箱の中の幸せ

久火天十真

幸せの形

 十七歳の春。

 少し暖かい春の風が吹いて、少し傾いた日が頭上で放射状に光をばら撒く。

 春の昼下がりのこと。

 僕の目の前には、開けるまでは中身がわからない箱がある。

 その中には幸せが入ってるのか、不幸が入っているのか。開けるまでは五分五分。

 どちらもありうる。まるでシュレディンガーの猫のような箱。

「その中に入っているものが幸せならば、貴方は世界で一番幸せになれます。もし不幸が入っていたら、あなたは想像を絶する不幸に見舞われるでしょう。その中身がどちらなのかは私にもわかりません。これをあなたに差し上げます。どうしますか?開けますか?」

 そんなことを言ってくる。

 その声は酷く無機質で、冷たい鋼のようでありながら、どこか実体のない煙のような雰囲気もあった。

 それがこの目の前にある箱が、本当にそんな僕の未来を決めてしまうような箱だと思わせる説得力を持っていた。

 

 汗が流れる。喉の奥で唾を飲む音がする。

 ただ、答えはすぐ決まった。

 僕は彼女との幸せのためにその五分に賭けた。そうまでしたい理由もあった。

「本当にいいんですね?開ければ、開けなかった時にはもう戻れません。幸せだろうと、不幸せだろうと」

「あぁ、開ける。僕は、幸せになるんだ」

 そうだ、僕は幸せになるんだ。


 僕はずっと幸せになりたかった。

 幼い頃から、決して恵まれた環境にいたとは言えなかった。僕の両親は僕にとって頼れる大人じゃなかった。

 父はロクでもないやつで、母との間に僕が出来たことを知ると一目散に雲隠れしたらしい。当時大学生だったらしい。

 母はその時まだ高校生で、妊娠がわかった時には時期的に僕を堕すことも出来ず、望まれないままに僕は生まれた。母からもらったのはこの命と名前くらいなもので、まともに養育すらされなかったらしい。

 運が良かったのは母の両親、つまり祖父母が普通の人だったということ。まともに育てられない僕を祖父母たちは早々に引き取ってくれた。それから、母には会っていない。僕は母の顔も声も何も覚えてない。当時の記憶が僕にはないが、祖父母たちがところどころを教えてくれた。

 でも運が良いのはそれだけだった。

 祖父母は早々に亡くなり、僕は児童相談所に保護され、児童養護施設に入ることになった。

 別にそこでの暮らしが特別不幸だったことはなかった。職員の人たちは優しかった。高校にも通わせてもらって、そこで出会った女性、紫苑ちゃんとは恋に落ち、僕は幸せになろうとしていた。


「あなたって、不幸そうな顔してるわよね」

 そんな強すぎる、そして的確過ぎる言葉を紫苑ちゃんは初対面で僕に吐いてきた。僕はその言葉にただ惚れた。本当にその通りだったから。

 彼女との日々は僕に一時の幸せを与えてくれていた。彼女にそんなつもりはなかったかもしれないけれど、僕を養護施設の人間として腫れ物のように扱う人間たちより、よほど心地が良かった。

 でもそんな生活の中でも、僕は周りとは違う、自分が感じているこの幸せは偽物なんじゃないか、なんてことをずっと思っていた。


 そんな時に僕の前に現れたのは一つの箱を持った人間。名前も年齢も、男か女かもわからない、仮面をつけた人間。人型の何かかもしれないが人間としておく。重要なのはそこじゃない。

 この箱を開けて、そこに幸せが入っていれば、僕は今度こそ彼女と、紫苑ちゃんと一緒に本当の、普通の幸せになれるんじゃないかと思った。それがどんなものなのか想像もつかないけれど。

 僕は箱を手渡される。

 その箱は空気のように軽くもあったし、鉄の塊のようにも重くあった。なんだか毎秒重さが変わっているような、一言で言えば気持ちが悪い箱だった。

 その箱の蓋はすっぽりと箱に覆い被さっていて、持ち手のような窪みが箱の両サイドにあった。 

 多分ここから開けるんだろう。

「では、箱にお名前をお書きください。どこでも良いのでご自由な場所に。どこに書いたかで中身が変わることはありませんので」

 僕は目の前にいる人からペンを受け取り、箱の蓋中央に『清水幸太』と書く。

 望まれずに生まれてきた僕に『幸』の文字を付けるなんて、あの母親は何を考えていたんだろうな。


「はい、では……。あ、一つ注意事項です」

 無機質な声が頭の中で響いた。

「この箱を開けた場合、たとえ中身が幸であれ、不幸であれ、この箱のこと、中身のこと、そして私のことを、生涯において何者にも言ってはいけません。墓場まで持っていってください」

