あこがれ

比呂

あこがれ

拝啓 


 冬の寒さが残っているにも関わらず、春の芽生えが見え始め、自宅の庭ではフキノトウが採れるようになりました。


 先日に貴方から頂いた手紙を読んだ頃は、石油ストーブの前で猫と一緒に身を縮めていたことを思い出します。


 私の筆不精を、お許しください。


 貴方は、今でも私の手紙を待っていてくれたでしょうか。

 恐らくですが、苦笑いを浮かべて、遅いよ、と言って下さることかと存じます。


 貴方の言葉を思い出し、反芻しては、答えが出せずにいました。


 もちろん、貴方に非があるわけではありません。

 私が悩んでいるだけなのです。


 この、部屋から見える海に、別れを告げることを考えると、どうにも胸が締め付けられる思いがします。


 貴方は覚えていらっしゃるでしょうか。


 潮風に揺れる波と、遠くを征くフェリー。

 漁船が、ぽんぽんと音を立てて漁から帰ってくる、滑稽なのどかさを。


 柔らかい陽光に包まれて、とても幸せな光景でした。


 私は覚えています。

 貴方と波止場で釣りをして、貴方はみかんをくれましたね。


 甘いと言ってくれたはずなのに、とても酸っぱい味でした。

 そして、私の顔を見て笑う貴方の顔も、きちんと覚えております。


 当時は腹を立てたものですが、今では良い思い出です。

 そのときの海とは、もう、変わり果ててしまいましたから。


 過去ばかり美しいと考えていると、とても年を経たような気がします。

 今だって、探せばいくらでも、美しいと思えるものがあるでしょう。


 それは、私が気付いていないだけで。


 たくさんの、美しいものが。


 貴方の周りにも、きっとあるはずです。


 見ようとしないだけで、探そうとしないだけで、私よりも素晴らしい方がたくさんいることでしょう。


 そのことを、もう一度、よく考えて頂くことをお勧め致します。

 なにも、好き好んで酸っぱいみかんを食べなくても良いと思いますよ。


 思い出は、とても美しいです。


 それは、どうしても手が届かないものだからです。


 校舎の階段を一緒に上ったことも。

 学校の帰り道に、肩を貸してくれたことも。


 美しいままに、しておきたいのです。


 貴方があこがれてくれた私は、もう居ません。


 許してね。ごめんなさい。


 でも、こんな私に素敵な手紙をくれて、ありがとう。

 ほんの少し、学生時代に戻れたようで、嬉しかったです。


 ありがとう、ありがとう、さようなら。


敬具

 

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あこがれ 比呂 @tennpura

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