サンプル_微弱動

 夕方、事務所にいる職員が、誰ともなしに仕事の手を止めて立ち上がる。立っている時間はいつもだいたい十秒くらいだ。コロナの前は口を動かしているひとを探して、今日は彼が喋っているのだな、と判断ができたけど、最近は所内のスタッフ全員がマスクをしているからよく分からない。同じように立ち上がってしばらくすると、みんながばらばらと小さく礼をして着席するので、ああこれで終業なのだな、と思う。

 窓口にある受付ボックスを開けに行き、日中に自分が対応できなかった書類が入ったクリアファイルを取り出していく。非常勤医師の勤務実績報告、住所変更と通勤手当の申請、配置転換の書類はふせんに受付したひとの字で訂正待ちと書いてあったので、そのままボックスへしまっておいた。

 自席へ戻り、受付簿に入力する。書類のほとんどは都内にある法人本部へ。救急搬送車の運行予約がない日は本部との行き来をして書類を届けてくれるので、搬送車用の集荷かごに宛先別に封筒に詰めた書類を入れた。

 メールのチェックと残務の処理をしていると、窓口にユニフォーム姿の職員が訪ねてくる。昔は白衣という言葉で医療者の服装をまとめて呼んでいたが、今は職種によって紺やえんじ、群青などさまざまな色が使われていているからその彩色が病院の重苦しさを払拭しているように思えた。ぼくは看護師の白と濃紺でデザインされたユニフォームがけっこうお気に入りだ。もちろん事務員であるぼくがそれに袖を通すことはないだろうけど、それにふさわしい体型をした女の子のことを想像してあげると少し心の慰めになる。

 窓口を訪れた看護師は、月末から入院するので病気欠勤の手続きをしたいという用件だった。はじめにカウンターの近くに座っているスタッフが事情を聞き取り、ぼくのところへメモを持ってやってくる。ぼくもそのスタッフと看護師と話をするために机にある電子メモパッドを手に取った。

 今はマスクをしているので実際に話をしないとほとんど気づかれないが、ぼくは生まれつき高度難聴で声での会話ができない。クラクションくらい大きな音なら感知することができるけれど、ほかの日常にあるほとんどの音は、みんなと同じようには認識できていないのだと医師から告げられていた。

 窓口で看護師から聞き取りをしてくれたスタッフのメモを読み、診断書の発行が必要なことと、復帰の目処が分かるかの確認を、と文字で伝えると、その看護師はポケットから診断書を取り出した。隣のスタッフがスタイラスペンを握り、メモパッドに切迫早産と書き加えてくれる。

 では、欠勤に続けて産前産後休業を取得する手続きを。育児休業の書類説明はお済みですか? 各書類は開始日の一か月前までにご用意ください。

 イレースボタンで綺麗にしたメモパッドに、声を使って話すよりもずっとゆっくりな言葉を並べる。看護師はテーブルに手をつき、首を傾げてこちらの文字を読み取りながら、うんうんとうなづいた。

 病院に毎日さまざまな患者がやってくるおかげで、職員である医療スタッフはみな、ぼくが聞こえないひとだということに驚いたり接し方が分からなくて戸惑ったりすることはほとんどない。届出用紙の枠にシャーペンでチェックを入れ、欄外に締切を付記して渡すと、看護師は両手を合わせてぺこりとお辞儀をした。

 手話を知らないひとたちは、こうして必ず何かを伝えてくれようとする。たいていはお礼の気持ちで、祈るように頭を下げれば日本人にはみな通じるから、という良心のもとで。そうやってこちらへ表現する仕草はいつも可愛いなと思う。書類を持った看護師は、ぼくが会釈して応えるのを確認せず、足早に立ち去った。

 その後、やりとりの仲介をしてくれたスタッフを呼び、メモパッドで簡単に休職についての説明をする。就労規則で定められた様々な制度や、福利厚生についての案内、給与や休暇についてすべて網羅するのは大変なことだ。ぼくの文字だけの説明を受けている女性スタッフ、糸数伊織さん、チャットでみんなからイトちゃんと呼ばれているそのひとは、月初めにこの病院へ異動してきたばかりで、まだひとつひとつが初めてのケースに触れるといった感じだった。

