“Le Jardin des Os”
鈑金屋
“Le Jardin des Os”
■Premier Chapitre ——入学
霧の帳が、門を覆っていた。
絡まる蔦が石を抱きしめ、沈黙の並木道がその先へと誘う。
踏み出せば戻れない気がした。
けれど、私はもう戻る場所を持たない。
サントマルグリット女学院。
華族や豪商の娘たちが集うこの場所で、
少女たちは美しく整えられ、静かに送り出される。
彼女たちは薔薇の蕾、やがて開き、相応しい庭へと移される。
私は、その庭にはふさわしくない。
妾の子。
血統に名を連ねられず、陽の当たる場所には立てない存在。
それでも、ここにいる。
成り上がった父の手によって、この学院に押し込められた。
家を出るとき、母はただ目を伏せていた。
ならば、私はここで生きるしかない。
門をくぐった瞬間、冷たい風が頬を撫でる。
深く息を吸い込む。
新しい世界の匂いがした。
「新入生?」
振り返ると、夜闇を溶かしたような黒髪の少女が立っていた。
紅の瞳がまっすぐに私を映す。
見つめられ、少女は微笑んだ。
「ごきげんよう、わたしは玲」
その笑みは、優しくて、どこか哀しかった。
——彼女は、生徒会長だった。
存在しないはずの、生徒会の長。
玲と名乗った彼女は、私の手を取った。
指先が驚くほど温かい。
導かれるように、私は彼女の後を追う。
校舎の中心。
霧の奥に広がる中庭。
そこに佇む古びた建物。
「ここが、生徒会室よ」
玲が扉を押す。
古い蝶番が軋み、夜の静寂を切り裂いた。
「生徒会?」
思わず問い返す。
この学院には、生徒会という制度はない。
玲は微笑んだ。
「でも、貴女には見えているでしょう?」
その言葉の意味がわからず、戸惑う私を迎えたのは、二人の少女だった。
深い黒髪を持つ静かな微笑み。
「副会長の千尋よ」
細い指がそっと頬を撫でるような声。
柔らかく、それでいて強い。
銀縁の眼鏡をかけた、小柄な少女。
「会計の藍」
彼女は短く頷くだけだった。
「どうして私を?」
玲はそっと私の髪を梳いた。
優しく、まるで祈るように。
「貴女は、まだ学院に飲み込まれていないから」
紅い瞳が揺れる。
「ここは、美しい檻。貴女はその中で咲く花ではない」
「……私は、何なの?」
玲は微笑んだ。
「貴女は、わたしたちの希望」
その言葉は、冬の空気よりも静かに胸の奥へ沈んでいった。
この場所に隠されたもの。
彼女たちの正体。
私はまだ、何も知らなかった。
■Deuxième Chapitre ——女学院での生活
静寂が息づく場所。
ここは、美しく飾られた檻。
誰もが微笑み、誰もが従い、誰もが抗わない。
そうすることが、この学院で生きる唯一の道。
朝は鐘の音とともに始まり、
少女たちは流れるように着替え、
並んで食堂へ向かう。
窓辺に広がる庭園は、まるで絵画のようだった。
形のそろった薔薇が、整然と並ぶその景色。
しかし、それは自由に咲いたものではない。
刃を持つ庭師の手によって、美しく形作られたもの。
この学院の少女たちもまた、そうだった。
食堂では、銀の食器が静かに触れ合い、
穏やかに言葉を交わしながら、
誰もが「あるべき姿」を演じている。
私もまた、その波に溶け込まなければならない。
孤立することは許されないから。
——でも、私には彼女たちがいた。
玲が、私の席に紅茶を置く。
琥珀色の液体が揺れるたび、
その瞳のように、深い色を宿していた。
「慣れた?」
玲の指が、そっと私のカップに触れる。
「……まだ」
嘘ではなかった。
けれど、玲たちがそばにいる限り、
