カレーと悪魔
尾八原ジュージ
悪魔のカレー
カレーを愛する男がいた。我が名を歴史に刻むようなカレーを作ろう――その志をもって多額の借金をし、カレー屋を始めたが、愛があっても美味しいカレーを作れるとは限らなかった。
一人も客が来なくなって一年が経った頃、もうどうにでもなれという気になった男は、悪魔召喚の儀式を執り行った。悪魔は即時来なかったが店に留守電が入り、それによれば『明日午後二時頃参ります』というので、楽しみに待った。
翌日、約束の午後二時になっても店のドアは開かなかった。やはり悪魔は悪魔で約束など守らないのだろうと落胆していると、突然「遅れて申し訳ございません」と慇懃な声がして、何かがぬるりと換気扇から入ってきた。
言うまでもなくそれは悪魔だった。小柄で、黒くて長いマントを着け、そしてアライグマに酷似していた。
「私は悪魔です。これから貴方に世界一美味いカレーを授けますが、貴方はそれを食べることができません」
悪魔はそう言うなり、カレールーを煮込んだ大鍋にまたがってマントをめくると、ブリブリと茶色いものを垂れた。あまりのことに殴りかかろうとした男が厨房に至る直前、悪魔はその辺のふきんで尻を拭き、にやっと笑って消えた。
さて、ブリブリと垂れた先の鍋からは、さっそく強烈な匂いが立ち上っていた。臭くはない。むしろ嗅いでいるだけで腹が減るような、重厚で濃厚でスパイシーで旨味成分の詰まったやみつきになるような香りが店中を満たしていた。そのときカランカランとドアベルが鳴って、一年ぶりの客が入ってきた。
「なんかすげぇいい匂いするなぁ。マスター、カレーひとつ」
男は驚きつつも、急いでカレーをサーブした。客はもう待ちきれないという顔で口に入れた。
「うまい!!!」
客は口から米を飛ばしながら叫んだ。口から吐きだされたカレーの香りが顔を直撃し、男はアライグマの脱糞を思い出して吐きそうになった。カランカラン。ふたたびドアベルが鳴った。換気扇からカレーの香りが外に漂いだし、人々を呼び寄せていたのだ。
いつの間にか店はいっぱいになり、外には行列ができた。すぐにカレーがなくなってしまうんじゃないかと思ったが、意外や意外、いくら掬っても掬っても鍋の中のカレーはなくならない。先に白飯が底をつき、男は並んでいる客に「もう米がありませんので」と謝った。すると客たちは「それじゃルーだけでも喰わせてくれ」という。
カレーのサーブと皿洗いと会計に忙殺されるうちに閉店時間にこぎつけ、ようやくドアの札を「CLOSED」にした男は、かつてない高揚感と心地よい疲労感に包まれていた――が、店内に戻るとクールダウンした脳味噌をカレーの香りが襲った。確かにいい匂いだった。だが男の脳内には、あのアライグマみたいな悪魔が鍋の上でブリブリとやる光景がまざまざとよみがえった。彼はその場で嘔吐した。
カレーは次の日も鍋に満ちていた。開店時間になると、まず昨日の客たちがカレー屋に押しかけた。
「昨日のが忘れられなくってさぁ」
リピーターが生まれていた。かくして男は再び忙殺された。ひっきりなしに客が訪れ、カレーを食べ、カレーの写真を撮り、またカレーを食べ、褒めそやした。昨日の倍も米を炊いたがあっという間になくなり、ルーだけをサーブする時間が続いたがやはり客足は途絶えず、閉店時間一時間前に何とか言い訳して店を閉めたときには、男の腕は疲労でパンパンになっていた。
その次の日も同じだった。その次の日はもっと客足が伸びた。店の口コミが広がり始め、開店時間の一時間前にはもう店を中心にトグロを巻くような行列ができていた。男は毎日忙殺された。次々に訪れる客をさばくのに夢中になった。営業時間を午前十一時~午後二時とし、三時間だけ一所懸命働くことにしたが、営業時間が短くなると客はますます行列を作った。
絶賛の嵐が男を襲った。こんなカレー食べたことない。今まで食べてきたものの中で一番美味い。癖になる。もうやみつきだ。テレビや雑誌の取材のオファーが来たが、男は断った。これ以上客が押し寄せたらどうなるか、考えただけで怖ろしかった。それにカレーを――かつて借金をして店をやろうとまで考えた、あんなに大好きだったカレーのことを、彼はもう嘗てのように愛せなかった。
皆が美味い美味い最高だとほめそやしながら食うカレーを、男はまだ一口も食ったことがなかった。味見をしようとすると、鍋の上で脱糞をする悪魔の姿が脳内に蘇る。その記憶は薄れるどころか日を追うごとに鮮明になり、最近ではこの上なく汚らしい湿ったブリブリ音と共に再生されるようになった。そのたびに男は嘔吐を堪え、涙目になった。このような状態で「味に関するこだわりは?」とか「どんなスパイスを使っているんですか?」などと質問されて、まともな返答ができるとは思わなかった。もしも雑誌記者に「カレーを食べている写真を撮らせてくれ」などと頼まれたらどうする? と考えると、それだけで酸っぱいものが食道の奥からこみあげてきた。
自分の店のカレーの味を一切知らないまま、男はカレーを売り続けた。
客は連日押し寄せた。週に三回だけ営業することに決めると、さらに行列が長くなった。週に三日、しかも一日につき三時間だけ。それだけの営業でも儲けは十分に出続けた。
