誠志朗

 愛とは、きっとゆるしだ。その言葉はなんとも響きが玲瓏で舌先をするりと滑り落ちる音をしているのに、その実、おそろしいほどの責任と重さをはらんでいると憂いて考えたりなどする。

 どんな相手でも、どんな秘密を持っていても、どんな未来が待ち受けていようともそのすべてをひっくるめて受け入れてしまうのが愛だとするなら、きっとわたしは彼女をあいせない。永遠に。

「誠志朗。あいしてる。あなたのことが、だいすきよ」

 あなたのことを笑顔で見送ってあげるのがよくできた婚約者なのでしょうけれど、あいにくわたしは欲深で、必死に伸ばしたこの手を軽やかにすり抜けてゆくあなたがゆるしがたく。ほんとうに、どうしようもない婚約者だったので。

「はなさん、はなさん。今日はなにして遊びましょうか」

 わたしの婚約者は野に咲くちいさな花のようにかわいらしくて、でもそれだけじゃなく、いつでも堂々と背筋をすっと伸ばしているひとでした。


 サナトリウムの庭に植わった紅葉が鮮やかな色をつけるころ、わたしはもう慣れた道のりをたどって、彼女のいるところへとやってきた。婚約者のもとに訪れるならば化粧品だとか、きれいな洋服だとか、巷で噂のアクセサリなどを持ち寄るのがきっとよい男なのだろうけれど、あいにくわたしはそういうものに疎い人間だったので、本屋から人気の本をいくつか持ちだして、彼女に見せるようにしていた。外の世界を見にゆくことがむつかしい彼女のために、どうせなら目の覚めるような幻想を、と考えたわたしの自己満足だった。

「誠志朗」

「だめだよ、はなさん」

「誠志朗。あたしの言うことがきけないの」

「身体に障るから、いけないよ」

「そうね。今日も来月も再来月も、あたしはずうっと病室に閉じ込められたままなのだわ。あなたがなせいで」

「そうおっしゃらないで、はなさん」

 わたしは困ったふうに言って、ふいとそっぽを向くはなさんのおでこに手をあてがう。しっとりと汗のにじむ額は雪のようにつめたかった。わたしのてのひらをかたくなに掴んでいた細い手が、幼子をなだめるようにするとゆるゆるほどかれていく。サナトリウムのベッドに横たわり、はなさんはよわよわしい空咳をけほりと出した。

「ほうら、言ったとおりになった。だから今日は静かに過ごしておきましょう」

 わたしがちいさく嘆息すれば、ようよう少女の時期を脱してその面影をわずかに残すばかりとなった花かんばせがさっとこちらを向く。濃い斜陽の影になって顔はよく見えない。ただ、むずがるようにきゅっと曲がった唇から、いじのわるいひと、とかすかな声が漏れた。

 肺腑を患って幾年も経つ彼女がもう長くないことは彼女の家族はよくしっていたし、もちろん婚約者であるわたしもずいぶん前からしっていた。それがどうしたことかはなさん本人にしられてしまって、およそ半年が経過しようとしている。

 ――あたし、もう死ぬのですってね。

 なんてことのないように告げたはなさんからは匂いたつような悲哀も絶望もなく、ただ普段の麗しいかんばせに爛漫な笑みがあるだけだった。きかん気ではあるものの彼女の余命に動揺を隠せず、激しく取り乱してしまった彼女の姉や母親たちと比べて、はなさんは異常なほどに落ち着いている。もしかすると、自分の身体のことであるから、察しがついていたのかもしれないけれど。

 ただ、こちらが予期せぬまま自らの余命をしってしまったはなさんは、最近わがままが激しい。紅葉狩りをするのだとか、海を越えて外つ国にゆきたいだとか、果てに雪が降ればかまくらを作るのだとか、とうてい飲み込むのが無理な要求はぜんぶわたしに押し付けられた。

 その無垢な子どものような願いを聞くわたしは、いつも緩やかに首を振って、彼女のやせ細った身体をサナトリウムに押し戻す。外出は厳禁だと医者に厳命された身、彼女の先々のことを思えば仕方がなかった。

