地上を駆ける鳥

製本業者

見果てぬ夢

「お先に失礼します」。

彼は机に軽く手を置き、乱雑に書類をまとめると、鞄に荷物を詰めながら職場に声をかけた。数人が「お疲れ様です」と応じるが、そのほとんどが形式的なもので、ほかの大半は無反応だ。

中途採用の外様にはよくあることだ、と彼は苦笑いを浮かべつつ、事務所を出ていった。タイムカード機能付きの社員証を機械に翳し、今日という一日を終える。


慣れない環境と新しい仕事に彼はまだ順応しきれていなかった。自動車の関連部品を手掛ける会社に勤めていた頃とは、勝手が違う。以前はB2Bの技術者だったが、リストラ後に家電メーカーへと転職。今度は消費者向け(B2C)の製品開発に関わることになったが、発想そのものが違いすぎて戸惑う場面も多い。

「これが本質的な違いってやつか……」

そう考えるたびに、彼の中で小さな溜息が漏れる。技術者としてのプライドを支えにしつつも、現状に対する不安は拭いきれない。残業も多く、同僚との交流もほとんどない。飲み会に誘われることもなく、ただ暗い夜道を一人で帰る日々が続く。


その夜も、彼は電車とバスを乗り継ぎ、自宅へ戻った。ローンを組んで手に入れた、中古とは言え持ち家には、誰一人として彼を出迎える者はいない。途中で立ち寄ったコンビニで買った弁当を電子レンジに入れ、電気ケトルのスイッチを押す。スマートフォンを片手に動画を流しながら、ひとりで夕食を済ませた。

そんな生活にもいずれ慣れるのだろう、とぼんやり考えながら過ごす毎日だった。


その夜も変わらず、彼は食事をしながらネットオークションを眺めていた。

画面をスクロールしていると、ふと目を引く商品が現れた。

「え、こんなものまで売ってるのか?」

目を凝らして確認すると、それは中古のジェットエンジンだった。説明文によれば、かつて自衛隊か米軍が使用していた戦闘機用のエンジンらしい。型番は「J79」。

技術者としての彼の知識が反射的に動き出す。これは戦後に登場したエンジンで、F-4ファントムやF-104スターファイターなど、旧世代の戦闘機で使われていたものだ。彼が生まれる前の戦闘機を大空に羽ばたかせていたエンジン……

その存在に、妙な感情が彼の胸をよぎる。


「スターファイターか……“最後の有人戦闘機”とか呼ばれてたのか。でも結局、無人機の時代にはまだ遠いよな」

画面に映る機体の写真や説明を眺めながら、彼は独り言を漏らした。商品の詳細を読み進めるにつれ、胸の内に得体の知れない高揚感が湧き上がる。あの頃、自動車エンジンの開発に携わっていた日々の記憶が蘇るような感覚だった。


気が付けば、画面には「落札完了」の文字が表示されていた。

「……マジか」

思わず声が漏れる。

当然ながら、このエンジンに具体的な使い道など何も考えていなかった。ただ、その時の衝動が彼を突き動かしたのだ。


リストラ前に購入した持ち家は、彼にとって複雑な思い出の詰まった場所だった。

当時付き合っていた彼女と結婚を前提に、二人で選んだ物件だ。ガレージ付きの家は彼女も気に入っており、これからの生活を思い描いていた。しかし、リストラを機に二人の関係はぎくしゃくし、やがて別れることになった。家だけが残り、彼はその静まり返った空間に独りで暮らしている。


そのガレージは、いまや彼の唯一の逃げ場になっていた。前の会社で自動車通勤が必須だったため、ガレージは広く充実しているが、車を手放した今は空っぽだ。しかし、落札したジェットエンジンを目の当たりにしたとき、彼の中でそのガレージの使い道が決まった。


「ここでやるしかないな……」

エンジンを運び込むと、彼は早速作業を始めた。表面は錆び付き、部品は劣化していたが、技術者の血が騒ぐ。分解していくうちに、その精巧な設計に心が踊った。

「やっぱり戦闘機のエンジンってのは凄いもんだな……」

ひとりごちた声は、広いガレージに虚しく反響する。


やがて、壊れている部品がいくつか見つかった。特殊な形状のものばかりで、代替品は手に入らない。

「どうする……これじゃ動かせないな」

悩んだ末、彼は安価な3Dプリンターを購入し、壊れた部品を自作することにした。ネットで設計データを引っ張り出し、試行錯誤しながら印刷を繰り返す。

「前の会社でCADいじってたのが、こんなところで役に立つとはな」

微調整を加えながら部品を完成させ、ついにエンジンを組み上げた。


ある夜、ガレージのシャッターを閉め、周囲を確認してから彼は灯油を注ぎ込み、エンジンを作動させる準備を整えた。緊張で手が汗ばむ。こんなことはやるべきではないと頭の片隅で思いながらも、止められない衝動に突き動かされていた。

