第5話 宇宙のかたち

 窓際に差し込む日光が、中間考査の頃とは比べ物にならないほどの強さで頬を焼いた。夏の夕方の太陽はこの世で最も暴力的だと、緋高は思う。

 目の前で自分の予習を進める香織も、しばらくは鬱陶しそうに目をしばたたかせていたが、すぐに「もう無理」とぼやいてカーテンを閉めた。

 日差しさえ遮ってしまえば、クーラーの効いた教室は涼やかだ。夏から切り取られてしまったかのような室内で、香織はノートを片付け、スクールバッグから分厚い本を取り出した。

「桐谷」

 緋高の呼びかけに、香織は「なに」と答えて顔を上げる。

「オープンキャンパス、どこ行くか決めた?」

「まあ、県内と東京かな」

「国公立?」

「うん。私立はいいや。忙しいの嫌だし」

 そっけなく言って、香織は本へ戻っていく。緋高も英語の長文読解をこなしながら、まあ香織の成績なら、滑り止めなどいらないのか、と一人納得する。

 文化祭が終わった途端に、担任からは期末考査と進路の話が降ってきた。忙しなさに閉口しながら、緋高は中間考査の時と同じように、香織に勉強を教わっている。

 外から聞こえる蝉の声がやけにうるさいのは、梅雨が明けたせいだけではなかった。二ヶ月前とは打って変わって、最近の香織は、自分の話をあまりしない。

 本の話も、高槻の話も、千帆の話も、しない。最初の三十分は緋高と一緒に自分の予習と復習をこなし、後はずっと、じっと、なにかに耐えるように本を読んでいる。

「桐谷」

 しつこいかなと思いつつ、緋高は再び香織に声をかけた。やけに響くシャープペンシルの音や本のページをめくる音に、どうしても気持ちが落ち着かなかった。

「ん?」

「桐谷はさ、夏休みどっか行ったりする?」

「えー、特には。親戚来るし。遠坂と星観に行くくらいじゃない」

 約束が忘れられていなかったことに、内心胸を撫で下ろす。

 振り替え休日明けの火曜日、放課後になるなり「よっ」と緋高の教室に現れた香織は、あまりにも『なにもありませんでした』という顔で笑っていた。

 だから緋高はこの一週間、あの日の出来事全部を、どうしても蒸し返すことができなかった。

 香織の方から口に出してくれてよかった――普段と変わらない話しぶりに幾ばくかの安堵を得た緋高は、この際にもう一つ聞いてしまおうと息を吸う。

 「悠木と遊んだりしないの」と尋ねると、目が合った香織は小さく微笑み、遠坂は優しいねとつぶやいた。

「大丈夫だよ。私と千帆、超仲いいんだから」

 穏やかな弧を描く唇に、緋高は沈黙した。深くうつむいて自分の勉強に戻ったが、問三の選択問題の答えがイなのかエなのか、どうしてもわからない。

 原因は至って明瞭で、ただただ単純に集中できないのだ。細かいことを考えようとすればするほど、頭の中で高らかに響く声が、論理的な思考を阻害する。

 ……いくら仲がいいと言ったって、所詮それは、香織が自分の全てを隠した上での関係性だろう。必死で暗闇に傷を隠して、震える唇で笑顔を作った結果だろう。

 千帆や高槻を悪く思うのは間違っている。そう頭ではわかっていたけれど、心が追いつかなかった。それがいくら無邪気の産物だとしても、二人の振る舞いが、文化祭のキスが、香織を傷つけたことは確かだった。

