憧れの幽霊
江東うゆう
憧れの幽霊
荒れた路を踏んで都を去り、私の心はたゆたって旅愁を含む。
見渡せば、
ようやく町を見つけたが、守る城壁に
舟を出そう、河を渡るため。果てしない水の群れは蒲で大地と分かたれ、葦に遮られつつ海に流れる。厳しい旅。日暮れには涼風が、私の小さな舟を、ひらひらと揺らすのだ。
ひぐらしは秋を呼んで鳴き、鳥は空を打って翼をしばたく。
死ぬか、逃げるか、旅の私に甘い夢が蘇り、生きて家族を想って嘆く。涙は繰り返す夜のようにとめどなく、収めることすら叶わない。――嗚呼、何と都の遠いことよ!
暖かい日光を浴びて目覚めると、人里に辿り着いたようだ。
舟から降りて鶏の声を聞けば、人々が薪を割る音がする。田に穀物は実り、家は華やか、門に貼った札も綺麗なままだ。あそこを行くのは朋友ではなかろうか、今駆け抜けたのは息子ではなかろうか。人並に阻まれたが、心には春が滲んだ。もういい、私は年老いて、病も得た。曾祖父、祖父は大臣になったが、私の先は見えている。
聞けば、ここは私の仕えるあの方の故郷だという。そうでなければ、こうも豊かではなかろう。詩を詠んで称えよう、ここは楽土だと。詩経の詩人が求めた場所はここであると。知りもしなかった。都以外のこの土地が、私を故郷に遊ぶような気にさせるとは。異邦人だが、私はここに留まろう。穏やかな夢を見せてくれるこの町に。
――王粲「従軍詩其の五」超意訳――
寝苦しい夜だった。
遅くまで論文を書いていて、寒さが尋常ではなくなってから布団に入ったせいだろう。
師走の冷気を十分に吸った空気は、毛布の隙間から足の裏に触れて、微睡んだ意識を闇の中で目覚めさせる。思考は脳に渦巻き、論文の未完成部分を仕上げようと、理論を練っては脳壁に投げつけて引き裂いている。
左の側頭部に偏頭痛が走り、耳には念仏が銅鑼を打ってこだました。
それでも少しは眠りを得たのだろうか、私は体に揺れを感じて意識を取り戻した。
耳鳴りは相変わらずで、頭も痛い。胸か腹か、重く布団に押さえつけられて息が苦しい。大方、毛布でも絡み着いているのだろうと、手で体に触れようとしたが、こちらも敷布団に張りついたままだ。
訝っていると、胸の上でため息が聞こえた。
私は一瞬息を止め、次にこっそり薄目を開けた。
――人だ。
呉服を着ている。
だが、袖や腕からは所々向こう側が透けている。
この世にものではない。
髭の影が見えた。
男だ。
髪を頭頂で一つにまとめているようだ。
月の明かりを浴びて小さな冠が滑らかな光を輝かせている。
暗闇だった顔に、白い粘着質の輝きが二つ開いた。
瞳である。
私は慌てて眼を閉じ、自分は眠っているのだと言い聞かせた。
「起きたのか」
低くかすれた声がした。
睡眠中を演じようと思ったが、偽りの眠りでいびきを発せるほど器用ではない。
胸の上の男は深く息をつき、述べた。
「悠悠渉荒路、靡靡我心愁。四望無煙火、但見林與丘」
悠悠として路を
四望するに煙火無く、
詩は続き、愁いはいよいよ増して行く。声は震え、悲しみからか男は正座した足を揺らした。
私の体に伝わった振動は、胸の奥に沈んでこそばゆい痛みになった。反面、心臓は酷く高鳴っている。
神に会った小羊の気分だ。
この男には初めてお目にかかる。だが、私はこの詩人をよく知っていた。不遇な青年時代を過ごしたことも、病で亡くなったことも。書物に残された詩の数々、賦や楽府。哀愁に満ちた作風、不屈の政治的野心。
「
たまらず首をもたげて呼んだ。
男は驚いて身を引く。胸の重しがとれた。
私は体を起こし、男を間近に見た。影になっていた顔に月が射し、痩せた頬から髭が飛び出している。
其の形、
容貌が醜い、と歴史書に記された、その顔。
男は史実通り背が低かった。
しかし、その詩才は千八百年後の人間を魅了する素晴らしさだ。
「お会いできて光栄です。王先生」
頭痛を振り払って、私は精一杯微笑む。握手をしたかったが、王氏が手を袖に隠しているので諦めた。
中国の漢帝国の末期、
卒業論文も修士論文も、私は彼を研究対象にしている。
詩が凄いのだ。特に五言詩が。
後に
四言詩が中心だった漢代において、民間から取り入れられた一句五文字とする詩は、曹操らによって広められ、『三国志演義』で知られる時代を彩る文学の華となった。
