面影を追って――好きだったあの人に似た人

吾妻栄子

面影を追って――好きだったあの人に似た人

 子供の頃、兄が持っていた吉川英治の「三国志」を興味から少し読んだ。

 これは三国志ファンの間でも有名な話だが、本来の羅漢中の「三国志演義」では美しい舞姫まいひめ貂蝉ちょうせんが主人の王允おういんの意を受けていわゆる連環の計で悪逆非道な董卓とうたくとその養子で粗暴な呂布りょふに仲違いさせ、呂布に董卓を殺させた後は騙した呂布に妾として尽くす。

 しかし、吉川英治版の三国志だと貂蝉は呂布による董卓の殺害後は「自分の役目は終わった」として自分を熱愛する呂布を残して自殺してしまう。

 そもそも貂蝉自体が羅漢中の創作で実在の確認されない人物であり(強いて言うなら呂布と内通していた董卓の侍女がモデルだがこの人物の名は伝わっておらず、容姿や人となり、最後はどうなったのかも不明である)、更に言えば「三国志演義」自体も陳寿による正史の「三国志」とはかなり異なる一種のフィクションなので、吉川英治のそうした改変も創作として許容されるのだろう(いわゆる『中国四大美女』の一人ではあるが、昔から私はこの貂蝉が好きでない。そもそもが架空の存在であるという点に加えて男性作家たちによって都合の良い装置として描かれる、最終的に殺すための傀儡として登場させられる、その非人間的な扱いに寒々しさを覚えるからだ。男性作家や読者たちから魅惑的な美少女として賞翫されているように見えて、その根底には非常なミソジニーというか、『女は魔物だから利用してから抹殺すべき』という憎悪を感じる)。

 それは子供の私にも理解されなくはなかった。

 だが、続く展開には首を傾げた。

“呂布は貂蝉の死後、面影の似た女性を貂蝉と呼んで新たに寵愛した”

「は? それって死んだ貂蝉とは別人だろ?」

「どうせ後から出てきた方は元の貂蝉と顔がちょっと似てるくらいでそこまで美人でもなければ資質も劣ってるんだろうな」

 ひたすら違和感を覚えた。

 自分が呂布の想定で亡くなった貂蝉と似た女性を新たに見出す場面を想像しても

「やっぱり元の貂蝉と比べると美しくない」

「舞も下手だ」

「貂蝉ならこういう受け答えはしない」

とどうしても美化された過去の貂蝉と比べて失望を覚える気がしたし、

「もう良いわ、下がれ」

と言い捨てるところでいつも想像が終わってしまう。

 少し大きくなってからは後から見出されて「貂蝉」と呼ばれる女性の側に身を置いて想像するようになった。

「今日からお前は貂蝉だ」

「わしがそう呼ぶのだから貂蝉だ」

と目に涙を宿して自分を抱き上げる権力者に対して

“私は貴方の呼ぶその人ではないのです”