 あの日、手を伸ばす緋高に吠えた香織は、『遠坂のことまで嫌いになりたくない』と言った。その言葉がずっと、胸に引っかかっていた。

 緋高は考える。それなら香織は、緋高のことを嫌いになりそうになる前に、誰を嫌いになったのか。高槻だろうか。千帆だろうか。

 それとも。

「香織!」

 入り口付近から聞こえた声に顔を上げると、エプロン姿の女子が立っていた。同じく振り向いた香織と目が合うと、「来て来て」と小さく手招きをする。

「千帆、どうしたの? 部活は?」

「休憩時間! ねえねえ、透くんの誕生日プレゼント、よさそうなの見つけたんだけどどう思う?」

 背の低い千帆が、スマートフォンを持って香織を見上げる。香織は少しかがむようにして画面を覗き、「いいじゃん」と柔らかい声で答える。

「だよね? じゃあ家帰ったら注文しちゃお。ありがとね」

 お邪魔しました、といたずらっぽく言った後、千帆は緋高にも視線を向け、「遠坂くんもまたね」と手を振って教室を出ていった。

 千帆を見送った香織が戻ってくる。中庭の時とは違い、その表情はずいぶんとあっさりしていた。またため息をつくかと思っていた緋高は、拍子抜けしてしまう。

「誕生日プレゼント選びまで付き合ってるのかよ」

「まあね。言ったでしょ、超仲いいって」

 本当に落ち込んでいないのだろうかと、ついまじまじと香織の顔を観察した。そんな緋高を見て、香織は眉尻を下げる。

「千帆はね、幼馴染なの。小学校からずーっと一緒。高槻くんと付き合ったのが千帆でよかったって、私本当に思ってる」

「そういうもん?」

「そういうもんだよ。千帆が楽しそうなら、私も嬉しい」

 その表情は、嘘をついているようには見えなかった。とはいえ、伏せられ気味の目元はほの暗さに沈んでおり、その本心はわからなかった。


 期末考査を終えて夏休みに入ると、香織との接点がなにもない日々が、久しぶりにやってきた。クーラーでキンキンに冷えた部屋でひたすらスマホゲームをし、ふと我に返って『ペルセウス座流星群は嘘じゃないよな』と変に疑わしくなる、そんな八月の初めだった。

 あまりにもダラけた生活を送っていたせいで、母は一度、般若のような顔で激怒し、緋高を真夏の炎天下に放り出した。市立図書館で勉強をしてきなさいとのお達しである。

 適当にショッピングセンターで時間をつぶしてもよかったが、香織がいつも分厚い本を読んでいたことを思い出した緋高は、自転車をこいで素直に図書館へ向かった。高校生にはいささか難しそうな専門書の類は、市立図書館で借りたものかもしれないと思ったからだ。

 背の高い自然科学の本棚を前に、緋高はしばらく、目をしばたたかせながら背表紙を探った。そしてすぐに、タイトルの記憶自体が朧気なせいで、香織の読んでいたものは見つけられそうにないと悟る。

 諦めた緋高は、一番簡単そうな星の本を手に取って閲覧席に座った。二、三ページめくって、冒頭も冒頭、『一光年は約九・五兆キロメートルです』という説明に、そんなこと言われても全く想像できないんだが? と首を傾げる。