《いろいろなパターンがあるので、覚えるのは徐々にで大丈夫です》

 文字を読んで、彼女は手を合わせてぺこぺこする。今度はごめんね、の方だ。前の部署では仕事のできるひとと評判だったから、ここへ来て自分がすぐに役に立たないことが悲しいと思っているのかもしれない。

 カウンターから席に戻り、暗くなったパソコンのキーボードを叩いて再度ログインしてから、イトちゃんに、もう帰れそう? と尋ねた。彼女は直近の業務を書いたふせんをディスプレイのベゼルに貼っている。着任前からの習慣なのか、毎日丁寧に剥がされたりはり替えられたりするので、ぼくは心の中でそれをイトちゃんのこいのぼりと呼んでいた。

 こいのぼりはマゴイとヒゴイが四匹泳いでいる。書き出したタスクと締め切りを確認して、ぜんぶ今日じゃなくていいよ、と返事した。イトちゃんはブラウザのチャット画面を開き、ぼくにも分かるように活字で会話してくれる。

《今日もずっと説明してもらって、手を止めてしまいすみません。戸谷さんの説明、いつも分かりやすくて、メモも字がきれいですごく読みやすいです。明日はちゃんと仕事手伝いますね! あと今日のワイシャツ、襟と手首の裏地が小花柄でかわいいね、おしゃれだねって舟津くんと言ってました。こないだかっこいいネクタイしてきた時、言い忘れちゃったから、今日こそはと思って。最後までお邪魔しました》

 画面を見ながら、うなづいてみせたり首を振ったりすると、イトちゃんは頬を紅くして顔の前でひらひら手を振った。健やかで曇りのないイトちゃんを見ていると、視界が微かに揺れる。

《舟津くんは、黒いスーツが多いよね。僕は暗い色が似合わなくて、いつも変なかっこうばかりしてしまいます。今日もいろいろ助けてくれてありがとうございました。また明日》

 手早く返信をタイプして送信ボタンを押す。彼女が読み終わるタイミングで視線をあげ、さっきのお返しみたいに軽く手を振った。マスクに埋めた顔が心から笑っている。たぶんお疲れ様ですと言ってくれているのだろう。かわいい子。彼女だっていつもおしゃれで、今日も肩にフリルのついた綺麗なワンピースを着ている。男性はスーツだけど女性はオフィスカジュアルでよい部署なので、フロアの女子たちはぼくが若い頃には選べなかったたくさんの可愛らしい装いをローテートしていた。それはぜんぶ、中身の方のぼくが似合うような。

 口では話さないからひとには悟られないけれど、本当のぼくは小花柄のワイシャツを合わせたスーツ姿でもなければ革靴も履かない。背は百四十八センチくらいで、髪は茶色い癖毛、緑色が大好き、休日はオーバーサイズのトレーナーとホットパンツばかり着ている、小学生に見間違えられそうな見た目の女の子だ。長く伸ばした髪はいつもアシンメトリーに三つ編みしていて、まつ毛とそばかすが濃くて、喋ると昔の童話に出てきた力持ちで勝気なヒロインみたいにみえる。そう、本当のぼくはふつうのひとみたいに流暢に会話ができた。

 でも、そんなぼくと会ったひとはもちろん誰もいない。ぼくも中身のぼくにはまだ会ったことがなかった。今でもたまに、スイッチが切れたパソコンの黒い画面とか、帰りの電車の窓に自分が映ると、目の下が窪んで青白い根暗の男性が真正面にいるからどきっとする。最近はかなり慣れた方だけど、前は怖くてそこから逃げ出したりしていた。

