最後のパズルピース

紀洩乃 新茶

最後のパズルピース

 その日は静謐な雰囲気に包まれた一日だった。空から降り注ぐ霧雨は音もなく、地面に出来た水たまりは優しく打ち付けてくる雨水により無数の波紋を浮かべ続けている。風は凪いでいたこともあって、綺麗に手入れされた植物の青葉は抵抗することもなく、空からもたらされた恩恵をその全身で受け止めていた。

 そんな実家の庭先に広がる景色を縁側から眺めながら、俺は口にくわえた煙草に火を灯した。


「涙一つ出ない俺は、やっぱり薄情者なんだろうな……なぁ、お袋」


 煙草の煙を吐き出すと同時に、自分の後ろを振り返りながらそう呟いていた。

 その視線の先には、仏壇に置かれた母親の遺影があった。特別飾られるわけでもなく、厳かに存在するその遺影となった母の姿を見れば少しぐらいは感傷に浸ることになるのだろうと思っていたのだが、現実はそれよりも残酷な結果をまざまざと突き付けてくる。


 ――いつ頃からだろう……俺が生き物の死に何の感慨も持たなくなったのは。


 それは動植物に留まらず、人の死に対しても同じように割り切った見方をするようになっていた。壊れないものが無いように、尽きない命も存在しない。いつか壊れるのだから、いつか死んでしまうのだから、そう思うようになっていたせいか、今この瞬間も当然のことのように受け止めている自分が居る。そこに失くしたことへの悲しみという感情は一切ない。


 母が他界したのは一週間ほど前のことだ。正確な日時が分からないのは、俺がその瞬間を知らなかった為だ……いや、無視したと言った方が言い得てるのだろう。仕事に追われる毎日の中に一本の電話があった、父からだった。俺は今更話すこともないし、大した要件では無いだろうとたかをくくって無視した。その後、何度も続けて電話が鳴っていたが当然のように無視を決め込んだ……この時の電話が母の危篤を知らせるものだと思いもせずに。


 俺が父に折り返しの電話をしたのは、初めの電話があってから一週間が過ぎてからだった。そこで初めて知らされた母の死……。父は怒ることもなく「葬儀は終わった。とりあえず、一度家に顔を出せ」と物静かに告げて電話を切られた。――そして今に至る。


「恭一、ちょっとこっちに来い……」

「なんだよ、藪から棒に……。今行くからちょっと待ってろ」


 リビングの方から父に呼ばれ、吸っていた煙草を部屋の灰皿に押し付けながら返事をした。俺は手に持っていた煙草の箱とライターを近くのテーブルの上に投げ捨てると、舌打ちと溜息を続けて放ちながら部屋を後にした。

 

 光が差し込むことのない薄暗い廊下は、本当に自分がここで暮らしていたのかと見紛う程に閑静としていて、時折足元から聞こえる床板の軋む音が長い月日を耐え抜いてきた悲鳴のようにも聞こえる。そのせいもあってか、この廊下を無邪気に走り抜けていた子供の頃がやけに懐かしく感じてしまう。

 リビングの中に入ると同時に俺は妙な錯覚を覚えた……。使われている家電製品は新しいものに変わってこそいるものの、まるで時が止まっていたかのように部屋の中は当時の配置のままだった。冷蔵庫に張られたマグネット、壁に掛けられたカレンダー、テレビボードに飾られた写真やインテリア雑貨、それらが懐かしさを通り越して、そのままの姿でいてくれたことに感謝さえしていた。


「驚いたわ……。昔と変わってないんだな、このリビングの中……」


 先程まで抱いていた苛立ちも忘れて、自然と父に語り掛けていた。父はこちらを見ながら「そうか?」と素っ気なく答えるに留まった。その景色は、父にしてみれば現在進行形で存在する日常なのだ、変わっているかどうかを問われたところで分からないのも仕方のないことだろう。

 そんなリビングの中を見回していた俺は、呼ばれた理由を聞こうと父のほうを向いた……その瞬間だった、先に父の方から話を切り出してきた。


「これをお前に渡しておく。里美が大事に持っていたものだ」


 そう言ってテーブルの上に一つの財布をそっと置いた。その色褪せた茶色い革製の財布は所々が剥げていたものの、大切に使われていたことが痛いほど伝わってくる。

 俺はこの財布を覚えている……。そう、俺が子供の時から母が使用していたものだ。


「何で俺に渡すんだ? 親父が持ってればいいだろ?」


 長年連れ添った相方の形見なんだから父が持っているべきだと思った。だが、そんな想いを遮るように「中を見てみろ」と財布を顎で指し示しながら父は呟いた。

 俺は仕方なく財布のファスナーを開けていく……正直なところ少し怖かった。何か見てはいけないような物が出て来そうな予感がして、触れてはいけない罪悪感のようなものに囚われてしまいそうで……。


