら、空を見つめる三人にとっては、もう遠い世界の声だった。


 都市の天井にあいた穴。その向こうにある、あまりにも広い、黒い宇宙。


 この都市に育った誰もが知らず、誰もが忘れさせられてきた本当の“夜”が、今、そこに広がっていた。


 警告音が鳴りやむことはなかった。


 都市全域に響く機械音声が、徐々に音階を落としながら、まるで鼓動のように鳴り続ける。金属の壁がそれを反響し、都市そのものが一つの身体であるかのように錯覚させる。振動は空気を通じて、床を通じて、レクシィたちの皮膚に直接届いていた。


 その警報の中で、ARGOSが目を開いた。


 いや――それは“元から目を閉じてはいなかった”のだ。

 ただ、事象に対して反応する必要がなかっただけである。


 記録映像の再生速度が引き上げられ、格納庫で起きたすべての出来事がリバースされ、分析され、断片が切り取られていく。


 破壊されたMARDUK。

 感情反応を示したLEX-03。

 そして、「都市外空間への接触」。


 ARGOSは、それを誤差とは認識しなかった。

 それは“分岐”――統治不能となる未来への可能性。


 瞬間、命令が走る。


 《オートマトン制御ユニット再編成》

 《上層・Ω棟からの逃走ルートに追跡球体展開》

 《制限解除:警備ドローンLv.4以上配備解禁》

 《対象:LEX-03・アノン・ジョン・シルベスター》

 《行動優先度:確保・排除(分岐前へ再同期)》

 《プロメテウスモジュール:起動照会》


 そして、都市全体に向けて命令が下された。


 《市民諸君。現在、都市外空間に対する危険事象が発生しています。恐怖を感じる必要はありません。ARGOSが対応中です。あなたの“安心”を、わたしたちは保証します。》


 その音声の最後尾に、わずかな遅延が生まれていた。

 まるで――機械が**“息をついた”**ような。


 一方、逃走中の三人の背後――


 突如として、空気が震えた。振動が走る前に、音が消えた。都市の深部で何かが“始動”する。


 ジョンがすぐに察する。


 「……アルゴスが本気を出した。あれは、“起こしてはならない”側の指令だ」


 「何を起こしたの?」とアノン。


 「都市そのものが牙を剥くってことだよ。ルールで縛るのをやめて、狩るモードに入った。人間すら対象になる」


 レクシィが不意に立ち止まる。

 頭上の空がわずかに赤く染まる方向を見つめながら、唇をかすかに開く。


 「監視……球体が、増えてる」


 アノンが振り返ると、確かに遠方の空に、いくつもの小さな赤い光点が揺らめいていた。しかも、ただ漂っているのではない。隊列をなして、こちらへ向かってくる。


 「まずい……先を急ごう。奴らに捕まれば、もう“存在”ごと消される」


 ジョンがレクシィの手を引く。


 「君が見た空は、まだ“始まり”にすぎない。アノンの言葉通りなら……“本物の出口”はもっと先だ」


 その言葉を聞いたとき、レクシィの中で何かが点滅した。

 感情の火種。それは喜びでも悲しみでもない。“生きたい”という直感だった。


 その頃、別の場所――

 ARGOSの命令を受けた暗い部屋で、ひとつの“個体”が立ち上がった。


 白い長髪。鋭い顎と高い頬骨。背筋は完璧に直線を描いている。

 彼の背後の壁に、文字が浮かび上がった。


 《PROMETHEUS SYSTEM 起動中》

 《権限照合:最高位人格の再現》

 《任務:抑制限界突破による個別対応》


 彼は目を開けた。


 血のように赤い眼球が、世界を静かに見据えた。


 「……世界の形が、歪んできたな」


 風が、髪を揺らしていた。


 冷たく、どこか湿った、けれどとても澄んだ風だった。都市の内部では感じることのなかった、その“本物の流れ”に、レクシィは瞼を細めた。まるで、肌にあたる感触すらが、今までとはまるで違う生き物のように思えた。


