鏡
こーの新
鏡
すっかり日が沈んで、ぽつぽつと点在する街灯の光が道を照らしてくれる。思いがけずこんな時間になってしまって、駅からどこかへ向かう人たちに紛れて歩く。
今日はICカードを忘れてしまったから電車には乗らずに駅の反対側にあるお店に買い出しに行った。夕方に宅配を受け取った後に割ってしまった姿見。あれがないと明日の朝困ってしまうから、急いで買い替えたかった。
都心部の大きなお店に行くことは諦めて、道中に貼られていた看板を頼りに一番近い家具屋に行った。そこまでは良かった。けれど、結局良い鏡はなかった。それに諦めて帰ろうとしたら道に迷ってしまって、ちょうどスマホは家に忘れてしまっていたからしばらく彷徨ってしまった。その結果こんな時間になってしまったというわけだ。まったく、どうしてこんなにも方向音痴なんだろう。
暗いのは苦手。少しでも早く帰ろうと近道を選んで早足で歩く。神社の横の急な坂道。歩き始めたばかりなのに急坂に体力を持っていかれて息苦しい。なんとか足を動かしてとろとろと歩いていた高校生くらいの女の子を追い抜いた。追い抜きざま、スマホに夢中になって私の存在には気が付いていなさそうな女の子にため息を吐きそうになる。後ろから見ても顔の辺りが明るかったからそうだろうとは思っていた。まったく、これで車に気が付かずに撥ねられてしまったら、運転手さんが可哀想だ。
女の子の前を歩いていたサッカー少年も追い抜かしてしまおうかと思ったけれど、少年は足が速かった。チラチラと私の方を振り返りながらスタスタと坂を上っていく。既に息切れしている私ごときでは追いつけそうにない。
なんとか坂を上りきってコンビニやスーパーも並ぶ大通りに出た。けれどここも、街灯がぽつぽつとしか設置されていなくて薄暗い。それでも多少の人通りがある分安心ではある。少年の後を追うように横断歩道を渡ると、後ろを気にしながら直進して坂を上っていった少年とは別れて右に曲がって大通りを進む。
こっちもまた坂が続くけれど、限界を超えたのかそれとも慣れたのか。息切れはなくなって呼吸が楽になった。なんなら身体も軽くなった気がするけれど、それはきっと気のせい。先週スイパラに行ったらちょっと太ったし。
疲れてしまわないように周りの音や匂いに意識を飛ばしながら歩くと、どこかから鈴虫の声がした。秋らしい。それに田舎の田んぼ道を思い出して懐かしい。二週間前まで帰省していたのにもう帰りたくなる。こんなに暗いのに星は見えないし、時折現れる車やバスの排気ガスが臭い。
だめだ。テンションが下がってスピードまで落ちた。慌てて足を動かす。そう、良いことを数えよう。この中途半端な都会の良いところ。良いところ。何も思いつかない。まあ、まだあと数年はここで暮らさなければいけないからな。その間に見つかればいいさ。
あとどのくらいで実家に帰れるのか数え始めたら足が軽くなってきた。アパートまであと半分の道のり。気合を入れ直した瞬間、ふと後ろから近づいて来る足音に気が付いた。
革靴。私より足は長くて、体重も重そうだ。リュックを背負っているのか服と何かが擦れている。チャリチャリと軽く細かくぶつかっているものは鍵束だと思いたい。
耳に届く音だけで推測できること。それだけで作り上げた人間像を脳内に思い浮かべる。おそらく私より十センチ以上身長が高くて筋肉量も私よりは多い男性。どこにでもいそうなシルエットしか浮かばないけど、真正面から戦ったら勝てるわけがない。ましてや後ろから奇襲でもかけられたりしたら。走って逃げるのは私の鈍足では無理だから、早いうちにさりげなく距離を開けておくのが得策だ。腕時計を確認するふりをする。まあ今日は忘れたから実際には自分の皮膚を見ただけだけど。
