うちのペットには羽が生えている

戸井悠

うちのペットには羽が生えている


 都会の片隅、狭いワンルームマンション。

 高槻遥香たかつきはるかが「フウ」と名付けた黒猫を飼い始めたのは、欠けた生活の隙間を埋める装飾品を選ぶような感覚だった。



「——やっぱり血統書付きがいいですよね?」

 ペットショップの明るい照明に目を細めながら、遥香は店員に尋ねた。


「そうですね! 血統書付きは品質保証みたいなものですし、育てやすいんですよ。それに、将来の価値も考えると……」

 営業スマイルを浮かべた店員は淀みなく答える。


「価値?」

 遥香は小首をかしげた。


「ええ、例えばお友達を家に招いたときに『この子、血統書付きなんです』って言うだけで、話題になりますよね。それに見た目もやっぱり違いますから」

 遥香はその言葉に納得するように頷き、視線をガラスケースの中に滑らせた。小さな命たちが整然と並べられている様子は、まるで高級ブランドのショーケースのようだった。


「この子なんてどうでしょう? ちょっと変わっていて、よく喋るんです」

 店員が指差したのは、一匹の黒猫だった。黒い毛並みは艶やかで、青い瞳には吸い込まれるような深みがあった。


「喋るって……どういう意味ですか? 猫が喋るなんて、ありえませんよね」

 遥香は一瞬興味を引かれたが、すぐに薄く笑って言葉を継いだ。


「まあ、正確にはよく鳴くってことなんですけど……ただ、普通の『ニャー』とは違って、人の言葉っぽく聞こえるっていうお客様の声も多いんですよ」

 店員は肩をすくめるようにして答えた。


「へえ……」

 遥香は黒猫を見つめた。青い瞳がじっとこちらを見返してくる。確かに何か特別な雰囲気を持っているように感じられたが、それよりも、この猫が自分の部屋にどんな彩りを与えてくれるか――その想像のほうが遥香を惹きつけた。


「これにします」

 遥香がそう言うと、店員の笑顔が広がった。


「ありがとうございます! この子は人気があって、今朝も他のお客様に気に入られていたんですよ」


 そう言いながら、店員は手際よく書類を用意し始めた。血統書やワクチン接種の証明書、それにケア用品の一覧表。遥香はそれらを眺めながら、心の中で小さな満足感を覚えていた。この猫を飼うことで、何かが少しだけ「良くなる」気がしていたのだ。



 フウが家に来てから、遥香はその存在を飾ることに余念がなかった。シルバーの光沢が美しい食器、ふわりと手触りの良いベッド、デザイン性の高い首輪――それらすべてを最新のものに揃えた。それらをフウが使用するたびに、それが遥香の「品格」を証明しているように感じられた。


「ほら、フウ、こっちに来て。ここでお座りしてから食べなさい」

 食事の時間は決まっていて、規則も細かく決められていた。遥香はフウにルールを教え、それを守らせることで、自分が「正しい飼い主」であることを証明したかった。フウがその通りに動くたびに、遥香は「自分の手で育てた形」が映るようで、気分が良かった。


 だが、フウはいつまでも静かだった。命令には従うように見えたが、それ以上のものを返してくることはなかった。遙香がいくら声をかけても、フウの青い瞳は無言で遥香を見つめるだけだった。


 夜になると、遥香はフウを膝に乗せるのが日課だった。柔らかな毛の感触とその温もりは、わずかに心の隙間を埋めるようだった。だが、フウはすぐにその場を離れ、自分のベッドに戻ってしまう。


「少しは甘えることも覚えなさいよ」

 遥香は苛立ちを抑えきれず、呟いた。しかし、フウは反応することなく、静かに瞳を閉じた。 



 ある日、遥香はフウを外に連れ出すことを思い立った。


「せっかくこんなに綺麗な猫なんだから、見てもらわないとね」


 ハーネスを取り付ける遥香の手は慎重だったが、その胸の内には高揚感があった。自分が選び、磨き上げ、仕立てたフウを外の世界に示したい。その思いが、遥香の動きをせかしていた。自分がどれだけ「優れた飼い主」であるか、それを周囲に知らしめたかったのだ。


 フウはハーネスを付けられる間も一切抵抗しなかった。無表情とも言えるその静けさが、遥香の心をほんの少しざわつかせたが、遥香は気にしないふりをした。


「これで準備完了。さあ、行こう」

 外へ出ると、清々しい風が頬を撫でた。しかし、その感覚が遥香の胸を満たすことはない。遥香が本当に求めているのは、道行く人々の視線だった。


 公園のベンチに腰掛け、フウを膝の上に乗せながら、遥香は周囲の人々の反応を待った。ちらりと視線を送る人々の中には、立ち止まって「綺麗な猫ですね」と声をかけてくる者もいた。そのたびに遥香は、用意していた笑みを浮かべ、フウの艶やかな黒い毛並みを撫でた。


「ありがとうございます。この子、ちょっと変わっていて、人の言葉みたいに聞こえる声を出すんですよ」

 そんな風に説明する遥香の声には、誇りと自己満足が混じっていた。だが、フウは相変わらず静かだった。撫でられても、持ち上げられても、その青い瞳はどこか遠くを見つめていた。