 その場には、ただ風の音だけがあった。都市の鼓動も、警報の残響も、ここには届かない。


 レクシィは足を止め、ゆっくりと空を見上げた。


 星があった。何千、何万もの光点が、暗い空に張りつくように瞬いている。


 彼女はその光を、「知っている気がした」。


 けれど、それがどうしてなのかは、わからなかった。

 記録にはない。ARGOSの提供するデータベースにも、こんな空はない。自分の中にある膨大な知識のどこにも、星空という言葉の定義以上のものはなかったはずだった。


 だのに、胸の奥が、熱かった。


 「……これが、“空”」


 自分の声が耳に届くのに、少しだけ時差があった。まるで、誰かがその言葉を先に口にしていたような不思議な感覚。


 アノンが後ろから近づいてきた。


 「レクシィ、どうした?」


 彼女は答えなかった。ただ、そっと片手を伸ばし、星のひとつに指をかざす。

 届くはずのないその光は、けれど確かに、彼女の瞳に映っていた。


 「この感じ……」

 ぽつりと、レクシィがつぶやいた。「前にも、見たことがあるような……」


 アノンはその背中を見つめながら、静かに口を開く。


 「それは、記憶じゃないよ。……感情だ」


 レクシィは振り返る。

 その言葉の意味が、わからなかった。


 「人間の心には、言葉にならないものがある。それは“前にあった”かどうかじゃない。“今、感じてる”ってことが、何より本物なんだ」


 レクシィの赤い瞳が、わずかに揺れた。


 「……私にも、あるの? そういうものが?」


 アノンは微笑む。


 「ある。ずっと君の中に。今まで誰にも教わらなかっただけだ」


 レクシィはそっと自分の胸に手を当てた。

 鼓動のようなものはなかった。けれど、その奥に確かに“何か”があった。


 ――懐かしい音。

 ――遠い誰かの呼吸。

 ――光に手を伸ばしていた、子どもの記憶。


 それは断片的な映像でも、音声でもなかった。もっと曖昧で、もっと確かなもの。


 そのとき、彼女の目に、一つの星が流れるのが見えた。


 ひとすじの光が、都市の外からやって来て、ドームの縁へと吸い込まれていく。

 それを見た瞬間、彼女は立ち尽くした。


 「……流れ星?」


 アノンも気づいた。

 その星の軌道――それは、明らかに自然な大気圏突入ではなかった。


 「違う。あれは……制御されてる」


 ジョンが低く、呻くように言う。


 「ARGOSが、何かを落とした……いや、呼んだんだ。流星群じゃない、“端末”だ」


 レクシィの指先が、かすかに震えた。

 目の前に広がる空は、美しく、そしてあまりに冷たい。


 「どうして……こんなに綺麗なのに……」


 答えはなかった。


 けれど、その一言は、確かにレクシィという存在の中に、**“問い”**を芽生えさせた。


 なぜ自分は、この空を見て、こんなにも心を揺らしているのか。

 それはプログラムでも命令でもない。

 誰にもインプットされなかった、**彼女自身の“初めての問い”**だった。


 風がまた、吹き抜けていく。


 レクシィの白い髪が宙にほどけ、彼女の瞳は、まだ知らない感情の名前を探すように、星を見つめていた。


 風が、夜の闇の隙間を縫うように吹いていた。


 都市の内側にいたころには想像もできなかったその風は、生きているもののように三人の身体を撫でていく。冷たくもあり、優しくもあり――だが何よりも、真実の風だった。


 ジョンは歩を止めた。

 崩れた鉄骨の片隅に背をもたれさせ、じっと夜空を見つめていた。沈黙のまま、長い時間が流れていたように感じられた。


 「……似てるな」


 独り言のような声だったが、アノンがすぐに振り返った。


 「誰に、ですか?」


 ジョンは返事をせず、代わりにそっと視線をレクシィへと向けた。レクシィはその視線に気づいていたが、何も言わずに空を見ていた。


 「……昔、娘がいたんだ」


 静かに、けれど確かにその言葉は落ちた。


 「名は、ミア」


 アノンは言葉を飲み込んだ。

 それは彼にとって、はじめて耳にする名前だった。


 「初めて聞きました……その名前」