男は人を雇わなかった。カレーの減らないカレー鍋について従業員に尋ねられても、説明のしようがないからである。もしも「悪魔がウンコして以来減らなくなったんだ」などと言ったらどうなるか、男には想像もつかなかった。男の困惑と苦悩をよそに、店の評判は高まり続けた。
ある日の朝八時、すでに店の周囲を取り囲み始めた行列を眺めながら男は考えた。これほど多くの人が悪魔のウンコを食いに来ているのだ。おれは何も知らない彼らに、これから悪魔のウンコを食わせるのだ。それどころか、すでに数えきれないほどの人々に、おれはウンコを食わせてきた。ただのウンコではない、悪魔のウンコを。
「おそろしい。なんとおそろしい」
罪の意識が襲い、男は頭を抱えた。
悪魔召喚から三か月、男は自分の店のカレーはもちろん、ほかのどんな店、どんなレトルトのカレーも口にしてはいなかった。口にしようとすると、言うまでもなくあのアライグマめいた悪魔の悪魔的映像が頭の中を支配するからである。男は突然店を飛び出し、あの行列の中に入っていって、お前もお前もお前もみんな悪魔のウンコを食いに来ているのだと怒鳴りつけたくなった。拳を握って耐えたが、このままではいつか本当にやるだろうと思った。
男はいたたまれなくなった。奇声を上げながら立ち上がり、急いで厨房に駆け込むと、前日に出た生ごみをすべてカレー鍋に入れ、ぐるぐるとかき回して煮込んだ。
発作的にやってしまったその行為を、男はすぐに悔いた。だがその悔いはあっという間に蒸発した。生ごみが消失したのだ。野菜くずどころか混ざっていたビニール片までもが完璧にカレーに溶け、その一部となって、跡形もなくなってしまった。
開店時間がやってきた。男はカレーを提供し続けたが、だれも生ごみの存在に気づくものはなかった。
カレーは何もかも取り込んでしまうのだ。すべてのものをカレーにしてしまうのだ。そのことに気づいた男は、生ごみだけでなく、プラスチックごみを、紙ごみを、割れた食器を、カレー鍋に放り込んだ。そうやっているとき、すなわち自分の手でカレーを汚しているときだけは、なぜか心が安らかになった。
「弟子にしてください!」
ある日、ひとりの若者が店を訪れた。すでにたびたび客として訪れたことのある男だった。
「あなたのカレーの大ファンです。いつかこんな美味いカレーを作ってみたい」
男は弟子入りを断り、彼を追い返した。若者はしかし、次の日もやってきた。その次の日も、そのまた次の日も。若者はずいぶんしつこかった。男は次第に彼のことが鬱陶しく、厭わしく、煩わしくなってきた。水をかけても、頭をふんづけても、若者は男の店を訪れた。
とうとう男は根負けした様子で、店を閉めたあとの厨房に彼を招き入れた。しかしカレー作りなどもちろん教えられるはずもなかった。彼ら以外に人気のない店の中で、男は若者の頭を重たい手鍋で殴った。鍋の取っ手が取れるまで殴りつけると若者は動かなくなり、男は弟子入り希望者がいなくなったことにほっとした。死体を分割すると、男はそれをカレーの中に次々放り込み、すべてをカレーに溶け込ませてしまった。
それから弟子入り希望者は相次いだ。大抵は何度か断ると引き下がったが、あの若者のようにしつこい者もあった。そういうときには観念したふりをして店の中に入れ、物言わぬ肉塊に変えてから鍋に放り込んだ。カレーはすべてをカレーにした。
ある日の夜、厨房で酒を飲んでいる男の前に、アライグマに似た悪魔が現れた。
「調子はどうです?」
にたにたと笑う顔に、男は肉切包丁を叩きつけた。
「お前のせいで、俺はカレーを嫌いになったぞ!」
男は何度も何度も悪魔に切りつけ、動かなくなった悪魔をマントごとカレー鍋に放り込んだ。それからコンロの火を点けてぐらぐらと煮た。三十分ほどして鍋の蓋を開けると、悪魔の姿はなかった。やはりカレーに溶けてしまったのだと男は悟った。もうカレーの秘密を知るものは自分しかいないとだと思うと、安堵よりも寂しさが襲った。
男は煮え立つカレー鍋の中に自らの頭を突っ込んだ。たちまち地獄の苦痛が彼を襲ったが、同時に甘い安らぎを覚えた。意識はすぐに途絶えた。
翌日、カレー屋はいつになっても開店しなかった。客は長蛇の列を作り、開店時間を過ぎていることに憤慨した。それでもカレー屋は開かず、とうとう客たちはドアを破って店に押し入った。
厨房には大きな寸胴鍋があったが、その中には何もなかった。カレーの中から蘇った悪魔が、男の死体と共にカレーを地獄に持ち去ったのである。
客たちは去り、荒らされた店はそのまま残された。そのうち物好きな金持ちが丸ごとそこを購入し、カレー記念館として後世に遺した。その建物は今もなお、その地に物凄く美味いカレー屋があったことを、店主であった男の名前と共に伝えている。しかし悪魔に魂を奪われ、地獄の底に繋ぎ止められてしまった当の本人は、彼の名が歴史に刻まれたことをまるで知らない。
カレーと悪魔 尾八原ジュージ @zi-yon
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