木曜日は週刊少年ジャンプの日

千羽稲穂

木曜日は週刊少年ジャンプが発売される日!

 帰宅してばたんきゅーで倒れた布団に身体の疲れが染みこんでいく。帰りの電車で眺めた夕暮れも、仕事で失ってしまった誇りも、朝の意気込みすらも、疲労ごと憑きものを落とすように布団になだれこむ。布団はしなびていて汗臭い。自分自身の香りは生気を孕んで嫌気がさす。このまま自分の存在ごと布団に投げてしまおうか。

 すると、宙にふわふわと浮いて、宇宙にくるまれ、身体から魂が抜けていく。体重と気持ちが切り離されていく。「毎日毎日同じことの繰り返し」独り言が部屋に響く。

 まるで街に溶け込んでいるような毎日。自分はどこにもいない。虚しさだけが積もっていく。

 私はぎゅっと目を瞑って留まった。もう動けない。動いたところで何もできない。身体を固めて、蛹のように肩を抱きしめた。

「こんなんじゃ、恵美に顔向けできないや」

 生き延びたのに何一つ生きていて良かったなんて答えられなかった。恵美、と名前を言うのはお守りを保持しているようでもあり、掠れそうになる彼女の記憶を上塗りしているみたいでもあって、罪悪感を抱いてしまう。そのうち溺れてしまいそうだ。

 恵美、あなたが生きたほうが幸せに生きられたんじゃない?

 そう問うたびに、大病を患っていた幼い頃を思い出す。ずっと生死の境を彷徨っていた。頭の毛は抜け落ちてしまい、身体は青白く、唇は常に血色が悪かった。薬の副作用で節々に常に痛みが生じてしまい、歩行すら億劫になってしまって、ベッドから起き上がることも、口に何かを入れることもしなくなっていった。腕に管を通され無理矢理に食事を促し、私は透き通った肌に浮かび上がる血管の形を指で象っていた。

 最初の頃は面会に来ていた両親もだんだん骨と皮だけになっていく私を見るのが耐えきれなかったのか、顔を見せなくなっていった。

 後は死を待つのみ。

 ベッドの周囲に分厚いカーテンの城壁を建てて誰も中に入ることを許さなかった。

 だけど、恵美の鼻歌だけは、軽々と壁を超えてきた。

 恵美は隣のベッドで看護師と楽しげに曲を奏でていた。歪なメロディ。へんてこな拍子。でも、明るくて、ご機嫌な猫のような気まぐれさがあった。少しだけ笑い声を交えて。

 ふふふ。んん、ふふふーふ、ふふっ。どうしたの? 今日は、天気がいいから。ごほ、ごほ。体調は? 過去最低を更新中。ふふふ。だけど、今日という日は昨日とは違うから。今日は木曜で、トクベツだから。ふふふ。楽しそうね。うん。

 やることなく遊んでいた私の耳が彼女の声を吸い取ってしまう。看護師が去った後も、彼女の鼻歌は続いて、次の日も、その次の日も歌われたから、私の脳内にずっと鳴っていた。ふふふ、ふふー、と知らず知らずのうちに歌っていた。恵美は私の鼻歌に気づいたのか、同時に鼻歌を歌った。

 歪なメロディ。

 へんてこな拍子。

 ふふふ。

 笑い声。

 ふふふーふ。

 んーんん。

 カーテン越しでも解る。

 彼女の上機嫌な声色。

「素敵」

 歌い終わったら彼女は歌の合間に感想を挟み込んだ。

「ふふふ、誰かと一緒に歌うなんて、初めて」

 カーテンに映っている彼女の影が咳で苦しそうにカクカクと動く。異物を喉からだすように必死に身体が抵抗しているように見えた。今にも心臓が飛び出そうなほど大きく身体を揺すると、ふふふ、とやっぱり笑った。