「さて、いよいよか……頼むから動いてくれよ」

彼は深呼吸をしてからスイッチを入れた。


次の瞬間、エンジンが轟音と共に目を覚ました。耳をつんざくような音がガレージ内に響き渡り、振動が床を伝って全身に感じられる。

「うおおお、動いた!動いたぞ!」

思わず声を上げたその瞬間、外から怒鳴り声が聞こえてきた。

「おい!何やってんだ!」

「爆発でもしたのか!?」

近所の人々が集まり、ガレージの前で大騒ぎになっているのが窓越しに見える。慌ててスイッチを切り、エンジンを止めた彼は、シャッターを開けて頭を下げた。

「すみません、すみません!試運転してただけなんです!」

「試運転?一体何の!?」

「いや、その……ジェットエンジンを……」

その答えに、集まった人々の目が一層険しくなった。謝罪を繰り返すことで何とかその場は収まったが、彼の心には「次はもっと慎重にしなければ」という決意と、「やっぱり夢中になれるものが必要だ」という思いが同時に芽生えた。


数日後、彼はふと思いついた。

「これ、ドラッグカーに使えるんじゃないか?」

以前の仕事で培った自動車設計の知識をフル稼働させ、ジェットエンジンを搭載した車両を作る計画を立てた。そして、それまでの作業の様子を何気なくSNSに投稿してみた。

最初は誰からも反応はなかった。しかし、ある日突然、投稿が拡散され始めた。

『これマジなのか?』

『本当にジェットエンジン動かしてる……?』

『こいつ頭おかしい!(誉め言葉)』

「……バズってる」

彼のSNSアカウントは爆発的にフォロワーを増やし、応援の声や批判が入り乱れる中、後に引けなくなっていった。


「……やるしかないか」

彼は一人、ガレージの中でつぶやいた。

夢に挑む者の表情を浮かべながら、次なる工程に取り掛かるのだった。



ジェットエンジンを搭載するためのドラッグカーを組み上げる計画は順調に思えたが、事態は簡単には運ばなかった。

彼がベース車両として選んだ中古のセダン車は、エンジンを搭載するにはあまりにも小さすぎた。エンジンの全長を測った瞬間、彼は硬直した。

「……無理だ。終わった」

その言葉は思わず呟いたものであったが、そのままSNSに投稿されることになった。


「\(^o^)/オワタ」

SNSに投稿されたその一言は、彼のフォロワーたちに波紋を広げた。


コメント欄

「え、どうした?」

「まさかエンジン壊れたとか?」

「おい、最後まで諦めるなよ!夢見せてくれよ!」

「詳細教えてくれ!みんなで考えよう!」


これまでもエンジンの修復作業を応援してくれていたフォロワーたちは、自分のことのように心配し、励ましの言葉を次々に送ってきた。特に、初期から応援していた「カーマニア88」や「DIYファクトリー」のようなアカウントは、投稿を読むや否や、すぐにダイレクトメッセージを送ってきた。


「カーマニア88」:

「なあ、大丈夫か?具体的にどこが問題なんだ?俺で良ければ相談に乗るぞ」


「DIYファクトリー」:

「おいおい、諦めるの早すぎるって!俺、FRP加工得意だから、何かあれば協力するよ!」


彼はそんなメッセージを目にして、どこか胸が熱くなるのを感じた。これまではただの「趣味の記録」として始めた投稿が、いつしかこんなに多くの人々の心を動かしているとは思ってもいなかった。


そして、あるフォロワーからのDMが突破口を開いた。

「俺、自動車整備士なんだけど、車体をストレッチするの手伝えそうだよ。一回話してみない?」



数日後、彼のガレージには見慣れない顔ぶれが集まっていた。メッセージをくれた整備士の男性、FRP加工を担当するという女性、そして工具や材料を持ち寄ったフォロワーたち。

