読むとは、記憶すること。
物語とは、読み終えたその瞬間に、もう過去の出来事になっている。
本作『物語配置図』は、文字・文・記憶・意識・時間といった概念を縦横に織り込みながら、
物語というものがいかに人間の記憶と密接に結びついているかを、
独特のユーモアと深い洞察で描き出すメタ・エッセイである。
「人はなぜ読むのか?」
「読むとは、心を動かすとは、何を意味するのか?」
そうした根源的な問いを、遊び心と少しの狂気を交えながら探っていく筆致は、
文学論とも創作論とも哲学ともつかない、ひとつの『読み物』としての強度を帯びている。
思考はページの外にまで及び、
記憶は読者の内側で再編されていく。
物語を信じ、読むという行為そのものを愛してしまったすべての人へ。
これは「なぜ物語は人を動かすのか」という問いに向き合った、
誠実なエッセイ。
読むということについて、記憶、文字。意識、時間、などの観点から哲学的に考察しています。
ここまで読書という行為を深く考えている人、なかなかいないのではないでしょうか。
本作は読むということがどういうことかを考察したエッセイだけど、読者にどうやって物語を伝えるか、という作家側の視点でも捉えることができると思います。
物語を読む理由、それは心を動かすためだと筆者は言います。
そうであるならば、作家が物語を書く理由、それは読者の心を動かすため、ということになるのでしょう。
私も、読者の心を動かす、そういう作品が書けるよう頑張りたいな、と思えました。
作家の方、読み専の方、どちらも読んで損はない作品だと思います。是非ご一読を。
読んですぐ
「これは木山喬鳥版『文字禍』だ」
と思った。
文字禍は山月記で有名な中島敦の小説である。
図書館でなにものかのヒソヒソ声を聞いた大王がそれは文字の精霊にちがいないと信じ、博士に精霊の調査を命じる。
博士は研究に没頭しすぎて字が読めなくなる。
文字が線の連なりにしか見えなくなり、文字の意味や音が消えてしまうのだ。
なんとか回復した博士は「これこそ文字の精霊のしわざ」と確信し、調査の結果文字を覚えて狩りが下手になった猟師や、弱くなった戦士がいるのを知る。
文字(の精霊)が人間を冒しているのだ。
この研究報告はインテリである大王の不興を買う。
蟄居を命じられた博士はある日地震で文字を刻んだ大量の瓦版に押しつぶされ死ぬ。
文字の秘密を知った博士に、文字の精霊が復讐したのだ……
まじめに木山さんはこの博士レベルで文字を研究していると思う。
違いは傲慢なところがある博士に対し、木山さんは謙虚で誠実だという点であろうか。
木山さんの謙虚さはとくに第四図『誰も独りでは読み方を知りえない』に現れている。
「文字は、普通その言語を使用する集団の構成員から学ぶのです」
才能ある物書きほどこの事実を忘れている。
自分の物語は誰にも頼らず、すべて自分一人きりで書いたものだと思っている。
それは大間違いだ。
先日放送されたアニメ『チ。地球の運動について』の名台詞
「全歴史がわたしの背中を押す」
のように、だれもが歴史の一員である事実から逃れることはできないのだ。
木山さんはそのことをよく知っている。
その謙虚な姿勢から『天涯に標されし十字架』のように勇壮かつ哀切な物語が生まれたと知って、自分はうれしくなった。
いろいろ書いたがユーモラスな好エッセイで、とくに「オデと犬」の話はジンときます。
ご一読をおすすめします。
本作のキャッチコピーは「こ こ に 物 語 の 在 り 処 を 示 す」
在り処。存在が置かれる場所。それが何処なのか、メインタイトルにもサブタイトルにも現れません。そんな目的地をぼかした本作の意図とは。
物語の在り処には特性があり、その得手と不得手を知ると物語を著す際に助けになるはず。筆者はその信念を抱いていると評者は見ました。
評者は主張を全て理解したとは言い難いですが、潜在能力は高いと見ます。本文にて初めて明かされる物語の在り処が事細かに記されます。証拠となる多数の文献が背後にあります。これは使えそうだと感じます。
まだ評価は定まりませんが新たな鉱脈かも知れません。ゴールドラッシュが始まる前に、採掘するなら今です。