「もし、誰かに話してしまったら?」

「ふふふ、その時は私があなたが持つ残りの人生をお迎えに上がります」

「ははは、それは良い」

 聞こえのいい悪魔の契約だ。

 僕は両の手で箱をゆっくりと開く。蓋は簡単に持ち上がり、いとも容易くその箱は開かれた。

 竜宮城の玉手箱のように煙でも出てくるんじゃないかと思ったが、そんなことはなく、ただ普通に箱が開いただけだった。

 なんの変哲もない箱。

 そして中を覗き込む。

 そこには何もなかった。

 幸せも不幸せも、影も形もありはしなかった。そこにはただ何も見えなかった。

「おい、これはどういうことだ」

 僕は正面に立っていたはずの人物に聞く。

「確かにその箱の中には幸せか不幸せかのどちらかが入っていましたよ」

 また頭の中で無機質に響く。

「いや何も、」

 声を少し荒げて正面を見てみれば、そこには誰もおらず、ただ時間だけが夕暮れになっていた。


 箱は気付いてたら消えていて、僕はもしかしたら不幸を引いてしまったのかもしれないと思った。だって幸せを引いていたなら、きっと荘厳で美しいものだったはずだ。それが何も無いなんて、それが幸せであるはずがない。


 僕は幸せにはなれないのか。



 あれから十年が過ぎた。

 僕があの箱のことを思い出さない日はない。

 想像を絶する恐怖。未だにそれらしきものが僕には起きていない。

 それがいつやってくるのか、僕には想像もつかなかった。

 朝、目が覚めないんじゃないか。突然通り魔に刺されるんじゃないか。何か、大きな病気に罹り死んでしまうのではないか。

 それに、不幸は何も僕の身にだけに起きるとは限らない。

 僕はあの箱を開けた次の年には高校を卒業して、祖父母たちよりも長く過ごした養護施設を出て、会社に入った。

 そこで働き始めて九年、僕は今年二十六歳になった。ようやく仕事にも慣れて、部下も出来て、そこそこに稼げるようになった。そこで僕は紫苑にプロポーズをして、結婚した。


「僕はずっと不幸だったかもしれないけれど、これからも、もしかしたらずっと不幸な人間かもしれないけれど。結婚してください」

 そんなかっこ悪い台詞でプロポーズをした。紫苑はそれを笑って、承諾した。

「ふふふ。あなたは、きっと幸せになるわ。私が保障するわ」

 そんな強い言葉を言う。彼女は本当に強い女性だった。彼女に何度助けられてきたかわからない。僕も彼女に負けていられないなんて思い始めた。

 本当なら、これからの未来、どこかで想像を絶する不幸が訪れるのだから、結婚なんてしてはいけないのかもしれない。だけど例え不幸が僕に降り注ぐとしても、それ以上に幸せになってやるという野心のようなものが芽生え始めていたのだ。

 僕は彼女のおかげで、運命に逆らう決意みたいなものができた。


 僕はまだ幸せを諦めてはいなかった。



 それからさらに二十年が経った。

 未だに不幸は自覚的になるほどの不幸として降り注ぐことはなかった。

 もしかして、僕に降り注ぐ不幸は、この不幸を待つ恐怖だったのかもしれないなんてことまで思い始めた。

 僕ももう四十六歳。仕事ではそこそこの立場になった。紫苑も、僕らの間に出来て今年で十七歳になる娘の沙織も健康そのものだった。

 まぁ沙織は反抗期真っただ中の高校生だけれど。

「ねぇ。あなたは今、幸せ?」

 夕食中にそんなことを紫苑が聞いてくる。

「なんだか、怪しい宗教みたいな聞き方するね。……そうだね、どうなんだろうね。僕は未だに幸せってものがわからないよ」

 未だに僕は幸せの形を掴めないでいる。

 でも、それでもこの時間は僕にとってとても愛おしいものだとは思う。

「ふふふ、でもあなたの顔、最初にあった頃よりずいぶんマシに見えるわよ?」

「そうかい?僕は幸せなのかなぁ」

「きっとそうよ、言ったでしょ?あなたはきっと幸せになるって」

「二人とも気持ち悪いんだけど、いい歳してやめてよね」

 うんざりしたように沙織は文句を言う。

 僕は言い返すこともできず、笑いながら頭を掻いてる。紫苑は「あら、沙織は私たちがいつまでも仲良いから寂しいだけよ。ねー?」なんて挑発するようなことを言う。

「は、はあぁぁ!?違うし!そんなことないし!ごちそうさま!」

 沙織は怒って、二階の自分の部屋に駆けて行った。

「いいのかい。沙織あんなに怒っていたけれど」

 紫苑はふふふ、と笑って言う。

「あなた、わかってないわね。……これが幸せの形なのよ」

 僕には彼女の言っていることがいまいち掴みきれなかった。そんな僕の顔を見て、「きっとあなたはわかってるわ」なんて、全てを見透かしたように言う。

 きっと紫苑は、僕より僕のことをわかってる。きっと一生敵わないな。



 それからさらに二十五年が経った。

 僕はもう七十歳を超えた。会社も定年退職して、ゆっくりとした老後を過ごしている。

 未だ、想像を絶する不幸は起きていなかった。ただもうこの歳になると、怖いものはないもので。沙織ももう四十歳を超えた。振袖姿も花嫁姿も見れた。結婚をして家を出て、たまに休みには孫を連れて帰ってきてくれる。それが楽しみで、まだ元気でいられている。