と心中呟く場面が浮かんでやりきれなくなった。

 後から見出されて「貂蝉」と呼ばれる女性がそれまでどのような人生を送ってきたか、本来の貂蝉との関わりもそこで気になった。

 例えば、妹分的な舞姫や侍女などで生前の貂蝉その人を知る立場なら

「私がどうしてあの人に代われようか」

「顔だってあの人はああだけど私はこうだ」

「舞だって遠く及ばない」

と後継のように寵愛を受けていても鏡の前で常に劣等感と葛藤に陥るだろう。

 逆に生前の貂蝉とは全く無関係な人生を送ってきて

「あのむらに貂蝉に似た美しい娘がいるそうだから呂布様に召し出そう」

といった経緯で権力者に引き合わされた立場なら、見知らぬ人の名で自分を呼ぶ相手に

「この人は一体、誰の話をしているのか」

とまず恐怖を覚えるだろう。

 その後は鏡の前で白粉おしろいをはたきべにを引きながら

「これは果たしてあの方の求める面影だろうか。少しでも近付けているだろうか」

「正しい答えはあの方の中にしかない」

「鏡に映るこの女は誰なのだろう」

「村娘だった頃より遥かに垢抜けて美しくなったはずなのに、出来損ないの偽物に思える」

とひたすら不条理と自己否定のスパイラルに陥る日々になる気がした。

 どちらにしても浮かぶのは

「自分は結局、自分として愛されていない」

という根源的な自己否定の苦悩に陥る女性の姿だ。

 吉川英治の中では恐らくそこまでの意図も関心も貂蝉の身代わりにされた女性には無かっただろうが、だからこそ生身の人間を別の誰かの代わりにする、その人本人の意思やアイデンティティを無視する残酷さが浮かび上がる気がするのだ。


*****

 話は変わって、これは今まであちこちでしつこく書いていることだが、私は中学時代に「覇王別姫」で初めて張國榮レスリー・チャンを観て以来、ずっと彼のファンだ。

 大学二年生になった二〇〇三年のエイプリルフールに彼が自殺した際には一ヶ月ほど虚脱状態で、目が覚める度に

「エイプリルフールは終わったのに、彼の死は嘘にならない」

と絶望的な気分になった。

 当時でも

「いや、私は彼に会ったこともないじゃないか。本当の所はどんな人だったかも分からないじゃないか。こういう人が実際に会ってみたら我が儘で嫌な感じだったなんてよく聞く話だし、彼もそういう一人だったかもしれないんだ。そんな相手にこんなに思い入れてショックを受けるのはおかしいだろう。正に偶像アイドル崇拝だ」

「そもそも自分のような外国の見ず知らずの人間にまで顔も名前も知られて夜となく昼となく追い回されて消費される生活に疲弊して彼は死を選んだのでは」

と考えない訳ではなかった。

 しかし、レスリー・チャンという俳優を知らなければ自分は香港や中国、台湾にここまで強く興味を持つことも無かっただろうし、お粗末なレベルではあるにせよ大学で中国語を学んで大学院で現代中国文学や中国映画を専攻することも無かっただろう。

 こうして趣味で書く文章にしたところでもっと違う形になっていたはずだ。

 私の書いた作品には租界時代の上海を舞台にしかものが多いが、これは少女時代に観たレスリー主演の「花の影」へのオマージュである。

 一度も会ったことは無くても今に至るまで自分の人格形成に彼はやはり大きな影響を与えた人であり、不滅のアイドルなのだ。

 ちなみに小中学生の頃は堂本剛も好きだったが(今も別に嫌いになった訳ではないが入れ込んで逐一追っては観ていない)、後に彼もレスリーファンを公言してわざわざテレビの企画で会いに行っている動画をネットで目にして自分の中で点と線が奇妙に繋がるのを感じた。

 丸い顔、丸い二皮目、男性としては華奢な体格などこの二人は一見して似通った面影がある。

 実年齢では一九五六年生のレスリーと一九七九年生の堂本剛で父子ほどの開きがあるが、堂本剛にとってもレスリーは憧れのアイドルというか目標にすべき先達の一人だったのだろう。

 堂本剛がソロ・コンサートでレスリーの“Love Like Magic”と似たような曲を歌っている動画を観たことがある。

 「ジェンダーレスなファッション」としてネットでも話題にされていたスカート姿も、見てみると、デザインからして明らかにレスリーが二〇〇〇年の「熱情(passion)」ツアーで着ていた衣装に倣ったものだった。

 また、二〇一〇年に出た彼の写真集「ベルリン」の表紙は赤から紫のグラデーションを基調にして横顔を映したものだが、これは一九九九年に出たレスリーのアルバム「ファイナル・カウントダウンダウン(陪你倒數)」のジャケットにそっくりである。

 堂本剛さんの全てがレスリーの模倣とかパクリとか言いたい訳ではないが(この二人は必ずしも似ていない部分も多いので)、少女時代に両方とも好きで、しかも片方がどうなったかを知っている自分としては複雑な気分になる。