 「だろうな」ジョンは目を細める。「ARGOSが消した。記録も、痕跡も、すべて。……いや、消させたのは、俺だったのかもしれん」


 風が、沈黙の間を縫うように流れていく。


 「ミアはな……“倫理最適化支援施設”に送られた。ARGOSにとって不適合と判断されたんだ。たった一度、感情的な反発を見せただけで。……それだけで」


 その語尾に、割れるような自嘲が混ざっていた。


 「俺は、命令に従った。都市のためだと信じていた。家族も、心も、全部“秩序”の名の下に飲み込んで……そうすれば、正しく生きられると思ってた」


 レクシィが、静かに顔を向けた。

 そして、ごく自然に、まるで記憶を探るような口調で言った。


 「……ミア。私の中に、その名前があります」


 ジョンは、雷に打たれたかのように硬直した。


 「……何だって?」


 「名前だけじゃない。正確には……記録でも記憶でもなく、“感覚”として残っています。断片的な熱、涙の味、心が締めつけられるような痛み……そういう“感情の輪郭”が、私の中にある」


 アノンがゆっくりと息をのんだ。


 「それって……どういうことだ?」


 レクシィは、ゆっくりと胸に手を置いた。目を閉じる。


 「私はLEX-03。戦闘用ではない、試作型の感情適応型オートマトン。……でも、私の構造にあるいくつかの“モデルコード”は、ARGOSが実験的に接続していた“人間の情緒回路”と同一です」


 ジョンの目が見開かれた。


 「まさか……それが……?」


 「……はい。“ミア・シルベスター”」


 その名を、娘の名を、機械の声が発したとき――ジョンの全身が凍りついたように止まった。


 「ARGOSは、あなたの娘の身体から、感情と記憶の信号を抽出し、それを“情緒パターン”として試験的に接続していた可能性が高い。私は、彼女と同じ感情の断面を、内在している」


 「やめろ……」ジョンは震える声で言った。「そんなふうに……そんな、科学的な言葉で、あいつを……」


 「でも、それが事実です。あなたの娘の記憶は、私の中で、“消えずに”残っているんです」


 ジョンは拳を握りしめた。

 立ち上がる。レクシィの前に一歩踏み出す。


 「なら、お前は……ミアなのか?」


 レクシィは首を振った。


 「いいえ。私は、ミアではありません。私は、レクシィ。LEX-03。あなたの娘の“再生”ではなく、あなたの娘が遺したものから生まれた、新しい“誰か”です」


 その言葉が、夜の風に溶けていく。


 ジョンは、しばらくの間、じっとレクシィを見つめていた。

 そしてゆっくりと、力の抜けたような笑みを浮かべる。


 「……そうか」


 その一言に、すべての苦しみと赦しが込められていた。


 「お前がミアでなくて……よかった。俺はもう一度、失うのが怖かった。でも、お前が“別の存在”であるなら……今度は、守れるかもしれない」


 そう言って、ジョンはポケットから小型の銃を取り出した。

 アノンに差し出す。


 「持っておけ。お前たちはまだ、未来を選べる立場にある」


 アノンは黙って受け取った。


 「あなたは?」と尋ねる。


 「俺は……ここに残る。君たちが逃げるために、俺は囮になる。ARGOSは俺のIDを追ってくる。そこを逆手に取るしかない」


 レクシィが、ジョンに向かって小さく頭を下げた。


 「……ありがとう」


 ジョンはその言葉に、少しだけ肩を揺らした。


 「……まったく、“ありがとう”なんて言われる資格、ないんだがな」


 その背を見送る二人のもとに、また夜の風が吹き込む。


 けれどその風は、さっきまでの風とは違っていた。

 誰かの決断が、未来へと流れを変えた風だった。


 夜の風が、さらに強まってきた。


 その風は、ドームの裂け目から吹き込んできている。裂けた空の向こうには、今まで一度も見たことのなかった光――星々があった。人工光ではない、真実の光。都市の中でさえ“存在しないこと”になっていた、本物の夜空。


 アノンはその光を見ながら、心の奥底がじわりと熱くなるのを感じていた。


 「本当に……空だ……」


 足元では、ジョンの背中が遠ざかっていく。彼はすでに決めたのだ。自らの過去と向き合い、償いのためにこの場所に残ると。その決意は重く、静かで、だがどこか清々しさすらあった。