 今はそのかっこ良くも綺麗でもない不健康そうな男の面を認識すると、見飽きたがっかり感を味わうくらいに落ち着いている。それで、鏡に顔や体が写し出されると、ぼくの入れ物の役割を成しているその見た目の髪や服装を少し手直ししてあげることにしていた。朝はその男に似合いそうな服を選び、薄くてあまり生えない髭を剃り、ちょっとエモーショナルな女の子たちと同じように、彼氏の持ち物をそっと借りて出かける。今日は盤面にツェッペリン号が描かれた革ベルトの時計を借りてきた。何も言わずにそっと持ち出したけど、出勤時間より前に、いつも今日は何々を使ったのか、それいいだろ、とLINEしてくれる。たぶんぼくの彼氏は、世の中の恋人のなかでいちばん上等なひとだと思う。

 

 イトちゃんが退勤した三十分後に、残務もそこそこに仕事を切り上げて事務所を出た。壁に取り付けられた端末に職員証をかざすとデジタル時計が光り、打刻処理を報せる。スマホを鞄からスラックスのポケットに移し、地下鉄駅まで早歩きで向かった。

 最寄り駅に着く時間はだいたい仕事を終えた時間から一時間十五分ほど後になる。いつもは乗り換え案内アプリで時間を検索することなくそのまま帰るのだが、今日は地下鉄に乗っている間に連絡が入った。

《さっき終わって電車乗るところ。池袋に四十八分、ユキの方が早いかな?》

 時計を見ると、彼の予定時刻はだいたい二十分後だった。アプリで乗車した列車の時刻表を確認する。確かにぼくの方が少し早く着いてしまうけれど、途中で合流すれば軽く外食を済ませられるし、帰宅してからはお風呂に入ればすぐに眠れる。こちらもそのくらいの時間だからホームで待ち合わせ、と返信した。降車した駅で直結のJR改札へ入り、下りホームの階段を上がる。

 発着する快速と各駅停車の電車をそれぞれ一本見送り、次の電車はどうだろう、と思っていると、階段を上ってくる彼の姿が見えた。軽装だが背中にかなり立派な黒い布貼りの荷物を背負っていて少し目立つ。旅の荷物というよりも重要な機器が収載されているような雰囲気だ。ぼくはその中身をもう知っているから楽器ケースと理解しているけれど、狙撃手が仕事道具を持ち歩いているように見えていたら面白いな、なんて思っている。

 しかし狙撃手と呼ぶにはだいぶ顔の穏やかな彼、篠宮さんはぼくに気づくと混雑するホームの中ほどで、背負っていたケースを肩から下ろした。

 おかえり。スマホのメモアプリを出す前に、片手で簡単に会話をする。篠宮さんはいつもおうむ返しで、そのほとんどの意味をうろ覚えくらいにしか分かっていない。出先で顔を合わせたばかりの自由に会話ができないこういう場面で、彼がぼくへの気遣いでとりあえず同じ言葉で返すのが面白くて、いつも適当なことばかり手話にしてしまう。

 晩ご飯、どうする? ラーメンかな。

 指でラ、の頭文字を作ってから箸で麺を食べる仕草をするのだが、マスクをしているから「ラ」の口の形も何かを食べている仕草なのもほとんど表現できていない。篠宮さんは動作のコピーを諦めたのか、ただうんとうなづいた。

 終着駅までの各駅停車の電車がホームにつく。ドア脇の袖仕切りに楽器ケースを置いて、その上にぼくから鞄を受け取って乗せると、手ぶらで閉まったドアのそばに立った。電車の窓には向かいにいる篠宮さんの横顔が映っている。自己同一性について正しく思慮を深めたひとで、性自認も間違っていない。対象はぼくのような男性ではなく女性だ。きれいな顔。その言葉は嫉みではない。もし聞こえる体で生まれても、ぼくは彼や他の一般のひとのように生きられていなかったことをよく知っている。

 ガラス越しに篠宮さんを見ていたら、すぐに次の駅に着いた。反対側のドアが開いて数秒のうちにたくさんのひとが乗り降りする。そろそろ帰宅の相談をしないとと思い、ポケットからスマホを出した。LINEに入力して文字のやりとりをした方が早くて楽だけど、彼はふたりが同じ場所にいる時にそれを使うのが好きではない。喋った文字も本当に会話しているみたいに消えてしまうのがちょうどいいんだって。