 開かれた財布の中には、何枚かのチケットのようなものが入っていた。遊園地やテーマパークの入園チケット、市民プールの入場券、スキー場のゴンゴラの一日券なんてものまで入っていた。すぐに理解した……これらは、俺が母と一緒に行ったことのある場所のものだ。

 母は思い出として大切に保管していたのだ。色褪せていく記憶を繋ぎとめる為のパスポートとして、思い出と共に仕舞っていたのだと容易に想像出来た。実際に目にして気付かされる……このチケットの一枚一枚に忘れていた当時の思い出が蘇る自分が居た。


「懐かしいな……。思い出として残してるなんてお袋らしいわ」


 心の底からそう思った。あの優しさの塊のような母のことを想えばこそ、違和感なく当然のこととして受け入れることが出来た。そんな懐かしい思い出に浸りながら財布の中身を見ていた時に、他とは明らかに違う異質な存在を見つけた。それだけが丁寧に包装されていて、中身が見えない状態で存在していた。俺はそれを手に取ると、迷うことなく父に「開けていいか?」と素っ気なく確認を取っていた。父も無言で頷いて答えるだけだった。


 ――綺麗に包装された中には、パズルのピースが一つ入っていた。


 財布の中で大切に保管されていたと思われるパズルの1ピースを手に取り、頭上まで持ち上げて眺めてみる。何の変哲もない只のパズルピースだったが、俺の記憶の中ではパズルをした経験は生涯に一度だけだった。子供の頃に母と一緒に初めてしたパズル。何故かピースが足りなくて未完成のままだったパズル。どれだけ探しても見つからなかった最後の1ピース。そして、これがあの時に最後まで見つけられなかったパズルピースなんだと思った。


「……なんでお袋が持ってたんだ? あの後で見つけて大事に保管してたのか?」


 そんな疑問を抱きながら、俺は当時のことを思い出していた。




 もう三十年ぐらい前のことだ、父の仕事の都合により引っ越ししたことで転校を余儀なくされた。転校先の小学校に馴染めきれてない俺は一緒に遊べる友達も居なかった。そんな俺を気にしてか母がよく遊んでくれたことを覚えている。

 そんなある日、母が唐突に「恭ちゃん、宝探しして遊ぼっか」と声をかけてきてくれて、「宝探しやるー!」とはしゃぎながら母に抱き着いたことがあった。母が目の前に取りだして見せてくれたのは、子供には少し難しそうな108ピース入りの小さなパズルの箱だった。そして母は俺の頭を撫でながらその箱を渡してくれた。


「このパズルが完成すると宝物がみつかるよ! 恭ちゃん、一緒にがんばろうね!」


 そう言って一緒にパズルを始めた。

 最初はピースの振り分けをした。外枠になる平らな部分のあるピース、似たような色で構成されたピース、文字が書いてあるピース、特徴的な絵が描かれているピース、母と二人で「これはこっちのやつ」などと談笑しながら初日に振り分け作業を終えた。


 家に帰って来た父が「お、パズルしてるのか? お父さんも混ぜてくれるか?」と声をかけて来たが、母と二人で「これは二人だけの宝探しだからダメー!」と笑いながら顔を見合わせて言ったのを覚えている。その時の残念そうな父の顔は面白かったが、大人になった今にして思えば本当に申し訳ないことをしたものだと少し罪悪感を覚えてしまった。


 翌日からはパズルの外枠を作り始めた。母に手伝ってもらいながら一つ、また一つと繋がっていくパズルが妙な達成感と孤独でないことの幸せで満たされていた。教えてくれているはずの母が一緒に悩んでいる姿は、不思議と居心地が良かった。


 ――静まり返った部屋に響く時計の針が時を刻む音……。


 ――自分と母の二人だけの声しかない空間……。


 静謐ともとれるその穏やかな時間を俺は永遠のもののように感じていた。実際のところ、パズルが完成に近づくまでの時間は、そんな幸せに満たされた日々の繰り返しだった。

 当然だがすんなりとパズルが埋まっていったわけではない。繋がらないことへの苛立ちや見つけられない事への鬱憤は声となって癇癪を起していた。そんなときでも母は優しく寄り添ってくれて、諦める事無く最後まで付き合ってくれていた。


