地上の楽園

壱単位

地上の楽園


 さわ、と風が通っていった。

 

 小高い丘に建てられているわたしたちの小さな家、その庭先。

 まだ雪の残る遠い峰、早く訪れた春に喜びのうたを唄う小鳥たち、色とりどりの愛らしい野花がわたしたちを囲んでいる。穏やかであたたかな空気。

 みんなみんな、わたしと、お姉さまの大事な宝物だ。


 「お姉さま、もうすこしお茶を召し上がる?」


 眼下にずっと続く草原に視線を置いたまま、お姉さまがしばらく物憂げな表情を作っていたから、どうしたのですか、と訊ねる代わりにわたしはそういう言葉を置いてみせた。

 手に持ったままのカップをそのままに、お姉さまは振り返った。海の色の瞳を迷ったように震わせて、それでもわたしに上品な笑みを浮かべてくれた。


 「いいえ、もうたくさん。ありがとう」

 「寒くはありませんか。少し風が出てきたみたい。障ってはいけないし、もう少ししたらおうちに入りましょうね」

 「大丈夫よ、今日はずいぶん具合が良いの。あなたが毎日、お薬を求めてきてくれるおかげね。感謝しているわ」


 わたしは少し目を開いて、その言葉をできるだけゆっくり吞み込んだ。じんわり、あったかいものが胸に落ちてくる。目の奥が熱くなる。なにも言わずにかぶりを振って、わたしはお姉さまが見ていた方向に視線を変えた。


 晴れたあたたかな日には、お姉さまはこうして庭のテーブルでお茶を飲む。

 天候が良くなければ、ずっと先まで見える窓のところで本を読んでいる。 


 待っておられるのだ。

 来るはずのないあの方を。

 ずっと、ずうっと。


 三年前の秋、侯爵家の夜会で、お姉さまはあの方と出会った。

 会場の中央、真っ白の礼服に細身の身体を包んだあの方は、目も装束もぎらぎらとさせた女たちに二重にも三重にも囲まれていた。主催家の次期当主としての務めを果たして息を抜こうと抜け出たバルコニーで、身の置き所もなく姉妹ふたりで星を眺めていたわたしたちと出くわしたのだ。


 わたしはお姉さまの裾を引き、ご遠慮しましょう、と囁いた。が、お姉さまは動かなかった。あの奥手で気弱で、男性と面と向かってお話をすることすらできなかったお姉さまが、だ。

 そうして、動けずにいるのは相手、侯爵子息も同様だった。

 向き合ったふたりの瞳の色を交互に見て、わたしはそれまで信じていなかった運命という言葉を受け入れることに決めた。


 交際は穏やかに始まった。手紙の往来から、互いの家での茶会への参加、二人きりの散歩と進み、やがて大仰な装飾が施された婚姻申し入れ書が届いた。

 けして裕福とはいえない男爵家である我が家には、王の信任も篤いという侯爵家との縁は願ったりのものであり、お父さまとお母さまの喜びようは大変なものだった。お姉さまは色白の頬を桃に染めて、かわるがわるに家族と抱き合った。


 輿入れの準備は滞りなく進んだ。侯爵家の援助で身の回りの品は整い、お姉さまはため息が出るほどに美しく飾られた。

 ただ、身の回りの品でひとつ足りないものがあり、それはすぐに入り用となった。

 与えられた支度金であつらえた喪服は、お姉さまの白い肌によく映えた。


 輿入れの前日に、侯爵子息は崖から転落した。

 発見されたときにはまだ息があり、お姉さまの名を呼んだそうだ。

 侯爵家から我が家に至る道中で、ひとり馬車を離れたという。誰かに呼び出され、突き落とされたのだ、と誰もが噂をした。


 お姉さまは言葉を失った。喋ることができなくなった。床から起き上がることもできず、食事も摂れず、みるみる痩せ衰えてゆく。案じたお父さまは、縁を頼って王都の名医にお姉さまを預けることとした。

 そうして、出発の数日前、深夜。

 我が家、男爵家の裏手から炎が上がり、すべてを焼いた。

 お姉さまはわたしがなんとか連れ出したが、お父さまもお母さまも、助からなかった。


 お姉さまを近隣の知人に預け、わたしは王都で奔走した。

 生きるために。お姉さまを、生かすために。

 立て続けの惨事は貴族たちの間でもよく知られていたから、わたしは常に同情を受け、計らいを受けた。お姉さまとつつましく暮らすだけの費用を用立て、土地を得て、わたしは骸のようになったお姉さまを新しい住処に連れて行ったのだ。


 二年、かかった。

 お姉さまはようやく喋れるようになり、時折り笑顔を見せてくれるようになった。艶やかな髪も、深い海のような瞳も、ゆっくりとではあるが、昔のように輝きを取り戻しつつあった。


 ようやく、だ。

 ようやく。


 すべてを犠牲にして得た、お姉さまとの暮らし。ふたりだけの暮らし。

 もう誰にもわたさない。邪魔をさせない。

 お姉さまも、この楽園も。


 <了>


 

 

 


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