 描画アプリに指で文字を書き、端末を渡した。ぼくが書いたのは《おなかすいた?》で、はじめは篠宮さんが話すのを待つ。

《晩飯、ラーメン? ごめん、あさって黒タキ、麺はパスしたい。飲み屋か、つまみ買って家?》

 ああ、明後日がコンサートの本番だから、衣装を着る日なんだね。あまり頻度が高くないタキシードや燕尾服は、新調するほど傷んでなければ何年もそのままで、若い頃から同じものを着ているらしい。最近お腹回りを少し気にしている篠宮さんは、今晩あまり食べ過ぎないようにしたいと言う。

《北口のやきとり?》

《いいかも》

《しのさん明日早いっけ》

《g.p.だから夜》

 これはゲネプロの略でゲーペーって読むんだよ、と教えられたのはもう何年も前のこと。ゲーはドイツ語だけど、ペーって何? と聞くと、彼も「そこまでは知らないな、でもきっとドイツ語じゃない」と笑った。だからぼくはgとpの字が並ぶと篠宮さんの目尻の皺をいつも思い出す。

 スマホの端末を受け渡ししながら手書き文字で会話していると、さすがにまわりからそっと向けられる視線を感じた。無言でやり取りをしているだけではなく、時折身振りが出ることもあるし、篠宮さんはきっと車内でも声を出していた。返事のない片側の声だけだと、もしかしたらハンズフリーで通話中みたいに聞こえるのかもしれない、と教えてもらったことがある。

 ぼくらは以前に一度、電車の中であるひとりの男性にじろじろ見られたり、たぶんちょっとひどいことを言われたことがあった。今までぼくはそういう目に遭うと、小さくなって謝り、そそくさと乗車の車両を替え、しばらく静かに何もしないでやり過ごすことが多かったから、その時に隣の彼が怒鳴り返したのを見て心底驚いたのだ。まわりはみんな篠宮さんとぼくとその男性を見ていた。イヤホンをして座席に腰かけているひとたちもぼんやり顔を上げて成り行きを見守っている。喋っている内容はもちろん分からないけれど、相手の男性は篠宮さんの反駁にどんどん顔色を失っていった。

 次の駅で、きっと彼が「おまえが降りろ」と言ったのだろう、男性はじっとりした目で何度もこちらを振り向きながら、のろのろとドアを出ていく。

 肩を落としてうなだれ立ち去っていく敗北者みたいな背中のひとは、実は社会の構造として正しいことを言っただけなのかもしれない。障がい者に優しい世の中は、障がい者を健常者と同じ区分の中で共生させる世の中ではない。仲間のように振る舞うのが健常者の美学だけど、仕事や社会活動での評価では容赦なくその分減点して査定される。ぼくはそれは仕方がないことだと思う。だって遺伝子の欠陥で肉体が不完全なんだもの。もしぼくの評定を満点にできるひとがいるのだとしたら、評価者側も聾者でないと成立しない気がする。

 世の中ではおそらく正しいひとを追い払ってしまった篠宮さんに、ごめんね、と自分の背中で手振りが隠れるように小さく伝えた。彼は首を横に振り、マスクを顎まで下ろすと「あれは感情論」とはっきり喋ってくれる。彼の大きな独り言にまだ何人かがこちらをちらちらと見ていた。

 気持ちが疲れてしまったぼくは、別々に座ってLINEで話すことを提案した。活字にしてチャットで伝えると、本当にそれでいいのか、と返事がすぐに送られてくる。

《同じことがまた起こるのはよくないです。一緒に電車で移動する日はそんなに多くないし、慣れれば気にならなくなると思います》

《じゃあ隣座れ》

《それ意味ない、篠宮さんが喋らないように少し離れましょう》

《ばか》

《ばかでいいです》

《打つの速いな。まって》

《どうぞ、ゆっくり》

 返事が彼のところへ着くタイミングで、篠宮さんは深く眉間に皺を寄せため息をついた。携帯を両手で持ち、親指を液晶画面の上で真剣に滑らせている。たまに何度もタップしたり、動きを止めたりするのを見て、もうそんなに苦労しなくていいよ、と言いたくなってしまった。