 ただ気がかりなのは……最近は妻の体調があまり良くないことだった。

 よく咳き込むようになって、ぼうっとしてることも多くなった。そしてなにより、たまに約束や言ったことを忘れるようなことが、起こるようになった。

 そのうち、歩くことも少しずつ困難になってきた。

「僕らも随分と歳をとったね」

「えぇ、本当に随分と長く生きられたものだわ。感謝しなきゃね」

「……神様なんて信じてたのかい?君は。知らなかったよ」

「……あなた。あなたは幸せ?」

「どうだろうね。結局僕はこの歳になるまで、幸せがどんな形なのかわからなかったよ。でも、今までの日々は、とても、とても楽しいものだった」

「……そう、それは良かった。ねぇ知ってる?あなた。人はね、それを」

「幸せと言うのよ」

 紫苑は大きく息を吐く。

「私は昔、ある箱を開けたの……」

 ゆっくり妻は語り出す。その語り出しに僕は心当たりがあった。

「幸せか不幸のどちらかが入った箱を、私は開けたの」

 妻の目は、天井を仰いでいる。ただその目はどこか遠く、きっと数十年昔の景色を見ている。

「わたしは、あなたと幸せになりたかった」

「だから、開けたわ」

「中には、どちらが入っていたんだい?」

 僕の声はきっと震えてたと思う。その言葉に妻は口角を上げて、ふふふ、と笑う。

「……そうね。私が見たものの答えをあなたはきっと知っているはずよ」

 僕が知っている?

「箱の中は、空だったわ。何も、何も見えなかった。でもあの箱には確かに入っていたのよ。……幸せが」

 空の箱に入っていたのは、幸せだった?

「どうして、空なのに……。幸せだって、思ったんだい」

「……だってそうでしょう。幸せは目に見えないんですもの。あなたがこの長い人生の中で掴めなかったように、幸せは目に見えるものじゃないのよ」

「……幸せは目には見えない」

「ふふふ、幸太くん。あなたの人生は幸せなものだった?」

「……あぁ、幸せだったよ。僕は確かに、幸せを感じて、見て、受け取っていた……」

 僕はただただ、胸の奥で、喉の奥で、頭の奥で、幸せを感じていたんだ。

「そう、……それは良かったわ。だから、あなたは幸せになるって、言ったじゃない」

 得意げに妻は笑う。静かに笑ったあと、妻はゆっくりと力を抜いていく。

「……ふぅ、お迎えね。随分と遅いお迎えじゃないですか」

 妻は僕の後ろの架空を眺めて言葉を話し始める。

 あぁ、そうか。

 迎えに来たんだ。

 僕には見えない。見る必要もなかった。

 僕はただ妻の手を握る。

「紫苑ちゃん、君も幸せだったかい」

「えぇ、とても幸せだったわ」

 とても、とても幸せだ。

 僕らはいつだって変わらなかった。

 僕は、僕らは、この家という箱の中で、確かに見えない幸せを手にしていた。

 春の日が差し込む。

 暖かな昼下がりに僕らは幸せになっていた。



 五年の月日が流れた。

 随分と生きてしまった気がする。

「おじいちゃーん。来たよー」

 孫の幸一が走って僕の部屋に入ってくる。

「お父さん。元気?調子はどう」

 沙織ももう五十手前。いい歳した母親になっている。

「幸一、手洗ってきな」

「はーい」

「あの子ももう中学生か。早いな」

「そうね、手がかかってしょうがないわ」

「ははは、それはお前も一緒だったよ」

「う、そうかもしれないけど」

 沙織は図星を突かれて唸る。

「……なぁ、聞きたかったことがあるんだ。どうして息子に幸一って名前をつけたんだい?」

 幸せの文字が入った孫。その名付けを知りたかった。それだけが僕にはずっとわからなかったから。

「うーん、そうね。まぁお父さんの名前に入ってたってのも少しあるんだけど、一番はやっぱり」

 沙織は笑って言う。

「やっぱり子どもには幸せになって欲しいじゃない!」

 あぁ、そうか、……そうだな。

「……ありがとう」

 僕は静かに、噛み締めるように言う。沙織は「なんか珍しいわね、お父さんがそんな噛み締めてお礼なんて」と笑って部屋を出て行った。交代ざまに幸一が部屋に入ってくる。

「おじいちゃん!今日も昔の面白い話してよ!」

 僕は幸一が来るといつも僕の昔話をしてあげていた。昔の話は幸一にとって、それは不思議な話に聞こえるんだろう。

「……そうだな。昔、僕が不思議な箱を開けた時の話でもしようか」

 それは、ただただ幸せに満ちた、春の暖かな昼下がりのことだった。


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