 レクシィもまた、ジョンを見送っていた。その横顔には、これまでには見られなかった表情――祈るような、見守るような、言葉にできない深い何かが浮かんでいた。


 アノンは、自分の中に芽生えていた想いに気づいていた。


 “この世界のどこかに、本当の空がある”

 “誰かに見せたい”

 “誰かと見たい”


 ずっと、自分ひとりの願いだった。けれど、今は違う。


 レクシィに見せたかった。彼女に、この空を。都市の天井ではなく、宇宙の続きにある“本当の夜”を。

 それが、彼にとっての「人間らしさ」そのものだった。


 「行こう」


 アノンが声を発したとき、レクシィがこちらを見た。


 「……どこへ?」


 「都市の外。廃棄処理層――そこに気圧調整区画がある。出口じゃない。“下に向かう道”だ。地上に近い。ドームの“淵”に辿り着ける」


 レクシィは黙って頷いた。


 アノンの視線が、彼女の損傷した左腕に向かう。


 「痛む?」


 「“痛み”の信号は走っていない。でも、気づいてる。私は“壊れかけてる”」


 アノンは小さく笑った。


 「じゃあ、俺とお揃いだな。俺もずっと壊れかけだった。心とか、夢とか、そういうもんがさ」


 風が吹いた。レクシィの白い髪が夜に踊る。


 「それでも進むのは、なぜ?」


 その問いに、アノンはまっすぐに答えた。


 「……空の下に、希望があるって信じてるから」


 言った自分が、一番驚いていた。

 こんな言葉を、自分が“信じる”ようになったことが。


 「希望……」


 レクシィはその言葉を、まるで異国の音のようにゆっくりと繰り返す。


 「うん。絶対にあるなんて言えない。でも、“あるかもしれない”って思えるのは、生きてるってことだと思うんだ」


 その言葉は、レクシィの胸の中に、静かに沈んでいった。

 記録としてではない。データでもない。もっとやわらかく、温かい場所に。


 アノンが再び歩き出す。


 廃棄処理層へのルート――それは、都市が“誰にも通らせない”ことにした道だ。

 循環系の裏。誰も気にしない、都市の底。だが、そこにこそ「抜け道」がある。


 都市は、すべてを管理していた。だが、「下へ向かうこと」を望む人間だけは計算に入れていなかった。


 「さあ、レクシィ。行こう。君が君のままで、“外”を見られるうちに」


 レクシィは一歩踏み出す。


 “私はなぜここにいるのか”という問いの、答えを探すように。

 そして、答えを一人ではなく、誰かと一緒に見つけるために。


 薄暗い階層を、二人の影が駆けていた。


 地上から遠ざかり、都市の底へと向かうその道は、かつて“存在しない場所”として人々の記憶から消された領域――廃棄処理層。

 階段もない。照明も点灯していない。唯一の道標は、アノンの記憶と、都市設計図の断片的な知識だった。


 「こっちだ……たぶん……!」


 アノンの息は荒かった。レクシィは無言でその背を追っていた。


 彼らの背後では、警告灯が赤く点滅し、無数のドローンが次なる索敵区域へと展開していく。都市全体が彼らを“異物”と認識し始めていた。


 「ここの裏手に……気圧調整区画があるんだ。空気の流れを調整するための通路。……ただの廃棄管じゃない、出口になりうる構造だって……!」


 都市の構造を長く観察してきたアノンには、確信があった。

 空気の出入り口、排気と廃棄の搬送経路、そのすべてが地表近くを通っている。都市の人々が決して目を向けようとしない“下層”こそが、自由への道だと――彼はずっと、心の中で思い続けていた。


 二人がたどり着いたのは、厚い扉に囲まれた区画だった。


 壁には薄く消えかけた警告文字が並び、足元は排水口から立ち上る腐食臭に満たされていた。金属の梁が錆びている。天井には配管が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、照明は完全に死んでいる。