 数日後、手元に残ったパズルのピースが三つになっていた。完成を目前にして、俺はピースの数が足りないことに気が付いた。埋まっていない部分を数えると十一箇所あり、どう頑張っても8ピース足りないのだ。そんな俺を見た母は、ニヤニヤと楽しそうな笑顔で教えてくれた。


「もうすぐ完成だね。でも宝探しはここからだよ? 足りない八つのピース見つけ出すことで宝物が手に入るからね!」


 あの時に母が見せてくれた悪戯な笑顔が何を意味しているのか分かるはずもなく、母が楽しそうだと感じた俺は嬉しくて部屋中を探し回ったことを覚えている。

 その日のうちに二つのピース発見することが出来て、それを報告した母に「恭ちゃん、すごいねぇ!」と褒められたのが嬉しかった。初めは見つけやすいように設定されていたのだろう、そこから先は見つけるのに苦労した記憶がある。母にヒントを求めたり、家に帰って来た父に助けを求めたりしながら、手が空いた時間には母が一緒に部屋中を探してまわってくれた。数日間に渡り続いたそんな時間がとても楽しく、このまま終わらないで欲しいと願っていた。


 そんな中で母が色々と声をかけてくれていた。「学校は楽しい?」とか「お友達は出来た?」などのありふれた会話ばかりだった。俺は素直に「お母さんと一緒の方が楽しいもん!」と答えた。それを聞いた母が優しい眼差しで俺を見つめながら言った言葉があった。


「恭ちゃん、宝探しはね、お家の中だけじゃないんだよ? 学校の中でも大切な宝物は見つけられるんだよ? 何もしないままだとパズルのピースが見つからないように、学校でも大人しく待ってないで自分から探さないと宝物は見つけられないままになっちゃうから頑張って探してみようね!」


 今にして思えば、母は学校で孤立していた俺のことを心配してこの宝探しを提案してくれたのだと分かる。遊びを通して友達という大切な宝物を探しなさいと教えてくれていたのだと。


 結果として、母の思惑通りに事は運ぶこととなった。

 最後の1ピースだけがどう頑張っても見つけられないまま何日もの日々が過ぎて行った。まだ子供だった俺が根気よく探し続けれるはずもなく、自然と宝探しをしなくなっていった。それと同時期に学校で友達が出来て一緒に遊ぶようになっていた。

 学校から帰ってきて、その日にあった友達との話をしている時、それを聞いている母はとても嬉しそうだった。自分のことのように喜んでくれていた。その後、母の口からパズルと宝探しの話は一度も出てこないまま、記憶の片隅に追いやられ忘れ去られていった。




 過去の記憶を辿り、一つだけ確信にも似た考えが頭を過った。手に握っていた最後のピースを見つめながら、俺は父に聞いていた。


「なぁ、親父……ひょっとして、お袋はこれを最初から自分で隠し持っていたのか?」 


 少し驚いた表情を見せた後、父のその重い口が真実を語り始めた。


「里美からは口止めされていたから言えなかったが、その通りだよ。当時、学校に馴染めていないお前のことを気にして考えたことだったんだ。もう察していると思うが、最初から最後のピースは見つからない前提でやってたんだよ。全てはお前のことを想って里美がやったことだが、恨んでやってくれるな。しかしな……」


 そこまで言って父の表情が曇ったのが手に取るように分かった。ここから先は本当の意味で聞けば罪悪感を覚えることになるだろうと俺の直感が告げていた。


「その話には続きがある。里美は期待してたんだよ……お前が大人になったときに、この最後のピースのことを思い出してくれることを。そして、未完成だったパズルをお前と一緒に完成させることを願ってたんだ。変わらぬ親子関係であることを望み、他愛無い昔話に花を添えるような形でそれを確認したかったんだろう。だからな、きっとお前に探しに来て欲しかったんだと思う。あの時、里美の中では大人になって離れていくお前の姿を想像していたんだろうな……」


 もう言葉にならなかった……。そんな想いを抱いて生きていたなんて知る由も無いが、知ろうともしなかったことも事実だ。少しでも寄り添った生き方を選んでいたら、母が死ぬ前に望みを叶えてやれたかもしれないのに、もう絶対にそれは叶わない。……苦しい、悔しい、恨めしい! 浅薄な自分に腹が立ってくる。そんな苦痛に満ちた俺の顔を見ていた父が「それをよく見てみろ」と手に持っているパズルピースを指して優しく諭すように言った。


「……? これ、裏に文字が書いてたんだな」


 そのピースの裏に書かれていたのは、小さく『①』と書かれた番号と『幸』という一文字だった。子供だったあの時は気付きもしなかった……が、大人となった今ならその意味が一瞬で理解出来た。