この学院に縛られることはないと、どこかで信じていた。
授業の時間、整った筆記体が並ぶノート。
教師の言葉に従順に頷く少女たち。
質問をすれば、控えめな声で答えが返る。
静かで、穏やかで、退屈な時間。
「退屈?」
千尋が、私の筆を止めた指を見つめる。
「……少し」
彼女は微笑んだ。
その瞳には、どこか懐かしさが滲んでいた。
「私も、最初はそう思ったわ」
「今は?」
千尋は静かに息を吐く。
「もう、忘れた」
その言葉に、胸がざわめく。
忘れることが、この学院で生きる術なのか。
夜、寮の廊下を歩く。
足音は響かない。
誰もが眠る時間。
けれど、生徒会室だけは、いつもそこにあった。
扉を開くと、藍が机に向かっていた。
「何をしているの?」
「……記録」
ペンを走らせる音。
その手は細く、冷たさを帯びている。
「何の記録?」
藍は答えなかった。
ただ、窓の外を見つめる。
その視線の先には、学院の庭。
整えられた薔薇の陰に、ひっそりと沈む土。
私は、まだ知らなかった。
この学院の真実も、
この穏やかな日々が、
どれほど歪んでいるのかも——。
■Troisième Chapitre ——天音 玲の場合
学院の朝は、鐘の音とともに始まる。
けれど、それよりも先に、私は気配を感じて目を覚ます。
「おはよう、花梨」
玲が、窓辺に立っていた。
カーテンを引いたその背に、淡い朝陽が溶け込んでいる。
黒髪が光を散らし、深紅の瞳が私を捉える。
「まだ夢の中?」
そう囁く声は甘やかで、逃げ道を与えない。
私は、まどろみの中で小さく首を振る。
「……玲、どうしてここに?」
「迎えに来たのよ」
玲は微笑む。
私の髪を梳きながら、幼い子をあやすように。
「あなたは、まだ学院に馴染んでいないでしょう?」
「……そうかもしれない」
玲の指先は、驚くほど温かい。
けれど、その温もりはどこか儚くて——まるで今にも消えてしまいそうだった。
玲は、学院のすべてを愛していた。
生前も、そして死後も。
彼女はこの学院の理想そのものだった。
誰よりも優雅に、誰よりも美しく、
すべての生徒を慈しみ、導く存在。
けれど、それは叶わなかった。
学院は、愛を必要としなかった。
ただ、従順な花嫁たちを育てる場所であることを求めた。
玲の愛は、この学院では無用だった。
だから、玲は死んだ。
学院に抗ったから。
学院に、否定されたから。
それでも、玲はまだここにいる。
この学院のすべてを愛しながら。
「花梨、貴女はどうしたい?」
玲の問いは、ふとした瞬間に落とされる。
まるで確かめるように、まるで試すように。
私は、答えられなかった。
何を望むのか、まだ自分でも分からない。
「……分からない」
玲は微笑む。
どこか悲しげに、それでも愛おしげに。
「それでいいのよ」
玲の指が私の頬をなぞる。
その仕草は、まるで記憶を辿るようで——
私は、彼女のことを何も知らないのだと、改めて思う。
「玲、貴女はどうしたかったの?」
玲は少しだけ目を見開く。
そして、静かに微笑んだ。
「私は——」
風が吹いた。
窓の外、学院の庭の薔薇が揺れる。
その奥に、埋められたものの気配を感じながら——
玲は、何も言わなかった。
■Quatrième Chapitre ——霧島 千尋の場合
夜の帳が学院を包む。
窓の外には月が浮かび、静寂の中に冷たい光を落とす。
この時間、誰もが眠りにつき、少女たちは夢の中で明日を待つ。
——けれど、私は違った。
廊下を歩く足音は、影に溶けるように静かで。
辿り着いたのは、図書室。
扉を押し開くと、そこに彼女はいた。
千尋——副会長。