 ようやくぼくのための作文を終えた彼は、たぶん送信ボ

タンを押した後に、安心したのか髪をぐしゃぐしゃに撫で

回してくる。

《おまえそれでいつか泣くだろ。恋人と一緒に電車にも乗れないって。泣いた時の世話はべつにいいけど、それならはじめから、今までどおりに一緒にいればいいだけだから》

 自分の端末に送られた文字は、たった今篠宮さんが作ったものだけど、篠宮さんの出す言葉そのものではない。相手がぼくじゃなければ、さっき男性に対峙していた時みたいに、思ったことをその場で声に出して終わりなのに、ぼくに対してはそれができない。もらった言葉より、奪ってしまった時間の方が重くて、胸がきつく締まって苦しくなり、電車の中で子どもみたいにぼろぼろ泣いた。彼が自分と背丈の変わらない男の頭をまた撫でてくれる。

 会ってすぐの時、まだ学生だったぼくは、既に演奏家として長く生活していた年上の篠宮さんに、おまえは喜ぶのも悲しむのも同じ顔だと言われていた。もしも本当にそうだとしても、ぼくにはみんなが当たり前に感知している音の感覚がないから、同じ大きさの驚きや喜びはもらえていないと思っていたのかもしれない。他愛ない雑談も家族の通訳がなければ健常のひととの交流はほとんど難しかったし、映画は字幕がないと観れない、スポーツを観戦している時の歓声も聞こえない。

 篠宮さんの楽器の音も、拍手する聴衆と同じかたちでは分からない。

 それを仕方のないことだと思って諦めていた時より今のぼくは少し年を重ねて、この頃よく彼から大きな泣き虫だと笑われている。笑ってもらえると、世の中にいるたくさんの普通のひとたちと同じように生きられているような気がして、すごく安心した。

 北口の焼き鳥屋さんのグルメサイトをブックマークから開き、降車時間に合わせて席の予約をしておく。着くまでの数十分で、篠宮さんは仕事の事務連絡を、ぼくは読書をして過ごした。縦書きの活字を追う間、日中の業務がちらちらと思い出され、イトちゃんのこいのぼりを見た時の映像が何度も浮かんだ。今日のうちに説明すべきだった、ドクターの勤怠処理について彼女にまだ伝えていないことを思い出し、開いた本の上にスマホを乗せると、自分のスケジュールアプリのタスクに入力しておく。

 

 篠宮さんが、おまえが泣くのを世話するのは別に構わないけど、と言ったのは、きっとはじめの冬の日々のことを思い起こしたのだと思う。

 ぼくらはその時もう半年くらい付き合いをしていた。男性どうしだけど恋愛感情で一緒にいるということだ。週末になると家で食事をしたり、そのまま彼のところに泊まったりする生活をずっと続けていた。篠宮さんは土日に仕事が入っていることが多くてオフが合うのはまちまちだったし、オフでも家でリードという楽器の部品を作っていることが多かったから、そういう時間は僕が居間に座布団を並べて昼寝をしたりして過ごした。人目を憚るわけではなく、ふたりとも室内で過ごすのが好きだった。ぼくは時折気晴らしに本を持って喫茶店に行きたくなったけれど、天気が悪かったり活字を見るのが億劫だったりする日は、簡単にその計画を取り下げてシエスタに充てた。

 篠宮さんの家にある二層式洗濯機で一便、二便と仕分けをして洗濯を回すのも大好きだった。一昨年ようやく全自動洗濯機に買い換えたとき、ぼくの方が名残惜しくなってちょっと泣いたのを、彼に揶揄われたっけ。

 でもそんな些細なことじゃない。あの冬のぼくは本当にひどかった。

 週末にテレビを観ながら晩酌をしている時だったと思う。たまたま映っていた番組でピアノを弾く小学生の女の子が紹介されていて、きっと大人みたいに上手ですごい、っていう紹介なんだろうなぁ、とぼうっと眺めていたら、ふと気づいてしまった。