 ――このメッセージこそが探すべき宝物だったのだと。


 俺はあの未完成のパズルがまだ残っていると信じて、母の遺品が置いてある部屋へと急いだ。

 母の遺品が入っている段ボールの箱の中にそれはあった。未完成で一箇所だけ穴が開いた状態の一枚のパズルは、丁寧に額縁に入れらた状態で保管されていた。


「あった……。なんで未完成なのに額縁に入れて飾ってたんだよ」


 思わず声が漏れた。長い時間を超えて、ようやく完成させることが出来ることと、それが今もちゃんと残っていてくれたことが嬉しかった。取りだしたパズルの額縁を優しく手で撫でながらそれを外していく……そっと、少しずつ、忘れていた時間を取り戻すように。


 額縁の裏板を外すと見えた色の無いパズルには、何か所かに文字が書かれていた。予想したとおりに番号が振られたメッセージになっていると分かる。

『⑦と』『②せ』『④あ』『⑤り』『⑧う』『③を』『⑥が』……そして手元にある『①幸』

 正しく並び変えたことで出来た言葉に目頭が熱くなるのを抑えることが出来なかった。


『幸せをありがとう』……これが探していた宝物であり、母が俺に残してくれた最後のメッセージだった。


 手元にあったパズルの上に自然と涙が落ちていく……もう込み上げてくる感情を抑えることが出来なかった。落ちた涙で描かれていた文字が滲み、そのぼやけた母の想いが追い打ちをかけるようにように俺の本音を洗い出していく。


 ――どこかで分かっていた……人や生き物の死に何の感慨も持たなかったのではないことを。只々怖かったんだ、寄り添った生き方をして情を宿したものを失うことが。


 ――だから突き放した……無関心を装い、距離を置くことでその呪縛から逃げ出すために。そうすることでしか自分を守れないことを知っていたから。


 それが今となっては後悔の念で押しつぶされそうだ。ここに来た時に感じた残酷な現実は、違う形で更に残酷な真実を突き付けて来た。これは俺が背負わなければいけない業であり、償う事の出来ない罪でもあるのだ。

 泣き崩れていて気付かなかったが、いつの間にか部屋の入り口で父が立ったまま俺を見守ってくれていた。そんな父に気付き、顔を向けた時に父が「もう逃げるなよ」と一言だけ言ってその場を去って行った。敵わないと思った……これまでも全て分かった上で黙って見守ってくれていたんだと、その優しさにまた涙が止まらなくなった。




 ……どれぐらいの時間泣いていたのだろう。ようやく気持ちが落ち着いてきたので、俺は残された役目を果たすことにした。手に握ったままだった最後のピースを埋めなくてはいけないと思った。俺は額縁に入ったパズルと共に母の遺影がある部屋へと向かった。

 部屋の縁側から見える庭先の景色は、先程と変わらない……違いが在るとすれば、霧雨が止んでいたことぐらいだろう。さっきまでの霧雨は俺が泣き止むと同時に止んだのだろうかと考え、皮肉なものだと思わず笑ってしまった。


 母の遺影の前に座り、俺は額縁の裏板を外し、最後のピースを開いていた穴に埋め込んだ。

 母が残してくれた最後の1ピースは、結果として俺の心に開いていた穴も埋めてくれることとなった。


――感謝してもしきれない……。


――お礼を言おうにも直接届けることは叶わない……。


 失ったものの大きさは計り知れない。それでも長い年月を経て、ようやく見つけることが出来た。あの時にどれだけ探しても見つけられなかった最後の1ピース。まぁ、母が隠し持っていたのだから絶対に見つからなかったわけだが。


「お袋、ちゃんと見つけたぞ……最後の1ピース」


 そう言って俺は完成したパズルを母の遺影の横に飾ってやった。

 表の空の雲が流れ、出来た隙間から光が射し込んで来た。その陽光が偶然にも母の遺影と飾ったパズルに向けて一筋の光の道を作り照らし出していた。

 遺影ではあったが、母の笑顔に光が射したことで本当に笑ってくれているように思えた。


 俺は気持ちの整理をつけることが出来たので、母に別れを告げて帰ることにした。もう逃げることはないだろう、向き合う勇気とその大切さを見つけることが出来たのだから。

 

「俺のほうこそ、幸せをありがとう」


 俺は母の遺影に背を向けたまま煙草を口にくわえて火を灯し、万感の思いでそう呟きながら部屋を後にした。




(了)

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