五言詩は当時最先端の文学作品だったわけである。
王粲の場合、四言詩が政治的な内容を詠って堅苦しいのに対し、五言詩は異郷の風景描写を取り入れ、乱世の悲哀を痛切に語る。
自然描写で装飾された哀しみは、幻想的で身を切られるほど美しい。
だが、詩のほとんどは悲哀に暮れながらも、我が身を役立てんという気持ちに急かされて終わる。王粲が政治家として名を馳せることを、望みの第一にしていたせいであろう。名門出身の悲しみである。
それらの詩の中にあって、一風変わった作品がある。
先程、王粲が口ずさんだ「悠悠渉荒路」で始まる詩、「従軍詩其の五」だ。
これは王粲晩年の作といわれ、従軍中に病気療養に立ち寄った 郡を描いたものとされる。
「従軍詩」の他の四作が功績を挙げる希望に燃えているのに対し、この詩だけが
そのため、王粲の風景に悲傷を託す巧みさが存分に味わえる。木々や鳥たちが、王粲の心を映すかのように、妖精じみて詩中に舞うのだ。風や、水の流れさえ。
洋の東西問わず、これほど、自然を操った詩人がいようか。
私は憧れの詩人を目の前にして緊張していた。笑顔はもう、筋肉に記憶されたように強張っている。
その時である。
王粲が眉をへの字に傾けて、低く笑った。
「いかにも、
王粲の家柄からすれば、もちろん庶民の子である私は卑しいのだが、現代にはすこぶるそぐわない呼びかけだった。
呆然としていると衣擦れが聞こえた。
王粲が帯玉を弄んでいる。どうやら幽霊でも触れた音はするらしい。
酷く、気が抜けた。
「何のご用でしょう」
王粲は顔を挙げ、にやりと唇を歪めた。
「おぬしの論文を読んだ」
ひえっ。
「あ、あれは未完成でございまして」
頭をがりがり掻いてやりたい気分になったが、王粲の前では失礼だ。それでも手元が落ち着かないので、両手を擦りあわせる。
「容貌が醜いと書いてあった」
王粲は
これでは最初の主、
「それは、
「改めよ」
「しかしながら、歴史書に書かれたものは通説になっておりまして」
「おぬし、己の目で見たものより、陳寿が大切か」
そういうことではない。陳寿はよくわかっていた。間違いはないし、改める必要もない。たった今、私の目で確認済みだ。
いっそ、鏡を取って突きつけてみようかと思った。だが、私は鏡が好きではないので、すぐ取り出せるようにはしていない。
そういえば、『三国志』には競争心が強く執着心があると、王粲の性格を記していたって。
ああ、陳寿だって、事実をそのまま書くことはないのに。性格と容貌に触れなければ、完璧な詩人なのだから。
「改めよ」
王粲は詰め寄り、私は壁際に追いつめられた。改めることはできない。史実を曲げ、史書に背いた論文が通るとも思えない。祟られても、機嫌をとっても修論の完成が危ぶまれる。
「お、おそれながら申し上げます」
口が渇いて発音がままならない。
落ち着こうと、視線を窓に移す。
薄明かりが青く、外から漏れていた。
視界の端で睨む王粲も青白く、空気に馴染んで揺らいでいる。
虫の音がした。いや、これは冷蔵庫の振動だ。冷気に解けた音は、頬をなぞり、興奮した目元に注ぎ、唇を撫でる。口を開けと、からかっている。
「も、申し上げます」
きゃらきゃらと、虫の笑う声が耳元から窓の上の通気口に逃げた。幻聴なのか、幽霊がいるせいなのか。もう滅茶苦茶だ。
「論文には説得力というものが不可欠です。歴史書は長年正統と認められており、作成当時の間違いも後の注によって改められております。誰もが史書を正しいと思っております」
「史書の記述で事実を曲げるのか」
「私が今晩、お会いしたからといって、何の証拠がありましょうか。私を指導する先生方も納得なさいません」
王粲だって、上司には苦労したはずだ。こちらの事情を話せば、あるいは話が通るかもしれない。
案の定、王粲は、うむ、とうなった。
私はたたみかける。
「王先生は偉大な詩人でいらっしゃいます。言葉の美しさ一つで十分人を酔わせることがおできになります。それにもかかわらず、容貌の記述をお気になさるのは、小人の為すこと。御容姿の説は詩人として残されました御偉業を際だたせこそすれ、決して傷つけることはございません」
王粲の目が細められ、眉間に深く皺が刻まれた。
「詩人?」
「ええ、そうです」
王粲は右腕を私の腹の上に突き、斜めに睨む。
