彼のスマホ

マスケッター

彼のスマホ

 まず。


 私が好きになったのは、彼じゃありません。彼のスマホです。


 別に、私はおかしくなったとは思っていません。自分でいうのが信用できないというなら、カウンセリングでも嘘発見器でも、何でも受けます。


 今? 今ももちろん、好きです。人前で口にするのは恥ずかしいですけど、ここはSNSですからね。だから、『愛してます』とはっきりいえます。ええ、愛してますとも。


 彼は、彼のスマホが伝えたいことを伝えるための……ええと、ちょっと難しい言葉ですけど、中継器なんです。あ、ちなみに私、大卒の社会人ですから。新卒一年目ですけど。身体も性自認も女性です。


 私は、それまで、誰も好きになりませんでした。告白されたこともありません。


 そんな私が、初任給をお洒落なバーで使おうと思って、たまたま一人で入ったお店にいたんですよ。あのスマホが。灰青色の、カメラ用レンズが二つある、もちろん五Gで。


 とにかく。ドアをくぐったとき、彼の手に収まったスマホと目があったんです。それでもう、アンテナがたちました。つまり、私はそのスマホと結婚するんです。スマホも、表情なんてそもそもありませんけど、ちゃんと顔を赤らめつつ微笑んでくれました。


 あとは、持ち主の彼をどう説得するか、でした。もっとも、恋愛経験ゼロな私はよほど口説きやすく思えたのか、彼から言葉をかけてくれました。


 もちろん、私は彼のスマホをほめました。彼は有頂天になり、夢中になってスマホを買った時期や機種の名前、基本的な性能について説明してくれました。


 彼が私のスマホに興味を持ったので、私はそれを見せて適当に調子をあわせつつ、連絡先を交換しました。もちろん、私は、彼ではなくスマホとお話したくてメールするつもりでいました。


 それからは、あっという間に半年ほどすぎました。私が打ち明ける想いは、もちろん、スマホに届きます。


 でも、少しずつ、彼の具合がおかしくなったんです。どうも彼、自分のスマホに嫉妬してるらしくって。最初から私の気持ちははっきりしてるのに、ちょっとおかしいですよね。


 誤解のないよう、私は、ちゃんと『あなたのスマホ、大好きよ!』とか、『そのスマホ、私だけの呼び名で呼んでもいい?』とか、折に触れてお断りしていました。だからこそ、彼が、私達だけの名前で彼のスマホを呼んだときにはキッパリとたしなめもしました。


 それなのに……。ついこの前、彼から、半年たっても手さえ握れないだなんて愚痴がきました。しかも、よりによってあのスマホから。他に手だてはいくらでもあったでしょうに。ネットカフェとか、何なら公衆電話でも。どうせ結論は変わりませんし。


 私はようやく至りました。彼から彼のスマホを救いだしたらいいんだと。ああ、その真理を掴んだときの、私の晴れやかな気持ち!


 あ、彼がアパートの階段を昇る音が聞こえてきます。


 包丁? バケツ? アタッシュケース? 基本でしょ、そんなもの。


 それより、目の前の机には、婚姻届がありますから。

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