あくがれありく
西しまこ
憧れ歩く
理想のひとを見つけた。
ひと目見たとき、彼が私の伴侶だって、すぐに分かった。私がこれまで一人でいたのは、あのひとに会うためだったんだ。暗い孤独は、彼に会うための準備期間だったんだ。
「隣に引越してきた中澤です」
彼はそう言って、包みを差し出した。その声は、私の深いところにある感情を甘く揺さぶり、私は息が詰まりそうな幸福感を生まれて初めて味わった。
「今日は妻が仕事で――」
彼は引越しの挨拶を一人で来た理由を述べる。
分かってる。私に会うためにわざと一人で来たんだね。分かっているよ。
優しい目元、「好きです」と言いたげな唇。少し微笑んだその笑顔が胸を貫く。
彼の手が、私の手に触れた。――握ってくれていいのに。そうしたら、握り返すから。照れているんだね。いいのに。大丈夫だから。
彼が来ない。
チャイムを鳴らしてくれるのをずっと待っているのに。どうして?
ぐるぐるする思い。彼に会いたい。膨れ上がる、どろりとした熱いもの。
会いたい。
会いたい会いたいあいたいあいたいあいたい。彼だって、会いたいはず。私、待っているよ。会いたいよ。ねえ。会いたい――あいたい‼
あ。
私、身体から抜け出せた?
私は自分の身体を見下ろしていた。ああ、このまま、どこへでも行ける!
どこへでも――彼のところへ!
彼に会いたい――いた!
ごはん、作っているんだ。ああ、そんなの、私が作ってあげるのに。私は彼の頰をそっと撫でた。
彼が私を見た――目が合う――彼の目には期待がこもっているように見えた。私は微笑む。
分かっている。あなたの気持ち、全て。
私はそれから、好きなときに彼に会いに行くようになった。
そして、彼が求めているものを届ける。彼が喜んでいるのが分かった。私のことを好きなことも。手が触れ合い、私たちは気持ちを伝え合う。ああ、大好き。愛している。
私は次第に大胆になり、魂の姿で彼にキスをするようになった。彼がそれを望んでいることがよく分かった。
ああ、魂ではなく、肉体を伴って彼に触れたい。キスしたい。彼の唇をこじ開け、舌を舐め絡め、そして首筋に唇を這わせ乳首にキスをして、それから下に――
私は彼のもとを訪れる。魂となって歩いてゆく。
触って。
隣に座って。
髪を撫でて。
キスをして。
寄り添って。
抱きしめて。
――ああ、もっと。もっと! 私の魂は、彼を覆い尽くす。彼を味わい、私は幸福感で満たされる。彼もきっと同じように幸福なはずだ。
私は魂の姿で彼のそばにいるようになった。いつも。
そして、ときどき肉体を伴って彼に会いに行く。そっと。
彼と目が合う――彼の瞳は私を捉えると、いつも、震える。愛しい震え。
私は彼が喜んでいるのを知り、嬉しくなる。
ねえ、ずっと一緒だよ。
「結衣、お隣さんには気をつけて」
「どうして?」
「あいつ、なんか変だから。会うたびに変な目で見て来るし。てゆうかさ、出かけるときや帰ったとき、気づくと近くにいてこっちを見ているんだよ。キモいよ。引越しの挨拶のとき、結衣が一緒でなくてよかった。会わせたくない。……あいつさ、ときどき料理持ってくるんだよ」
「えー! ほんと? 気持ち悪い」
「うん。何が入っているか分からないからさ、捨ててるんだよ。あいつが来るとき、俺、だいたい在宅だから結衣に会わせなくてよかったけど、結衣が対応していたら、と思うとぞっとするよ」
「気をつけるよ、理人」
「俺、結衣が他の男に変な目で見られるの、嫌だ。……だって結衣は俺の大事な妻だから」
「大丈夫よ、理人。……ね?」
「結衣……」
イヤだ‼
女が彼にキスするのを見て、私は女をつき飛ばそうとした――出来なかった。
私も彼にキスをした。しかし、彼は女との行為に夢中だった。
イヤだイヤだいやだいやだいやだ!
あ。
そのとき、私の意識は女の中に入り込んだ。するりと。
何、これ。
めくるめく快感――初めて感じる。
ああ。
熱い視線が私を見つめる。熱いものが私の中で激しく動く。
女が、肉体の中で騒いだ。
首を、締めた。快感の中で。抵抗の叫びを私はぐにゃりとへし折る。お前は要らないんだよ。
スパークする意識の中で、女の気配が消えゆき、快感はさらなる高みへと向かう。
彼に覆いかぶさり、彼の体温を堪能する。
唇をこじ開け舌を絡める。
混ざり合う唾液。その熱。うねり。
お腹の下のところから快感が身体中を巡る。足の先まで頭の先まで。
これが、女性の身体の快感。
快楽の海で溺れる。
相思相愛の彼と。
彼と肌を一つにしながら。
女の気配はもう欠片もない。
「理人」
私は初めて彼の名を呼んだ。
了
註①憧(あくが)る:心が引かれつつも、そのものを身近に出来ずじっとしていられなくなること。魂が身から離れてさまようこと。
註②歩(あり)く:歩く。
あくがれありく 西しまこ @nishi-shima
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