 ぼくの中身と同じ姿かたちをしている本当の外側は、きっとこの女の子みたいにちゃんと耳の聞こえる健康なひとのところに行ってしまったんだ。代わりにこちらには少し具合の悪い男の体しか残っていなくて、だからぼくはずっとこの着ぐるみの中にいるんだって。

 猛烈な吐き気が襲った。トイレに籠って便器に覆いかぶさってごめんなさいのかっこうをしても、少し前に飲んだお酒以外はほとんど吐き出せなかった。いつも通りと思っていたが今晩は少し飲ませすぎたか、と篠宮さんは心配してくれて、体をさすってくれたりお茶を淹れてくれたりした。でも、体の具合は良くならなかった。

 次の日、ぼくは勤務時間中にトイレの中で立ち上がれなくなり、救急外来で点滴処置されて帰宅した。篠宮さんが車で迎えに来てくれた時、このまま数日入院させてもらってもいいんじゃないか、と提案されると、ぼくは幼児が駄々をこねるみたいに泣き叫んだ。音のない景色でも、外来にいたひと全員が大人の男を抱えてずるずるとエントランスを出ていく篠宮さんのことを見ているのをひしひしと感じた。しがみついている背中が何度か短く震えるので、怒っているのか泣いているのかと思ったら、篠宮さんは笑っていた、きっといつもと同じように声を出して。彼はぼくより年がずっと上で、普段はテレビ越しに政治や社会経済に難癖に近い苦言ばかり呈するひとだけど、あの時期は特に、ぼくと向き合うためにたくさん笑ってくれていた。今その話をすると「そうだっけ」「憶えていない」と言われてしまうけど、当時は彼に相当の苦労をかけたと思う。

 起きた時に自分の手や体を見た時の絶望が、毎朝必ず襲ってくる。目覚めたら忘れてしまう夢の中で、毎夜ぼくは、中身と一体になる本当の外側を手に入れて走り回り、自由に話し、歌い、思い描いた通りの姿で篠宮さんに愛されていたのではないだろうかとぼんやり考えた。実際は寝ている間の記憶なんてまったく残っていなかったのに、夢想から始まったその思い込みに囚われると、まったく動けなくなってしまうのだった。

 点滴して帰宅した後の四日間、入社して初めて有給休暇を使って仕事を休んだ。週末までに二度外来に行って点滴してもらい、服薬の処方箋ももらった。こういう時、医療の力をもってしても大抵は何をしたってダメだって、病院勤めのぼくだって少しは分かっている。今まで普通に日常生活を送っていたのが噓みたいに、心身は簡単に腐っていった。せっかく立ち上がっても目眩を覚えてまた寝転べば、あっという間に数時間が溶けていく。五日目の晩、その日も朝から夕方までベッドの中で同じ姿勢でいた同居人に、篠宮さんが声をかけに来た。

 手のひらで優しく頬を叩かれ、目を開ける。とんとん、とふたつ打たれると「ユキ」って呼ばれていると思っていつもうなづいていた。スマホもメモパッドもない時、ぼくは彼の口元を見ればそのほとんどを読唇できる。喋る時に篠宮さんはサービスでぼくの手を彼の喉元に当てさせてくれた。ちりちりと砂が散るみたいな小さな振動が皮膚の下から伝ってくる。音は揺れだから触れれば〝きこえる〟と教えてくれたのは、彼が楽器を演奏するのを仕事にしているからかもしれない。

「体調どう? 少し起きれる?」

 ゆっくり話をしてくれる篠宮さんに、小さくうなづいて返す。

「うん、元気そうじゃん。ユキ、セックスしよっか」

 驚いて半身を起こしたぼくに、彼は容赦なくぶにっと唇をくっつけた。硬くて薄い感触、男のひとの味がする。篠宮さんの服からリード作りに使う塗料の匂いと金属の口の中が苦くなるような匂いがした。


〈後略〉

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『三重奏』2/16:COMITIA151 丹路槇 @niro_maki

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