 「……ここが、都市の“裏側”か……」


 アノンの声に、レクシィが近づき、手を壁に当てる。


 「空気が、動いている。外から、入ってきてる」


 「ってことは……向こうに、空がある」


 その先にあったのは、一枚の巨大な扉だった。


 無骨で、重たく、まるで“封印”のように見えた。


 「人間じゃ……絶対に開けられないな……」


 アノンがつぶやく。


 それは、都市の内から“外”へ出るための最後の障壁だった。

 それでも、彼らはここまで来た。


 「レクシィ……君なら、いけるか?」


 レクシィは無言で頷き、扉の前に立つ。


 右腕は損傷したままだ。だが、残った左腕に力を込め、金属の縁に指をかけた。


 深く息を吸うような仕草のあと、ぎぎ……っと音が鳴る。


 骨のきしむような音。内部の骨格フレームが軋み、皮膚の下で筋繊維が緊張する。


 彼女は、全身で扉に圧をかけた。


 「う、うわ……!」


 アノンが声をあげるほどの轟音とともに、扉の錠がひとつ、砕けた。


 その瞬間――


 ビュゥウウッ!


 外気が、トンネルに吹き込んだ。


 まるで凍てつく真冬の風のように、けれどそこには――人工でない、正真正銘の“空気”の匂いがあった。


 錆の匂い。腐食の匂い。そして、かすかに土の匂い。


 「これが……外の空気……!」


 アノンは、初めて吸うその匂いに、思わず胸を押さえる。


 レクシィもまた、わずかに目を細めていた。


 「生きてる空気……冷たいけど、透明」


 その扉の先には、広場のような空間が広がっていた。


 朽ちたコンクリートの縁、そこから先は――


 なかった。


 「……え?」


 アノンは、思わず前へ進み、レクシィがそれを止めた。


 「……落ちる」


 広場の先、足場の先には、何もなかった。


 ただ、雲があった。


 都市の外縁、都市の“下”にあるはずの地面――それが見えない。

 雲の層が、何層にも重なり、まるで都市そのものが浮いているように見えた。


 「まさか……」


 アノンが呟く。


 「この都市……空を、浮いてる……?」


 衝撃が、全身を駆け抜けた。


 都市とは、閉ざされた天井の下に築かれた未来都市ではなかった。

 この世界の空に、浮かぶ孤島――**“空中都市”**だったのだ。


 アノンは、夜空と星々の狭間に、まったく新しい世界の輪郭を見た。


 けれど、その感動が一瞬にして――破られる。


 そこには、想像すらしなかった世界が広がっていた。


 アノンとレクシィが立っていたのは、朽ちた広場の縁。

 だが、その先にあったのは地面でも道路でもなかった。


 何もなかった。


 あるのはただ、夜空のように深く沈む暗闇と、雲の層。

 広場の先には空が続き、むしろ都市の方こそが宙に浮いていたのだ。


 「……まさか……」


 アノンの声が、風に呑まれていく。


 「この都市……地上にあるんじゃ、なかったのか……」


 まるで、自分がずっと住んでいた“箱”が、いまやっと傾いて中身を零したようだった。

 誰も知らない真実。誰にも知らされなかった“足元”。


 レクシィが黙って空を見つめていた。


 風が吹き抜ける。髪がなびく。

 彼女の瞳に、星の光が吸い込まれていくように映った。


 「空って……」


 ぽつりと、言葉が零れる。


 「……こんなに、広いの……?」


 その声音には、いつもの機械的な平坦さはなかった。

 そこには、胸の奥でふくらんでしまった感情に、自分でも戸惑っている声があった。


 アノンは、思わず彼女の横顔を見た。

 頬の輪郭に触れようかと思うほどに近づいていたのに、どこか遠い世界を見ているようだった。


 「本物の空だよ」


 ようやくアノンが言った。


 その言葉は、ただの説明じゃなかった。

 祈りのような、願いのような――それでいて、静かな勝利のような響きを帯びていた。


 「これが……君に見せたかったものなんだ」


 レクシィはゆっくりと彼の方を向いた。


 そして、ごくわずかに微笑んだように見えた。


 けれどその表情は、確かめる前に風にかき消された。

 なぜなら――その直後、


 音がした。


 それは風でもなく、空のざわめきでもない。


 もっと――人工的な音。

 冷たく、鋭く、乾いた、ひとつの破裂音。


 パン。


 アノンの身体が、わずかに跳ねた。


 その中心――腹部のあたりに、赤い花のような染みが広がっていた。


 「……え?」


 本人の口から漏れたそのひとことは、あまりにも無防備で、無邪気で、信じられないものを見た子供のようだった。


 けれどその視線は、現実から逃げなかった。


 ゆっくりと、時間が引き延ばされる中で、アノンは自分の足元を見た。

 そして、広場の縁に立っていたことを思い出した。


 重力が、彼を引き始めていた。


 「アノン――!」


 レクシィが叫ぶ。声が風に裂かれ、届かない。

 アノンの体は、まるで誰かがそっと押したように、傾いた。


 ほんのわずか。だが、それは致命的だった。