「こんな時間にどうしたの?」
机に向かい、ページをめくるその手を止めず、
彼女は私を見た。
「……眠れなくて」
千尋は微笑む。
それは穏やかで、どこか寂しげな微笑み。
「夜は、いろんなものを考えさせるからね」
千尋の瞳は深く静かだった。
私を映しているのに、その奥に広がるのは、ずっと遠い記憶のように思えた。
「何を読んでいたの?」
「学院の記録よ」
「学院の?」
千尋は本を閉じた。
その表紙には、古びた金の文字が刻まれている。
彼女の指が、それをなぞる。
「私はね、この学院を守りたかったの」
ふいに零れた言葉に、息を呑んだ。
「……守りたかった?」
「そう。正義でね」
千尋はゆっくりと立ち上がる。
そして、窓の外に目を向けた。
「この学院は、美しく見えて、その実、とても歪んでいる」
「……分かる気がする」
私は、学院の静けさの裏にある違和感を思い出した。
決まりきった動き、決まりきった言葉、決まりきった未来。
それが、この学院で生きるということ。
「それでも私は、学院のすべてを否定したくなかった」
「だから、正義で守りたかった?」
千尋は微笑む。
「そう。でも——叶わなかった」
それは、告白のようだった。
穏やかな声の奥に、深い悔いが滲んでいる。
「千尋は、どうやって守ろうとしたの?」
千尋は、そっと私の手を取る。
その指は冷たく、静かに震えていた。
「私は、この学院の未来を変えたかった」
「未来?」
「貴女のような子が、ここに囚われない未来」
「……それで?」
千尋は小さく笑う。
「失敗したのよ」
静寂が落ちる。
彼女の指が、私の頬を優しく撫でる。
「でも、貴女がいる」
「……?」
「貴女は、まだここに染まっていない」
千尋の瞳が、そっと細められる。
「だから、私は貴女を守る」
「正義として?」
千尋は、一瞬だけ驚いたように目を見開き——
微笑んだ。
それは、優しくも、どこか諦めの滲んだ微笑みだった。
■Cinquième Chapitre ——篠宮 藍の場合
深夜の学院は、静謐に満ちていた。
月の光が長い廊下を淡く照らし、足音さえも吸い込まれるように消えていく。
私は、誰にも見つからぬように歩いていた。
行き先は、生徒会室。
扉を押し開くと、そこに彼女はいた。
藍——会計。
机に向かい、帳簿をめくる指。
銀縁の眼鏡の奥、鋭い眼差し。
無駄のない仕草で、整然と数字を並べていく。
その背は小さく、けれど揺るぎなかった。
「こんな時間に何?」
視線を上げず、淡々と問いかける声。
私は戸惑いながらも、正直に答えた。
「……眠れなくて」
藍は、僅かに眉をひそめる。
「それなら、ここに来るべきじゃない」
「どうして?」
「ここは、危ない場所だから」
私は思わず息を呑んだ。
「危ない?」
藍は、眼鏡を押し上げる。
「貴女は、まだ知らないのね」
彼女の視線が、私を貫く。
その奥には、冷静な計算と、僅かな躊躇が見え隠れしていた。
「私はね、この学院で誰も危険な目に遭わせたくなかった」
それは、独白のようだった。
「この学院は、規則で縛られているようで、実は何の秩序もない。
誰がいつ消えても、何も変わらないように作られている」
その言葉が落ちるたび、胸の奥が冷えていく。
「私は、それを知っていた。
だから、規則を逆手に取ったの」
藍の指が帳簿をなぞる。
「見えない数字を動かして、生徒を守った。
表には出ない寄付金の流れ、不審な退学記録——
本来なら、こんなものは誰も気にしない」
藍は静かに笑った。
「でも、私は気にした。
見てしまった以上、どうにかせずにはいられなかった」
「……それで?」
