第2話

 幾つもの棟が軒を重なり合わせるように寄りそって形作る〈大屋根〉の、迷路のように接続された渡り廊下を足早に幾度も曲がり、木製の梯子段を昇り降りして、独身の若者たちが暮らす大部屋にプディヤは辿り着く。灯火をかざして見渡す室内にユウアムの姿はなく、健やかな寝息をたてる若者たちの間でひとりだけ身を起こし、窓の月明かりを頼りに山刀の手入れをしていた男が顔を上げ、皓い歯を見せて破顔した。


「やあ、ちび姫さん。こんな時間に血相変えて、どうしたんだい?」

「ノイ兄さま。ユウアム兄さまは?」

「ああ。もう廟に行ったよ」


 炎龍鳥狩りに臨む若者は、前夜、戦装束を整えて〈大屋根〉の裏手にある先祖の廟に独りで詣でるのだ。その前にと急いだが、間に合わなかったらしい。


 プディヤは急いで礼を言って引き返すと、戸口を走り出て、夜の奥庭を突っ切った。

 下界では夏も近い季節だが、高地の村の夜風は冷たい。手燭の柄を握りしめるプディヤの細い指先は心もとなく冷えてゆく。

 先祖の廟は奥庭のさらに奥、山へと続く登り斜面に広がる、花盛りの銀蝶樹の森にある。一面に散り敷く白い落花を小さなくつで無造作に踏みつけて小径こみちを急げば、幻のような音をたてて降りしきる花の向こう、廟の前に立つ後ろ姿が振り向いた。


「兄さま!」


 まろぶように駆け寄るプディヤに、真新しい戦装束を纏ったユウアムは目を丸くした。


「プディヤ?」

「兄さま、お願い。その刺繍を、やりなおさせて!」

「……今、ここでかい?」


 ユウアムはあっけにとられてプディヤを見下ろす。


「そう。ここがいいの」


 この場所にみなぎる銀色の力の輝きを、プディヤは感じていた。



 重たげな花房を揺らすひときわ大きな銀蝶樹の根方の岩に腰を下ろし、常に帯に手挟んでいる針袋から小さな銀の鋏を取り出す。冷えた指先に息を吹きかけて温め、傍らにおいた灯火と月明かりを頼りに刺繍を解きはじめる。従兄の体温の残る上衣を慈しむように、丁寧に、慎重に。


 やがて現れた、乱れた糸。

 鋏の刃を寝かして注意深く糸と布の隙間に差し込み、ふつりと糸を切る。プディヤの中の小さな寂しさや悲しみがそっと解けて、月明かりに溶けてゆく。


 刺し損じを解き終えると、針に糸を通し、プディヤはひとたび瞼を閉ざした。

 影の世界に心の目を転じ、傍らの銀蝶樹の中を流れる水に意識を添わせる。幹を駆け上り、枝葉をめぐり、花になって揺れ、ふたたび幹の中を駆け下って、根を伝い、地の底深く降りてゆく。

 そうしてたどりついた根の国の、未だ形にならぬ命の力に満ちた温かな薄闇の中、プディヤの魂は、泉のほとりで針を取る。愛しい従兄のために。


 ――幼いころ、背中におぶってくれた兄さま。膝に乗せて遊んでくれた兄さま。肩車して花の枝を折らせてくれた兄さま。木の葉で水車を作ってくれた、草笛の吹き方を教えてくれた、大好きな大好きな、優しい兄さま――


 幼い思慕のすべてを込めて、プディヤの手は、銀の光を帯びた吉祥文様を描き出してゆく。今度は途中で心を乱したりはしない。ただ一心に従兄の幸せを祈り、祖先の加護を願って。


