5回目、卒業式では誘わなかった 《KAC20252》

ひとえだ

第1話 5回目、卒業式では誘わなかった

 赤紫の空にとばりが降りてゆく。

 時の流れに油断をしていると、いつか空が青かったことさえ忘れてしまうかもしれない。空が闇に侵食されて、町の灯りがまたたき出す。


 ここから見下ろす故郷は、記憶から消えている嫌な記憶達を呑み込んで封印しているのかもしれない。

帷が降りるまでのこの時間

目に飛び込んでくるものは

ひどく清潔だ


「照りもせず

  曇りもはてぬ

 春の夜の・・・・・・」

  この声の主には聞き覚えがある。記憶が間違っていなければ、声を掛けたこの女性は、僕よりかなり年上で、10年前には教壇から去っているはずだ。

 

 この歌の下の句には2つの答えがある。


 大学生の頃、誰かと見上げた夜空が蘇る

「朧月夜に

  似るものぞなき」

 先ほど、耳に届いたこの歌のを読んだのは、なべての人の声で、決して想いを焦がしたあの声ではない。

 振り向くと女性は満足そうに笑っていた

「熊谷さんは源氏物語を読まれたのですね」

 敬語に違和感と自分の年齢を感じた


「大学の時に付き合っていた人が古典文学好きでして、門前の小僧が習わぬ経を覚えました」

 いきなり女性のか細い手で頭を小突かれた

「私は、ちゃんと教えましたよ。

 もっとも、私の授業で数学の問題を解いている不届きなやからがいましたが」

「その節はたいへん申し訳ありませんでした」

 真摯に詫びを入れた。思えば門前のくだりが失礼な例えだったと反省した


「私の授業のあなたは、坐禅をした僧のようでしたよ。

 まあ、源氏物語を読んだことで、そのことは水に流しましょう」

 女性が笑いながら言ったことが救いだった

「やっと、水面に漂う浮舟が岸につきました」

「“つき”は掛け言葉ですか?」


 心地よい想い出が溢れてくる

「こんな話をすると、大学の頃付き合っていた彼女を思い出します」

「難関理系大学の学生が古典文学とは、余程その人に惚れ込んでいたのですね」

 女性に精一杯の笑顔を作った

「身の丈に合わない大学に入ったせいで、結局、学業か彼女かを選ばなくてはならなくなってしまって、僕は学業を選んだ最低の男ですけどね」


 女性に気を遣わせるのは申し訳ない。話題は自分が作る

「源氏物語の中では“朧月夜の君”がいちばん心を惹かれます。もしかして先生は僕の好みをご存じでしたか」

 当然、女性がそんなことを知っている筈はない。


 女性は神妙な面持ちで告げた

「数多の生徒の中でも、あなたのことは良い方で憶えている生徒ですよ」

「それは光栄です」

 僕の場合も、自分の携わった仕事が好成績を残したことはみんな憶えている。この女性もそうなのかもしれないが、自分は古典の受験科目がない私立理系大学に進学しているのでその仮説は怪しいところだ


「旧姓で柏木さんでしたか、高校生のあなたが憧れていた人は?」

 “旧姓”に悪意を感じる。経験上、女性なので僕が感じた悪意は意図したものではないだろうが

「裕美子さんですね。あの頃、僕の好きな人までご存じとは、驚きました」

 話題を冷却するように女性が言った

「柏木さん、今日は来ていないみたいですね」


 僕は苦笑した

「僕が、参加するかもしれないので、来づらいのかもしれませんね」

「柏木さん、あなたのことで私の所に何度か相談に来ましたよ」

 僕のしたことが、裕美子にとって先生に相談する程の出来事だったのは知らなかった

「裕美子さんが僕のせいで辛い思いをさせたのは申し訳なかったですね。

 好きでもない男に何度もデートに誘われたのだから、仕方ないです。

 もう過去の出来事なので記憶に残っていないと有り難いのですが」


「柏木さん、あなたのことが好きだったのですよ」

 女性の言葉を疑った。言葉が僕の脳裏で分析を拒絶する

「先生、からかわないで下さい。僕は裕美子さんに4度デートに誘って、全て断られているのですよ。そのどれもが、ふざけて誘った訳ではなく真剣に誘ったのです」


 女性は微笑んだ

「柏木さんは自分があなたに相応ふさわしくないと思っていました」

 確かにそうだ、上品で、頭脳明晰。僕なんかが付き合える女性ではない。でも、なにもしないで帷を下ろす結末は僕には選べなかった


「役不足では仕方ないですね。

 “人は配られたカードでしか勝負できません(You play with the cards you're dealt..)”から。

 裕美子さんが妥協してくれることが、この恋愛物語の大前提でしたから、物語を初められませんでした」

 これはスヌーピーの作者の言葉だ、仏教圏でない作者がこのような言葉を仰ったことに驚いて、大学の時の彼女とよくその話題が登場した


「勘違いしていますね熊谷さん。逆ですよ、熊谷さんみたいな素敵な人に私みたいな不細工は似合わないって言っていました」


 空の帷は降りていて、窓の外は闇に包まれている。観客も既に席を立ち、帷を見つめる人はもういない


「先生、独り言なので答えて頂かなくて結構です。

 裕美子さんを無理矢理押し倒して関係を持つことが正解でしたかね?」


「朧月夜に

 くものぞなき」


ー了ー

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5回目、卒業式では誘わなかった 《KAC20252》 ひとえだ @hito-eda

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