「失敗したわ」
その言葉は、あまりにも淡々としていた。
まるで、すでに過去の出来事であるかのように。
「私は、この学院を少しでも安全な場所にしたかった。
けれど、気づいた時には、もう遅かったの」
「……遅かった?」
藍は目を伏せる。
「私は、ただの会計だった。
数字を動かすことしかできなかった。
それだけでは、何も変えられなかった」
静寂が落ちる。
「でも」
藍は、私を見つめる。
冷たい瞳の奥に、かすかな光が揺れる。
「貴女がいる」
「……?」
「貴女は、まだこの学院に飲み込まれていない。
だから、私は貴女を守る」
彼女の指が、そっと帳簿の端をなぞる。
「今度こそ、守り切れるように」
それは、償いのように聞こえた。
けれど、その声はどこまでも静かで、優しかった。
■Sixième Chapitre ——生徒会
雨が降っていた。
窓の外、灰色の雲が低く垂れ込め、学院の庭を薄暗く染めている。
しとしとと降り続く雨は、まるでこの場所に沈む影を映すようだった。
生徒会室の中は、静かだった。
机に並べられた書類の上を、玲の指がゆっくりと滑る。
千尋は腕を組み、じっと沈黙を守っている。
藍は帳簿を閉じたまま、何も言わない。
——誰もが、迷っていた。
「……これでいいの?」
玲の声が、静かに落ちる。
「私たちは、花梨を守るために動いている。
でも、それは本当に正しいことなの?」
沈黙。
「彼女を利用しているだけなのかもしれない」
玲の瞳が、揺れる。
「私たちは、花梨に何をさせようとしているの?」
千尋が、低く息をついた。
「学院を終わらせるため。
それが私たちの願いだったはずよ」
「でも、それを決めたのは私たち」
玲の指が、そっと机を叩く。
「花梨は、何も知らない。
私たちの後悔も、罪も、過去も——」
「知らなくていい」
藍が、眼鏡を押し上げる。
「知らなくていいわ」
玲が、藍を見つめる。
「でも、それでいいの?」
「……それしか、方法がない」
雨音が響く。
「私たちは、もうとっくに終わっているの」
「終わっていても、ここにいる」
玲の声が強くなる。
「ここにいる限り、迷うのも当然よ」
千尋が、ゆっくりと目を閉じる。
「でも、私たちは決めた。
花梨を守ることを」
玲は、長い髪を指で梳いた。
「それが、彼女のためになる?」
「わからない」
藍が短く答える。
「でも、私たちには、もうそれしかできない」
玲は、深く息をついた。
「……花梨は、私たちをどう思っているのかしら」
沈黙が落ちる。
「好きだと思うわ」
千尋が呟いた。
玲が、かすかに笑う。
「……そう?」
「ええ。だからこそ、怖いのよ」
「怖い?」
「彼女が、私たちのようになったら」
玲の指が、かすかに震える。
「そんなこと、させない」
藍が、静かに言った。
「私たちが、守る」
玲は、目を伏せる。
「——そうね」
雨はまだ、降り続いていた。
■Septième Chapitre ——女学院の闇
月がなかった。
雲に覆われた夜空は黒く、空と地の境界すら曖昧だった。
風もなく、ただ静寂だけが支配する夜。
学院の廊下を歩く。
足音が、吸い込まれるように消えていく。
何かが、この場所には満ちている。
それは霧のように纏わりつき、肌に冷たく触れる。
学院の奥に進むほどに、それは濃くなっていく。
——何かが、おかしい。
私は知っているはずだった。
この学院が、ただの学び舎ではないことを。
貴族の娘たちが集うこの場所。
彼女たちはここで、美しい淑女として育てられ、やがて望まれた場所へと嫁ぐ。
——それが、表の顔。
では、裏の顔は?