 最後の一刺しを終えて結び目を作り、糸を切り、静かに針を置けば、藍染の布の上、従兄の身を護る刺繍が、一分の乱れもなく完成している。

 プディヤは立ち上がり、傍らに立って見守っていたユウアムに衣を差し出した。


「兄さま。ごめんなさい。少しだけちゃんとできていないところがあったから、やり直したかったの」

「わざわざありがとう」


 ユウアムは衣を受け取りながら微笑んだ。


「でも、あのままでも充分上手にできていたよ」

「ううん。……私、失敗したところをわざとそのままにしてたの」


 ユウアムは不思議そうに眉をひそめて問う。


「なぜ?」

「だって、炎龍鳥を仕留めたら、兄さまはお婿に行ってしまうもの……」


 己の子供じみた身勝手を慚じて弱々しくつぶやかれた言葉に、ユウアムは、「なんだ」と破顔した。


「大丈夫だよ。〈西の大屋根〉はすぐ近くだ。いつでも会えるさ。ここへもどうせしょっちゅう顔を出すよ」


 それじゃだめなの、と、心があげた悲鳴は押しとどめたつもりだったけれど、気づくと、口から飛び出してしまっていた。


「……でも。そのとき兄さまは、もう、パドゥハの婿さまだもの!」


 言うつもりのなかった言葉を今さらうっかり口にしてしまったプディヤは、口もとを抑えて項垂れた。


「ごめんなさい……」


 細いうなじを黒髪が滑り落ち、うつむくプディヤの横顔を隠す。

 朱に染まった耳朶に気づかれぬよう、プディヤは願った。


 しばらくめんくらったように黙っていたユウアムは、やがて優しく訊ねた。


「プディヤ。きみは幾つになった?」

「九つよ、兄さま」


 そう答えてから、あとほんのひと月たてばもうひとつ多い歳を言えるのに……という詮無い気持ちが、やむにやまれず口を衝く。


「もうすぐ十になるわ」

「そうか……。いつまでも僕のちびちゃんだとばかり思っていたけど、いつのまにかずいぶん大きくなっていたんだね」


 ユウアムは微笑んで身をかがめ、プディヤと視線を合わせた。


「ねえ、プディヤ。パドゥハの婿になっても僕は君の〈糸の兄〉だし、君が僕の大切な〈糸の妹〉であることは一生変わらないよ。君が糸に込めてくれた想いは、この先、一生涯、僕を護ってくれるだろう」


 その言葉に、プディヤは小さく頷いた。

 もちろん、わかっていた。同じ〈大屋根〉に生まれた男女は決して夫婦になることはないけれど、〈糸の兄妹〉の絆は夫婦の絆に負けず劣らず強くて神聖で、生涯にわたって続くのだ。

 ユウアムが婿に出たあとも、プディヤは一生、姉妹たちとともに彼のために針を取り続け、彼の人生の節目節目に、婿入り先に新しい衣装を届け続けるし、彼が人生を終えるとき、その身を包む死装束に刺繍を施すのも、プディヤたち、生家の〈糸の姉妹〉だ。

 この村の男たちは、みな、姉妹たちの糸の力に護られて生き、糸の力に導かれて冥界への道をたどるのだ。


 プディヤの小さな手が、帯に挟んだ針袋を握りしめた。

 それは、この村の女たちの力の拠り所であり、誇りの象徴。

 針袋に触れた手から自分の中に大きな力が流れ込んでくる気がして、プディヤは顔を上げた。


 プディヤを見つめながら、ユウアムは厳かに片膝をついた。花の天蓋の下、つと手を伸ばしてプディヤの右手を取り、恭しく押し頂いたその指先に軽く額をつけてから、深く一礼し、立ち上がる。

 それは〈大屋根〉の当主への正式な礼。


 驚いて見上げるプディヤに、ユウアムは、

「君はここのお姫さまだからね」と笑った。


 そう、プディヤはいずれ、祖母と母の後を継いで、あまたの家族が寄り添って住まうこの〈大屋根〉の当主になるのだ。他の〈大屋根〉から有能な若者を婿に迎えて、その補佐のもと〈大屋根〉全体を支え、切り盛りし、一族の暮らしを護る――それがプディヤの定め。


 ユウアムの指先が触れた右手を、プディヤはひっそりと胸に抱きしめた。


「プディヤ。立派な当主になって、みんなを護っておくれ。それまでは、ばばさまや母さまをよく助けるんだよ」


 優しく言ったユウアムは、少しおどけて付け加えた。


「あと、もう刺し損じたりしないように、刺繍の腕も磨くんだよ」


 ――兄さまは、ただの刺し損じということにしてくれるのだ。ならば自分もそういうことにしよう――


 むせかえる芳香の中、プディヤは凛と背筋を伸ばし、まっすぐにユウアムを見つめた。


「はい。兄さま……ご武運を」


 ――私の糸が、炎龍鳥から、そしてあらゆる悪しきものから、兄さまを、兄さまとパドゥハの幸せを護ってくれますように。私と兄さまの〈糸の兄妹〉の絆が、生涯、兄さまの助けになりますように――


 祈るプディヤの髪に、肩に、白い花が静かに零れ、プディヤの祈りは見えない銀の蝶になって、月の光に輝きながら、ただひとすじにユウアムのもとへとはばたいていった。


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プディヤの祈りは銀の蝶になって 冬木洋子 @fuyukiyoko

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