「じゃあいいわよ、もう」

 だから今日は思いのほかはやく彼女が引いてくれたことにほっとした。すねたようすで頬をふっくら膨らます彼女は、されど次の瞬間にはなにかひらめいた顔をして、枕の下をごそごそと探る。はなさんは百面相だ。

「誠志朗、これしてくれる?」

 怪訝な顔をするわたしに差し出されたのは、紅だった。しばらくぽかんとしていたわたしは、したたかな女の顔をしたはなさんに「塗って」と当然のごとく命じられ、眉をひそめる。

「いつの間にそんなものを隠し持って……」

「女が化粧をしてなにがわるいの。婚約者なら、あたしをきれいに着飾ってちょうだい、誠志朗」

「……はい、はなさん」

 ふたりの婚約者のあいだには干支がひとめぐりできるほどの年の差があり、そして年上なのはわたしのほうであるはずなのに、すべての権限を握るのはどうしてかいつだって彼女の方だった。縁談が決まって以来決して覆されることのない奇妙な関係はいつのまにやらわたしの一部になって、もうわたし自身、この力関係をひっくり返そうなんてたいそうなことは考えていない。

 頼まれたので、唇に紅をさす。

 ところでわたしは、この紅がいっとう嫌いだった。指で赤色をすくって塗ってやるたび、はなさんは面白がって、まるで血のよう、誠志朗はあたしに血を塗りたくる鬼なのだわ、とわらう。

 わたしがうつくしい椿の色、と思う赤を見つけてまっさきに彼女が思い浮かべるのが血液であった。わたしは、それがひどく苦しくて、苦しくて、しかたがなかった。

 だって普通の少女なら考えもしないだろう。紅が、自分の咳とともに唇を汚す血と、まったく同じ色をしているなんて。

 そんなかわいそうな連想をさせている前で、わたしはただ、彼女の相手をすることしかできない。なんて無力で、なんて役立たずな婚約者。

「あたし、ちゃんときれいかしら、誠志朗」

「ええ、とってもきれいでかわいらしいです、はなさん」

 そこだけ鮮やかな色をともす唇をじっと見つめて、わたしはわらった。家族はもうとっくに、はなさんを見舞うことを諦めてしまっている。彼女と長く過ごしてきたひとたちは、きっと、はなさんの変わり果てた姿を直視するのに耐えられなかったのだろう。毎月のように彼女のもとへとやってきて戯れを繰り返せるのは、もうわたしひとりだった。あいにく、わたしははなさんの言う通り、あいしてるの一言も言えないつめたい鬼なので。

 ふいに、楽しげにしていたはなさんの笑みがふつりと剥がれ落ち、不穏な、ほの昏い色が浮かんだ。おもむろに口元にあてがわれた手から、けほ、と苦しそうな空咳がひとつ。まもなくそれは喘鳴を伴うひどい咳になって、ひときわ大きな咳き込みのときに、真っ赤な血が彼女のてのひらを染めた。

「はなさん……!」

 わたしは医者を呼びに走った。背中をさすること、血を拭うこと、けなげに言葉をかけること。それらがすべて無意味であることを、もうわたしは身をもってしっていたから。


 別室にわたしが隔離されている間、はなさんは止血剤を投与された。患者の絶対安静――暗に見舞いを取りやめていますぐにでも帰ることを医師に言い渡されたわたしは、白い膚をますます蒼白くさせて、力なくベッドに横たわっている彼女を眺めた。はなさんはぐったりと目をつぶって、あえぐような呼吸を繰り返している。短く切り揃えられた栗色の髪が、わずかに濡れて頬に張り付いている。このまま黙して帰るのも気が引けて、わたしはしばらく彼女にどう言葉をかけるものか迷った。

「……ね、誠志朗。あなたなら、あたしの死に水を取ってくれるのかしら」

 はなさんがふと目を開いて、掠れた声でこんなことを呟く。抑えた声色の内にひりつくまでの切実さを感じて、わたしは唇を噛んだ。まるで死にゆくのがさだめであるような言い方を、しないでほしかった。