ひとつの噂がある。
消えた生徒たちの話。
「転校した」「退学した」
そんな言葉で片付けられる彼女たち。
だが、本当にそうなのか。
扉を押し開く。
そこは、小さな部屋だった。
普段、生徒たちが足を踏み入れることのない場所。
埃の匂いがする。
積み重なった古い帳簿。
その中に——
名前がなかった。
消えた生徒たちの名前が、どこにもない。
まるで、初めから存在しなかったかのように。
「やっぱり、知ってしまったのね」
振り返ると、そこには玲がいた。
「知っていたの?」
玲は、静かに微笑む。
「私たちは、学院の本当の姿を知ってしまったから」
「だから……?」
「だから、ここにいるのよ」
玲が手を伸ばす。
その指先は、ほんのりと透けていた。
「この学院は、都合の悪いものを隠す。
気づいてしまった私たちも、例外ではなかった」
「……だから、生徒会は正式には存在しないの?」
玲は頷いた。
「私たちは、もう学院の中に”いない”のよ」
ぞくりと、背筋が冷える。
「貴女は、ここで何を見た?」
私は言葉を探した。
見たものを、そのまま伝えていいのか。
この学院の闇に、どれだけ触れてしまったのか。
「……私は」
声が震えた。
玲は静かに私の手を取る。
「もう、戻れないかもしれない」
「……戻れない?」
「それでも、進む?」
玲の瞳が、揺れている。
私の答えを、待っている。
学院の奥深くに沈む闇。
それを暴くことは、きっと——
戻れない道を行くことになる。
けれど。
「……知りたい」
私は、玲の手を握り返した。
玲は、ほんの少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……なら、一緒に行きましょう」
闇の向こうへ。
この学院の、真実の中心へ——。
■Huitième Chapitre ——反旗
霧が立ち込めていた。
学院の敷石が濡れ、足音が静かに溶けていく。
夜の闇は深く、雲に隠れた月が姿を見せることはない。
私は、学院の奥へと歩いていた。
冷たい空気が肌を撫でるたび、心が研ぎ澄まされていく。
——ここは檻だ。
美しい檻。
貴族の娘たちを飾るための、鳥籠。
純白の羽をまとったまま、決められた未来へ送り出されるための場所。
けれど、私は違う。
私は、ここに囚われるために来たのではない。
玲たちが守ろうとしたもの。
玲たちが壊そうとしたもの。
その答えを、私は選ばなければならない。
扉を押し開く。
そこは学院の中心。
誰も足を踏み入れない、静寂の場所。
「来たのね」
玲がいた。
千尋がいた。
藍がいた。
——彼女たちは、ここで死んだ。
学院の闇に触れ、その秘密を知り、
声を上げたことで、彼女たちはここで終わった。
それでも、彼女たちは学院に囚われたままだ。
「花梨」
玲が、私の名を呼ぶ。
「貴女が、最後の選択をするのよ」
「私は……」
喉が渇く。
声が震える。
「私は、ここを終わらせる」
その言葉に、玲は目を伏せた。
「そう……」
千尋が、静かに微笑む。
「やっと、ここから出られるのかしら」
藍が、そっと眼鏡を外す。
「私たちは、長くここにいたわ」
私は、学院の壁を見つめる。
この場所を支えるもの。
この学院を作り上げたもの。
その根を断ち切らなければ、何も変わらない。
足元に埋められたものを感じる。
玲たちの骨。
学院の秘密の証。
私は、持っていたランタンの火を灯す。
「もう、終わりにする」
火が揺れる。
光が、影を裂くように踊る。
玲が、私を見つめていた。
「ありがとう」
その声が、かすかに震えている気がした。
「貴女に会えてよかった」
火が燃え広がる。
学院の闇を、焼き尽くすように。
私は、振り返らなかった。
玲たちが微笑んでいることを知っていたから。
■Neuvième Chapitre ——別れ
夜が明ける。
寄宿学校の尖塔の向こう、東の空が静かに白み始める。
燃え尽きた灰が、風に乗って舞い上がる。
学院の奥に隠されていたもの——そのすべてが、灰の中に沈んでいった。
私は、振り返らなかった。