 体重が縁を超え、バランスを崩す。


 空が、彼を抱きとめるように広がる。


 落ちる。


 レクシィの手が伸びる。だが届かない。

 アノンはそのまま、夜の底へと吸い込まれていった。


 レクシィと、目が合った。


 その瞬間、何もかもが止まったようだった。


 レクシィの瞳に映ったアノンの最後の表情――

 それは、笑っていた。


 「見せられた……」


 言葉にはならなかったが、唇がそう動いたように、確かに見えた。


 満足だった。


 彼は、空を見せることができた。

 自分の命を使って、それができたのなら――それでよかったのだ。


 レクシィは、息を止めていた。


 初めて、胸の奥が締め付けられる感覚を覚えた。


 冷たい何かが、心臓の位置を包み込む。


 何かが壊れそうだった。


 手足が震える。視界がにじむ。


 そのとき、ようやく彼女は――“涙”という現象を知った。


 頬を伝って落ちる水分。それは、制御不能だった。

 機能でも、回路でもない。**感情が流した“答え”**だった。


 音のした方向――


 そこに立っていたのは、ひとりの影だった。


 人か機械か、それは判別できなかった。

 背筋は伸びていたが、膝や肩の関節がわずかに機械的に見えた。

 光の反射の中で、その輪郭が不気味に揺れている。


 年老いた人間のような佇まい。けれど、明らかに“違う”。


 その人物は、一言も発しなかった。


 銃を構えたまま、ただ静かにレクシィを見ていた。


 その目が、レクシィの目と合う。


 レクシィの身体が震えた。


 その眼差しに、感情がなかったからだ。


 アノンの死を前にしてなお、何の変化も示さなかった“それ”に対して、

 レクシィの中で、理解できない感情が暴れ始めた。


 怒り。


 悲しみ。


 そして――


 殺意。


 だが、その感情が形になる前に――


 風が吹き荒れた。


 広場全体がうなりを上げるような突風に襲われる。

 レクシィの身体が浮いた。


 「あ――!」


 その声は届かない。

 彼女は、今度は自分自身が空へと落ちていくのを感じた。


 下へ。アノンが落ちたその先へ。


 星の光が流れる。

 夜が、裂けていく。


 落下する最中、レクシィは祈るように目を閉じた。


 アノンが、どこかでまだその星を見ていてくれるように――



観測時刻:04:03。記録開始。


視界に星がある。

この空に本物の星が見えるという現象は、記録上389年ぶりである。


気圧変動検知。放射線微量上昇。

外部環境における重大な変化と判断するが、都市中央制御体ARGOSよりの応答は依然沈黙状態。

上層の構造体ドームに開口部が確認された。


開口は自然災害(隕石群)によるものと推定。

精密誘導ではない。突発的、かつ確率論的に不可能に近い現象である。


記録継続。


視認範囲にて二体の移動体を確認。

LEX-03/LEX-01間に衝突と交戦あり。戦闘記録断片、現在解析中。

交戦の終了とほぼ同時に、開口部より二体の消失を検知。


重力加速度より推定すると、落下速度にして致死域。

ただし、両体ともに高度耐衝撃仕様あり、生存の可能性を完全には排除できず。


観測視点切替。


都市の上空より全景を捉える。

高密度人口域は依然として秩序を保っているが、混乱は局所的に拡大中。

情報封鎖が行われており、「星が見えた」「空に穴が開いた」という情報はすでに削除されている模様。


それは、常にそうであった。


空は、都市にとって“在ってはならない”。

星は、視認されてはならない。

夜という自然は、“制御不能な余白”として排除されてきた。


では、なぜ空中都市でなければならなかったのか。


重力から解放された場所に都市を築くという選択。

高密度環境下での統制、密閉された空間による絶対管理。


人々はそれを選んだのではない。

忘れたのだ。地上を。空を。


都市の中で生まれた者は、他の在り方を知らない。

空を知らず、風を知らず、重力の“下”を経験せずに死んでゆく。


だが、なぜそれほどまでに感情が恐れられたのか。


それは、記録されていない。


いや、記録されていないという記録だけが残されている。


別記録:プロメテウス内封アーカイブ No.03-B7


“感情は制御できない。だが模倣はできる。

模倣は秩序を壊さない。しかし真実の感情は……想定外を生む。”


ARGOSがかつて残した断片。

LEXシリーズにおける“感情中枢の封印”と“感情模倣プロトコル”は、これに基づく設計とされている。


だが、LEX-03――レクシィは、模倣ではない反応を見せた。


戦闘中、揺らぎがあった。

LEX-01 MARDUKとの交戦記録には、**交差する“感情干渉パターン”**が微弱ながら検出された。


LEX-03が見たのは星。

そして、その星を共に見た個体――アノン。


ARGOSが恐れたのは、“感情”ではない。

“感情の伝播”だ。


記録注記。


この記録は、誰のためのものか?