 むろん、少年期から同じショウビズの世界にいてレスリーその人とも交流のあった彼の方が苦しみも含めてより深く憧れのアイドルを理解してはいるだろうが。

“台湾のアイドルグループにレスリーのそっくりさんがいる”

 これはレスリーその人が生きていた頃から一応知ってはいた。

 日本の少年隊がアジアでも人気を呼び、各地でコピーグループ(若い男性によるトリオ編成のアイドルグループ)が出来た。

 台湾でも「小虎隊」(英語名は“Little Tigers”)が結成されて一九八九年にデビュー、こちらは中華圏ではむしろ本家の少年隊を上回る人気を呼んだ。

 メンバーの名は呉奇隆ニッキー・ウー陳志朋ベニー・チェン蘇有朋アレック・スー

 それぞれのキャッチコピーは「霹靂虎ヤンチャな虎」「小帥虎ハンサムな虎」「乖乖虎良い子の虎」であった。

 レスリーのそっくりさんとして有名になったのはこの「ハンサムな虎」こと陳志朋であった。

 メンバー三人が並んだ写真を一目見て

「この人は確かにレスリーに似てる」

と思った記憶がある。

 ただ、香港出身のレスリーや同じ台湾系の他のメンバー二人と比べてもこの陳志朋さんは一見して色が黒く、更に言えばレスリーと比べると目がやや吊り気味で小さく顎も尖り気味でどこか寂し気な表情が多く、レスリーにおいては華やかさや明朗さに紛れた憂鬱さがこの人の顔においてはより露骨に出ているという性質の類似に思えた。