けれど、わかる。
もう、この場所に玲たちはいない。
——解放されたのだ。
玲は愛した。
学院に囚われた少女たちを、すべて包み込むように。
千尋は守ろうとした。
歪んだ秩序の中で、正義を貫こうと。
藍は願った。
誰も苦しまず、誰も消えずにすむように。
彼女たちは、それを果たせなかった。
それでも——
「……やっと、終わったね」
足元に、光が差し込む。
振り返ると、玲が立っていた。
けれど、その姿は薄く、まるで朝霧のようだった。
「ここで、さよならね」
玲の声は静かで、どこか安らいでいた。
「貴女に出会えてよかった」
「……玲」
手を伸ばす。
けれど、玲はもう触れられない。
「私たちは、もう行かなくちゃ」
千尋が微笑む。
「貴女が、ここから出ていくのと同じように」
藍が、ゆっくりと頷いた。
彼女たちの身体が、淡く光に溶けていく。
朝日が昇る。
影が、消えていく。
私は、最後に玲を見つめた。
「玲——」
言葉が続かない。
玲は、ただ優しく微笑んで——
「さようなら、花梨」
風が吹いた。
私の髪が揺れる。
目を開けると、そこには誰もいなかった。
青空が広がる。
世界が、明るく染まる。
私は、一歩踏み出す。
この学院の門を超え、
私の知らない世界へと——
歩いていく。
■Dernier Chapitre —— 解放
光が、瞼の裏で揺れていた。
静寂の中、機械の微かな駆動音が響く。
まどろみの中で、ゆっくりと意識が浮上する。
——目を覚まさなくては。
重い瞼を開けると、見慣れた白い天井があった。
無機質な部屋。
身を起こそうとすると、身体に絡みついたチューブがわずかに軋む。
「お帰りなさい」
近くにいた看護師が、優しく身体を支えてくれた。
しかし、私は答えず、ただ視線を巡らせる。
そこにあった。
部屋の中央に並ぶ三つのガラス製のシリンダー。
その中には、白く乾いたものが沈んでいた。
——玲、千尋、藍。
私は、静かにシリンダーへ歩み寄り、慎重に持ち上げる。
「危ないです!」
看護師の静止の声が響いた。
だが、私は止まらなかった。
シリンダーをしっかりと抱え、部屋を出る。
彼女たちを、この閉ざされた空間に留めておくわけにはいかない。
辿り着いたのは、社屋のベランダ。
澄んだ空気が吹き抜け、遠くに街の喧騒がかすかに聞こえる。
ベンチにシリンダーを並べる。
私は一息つき、背後の看護師に言った。
「紅茶を、四杯」
看護師は戸惑ったように瞬きをしたが、すぐに準備のため立ち去る。
——ここには、四人いるのだから。
私はシリンダーを見つめる。
玲の骨、千尋の骨、藍の骨。
彼女たちはもう怪異ではない。
未練を解かれ、静かに眠っている。
「あなたたちの想いは、叶ったはず」
言葉にすると、喉の奥が震えた。
「これで、未練なく逝けるはず」
静寂が訪れる。
紅茶の香りが漂い、看護師が慎重にカップを並べる。
私はそれぞれの前に、一つずつ丁寧に置いた。
看護師は不思議そうに様子を見つめている。
けれど、私は気にせず、シリンダーにそっと触れた。
「あなたたちは、逝けた」
それなのに——
「愛された私は、残された」
胸が締めつけられる。
温かかった手のひらの感触。
髪を撫でる指先の優しさ。
あの日、共に過ごした日々の残響が、まだこの身体に刻まれている。
「それは、とても辛いこと」
涙が零れた。
カップの縁に落ちた滴が、小さな波紋を描く。
——リベラーム社。
未練を抱えた死者が怪異となる前に、その想いを解放し、世に還す会社。
私はその一員として、ただ一つの願いを叶えた。
だが、それがどれほどの寂しさを伴うものか、今ようやく知る。
玲、千尋、藍。
あなたたちに愛された私は、
これからも、生きていかなければならない。
静かに、紅茶を口に運ぶ。
優しい温もりが、涙の痕を伝って喉へと流れていった。
(Achèvement)
“Le Jardin des Os” 鈑金屋 @Bankin_ya
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