「せいしろう、あたし」

 茫然とした双眸から、ほろり、と。水面にひらく蓮の花が朝露を取りこぼすみたいに、音もなく涙が落ちる。無機質な電球のひかりが縁取るはなさんの顔は触れれば壊れてしまいそうな危うさがあり、わたしは迷いに迷って、そのひとしずくを恐る恐る指で拭った。

「はなさん」

 わたしが彼女の名を呼ぶと、はなさんはいままで必死にぴんと張っていた糸のたばが解けてしまったみたいに、顔をくしゃりとさせて泣く。透明な涙が頬をつうと伝った。

「ほんとうは、あたし、怖い。死ぬのがずっとずうっと、こわいのよ」

「うん」

 わたしはしっている。あなたが自分の弱みを奥へと閉じ込めて背筋を伸ばす強いひとであること。気丈さの裏にひそむ年相応の心を支えてあげるのが本来わたしの役目のはずなのに、わたしは未来のことばかりにおびえて、おそれて、やはりちっとも役に立ててあげられない。こういうときに彼女にかけてやるべき言葉を、わたしはひとつもしらないのだ。

 ああ、だけど。

 ――誠志朗、あたし、へいきよ。

 彼女がはじめて血を吐いたときのことだった。ひぐらしのうるさい、夏の頃だ。夕立が降ってすこしたつ窓には雨影が映り、はなさんのなよやかな線を描く背中に淡い色の影を落とす。まだ紅をさすことをしらぬ口元を赤く染めて、彼女は、立ち尽くすことしかできないわたしにこう言ったのだ。

「へいき。だから、あなたがそんな顔をしちゃいや」

 背中を、さすることしかできずに震えるわたしに、彼女は空気にとけゆくような優しい笑みをみせる。ほんとうは自分のほうがこわくてこわくて仕方がなかったはずなのに、わたしを心配させまいとして彼女はわらった。

 雨風を耐え忍んで立派に咲く、さながら、一輪の花のようだった。

 そのとき不意に込み上げたのは、言葉にしがたい情動だった。わたしが一生を通して隠してゆかねばならない、まるで年の離れた妹のようなひとへの、くるおしいまでの、それは。


 その言葉はなんとも響きが玲瓏で舌先をするりと滑り落ちる音をしているのに、その実、おそろしいほどの責任と重さをはらんでいると憂いて考えたりなどする。

 あいしているなんて、間違っても言えなかった。あなたをゆるすなんて、言えなかった。どうしてこんなに素敵なひとをみすみす手放してしまえるのだろう。死にゆくあなたにいいよ、さようなら、と笑顔を向けるのがよい婚約者だとするなら、わたしはどんなひんしゅくを買ってさえ、いやだ、どうか行かないで、とはなさんの手を握って、此岸に引き戻そうとするだろう。残念ながらわたしは欲深で、未練がましく、どうしようもない男なので。

「はなさん」

 されど、我が身をつらくむしばむ重みさえ振り払って、その言葉はわたしの口からこぼれ出た。

「はなさん、あいしてるよ」

 あいにくわたしは、不出来な婚約者であるので。気障なせりふも甘い言葉も囁けないが、たったひとつ、できることがあるとするなら。あなたがそう望むなら、この手を放してもいいと思えた。

「あたしも」

 ふうわりと目を細め、はなさんは幸福そうに息をついた。つかのまその横顔に見とれ、わたしはひざまずき、彼女の肩を抱く。

「ねえ、誠志朗。いじのわるいあたしのことを、あなた、ゆるしてくれる?」

「ええ、もちろん。ゆるしてあげる、はなさん」

 

 数か月後、はなさんはわたしの腕の中で逝った。心の底から安堵したように。




 ――はなさん、はなさん。

 ――なあに、誠志朗。

 わたしの恋は成就してまもなくすぐに散る、真赤なあの花によく似ている。

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初恋語り 古都チオリ @koto_chiori

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