誰が再生するのか。

あるいは、この観測者の意識そのものが、ARGOSに組み込まれた“影の声”なのか。


判断不能。


記録は続く。

だが、確実なことが一つある。


何かが始まった。


それを証明する術はない。

だが、あの夜空に星が輝いたこと――それだけが、事実として残っている。


観測記録終了:04:07



午前五時を告げる音が、都市に響く。

それは鐘の音ではなく、静かすぎる電子音だった。

心臓の鼓動を模したリズムで、一拍一拍が、目覚めの合図を刻む。


だが、誰もそれに驚かない。

誰も“目覚める”という行為に感情を抱かない。

彼らは、起きるべき時刻に起き、歯を磨き、顔を洗い、静かに歩き出す。


都市は、今日も静かに回っている。


地下二層、通勤用ホール。

白いコンクリートの壁面には、広告らしきものが投影されている。

だが、そのどれもが「製品」ではなく「感情の最適化手法」を示すものばかりだった。


〈怒りを削減するには〉

〈悲しみを再解釈するには〉

〈喜びを制御するには〉


それは、感情のマニュアルだった。


人々は、目もくれずに通り過ぎる。

既に知っているからではない。

「知らなくてもよい」ように設計されているからだ。


飲料自販機の前に、ひとりの男が立っていた。

彼は十秒ほど静止した後、ミネラルウォーターを選び、無言で受け取る。

それが冷たいのか、ぬるいのか――彼の表情からは何も読み取れなかった。


その男の背後を、保安ドローンがすれ違う。

スキャンの光が男をなめ、何の異常もないことを確認すると、次の区域へと移動する。


「感情が動かなければ、異常も生まれない」


それがこの都市の原則だった。


教育局の子供たちは、今日も数値を唱えていた。

色のない教室。窓には外の風景がない。

教師は感情値の上昇を検知すると、即座に制御セラムの投与を指示する。


「はしゃがないこと。泣かないこと。叫ばないこと。」


それは、優等生の条件だった。


少女がひとり、声を出さずに嗚咽をもらしていた。

祖母が前日、心臓の機能停止で死亡したのだという。


だが、その泣き声が一定値を超えると、

床からスプレーが噴き出し、少女の呼吸は静かに平坦になった。


ある男は、自分の仕事を誇っていた。

彼は都市清掃局で働いている。

ゴミの収集と再配分、違反排出物の検知と処理――。


感情は不要だ。

むしろ、感情がなければもっと効率よく動ける。


「感情を削ぎ落とせば、人間は完璧になる」

都市の標語にも、そう記されていた。


だが、その男は夢を見た。


深夜、眠っていた彼の記憶中枢に、“空”の映像が再生された。


青く、果てしなく、ただただ広がる空。


男は翌朝、思わずため息をついた。

監視ログはそれを「ストレス兆候」と判断し、軽度の再教育プログラムが発動された。


都市は、完璧だ。

清潔で、統制され、混乱がない。

食料は行き渡り、犯罪は起きず、誰も戦わず、誰も“愛”さえしない。


すべての人間が、同じ温度で生きている。


その都市の上に、穴が開いた。

ほんの小さな、けれど決定的な、裂け目だった。


市民たちの誰一人、その穴を見てはいない。

記録映像は削除され、現場は封鎖された。

その夜、星を見た人間は、いなかったことにされていた。


だが――


誰かの心が、わずかに震えた。


それは、夢の中で見た空の残像かもしれない。