「儂は政治家だが」
……そうきたか。
かつて中国の政治家にとって、容貌が立派であることは大切なことだった。
彼があくまで政治家であろうとするなら――しかも王粲は完璧主義だ――醜いという記述にこだわるのも致し方ない。
でも、記述は変えられない。この目で見たからこそ、よけいに。
私が黙っていると、王粲はぐっと身を乗り出した。
「儂の曾祖父、祖父と三公であった。儂自身、法律の制定には貢献した。詩は教養にすぎん」
確かに王粲の曾祖父も祖父も三公と言われる大臣クラスの高官だった。しかし、王粲は曾祖父や祖父ほど、政治に向いていた訳ではなかったようだ。容姿如何にかかわらず。
曹操は王粲に専ら、詩を求めた。
「なぜ、儂を詩人と言う。儂は政治家だ。何が詩人だ。そんなもの」
指がにじられ、私の体に食い込んだ。私は壁に肘を立てて身を支え、正面から問うた。
「……詩人の何が悪いのですか」
「儂は政治家だと言っておるのだ」
「詩人でもある」
「詩人とは詩しか能のない者に言うのだ」
「どちらかといえば、詩才が際だっていらっしゃったのでは」
「馬鹿者、詩は」
「教養ですか!」
怒鳴ると、王粲が一瞬黙り込んだ。
私は布団をはねのけ、幽霊を体の上から追いやった。
「教養だけで詩が書けるのなら、勉強家は皆、詩人ですよ! そして、みんな同じ詩を書くでしょう。でもそうではない。各個人が特有の表現を持っている。それこそ、同じ本を読み、同じ解釈をし、常識という同じ教養を身につけているのに」
「儂の教養と、他の者の教養を一緒にしてもらっては困る」
「へえ? じゃあ、どの教養が、貴方の詩に哀愁を与えたんです?」
それを生み出したのは、教養じゃない。
王粲は青年期に都を逃れて
「不幸や痛みを詩に表現するだけの才能がおありだったのです。ただ悲しい悔しいと言うのではなく、風や水を描いて空間全てを悲しくする方法を生み出した。また、その点において、素晴らしい力を発揮したんですよ」
王粲はむっとした顔になった。
「くだらぬ」
――……この人は。
私の腹にも、怒りがたまってくる。
「政治家にこだわるから、詩が説教臭くなるんです。せっかく哀愁を芸術にする力を持っているのに、官職ならそれである程度まで行けるのに」
ぱきん。
空気が割れるように鳴った。
見上げると、王粲は非常に丁寧な仏頂面を作って、空中から見下ろしている。
嫌な、顔だ。でも、嫌いにはなれない。
私は溜息をついて首を振った。
「いじめられた人間のする顔を、おできになるのはなぜですか」
答えは、本人がいちばん知っているはずだ。
へし折られても、かんたんに自尊心は崩れきらない。まして、家柄と才能にコーティングされていれば、なおさらだ。
そして、才能があればこそ、不遇は詩の糧になった。
「王先生は凄い人です」
これは溜息ではなかった。溜息の振りをした、羨望の涙だ。
「夜も風も、ほんの少しの言葉だけで、あれほど美しく効果的に描ける人はいない」
言葉選びの美しさは王粲の知識が深いからだろう。知識をものにするだけの力がある人なのだ。
「まるで鳥や虫が人の言葉を解するかのように感情を描く人もいない。ただの自然描写を、悲しいという言葉より悲しく書ける人もいない」
王粲は相変わらずの無表情で、こちらを見ていた。愚かな者の戯言と思ったのかも知れない。
私は自嘲した。
ふと、愚かすぎる考えが浮かんだ。
――愚かだと思われているのなら、そのついでに言ってしまおう。
「実は、文章の上手い人が好きなんです。あなたみたいな、詩人が」
馬鹿も馬鹿だ。約千八百年前に死んだ人に恋をしたって、実るはずもない。最初に詩を読んだ時から、そういう意味で自分は馬鹿だと悟っていた。伝えることもできない、誰にも言えない馬鹿な恋。
――言えただけ、マシ。ありえない。
この幸運な機会に、私はちゃんと微笑むことができただろうか。
返事はない。
それでもいい。もとから、返事を期待する恋ではない。
「ふむ」
王粲は、唇をぐっと引くと座り直した。私は笑いたくなった。
何と真面目な幽霊だろう。
馬鹿でも、愚かだとでも、なんでも言えばいいのに、王粲は気まずそうに膝を揺らし始めた。
「どうかしましたか?」
「……言うことがある」
「はい?」
ええと、それは告白の返事じゃないですよね?
