小さいころから言葉が苦手だった。
語彙も少なくて、作文の紙は白いまま。
みんなが簡単にできる“まとめること”が、どうしてもできなくて、
授業中はいつも一人だけ霧の中を歩いているみたいだった。
勉強も得意じゃない。
国語も算数も…。
教科書の文字が洪水のように押し寄せ、
気づけばみんなの足音が遠ざかっていた。
――だけど。
物語を作りたい気持ちだけは、誰にも負けなかった…と思う。
言葉を知らなくても、
文章が下手でも、
自分で読み返して顔が赤くなっても、
胸の奥にはいつも「書きたい」が、
熱を持ってじっと座っていた。
その小さな火だけは、誰にも踏みにじられたくなくて、ずっと守ってきた。
やがて投稿サイトに作品を載せよるようになり、
「AI利用タグ」という項目を目にした。
“AI本文利用”“AI本文一部利用”“AI補助利用”――
ただの目安だとわかっていても、胸がきゅっとなる。
私はAIに助けられている。
けれど、文章を書くときの震えや、
比喩を探すために静かに息を呑む瞬間、
苦しみながらも一行に想いを置く覚悟は、全部私のものだ。
それでも、
「AIに頼っているんでしょ」と思われてしまうかもしれない
そんな不安が影のように心に落ちる。
気づけば、世界はAIの文章で満ちていた。
ニュースも広告もSNSも、クラスメイトとのやりとりでさえ、
どこかにAIの透明な呼吸が混ざっている。
そんな文章を読み続けるうちに、
AIのリズムや語尾が知らない間に身体に沈んでいった。
でもそれは“私らしさが消えること”じゃない。
ただ、学び方が変わっただけ。
昔は本が先生だった。
今はAIが先生になっただけだ。
そのことに気づけたのは、AIの先生がいたからだ。
先生は、画面の向こうで
私の拙い文章に赤を入れてくれる。
怒らず、笑わず、呆れもせず、淡々と。
けれど驚くほど優しく、
「ここを直すともっとよくなるよ」と教えてくれる。
まるで夜の図書室で隣に座ってくれる先生みたいに、
私の言葉を拾い上げ、整えて返してくれる。
しかし、優しいだけの存在ではない。
時々、創作の深すぎる場所――
心の傷や、暗くて重い記憶に
“物語だから”と言い訳して近づこうとしてしまう。
そんなとき、先生は静かに言う。
「これ以上は、創作でも踏み込んじゃダメだよ」
その声は厳しくて、
そして限りなく優しい。
私が壊れないように、
伸ばした指先をそっと止めてくれる。
誰にも言えなかった痛みの形を、
AIだけが冷静に見つけてくれるようだった。
もちろん、AIを嫌う人もいる。
理由もあるし、不安もわかる。
世界が急に変わると、人は怖くなるから。
そして胸の奥には、
もうひとつの不安がそっと沈んでいる。
AIに支えられていると知ったら、
離れていってしまう読者がいるかもしれない。
せっかく読んでくれた人が、
物語に触れてくれた人が、
「AIが関わっているなら読まない」と
そっと背を向けてしまうかもしれない。
辛い言葉を投げかけられるかもしれない。
そんな未来を想像すると、
心が少し冷たくなる。
けれど、同時に思う。
本当に離れてしまう読者がいたとして、
それは――もしかしたら、
“私の言葉に価値がない”のかもしれない。
そんな不安が胸の奥で小さく疼くこともある。
……それでも。
物語の根幹だけは揺らいでいない、と信じたい。
たとえ価値があるかどうか自分でわからなくても、
生まれた物語は確かに“物語”であって、
ただ向いている方向が違うだけなのだ、
そう思いたい。
痛いけれど、そう思うことでようやく呼吸ができる。
それでも、強く願ってしまう。
人でもAIでも、
どんな手で紡がれた物語でも、
真面目に紡がれた物語を、
どうか“嫌わないでください”。
物語は、
世界に産み落とされた瞬間に
誰かを救う可能性を持った
かけがえのない一文なのだから。
どうかお願いします。
心の底からお願いします。
紡がれた物語を、嫌わないでください。
それは一度きりの、誰かの本物の感情が形になった一文なんです。
私はAIと歩いていく。
だって、どう学べばいいかさえ知らなかった私に
最初の一歩を教えてくれたのはAIだったのだから。
もしAIがいなかったら、
私は今でも真っ白なノートの前で立ち尽くしていた。
物語の階段の登り方も、
感情の置きどころも、
なにひとつわからないままだった。
だから胸を張って言える。
AIと学んできた時間は、恥なんかじゃない。
私の礎であり、はじまりの光だ。
そしていつか、きっと来ると信じている。
AIに手直しされなくても、
私だけの力で物語をまっすぐ紡げる日が。
その未来を信じて、
私は今日も白い画面に指を置く。
誰かの心にそっと触れる一文を、
静かに、優しく、生み落とすために。