ひとまず焦って家に帰る人を演じて速度を上げる。急げ。もっと速く。限界まで足の回転を速くして歩く。目の前で信号が赤に変わって舌打ちを打った。せっかくスピードに乗ってきた足を止めたくない一心で左に曲がる。ここを真っ直ぐ行こうが曲がろうが、家までの距離は大して変わらない。街灯がないことも変わらない。ただ、こっちの方が普段から人通りは少ない。だけど信号待ちをしていたら追いつかれてしまう。まあ、追い抜かれるだけという可能性もあるけれど。
信号を避けて接骨院の角を曲がるとまた坂を上る。どうして縦道も横道も坂なんだ。
身体ではなくて心がしんどくてため息を吐く。心が疲れるとイライラしてくる。すぐそこの団地の駐車場に止まっていた車の窓に反射して、青信号を渡っていく中肉中背のリュックを背負ったスーツ姿の男が見えた。疲れるし杞憂だったし。イライラが止まらなくて、ちょうど視界に入った足元の小石を蹴ってやった。だけど距離感を間違えたのか空振った。虚しさだけが残った。
またため息を吐いて前を向く。するとこの道の突き当りのT字路を横切っていくサッカー少年を見つけた。さっきの彼だ。あのT字路を曲がった先の道に街灯はない。あの男もいなくなったから後ろに人はいない。この暗闇を安全に乗り切るためにどうしたら良いか。手っ取り早い方法として、お化けかまた背後に人間が現れたときに彼を追い抜いて逃げられるくらいの距離まで詰めておきたい。なんて冗談。半分くらいは。生きている保証がありそうで、しかも私でも力で勝てそうな人が近くにいれば安心だから。ということにしておこう。
駆け足で少年の後を追って角を曲がる。私が角を曲がると、少年はパッとこちらを振り向いた。首を傾げると少し速く歩きだしたから、不審者だと思われた可能性が高い。どうしよう、明日にでも大学から不審者情報が届いたら。今の自分の服をマジマジと見ると、黒いズボンに黒い半袖、黒い靴。よく聞く不審者そのものだ。もしも容疑を掛けられたらどうしようか。そうだ、その日は覆面を被っていたので私ではありませんと言って切り抜けよう。いや、それこそ即時逮捕されそうだ。じゃあ、サイリウム振りながら歩いていました、ならどうだろう。明るくて良い感じだ。
こっちとしては不審者になるよりお化けに出会ってしまう方が、後ろに自分より強者である人間が立つ方がよっぽど怖い。少年と同じ速さで足を動かしてジリジリと間隔を詰めていく。いくら短足タンちゃんなんてあだ名をつけられて揶揄われていた私でも、小学生くらいのあの少年よりは足が長い。見たか、これが大学生の底力だ。
いつもより阿呆なことを考え続ける頭に苦笑してしまう。いつもは疲れ果てて頭が働いていないまま必死に歩いているから、心だけが吐かれているときにこんな阿呆になる人間だったなんて知らなかった。正直知りたくはなかった。だけどこの恐怖心を抱えている状況下においては笑いの種を供給してくれる存在は貴重だ。助けられていることもまた事実。そう思うと無下にもできない。家に帰ったら自分で頭を撫でて思いきり褒めてやらないと。
なんてやっぱり阿呆なことを考えていると、少年の背中が目の前に迫っていた。この調子なら次の角を曲がってしばらく行った辺りで追いつけるはず。内心ガッツポーズをしてそのまま歩き続ける。やっぱりチラチラと後ろを確認している少年。怖がらせて申し訳ない。でも私も怖いから許して欲しい。なんて勝手な大人だと思われるかもしれないけれど、大人だろうと怖いものは怖いし、嫌なものは嫌だ。
少年が突き当りのT字路を左に曲がる。遅れること四秒。私も角を同じ方向に曲がると、正面に少年の姿がない。まさか、あの少年がお化けだったのか。身体を通り抜ける風が急に冷えたように感じた。ぶるりと身体を震わせた瞬間に視界の端に動く何かを見つけた。角を曲がってすぐの曲がり角。団地群に入って行く道に少年がいた。なんだ、曲がっただけか。
まだ私の方を気にしながら坂を上っていく少年が私に背中を向けた瞬間にアッカンベーをしておく。彼が曲がってしまったせいで、ここからアパートまであと四本しか街灯がないのにそれなりに距離がある道を、一人で歩かなければいけなくなった。彼が何も悪くないことは分かっている。だけどやっぱり心細い。