 もしここに香織がいたら、どう解説してくれるだろうか。コペンハーゲン解釈の時のように、なにかユニークな例え話を聞かせてくれるだろうか。

 そう考えたら無性に声が聞きたくなって、困った緋高は本を脇に避け、机に突っ伏した。熱をもった額を、冷たい天板がじわじわと冷やした。


 来る八月十二日は、朝からよく晴れていた。昼過ぎに入道雲が地上に陰を落とし、それが緋高の頭に一抹の不安をもたらしたが、最終的にはその全てが夕立に変わって消滅した。

 二十二時過ぎ、「星観にいってくる」と靴を履き出した緋高に、母は目を剥いて驚いた。「あんたにそんな情緒があったなんて」と、なぜか不安そうな顔をしてみせる。

「気をつけろよー」

 居間でテレビを観る父の声を背に玄関を出ると、暗闇にはまだ雨のにおいが満ちていた。水分を多く含んだじっとりと重たい空気が、肩の辺りにのしかかってくる。

 夜道を歩くのは久しぶりだった。十五分ほどかけて校門前につくと、半袖Tシャツにオーバーオールを合わせた香織が既に立っていて、緋高に気づくなり小さく手を上げた。

「やっほ」

「……早いな」

「どうせならブラブラしたくて、ちょっと早めに出てきちゃった」

 そう答えた香織の手には、コンビニエンスストアのビニール袋が下がっていた。それを見て、緋高は顔をしかめる。

「夜だし、危なくね。あんまり出歩かない方がいいんじゃねーの」

「大丈夫だよ。そもそも誘ったのは遠坂でしょ」

 全くその通りだった。今さらだと思いつつ、「家の人大丈夫だった?」と尋ねると、「大丈夫大丈夫」と笑う香織である。

「私、この時期はよく、夜に外出てるから」

「なんで」

「今日と同じ。天体観測」

 香織が空を見上げたので、緋高もつられて顔を上げた。正門脇の街灯の光の奥で、闇が大きく口を開けている。

「行こうか」

 香織はそう言って歩き出した。セミロングが揺れて、いつもより強くシャンプーが香る。どきりと脈打った心臓をなだめながら、緋高は努めてゆっくりと足を動かした。

 学校周りの道を通って、グラウンドよりも向こう側にある川を目指す。月は出ておらず、道路脇の民家から漏れ出る灯りがひどく眩しい。

「夏休みどんな感じ?」

 クラゲのように白く膨らんだビニール袋を見つめたまま、香織が口を開いた。何気なくそちらに視線をやりながら、緋高は答える。

「まあぼちぼち。桐谷は?」

「私はこの前オーキャンで東京行ったよ。いけふくろうとハチ公撫でてきた」

「しっかり遊んでんじゃん」

「あはは。ナイスツッコミっ」

 嬉しそうな声色が可愛いくて、つい口元が緩んだ。緋高と目が合った香織は、今度は少し眉根を寄せて、「笑わないでよ」とそっぽを向く。

「なんか遠坂、変な顔してる」

「失礼だな。生まれた時からこの顔だわ」

「そういう意味じゃないし」

 ごにょごにょとやりづらそうな返答を聞きながら、川沿いに続く路地へ入った。少し行ったところにあるアスファルトの階段から土手を上ると、ゆらめく川面の遥か上で、無数の星々が瞬いていた。

 軽やかな歓声が隣から上がる。緋高も一緒になって、「おお」とつぶやいた。幅広の川付近には街灯りが届かず、頭上も足元も、周りの全てが闇と星に染まっていて、宇宙空間に迷い込んだような錯覚を覚える。

 足元に気を配りながら、緋高と香織は河原の方へと土手を下りた。ペルセウス座流星群は北東方向から降ってくるらしいので、南北に伸びる川沿いを、北へ北へと歩く。

 きっと、興奮していたのだろう。久しぶりに聞く弾んだ声で、香織はペルセウス座の話をした。メドゥーサの首を討ち取り、憐れな姫を助けた、勇敢な青年の話だった。

「あそこの、ローマ字のMみたいな形の星がカシオペヤ座ね。そこから少し右下に、ちょっとカーブさせながら星をつなぐと、ペルセウス座になるんだよ」

 熱心に説明してくれる香織には申し訳なかったが、どれがどれだかさっぱりな緋高である。そんな緋高の様子を見かねて、香織は自分のスマートフォンを取り出した。

「こんな形」

 人工的な光を放つ画面に、ペルセウス座の画像が表示される。小さな星々を結んでできた図形は、剣を振り上げた人間に見えなくもない。

「まあ、言われてみればって感じだな」

「想像力すごいよね。他にも、ハクチョウ座とかワシ座とか、サソリ座も今の時期だよ」

 そこで一度、香織は言葉を切った。軽快だった足取りが止まったので、緋高も歩みを止めて傍らを見る。小さな顎が上向きになり、アーモンド型の目が、星と星の間を見つめている。