 「ハンサムな虎」とはニックネームが付いているものの、正直、レスリーはもちろん他の二人と比べても一般には劣った容姿にすら感じた。

 実際、小虎隊でも一番人気だった(というより今も活躍している)のは「霹靂虎」の呉奇隆だったそうで私の目にも

「この人が一番美男子だし華もあるな」

と感じた。

 恐らく「小帥虎」とは「香港の大スターであるレスリーに似てハンサム」という含みを込めてのニックネームだったのだろう。

 その後、レスリーの生前は中華系のエンタメ情報で呉奇隆や蘇有朋の名前はちょくちょく目にしたが、陳志朋の名を単独で目にすることはなく

「やっぱりあの台湾のレスリーに似た人はあんまり売れないのかな。劣化コピーみたいなもんだし」

と頭の片隅で思い出す程度であった。

 陳志朋の名を新たに目にしたのはこれも皮肉なことにレスリーが契機であった。

 レスリーの死後まもなく彼の追悼ミュージカルが開催されることになり、その主演が陳志朋になったというネットのニュース記事を観た。

 ミュージカル自体は私は未見だが、検索する限りやはりレスリーファンの間では受け付けない人が少なくなかったようだ。

 その後、中華系のエンタメ情報の記事で陳志朋が単独で出ているのを目にした。

 そこには歌手としてのアルバムを出すのと同時に

「張國榮から逃れたいんです」

とミュージカルでレスリーを演じたことへの疲弊が語られていた。

 痛ましさを覚えると同時に陳志朋その人に興味を覚えて検索すると、

「張國榮を演じる際の役作りで自分も鬱病になった」

「高いところに行くと『君も飛び降りるんだ』という声が聞こえます」

「僕は彼じゃない。違うんだ」

とレスリーを演じること、彼と同一化しようとすることで陥った苦悩を詳細に語る記事が見つかった。

 絶世の美女貂蝉の身代わりにされた、もう一人の無名の美女の叫びを目の当たりにした気がした。

「この人は似てるけどレスリーではない」

「率直に言って、レスリーはもちろん同じグループだった他の二人と比べても活躍している、評価された作品に出ているとはとても言えない」

「そもそも彼本人がレスリーの面影を求められることに苦しんでいるだろう」

と感じたが、それでも動向が気になって彼の微博や過去の出演作品の動画などを定期的に観るようになった。

 レスリーと同一視されることへの苦悩を語る陳志朋だが、実際のところはグループ時代から現在に至るまでレスリーに似せた装いやパフォーマンスが多い。

 もともとの英語名もグループ時代は「ベニー」だったのが「ジュリアン」になった。

 これはもちろん「赤と黒」の主人公「ジュリアン・ソレル」などを連想させるが、「レスリー」と同じくどこか女性的な響きもあるネーミングである。

 そうして

「声が繊細だし、歌はむしろレスリーより良い」

「演技もレスリーには及ばないにせよ拙くはない」

と思うようになり、クイックチャイナやフリマアプリで彼のCDやコンサートや出演ドラマのDVDで買えるものはほぼ買い集めた(といっても彼の俳優としての一般的な代表作は同じグループのメンバーだった蘇有朋と趙薇ヴィッキー・チャオの主演した『環珠姫――プリンセスのつくり方』のようだが、こちらは主演の二人が微妙に苦手なせいもあって未だ買っていない)。

 本土のドラマに客演した「商道天問」ではジュリアンは悪役である。

 本土俳優の王斑ワン・バン演じる男主人公の従弟だが悪辣な性格で、本来は義姉である男主人公の妻に横恋慕して襲い掛かる、また、心優しい男主人公に思いを寄せている金持ちの娘を強引に妻にするといった、率直に言って当て馬的な役どころだ。

 それでも、自分に心がない新妻に対して

「お前は俺といても本当は義兄さんと寝たいと思ってるんだろう」

と当て擦って、侮辱に怒った妻から

「そうよ。私の心に貴方がいたことはない」

と突き放されると、表情を消して打ち据える。

 悪役だが、どこか哀しい雰囲気が印象に残った。

 少し見ただけでも本土ドラマ特有のプロパガンダのきつい作品だし、ジュリアンの役も全般に扱いが酷く「レスリーならまずやらない役どころだな」とは感じたが、そうした役でも演じ切る点は評価に値すると思う。

 なお、ジュリアンには「記住你的香」(一九九四年、彼二十三歳で発表した曲。ジュリアンは一九七一年生でレスリーの十五歳下、堂本剛の八歳上である)という曲がある。

 繊細な歌声もあってノスタルジックだがどこか悲しさを感じる楽器だ。

 拙作「君に花をおくる」のストーリーはこの曲を聴いている時に浮かんだものだ。

 また、後編の展開でも

「直彦はどうやって殺すか」

(こうして文字にすると不穏ですが、書き手としては本当に悩んでいました)

と悩んでいる時にこの曲のPVで海辺に立つジュリアンの姿を観て

「そうだ。海辺でヒロインと逢引していてそこに立つ古い石垣が崩れて事故死する展開にしよう」

と思い付いた。

 もっと明かせば、ヒロインを愛しながら不慮の死を遂げる不遇な直彦のモデルの一人もジュリアンである。

 中編「君に花を葬る」は書き手の私にとっては我が子である自作の中でも一際思い入れの強い作品だが、陳志朋という歌手を知らなければ書けなかった作品だ。

 端的に言って、私はジュリアンのファンでいわゆる推し活をしていると言って良いだろう。

 だが、

「彼の立場ならこんな消費のされ方は嫌だろうな」

「こんな捻くれた目線の消費でファンと言えるか」

という後ろめたさはやはり覚えるし、吉川英治の描いた呂布のような残酷さが自分にもあるのだと思わざるを得ない(むろん陳志朋さんは私のことなどご存知ないし、彼の生殺与奪の権を握るような現実的な影響力など自分には無いが)。

 自分を置いて命を絶った貂蝉の身代わりにした女性に対して呂布がどのように見ていたかを作家は描いていない。

 だが、今は

「死んだあの人とはやはり別人だ」

「それでも、今はこの面影を手放したくない」

という諦念と新たな愛執の入り混じる心境だったのではないかと思う。(了)

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