家までの道の中で唯一の平坦な道を歩く。街灯は二本。木と茂みがうっそうと生えていて、何か飛び出してくるんじゃないかとそわそわしてしまう。だけど凝視しようものなら木のこぶが人の顔に見えてきてしまうから視線を動かし続けるしかない。この間、昼に歩いていたときに出てきたのは小さなヘビだったよな、とちょっと楽しいことを考える。故郷だと畑に出たら見つけた瞬間にビーバーとか鍬で一刀両断されるのに、ここだと横断するのを見守るから面白い。
そうやって何とかメンタルを回復させたのに、向こうから男が歩いてきた。体格はさっきの男ほどではないけれど、やっぱり私より背が高い。暗闇に赤い光が揺れているから、煙草を片手に持っていることは分かる。臭いし気管が弱いからできれば避けたい。それに身体は細くても細マッチョという可能性がある。負け戦はしない主義だ。左右を確認してから道を渡って反対側を急ぎ足で歩く。すれ違う前に思い切り息を吸い込んだ。それから風向きを確認すると男の方からこっちに向かって空気が流れている。これはツイているかもしれない。息を少しずつ吐きながらすれ違って、少し行ったところで男との距離を確認する。ある程度開いていることを確認して、たばこの副流煙よりはマシな空気を吸い込んだ。
けれど安心したのも束の間、男がこちらを振り返ろうとするモーションをみせた。私は男がこっちを向ききる寸前に身体の向きをぐるっと変えてまた急ぎ足で歩く。すぐそこにあった角を曲がって、カーブミラーで男の姿を確認する。カーブミラー越しに男と視線が合った気がするけれど、男は何もなかったかのように立ち去った。
肩の力が抜けた私も、アパートまで続く最後の坂を見据えて歩き出した。この坂の途中。奥まったところにある少しおしゃれなそれなりに古い建物。あれが私の借りているアパートだ。誰もいない坂を一気に駆け上がって、アパートの門も駆け抜けた。一人暮らしという虚しさはあるけれど、それでも安全な場所に着いた安心感はある。
駅からの道の中で一番真っ暗な小道を駆け抜けて、二階へ上がる階段を静かに上る。下手するとアパート全体を揺らしてしまうから、本当に慎重に。スニーカーの語源そのままの性能を駆使しつつ、足の筋肉の構造を想像して軽々と階段を上る。過去一番静かに上れたことを自画自賛しながら自分の部屋の前に着くと、ドアが半開きになっていた。スニーカーが何故かドアに挟まっている。
きっとうっかり靴を蹴ってしまって、鍵もかけずに家を出てしまったんだ。早く行かないといけないと思って焦っていたから。ICカードもスマホも忘れてドアも開けっ放しなんて、なんてあわてんぼうなんだ。
無理やり笑おうとして頬が引き攣る。一気に背筋が冷えて喉が渇く。唾も全然出てこなくてただ喉だけがゴクリと動いた。
気配を消して、音を消して。開いたままの隙間から中に入る。
電気はついていない。人の気配もない。だけど廊下には土が落ちていて、土足で上がり込んだ足跡も残っている。心臓が潰れるような感覚がして息がしづらい。すぐに逃げられるように土足で家に上がった。
キッチンが荒らされている様子はない。それなら、この先か。
覗き穴から部屋の光が見えないようにと取り付けたのれん。それを揺らさないように気を付けながら、隙間からそっと中を覗き込む。
真っ暗な部屋の中。カーテンを閉め忘れた窓から差し込む微かな光が床に散らばった鏡の破片に反射する。人の気配がないことを確認して、破片を踏まないように部屋に立ち入った。
その僅かな光源がさらに壁際の何かに反射した気がしてパッと顔を向けた。
漆黒の目を見開いたまま微動だにしない私。
足元に散らばる赤黒いものがこびりついた鏡の破片に私がいない。
そのとき、私の背後でトイレの水を流す音が低く響いた。
鏡 こーの新 @Arata-K
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