「みんな空にいるんだよ。そう思ったら、もしひとりぼっちになったとしても、あんまり寂しくないね」

 嘘だ、と緋高は思う。川の流れとは違う、もっと深いところから湧き上がってくるような水の音が、こぽりと足元で響く。

 つなげてしまえるほどに近く見える、星と星との距離を考えた。光の速さで表されるその空白にはきっと、暗く冷たい闇が満ちている。

 「千帆はね、高槻くんとプール行ったんだって」と、香織は続けた。声は明るいのに、強張った頬には確かな不安がにじんでいた。

「すごく楽しかったって。あと、誕生日プレゼントも喜んでもらえたらしくて。志望校もね、おんなじところにしようかって話したんだって。勉強頑張るって、嬉しそうにしてた。後は、」

「桐谷、」

「後はね、」

「桐谷」

 低くなだめるような緋高の声に、香織の肩がわずかに震えた。ゆっくりとこちらを向いた瞳は、川面と同じようにゆらめいていた。

「もうやめよう。別の話をしよう。星の話でも、桐谷の話でも、なんでもいいから」

 宇宙旅行に出かけてしまった香織に戻ってきてほしくて、緋高は必死だった。切れ間なく言葉を吐き出す口元は苦し気で、本当に窒息してしまうような気がして怖かった。

「課題は終わった? 親戚ってどんな人たち? 最近はなんの本読んでる? 志望校は決まりそう? ……一光年の、長さとか。とにかく俺、桐谷に聞きたいことが山ほどある」

 立て続けに問いを並べる。そんな緋高の勢いに気圧されていた香織は、しばらく戸惑いがちに視線を泳がせた後、意を決したように口を開いた。

「私も、遠坂に聞きたいことがある」

 切り出された瞬間、緋高の胃の辺りには鋭い痛みが走った。喉が締め付けられ、息が詰まって、まるで自分まで宇宙空間に放り出されてしまったかのようだった。

 普段よりも鋭敏になった聴覚が、川の水音をよく拾う。暑いくらいの風に草花がそよいでいて、住宅街の方からは微かに、子どもの歓声と吹き出し花火の音が聞こえてくる。

「遠坂って、私のこと好きだよね?」

 香織は目を逸らさなかった。視線が緋高を射抜く。見られることが、見られている自分の輪郭を鮮明にしていく。

 アーモンド型の目はいつも、深海ではなく緋高を見ている。

 はは、と、気がつけば笑っていた。そんな香織が好きだった。美人だからとか、頭がいいからとか、そんなんじゃない。香織が香織だから好きだった。

「うん。俺、桐谷のこと好きだよ」

 付き合ってほしい、と白状した緋高の前で、香織はしばらく無言だった。緋高を見返したまま、時々思い出したように目を瞬かせ、じっとなにかを考えているようだった。

「……ごめん」

 やがて答えた声は、わずかに震えていた。悲鳴を上げた緋高の心臓が、「私、知ってた」と続いた言葉に、束の間の安堵を得る。

「遠坂が私のこと好きだって、わかってた。わかってて友だちやってた」

 なんだ、そんなことかと、緋高は苦笑した。「そんなの、俺だってわかってたけど」と答えると、そうだよね、と力なく笑って、香織は再び歩き出す。

「私ね、文化祭で見た二人のキスが、頭から離れないの」

 香織の声が、闇に吸い込まれて消えていく。星々は今にも落ちてきそうなのに、本当の流れ星は一向に姿を見せてはくれない。

「それでね、考えたんだけどさ……私が千帆みたいにおしとやかで可愛かったら、あそこにいたのは私だった? 背がもっと低くて、垂れ目で、癖っぽいショートヘアーで、量子力学より料理が好きだったら、」

 緋高は強く歯を食いしばった後、遮るように口を挟んだ。

「でもそんなの、桐谷じゃないだろ」

 少しの沈黙と、弱々しいうなずき。

「そうだよ。そんなの私じゃない。私は私のままじゃ駄目だったの。わかってたけど、どうしても認められなかったの」

 だってそんなことしたら私、私のこと大嫌いになっちゃう。

 ああやっぱりと緋高は納得した。あの日香織が嫌いになったのは、高槻でも千帆でもなかった。望みを叶えることができない彼女自身を、香織は拒んだのだ。

 同じ気持ちを、苦しみを、緋高は既に知っていた。水族館での静かな拒絶と、廊下に響いた「来ないで」という叫びは、自分では駄目なのだという事実を緋高に克明に突きつけた。