 その様子が、遥香には無性に腹立たしく思えた。


 帰り道、遥香は何度目かの不満を口にした。

「もっと愛嬌を振りまけばいいのに……」

 わざとフウに聞こえるように呟いたが、フウは振り返ることすらしなかった。


 家に戻り、ハーネスを外しながら、遥香は変わらず不満を漏らした。

「あなたにいくらかかったと思ってるの? せっかくこんなに世話してあげてるんだから、もっと猫らしく振る舞いなさいよ」


 フウは一瞬だけ遥香を見上げた。その青い瞳は深く冷たく、まるで遥香の心の奥底を覗き込むような光を宿していた。


「なによ、その目……」

 遥香は吐き捨てるように言ったが、フウは何も言わなかった。ただそこにいて、遥香の視線を跳ね返すように見つめ返すだけだった。


 その日から遥香はより厳しく、フウにルールを1から10まで教え込もうとした。きちんと座らせ、食事の時間を守らせ、部屋の中での行動を細かくコントロールしようとした。しかし、教え込むほどにフウが従うふりをしているように見えて、本質的には何も変わらなかった。


「猫って、もっと愛情を返してくれるものじゃないの?」

 遥香のつぶやきは部屋の中に虚しく響き、フウは相変わらず冷たい瞳で見つめていた。



 そんなある夜、仕事で疲れ切った遥香が帰宅すると、部屋の空気がいつもと違うことに気づいた。湿り気を帯びた静寂が漂い、窓の隙間から吹き込む風がカーテンをわずかに揺らしている。普段なら帰宅すると足元に寄ってくるよう躾けたはずのフウの姿が見当たらない。違和感を覚えつつリビングを見渡すと、ソファの上に黒い影のように沈み込むフウの体が目に入った。


「フウ、どうしたの?」

 声をかけた遥香の足が無意識に一歩後ずさる。


 フウはゆっくりと顔を上げた。その青い瞳がじっと遥香を捉える。視線が交わった瞬間、胸に不快なざわめきが走った。それは単なる疲れや不安ではない、もっと本質的な不快感だった。

 そして次の瞬間、信じられないことに、フウが口を開き、言葉を発したのだ。




「——お前、俺のこと下に見てるだろ?」




 遥香の体が凍りついた。聞こえた声は低く、どこか人間のような響きを持つそれが、部屋に重く漂った。


「俺はお前と家族になろうと思ってたのによ」

 冷たく鋭いフウの声が、まるで刃物のように心臓をえぐる。遥香の胸が早鐘を打ち、冷たい汗が背中を伝った。


「な、何言ってるの……猫のくせに!」

 恐怖と苛立ちが混ざり、遥香は叫んだ。だがその瞬間、フウの瞳が鋭く光を帯びた。全身を射抜かれるようなその視線に、遙香は動けなくなる。


 続いて――フウの背中から黒い羽が現れた。それはまるで光を吸い込むかのような深い闇そのもので、まるで遥香の魂を呑み込むようだった。


 羽はゆっくりと広がり、遥香の視界を覆い隠していく。

 その様子は、逃れられない運命の宣告のようだった。


「な、なによ、——今まで世話してあげたじゃない!」

 遥香は反射的に言葉を放った。しかし、フウは顔を歪めて笑った。


「——命令ばっかりしやがって。俺はもううんざりだ」


 その声が部屋に響いた瞬間、遥香の体に冷たいものが流れ込んだ。それは骨の奥まで染み渡り、全身を締め付けるような圧迫感を伴っていた。視界が歪み、体の感覚が薄れていく。遥香は崩れ落ち、意識が闇に飲み込まれた。




 目を覚ますと、遥香は奇妙な違和感を覚えた。視界が低い。体が思うように動かない。ふと、自分の手を見下ろすと、——それは黒い毛に覆われた小さな猫のものだった。


 恐る恐る鏡の前に進む。

 そこに映っていたのは、自分ではなく――フウの姿だった。


「よく似合ってるじゃないか」

 遥香の耳に聞き慣れた声が届く。振り返ると、遥香の姿をしたフウ――いや、今やフウそのものとなった存在が、満足げに笑っていた。


「これからはお前が俺のペットだ。愛玩動物として、大切にしてやるよ」


 遥香は抗おうと声を上げたが、口から出たのは掠れた鳴き声だけだった。フウは悠然と歩み寄り、遥香の頭を撫でた。その仕草は、かつて遥香がフウにしていたものそのままだった。


「まったく、よく鳴く猫だな」

 そう言って不敵に笑うフウの声が、遥香の耳に鋭く刺さった。


 それからの日々、遥香はフウのペットとして暮らすこととなった。もはや人間としての尊厳は失われ、ただの「猫」として扱われる日々。フウが与える食事を食べ、フウの手に撫でられる。そのたびに、かつて自分がしていたことが鮮明に蘇り、遥香の中で形容しがたい屈辱と痛みが積み重なった。


 夜になるたび、遥香の心に浮かぶのは、なぜこんなことになったのかという疑問だった。遥香は十分に世話をした。尽くした。そう信じていたのに――その結末がこれなのか。


 静寂な部屋の中で、遙香は小さな声で鳴いた。フウがそれをどう受け取ったのかは分からない。ただ、フウの口元にかすかな微笑が浮かんだ気がした。それが安堵なのか、冷笑なのか――遥香がその意味を理解する日が来るとすれば、それはきっと、遥香が「猫」としての一生を終える日なのかもしれない。

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