ひな祭りケーキ
浬由有 杳
KAC2025 お題「ひなまつり」
あかりをつけましょ、
改札を抜けたとたん、幼女の声が聞こえた。
思わず振り向くと、そこには某高級洋菓子チェーンの
今日は3月3日。ひな祭り。
すでに9時を回っている。
人通りも絶えつつある駅前通り。街灯に照らされた俄作りの小さな店舗。白地に桃色で『ひな祭りケーキ販売中』と書かれたのぼりが夜風を
ショーケースには、ピンク、緑、白の三色の層を重ねたひし形生地にお雛様とお内裏様が仲良く並んだケーキが一個。
ここのケーキ、お気に入りだったな。
出張の度、愛娘にせがまれたことを思い出す。
『あなた、この子には甘いんだから。私が頼んだ時は、高すぎるって言ったくせに』
文句を言いつつ、娘にそっくりの大きな瞳をキラキラさせ、菓子を受け取る妻の顔が脳裏を過った。
来週から海外勤務だ。いいかげんに部屋を片付けなくては。
「いかがですか?雛あられと白酒もサービスしますよ」
今日しか売れない菓子を売ろうと、ぎりぎりまで頑張っていたのだろう。
売り子が期待に満ちた眼差しを彼に向けた。
ひな祭りケーキ、買ってくるって約束したんだっけ。
彼は財布を取り出した。
可愛らしくラッピングされた箱を手に、暗い夜道をとぼとぼ歩く。その足が自宅の前で止まった。
玄関の灯が点いていた。
まさか…
「お帰りなさい。遅かったのね」
扉が内側から開いた。
いつもと変わらぬ妻の笑顔。その後ろから、娘がひょっこりと顔を出す。
「わあー、ケーキだ!」
目ざとく菓子箱を見つけ、歓声を上げて飛びついてきた娘を、彼はしっかりと抱きとめた。
「今夜は、特製ちらし寿司にハマグリのお吸い物よ」
ひな祭りの定番料理。彼女の数少ないレパートリーだ。
得意げな
戻ってきてくれた。
謝らなくては。今度こそ。
仕事にかまけて約束を破ってばかりだったことを
「ごめん。俺が悪かった。だから、もう置いていかないでくれ」
「許してあげる。このケーキに免じて」
彼女が笑った。
訪ねてきた同僚が発見した時には、彼はすでに事切れていた。
ガランとした部屋には埃をかぶった雛人形。
仏壇には、数年前に事故死した妻子の写真と菱形のケーキ。
ひな祭りケーキ 浬由有 杳 @HarukaRiyu
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