 とっくに定まってしまった世界の中で、緋高はどうしたって高槻にはなれなかった。香織も同じだった。人は、いくら願っても、他の誰かにはなれない。

 そのどうしようもない現実は、突きつけられた途端に想像以上に心をえぐり、傷をつくった。恋とはこんなに痛いものだったのかと、寝ぼけ眼の緋高を叩き起こした。

 桐谷、と呼びかける。「なに」というそっけない相づちが、いつも通りに鼓膜に届く。

「水族館の時の服、似合ってた」

「……ありがとう。急にどうしたの?」

「重いって言ってごめん」

「ん? ああ、あれはだって、仕方ないじゃん」

「悠木は確かに可愛いけど、俺は桐谷の方が可愛いと思う」

「怖い怖い。なになになに」

 俺は桐谷のこと、ちゃんと見えてるよ。

 何度だって言おうと思った。茶色がかった髪と上向きのまつ毛を、つぶさに見つめる。暗く冷たい深海の水を押しのけるように。香織がもう、孤独な水底に迷いこまないように。

 ――他の誰かに、なれないのだとしたら。

 叩き起こされて冴えわたった視界で、緋高はまじまじと目を凝らす。探すのは手段だ。無邪気で残酷な大海原を、ちっぽけな体で泳いでいくための手段。

 人が、いくら願っても他の誰かになれないのなら。射抜くような視線をもつ香織が、彼女自身の観測だけは、痛くて痛くてままならないというのなら。

 だったらやっぱり、伝えるしかないじゃないか。

 自分なんかの言葉で申し訳なかったけれど。さらけ出す恐怖は、驚くほどに鼓動を速めるけれど。

 まっすぐ射抜かれることの清々しさを、緋高に教えたのは香織だった。そんな香織が、暗い海の底で自分を呪うことに比べれば、胸の痛みなんてどうでもよかった。

 くしゃりと歪んだ顔を、星が見ている。隠すように、緋高は香織の背を抱き寄せる。

 逃げたいのなら逃げればいい。深海だろうが、宇宙だろうが、好きなところにいけばいい。

 どこにいったって、気を抜けば一瞬でいなくなってしまいそうな心は、俺が代わりに見つめておくから。

 香織は、抱き返しこそしなかったが、緋高の腕を拒むこともなかった。緋高のTシャツがじんわりと湿っていく。汗臭くないかと、場違いな心配が脳裏をよぎる。

「ごめん。ごめんね、遠坂」

 くぐもった声に、しっかりと耳を澄ます。目が駄目なら耳で。耳が駄目なら心で。観測が結果を導く世界を、香織が信じた奇妙で優しい宇宙のかたちを、緋高は信じていたかった。

「私、遠坂のこと、嫌いじゃないよ。でも、ちゃんと好きかどうかはまだわかんない。私はずっと高槻くんのことが好きだったし……報われないのが辛くて、優しくしてくれる遠坂を好きになりたいだけなのかも」

「うん」

「そんなの、遠坂に失礼でしょ」

 ちゃんと考えるから、もうちょっと待ってほしい。

 そう言われて、断れるわけがなかった。「わかった」と答えて、体を離す。名残惜しくて、一度だけセミロングに触れる。

 柔らかい髪質は、小さな頭の形を鮮明に伝えた。トカゲも、コペンハーゲン解釈も、深海も宇宙も流星群も、全てここに詰まっているのだ。

 壊さないようにゆっくり撫で下ろす。滑らかな毛先は、するりと指の間を逃げていく。

 まばたきすら惜しい気持ちで、緋高はその影を追った。


<『桐谷香織の宇宙深海論』 了>

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桐谷香織の宇宙深海論 瀬名那奈世 @obobtf

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