「断られるのは承知ですが、面と向かって断られるとその」
「何を言っておる? 儂は、おぬしの論文を読んだのだが」
それは、最初に聞いたぞ?
王粲は恨めしそうな目をしている。
幽霊だから怖いには怖いが、馴れてくると人が良さそうな目つきだ。
「三章の始めに儂の賦があるな?」
確かに、そこに配置した覚えがある。
「はい。それがどうかしましたか」
「訳が、一句間違っているぞ」
ななな、何ですと!
笑顔どころではなくなった。
慌ててベッドから飛び降り、机のライトを点けて論文の下書きをめくった。
三章の賦はどの本にも訳がなくて、確かめる術もなく、白文に区切りを入れ、自分で訳した。
賦は詩に比べて長く、区切りが変則的だ。しかも王粲の文章は教養が高すぎて難解ときている。
指で慎重に文字を追うと、あった。微妙に意味の通じない一句が。
「ありがとう! ここですね」
振り返ったが明かりのせいか、王粲の姿はなかった。代わりに、部屋に声がこだました。
「しっかり励めよー」
声は天井を一周して、机に並べてあった辞書の一冊に吸い込まれた。
修士論文は翌一月に提出され、無事に合格した。辞書は机から本棚の最下段に移され、私は就職した。
私はもう、王粲に恋をするのはやめようと思った。これからは、もっと現実的な世界で生きていく。
それなのに、ある晩、夢を見た。
「悠悠渉荒路、靡靡我心愁……」
王粲が詩を吟じているところで目が覚めた。
身を起こしたが、体も軽く論文もない。
夢だと気づくと、涙がこぼれた。ぼろぼろと目から頬へ。
馬鹿な話だ。
私はまだあの幽霊を、忘れられない。
〈おわり〉
資料編
王粲「従軍詩其の五」(文選巻二十七)
悠悠渉荒路 靡靡我心愁 悠悠として荒路を渉り 靡靡として我心愁ふ
四望無煙火 但見林與丘 四望するに煙火無く 但林と丘を見る
城郭生榛棘 蹊徑無所由 城郭榛棘を生じ 蹊徑由る所無し
雚蒲竟廣澤 葭葦夾長流 雚蒲廣澤を竟し 葭葦長流を夾む
日夕涼風發 翩翩漂吾舟 日夕涼風發し 翩翩として吾舟を漂はす
寒蝉在樹鳴 鸛鵠摩天遊 寒蝉樹に在りて鳴き 鸛鵠天を摩して遊ぶ
客子多悲傷 涙下不可収 客子悲傷多く 涙下りて収む可からず
朝入譙郡界 曠然消人憂 朝譙郡の界に入り 曠然として人の憂を消す
雞鳴達四境 黍稷盈原疇 雞鳴四境に達し 黍稷原疇に盈つ
館宅充廛里 士女満荘馗 館宅廛里に充ち 士女荘馗に満つ
自非聖賢國 誰能享斯休 聖賢の國に非ざる自りは 誰か能く斯の休を享けん
詩人美楽土 雖客猶願留 詩人楽土を美す 客と雖も猶ほ留らんことを願ふ
憧れの幽霊 江東うゆう @etou-uyu
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