「歌うのやめなよ、身体に障るよ」

 影は笑いながら、苦みぬき頭を振った。

「大丈夫よ、こんな病気にあたし負けないから。あたし強いのよ。百戦錬磨、天下無双、天上天下に」

「唯我独尊?」

 はっと息が吸われた。

「ジャンプ、読んでるの?」

 彼女の声色は弾んでいた。

 病院の売店に並ぶ、漫画雑誌には当然のごとく週刊少年ジャンプはあった。他の子どもや看護師が噂をしていたし、その言葉自体はさして目新しいものでもなかった。私は読む気力もなかったのに、思わず彼女の圧を感じて、「うん」と答えてしまった。呪術廻戦の「じゅ」の字も知らないのに。

 恵美は思ったよりもジャンプのヘビーユーザーだった。毎週のようにジャンプを読み、私にとつとつと感想を述べる。本当なら毎週月曜日にジャンプは陳列されるが、病院では私達のような病人のために木曜にジャンプが発売されるため、恵美は木曜日にジャンプの話をした。

「ねぇ、五条悟勝つと思う?」

「さあ」

「あああ、どうなっちゃうの? 死んじゃ嫌」

 その次の週に五条悟というキャラが亡くなったときは「天下無双してよぉ」と嘆き悲しむ声がカーテンを越えて届き、

「逃げ上手の若君のアニメ化だよ!」

「良かったね」

「あたし、病気を蹴散らしたら、若君みたいに逃げ上手になるんだ」

 キラキラした声色が降り注いで、

「枕元に死神がいたらくるっと枕を回すの」

「何の話?」

「死神」

「不吉」

「落語の死神だよ。おっとっとって、自分の命の蝋燭を注ごうとするのをあかねはしてるじゃん? あたしもこんな長く話し、」たい、と言う直前で咳き込んでしまう。ふふっと笑い交じりに、ほら、と恵美は見せた。「あかねはすごいな。あたし、病気を吹き飛ばしたら、落語家になる」

 だんだん恵美の話に乗せられて、私はベッドを起き上がっていった。毎週木曜日が恵美は楽しそうで、そんな恵美の様子を私は楽しむようになっていった。すると私は木曜が待ち遠しくなり、カーテンがうっとうしくなった。彼女の鼻歌は、いつだって歪。それもそのはず又聞きしたアニメの主題歌を自分自身でアレンジしていたから。病院という狭い世界の中で、私達のような容態で、唯一見聞きしたジャンプの世界は、健常者よりも、よりずっと近く、遠い異世界のことだった。

 私と恵美のやりとりは未来のことばかり。次の週のジャンプはどうなっているんだろうと言うこと。それもおかしなこと。病院に来てから今日の容体ばかりだったのに。

「呪術廻戦終わっちゃったね」

「最近だとカグラバチが熱いんだ」

「へぇ」

「キルアオっていう普通の日常を送る殺し屋の話も楽しみ」

 普通の生活。私達の人生には見つけられなかった、生活。

 一体どんな生活だっただろう。きっと彼女の口から語られるだろう。そう、楽しみにしていたら私の食欲は回復していった。次の話が楽しみで一日、一日と健康を重ねていった。看護師には「最近良いことあった?」と聞かれる始末。

 ついに経口摂取になり、透き通った肌には張りが戻り、血管は見えずらくなって血管の形を追うのをやめた。

 一方で恵美は言葉はつっかえてでなくなり、ジャンプの話はしなくなっていった。そしてあの日がきた。

 その日、恵美は木曜だったのにジャンプの話をしかけてこなかった。ひしゃげて潰れたごちゃごちゃした弱々しい声が、絡まったまま出され、痺れを切らした私は「何? どうしたの?」と尋ねてしまった。

「いつかね、」と唯一聞こえた声。

 私は分厚い城壁を越えるか悩んだ。この先にいる彼女。ジャンプ、するだけ。

「いつか」

 これまで閉ざしていた気持ち。開けるのは怖かった。誰ともかかわりたくはなかった。でも、それと同じくらい、私は毎週彼女の鼻歌が、彼女の話が、ジャンプが好きになってしまっていた。

 ゆっくりと私は締めきったカーテンを開いた。日光がひらめいて、白い枝のようなみすぼらしい腕が影となって浮き上がっていた。ぼんやりと目の照明が和らぎ、彼女の骨と皮になってしまった顔を見つけた。