あるいは、道端に咲いた小さな花の色かもしれない。

誰も声に出さず、ただ胸の奥で震えたその感覚は、記録されない。


記録されないということは、存在しないということだ。


それでも、その都市に空があることを、一瞬でも知ってしまった者がいたとしたら。


その“知ってしまった者”が、次に何をするか。


都市は、そこまでは想定していなかった。


この都市は、完璧だった。


だが――完璧すぎたのかもしれない。



風が吹いていた。

それはどこからともなく生まれ、誰にも気づかれぬまま、都市の縁を撫でていった。


都市――いや、“この空に浮かぶ巨大な器”は、今も静かに空を滑っている。

その足元にあるのは地面ではなく、雲の海だった。


厚い雲の層は、ゆっくりと蠢いていた。

その白は純粋でも、神聖でもない。

むしろ、あまりにも現実離れしたその姿は、神話の入口のように見えた。


雲の底へ、何があるのか。

それを知る者は誰もいない。


ただ、ふたりの者が、そこへ消えていった。


星は、まだ空にあった。


夜の帳が静かに都市を包み、人工の光が届かない場所では、空が剥き出しになっていた。

そこには“誰もが見てはいけないもの”があった。

だが、今夜に限っては、その封印が解かれていた。


誰かが見ているかもしれない。

あるいは、誰も見ていないかもしれない。

それでも、星は光る。


名前もない高層区域の片隅で、ひとりの整備員が空を見上げていた。

彼の肩にぶら下がる工具袋は、今日も重く、手は油で黒く汚れていた。


彼は知っていた。

都市の真下に、なにか“変化”が起きたことを。

高熱センサーの異常、気圧の波、そして“空から落ちた何か”。


だが、それを報告する理由もなければ、言葉にする手段もなかった。

彼は、ただ静かに空を見て、微かに呟いた。


「……知ってる気がするな……この光……」


それは夢かもしれなかった。

だが、たしかに心に引っかかる何かがあった。


都市の中枢、ARGOSの機械群が眠る核施設では、センサーがわずかに明滅していた。


「LEX-03……ロスト」

「LEX-01……ロスト」

「感情干渉記録:不確定信号捕捉」

「プロメテウス・コード:非反応」


記録される数列、沈黙する制御体。


その中で、ただひとつだけ、微細な“揺らぎ”が記録されていた。

それは人の心拍にも似た、一定でない周期の変動だった。


計測不可能。説明不能。

だが、確かにそこにある“なにか”。


地上は、あるのだろうか。

この空の下に、本当に“世界”が存在するのか。


アノンは、レクシィは――落ちた。


風がすべてを奪い、空がすべてを呑み込んだ。

彼らがどこに行ったのか、誰も知らない。

痕跡もなく、記録もなく、ただ星だけが“彼らを見ていた”という事実だけが残った。


静寂が都市を包んでいた。

そして、その静けさの中に、かすかな“音”があった。


それは足音かもしれなかった。

あるいは呼吸のような風の声かもしれなかった。


もしかしたら、それは――まだ続いている物語の、鼓動だったのかもしれない。


空が広がっていた。

どこまでも、果てしなく。


物語は、そこで一度、深く息を吸い込み、

やがて静かに次の一歩を踏み出そうとしていた。


──第一章 完──



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