 彼女は私の方へ手を伸ばしていた。

「やっと顔が見れた」

 私と同年代のただの女の子。くぼんだ目を必死に私に合わせた。乾いた唇で何か言おうとして閉じた。

「いつか一緒に散歩したいと思ってたんだ」

 ジャンプだとよくあるシチュエーションに憧れた。高校生だと屋上に上がってひなたぼっこするんだよ、と彼女は言っていたし、私もそうだと思っていた。看護師の目を盗んでエレベーターに乗って、屋上に向かった。

「いつか、」

 エレベーターの中で恵美は私を支えて、彼女は私を支えていた。

「ねぇ、恋をしたことある?」

「ううん」

「いつかね、アオノハコのように恋をしてみたいの。部活をしていっぱい身体を動かしたい」

「ワンピースのように悪魔の実を食べたらできるんじゃない」

「泳げなくなっちゃうじゃん」

「そうなの?」

「そうだよ」

 くすくす笑う恵美に背中を押されて、エレベーターは屋上に着いた。扉がゆっくりと開かれると、布団が幾枚も白旗のように揺れていた。雲一つない空の下。チカチカと目が眩んだ。無理に動いたからか息がせりあがっていた。呼吸を整えると、「すっごい」恵美が私の支えから抜け出して前に躍りでた。

「気持ちいい」

 蝶がダンスするように恵美は両手を広げてひらひらと舞う。風が吹いて伸び始めた私の髪をなぜる。

 恵美は二回転する前に上手く回りきれなくなって倒れてしまいそうになる。私は恵美を受け止めた。

「いつかね、あなたの友達になりたかった」

 恵美が私を抱きしめた。

「いつか、いつか」

「できるよ」

 そう、あなたは天下無双だったよ。なんでも出来た。天上天下唯我独尊で、世界で唯一の人。最後まで病気と孤独に闘った──

「私達は、とっくに友達だもん」

──最強の私の友達。

「呪術廻戦のように呪術を使えたりするし、敵を呪術で蹴散らすんだよ。ワンピースの悪魔の実だって何個も食べて、アオノハコのようにモテモテになって、キルアオのように正体がバレても殺し屋を続けたり、あかね噺のように落語で世界を席巻して、サカモトデイズのように病気を殺しまくるし、ウィッチウォッチのように魔女になって毎日を楽しく過ごすし、カグラバチのように剣で斬ったはったのチャンバラよ」

 一息に知りもしない作品のことを言いのけた。

「大丈夫。また木曜を迎えよう。私、ジャンプ好きだから。たくさんジャンプの話しよ」

 恵美は私の肩で頷いた。答える声がない。涙だけ染みこんで重くて支えきれなかった。彼女は頷くだけ。頷くだけだった。

 恵美は私がジャンプのジャの字も知らないことを解っていたに違いない。それでも。

「恵美は、天下無双だもの」

 恵美は私を優しく解き、笑顔を見せた。

 身体はゆるやかに孵化する。屋上の干してあった布団がひらひらと風に乗って街に一枚飛んでいった。私の身体は恵美から離れて、大人になっていく。抱き留めた恵美の体温は薄れていく。私の身体は街へ向けて近づいていく。屋上から見える街はむくむくと育っていき、私と同化していく。

 恵美はその次の週から始まる、新連載の『魔界のイチ』を読めなかった。

 私は、恵美が読めなくなった日からジャンプを読みだした。今度は毎週月曜日。店頭に並んだらいち早く。そして、彼女にいち早く感想を伝えた。

「今週の『ONE PIECE』はすごかった。伏線回収の嵐だよ。恵美の言ってた通り尾田先生は天才だよ」

「『カグラバチ』アニメ化決まったよ。『逃げ上手の若君』は、二期が盛況だったよ」

「ね、今週のジャンプはね」

 私は、恵美に欠かさず伝えたい。

 だって、恵美は。

 家のカーテンの隙間から朝日が差した。目が眩んでしまう。頭も身体も重い。体重が戻ってくる。布団に染みこんだ何もかもが私の気力を蓄えていった。身体の輪郭をなぞる。脈がうっている。血管から血が全身にはりめぐらされて、心臓がどくん、とうつ。

 今日はジャンプが発売される月曜日だ。

 起きて読まなきゃ。

 最強の友達のために。

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