「まさか実際に手伝いに来てくれるなんてな……」

彼が驚きを隠せないでいると、整備士の男性が笑いながら言った。

「だって、ここまで応援してきたんだ。自分のことみたいに気になるんだよ」

FRP加工の女性も頷く。

「コイツを作るのはあなただけじゃないの。みんなで作ってるんだから!」

さらには、遠距離だから行けないけどと、3Dデータの作成手伝いをしてくれるフォロワーまで。


休日はまちまちなため、どうしても集まれる日が限られる。そのため限られた日の作業は深夜まで続いたが、笑い声が途切れることはなかった。

「おい、そこずれてるぞ!」

「いや、これぐらいで大丈夫だろ!」

「大丈夫じゃないって!GTR以上出すんだぞ?」

「ごもっとも!」


彼はそんな彼らのやり取りを聞きながら、孤独だった日々とは全く違う充実感を覚えていた。



完成した車体は、元の車両とはまるで別物だった。長大なエンジンを収めた異形のフォルムは、どこか鳥のようにも見えた。

「これ……なんかダチョウみたいだな」

整備士がつぶやくと、別のフォロワーがすかさず言った。

「ダチョウじゃちょっとアレだし、“オストリッチ”でどう?」

その言葉に全員が賛同し、車体の横に「Ostrich」とペイントされた。


SNSに投稿された完成写真は、#日本最速、#リニアに追いつく、と言うハッシュタグと共にすぐに拡散された。

「これが噂のオストリッチか!」

「ダチョウみたいに速そう!」

「400km/h以上目指すってマジ?」

応援コメントが次々に寄せられ、彼のガレージはついに全国的な注目を集める場所となった。


次に問題となったのは、実際に走らせる場所だった。

テスト走行を行う場所について、最初は飛行場を借りる案が出たが、コストや手続きの煩雑さが問題となった。そんな中、あるフォロワーがコメントを残した。

「鈴鹿とか富士は無理でも、英田みたいな田舎のサーキットならハードル低くない?」

この一言がヒントとなり、彼は地方のサーキットへの申請を行うことにした。

富士や鈴鹿、筑波と言ったサーキットよりは交通の便が悪いとは言え、過去には国際的なレースの実績もあるサーキットは、ジェットエンジン搭載車両を運搬するトレーラーが十分通行できるだけの道路があった。

彼の申請にサーキット側も興味を示し、地元放送局が取材に訪れる中、テスト走行の日程が決まった。



テスト走行の日、サーキットにはフォロワーたちが集まり、地方の取材陣まで訪れる一大イベントとなった。彼がピットで最終チェックをしていると、遠くからフォロワーたちの声が飛んできた。

「オストリッチ、頼むぞー!」

「絶対成功させてくれ!」

彼はその声を聞きながら、深呼吸をした。

「行けるさ……みんながここまで支えてくれたんだ。俺だって応えないと」


エンジンを始動させると、轟音が響き渡り、場内が静まり返った。オストリッチが走り出すと、観客の視線は一瞬たりともその動きを離さなかった。

ついに、速度計が300km/hを超えると、観客席から大歓声が沸き起こった。

「やった!すげえ!」

「GTRをぶち抜いた!」

「見たか、これがオストリッチの力だ!」


そして最終走行で、ついに500km/hを達成した瞬間、歓声はさらに大きくなった。フォロワーたちは抱き合って喜び、涙を流している者までいた。彼は車体を降り、歓声に包まれながら、ひとつ深呼吸をした。



取材陣に囲まれた彼は、どこか満たされない感情を抱きながらも、笑顔でこう答えた。

「夢は……見果てぬもの、ですよね。

叶った瞬間、それは現実になる。

だから……

だから見果てるんじゃ無く、次は、マッハを目指します!」

「よっしゃ、みんなで祝盃だ!」

「おいおい、飲酒運転になっちゃうぞ」

一体感に包まれながら、全員で笑い合った。


そして彼の言葉がSNSで拡散され、彼とオストリッチの物語は、再び新たな舞台へと進むことになった。言葉の使い方間違ってるぞ、と言うツッコミと共に。



500km/hを達成したオストリッチは、SNSやメディアで一躍注目を集めた。だが、彼にとってそれは通過点でしかなかった。次の目標は明確だった──音速、すなわちマッハ1の突破だ。


音速突破に向け、彼と仲間たちは新たな課題に取り組むことになった。オストリッチの車体や足回りは、一応600km/hの速度に耐えられるよう設計されていたが、音速の領域に到達するには、さらなる強化が必要だった。タイヤの素材やホイールの強度、そして車体全体の空力設計を見直さなければならない。


「正直、このタイヤじゃ持たない。音速に耐えられる専用のものが必要だ」

「でも市販のタイヤじゃ無理だろ?どうする?」

「最悪、自作だな。いっそ割り切って鉄にでもするか?」

「乗心地、最悪だな」


さらに、エンジンの再調整も進められた。特にアフターバーナーの出力を最大限引き出すための微調整が必要だったが、ここで彼らはもう一つの大きな壁に直面する。

これまで普通の灯油を使っているとSNSで呟いたところ、阿呆か、死ぬ気かと書込みが殺到し、灯油だけに炎上。成分的には同じなはずなのだが、品質管理という面で、やはり航空機用のジェット燃料と灯油では異なっていて、生きているから良かったが、とまで言われてしまう。

「航空燃料が必要だな」

「でも、どうやって手に入れるんだ?普通に売ってるものじゃないだろ」

「とりあえず、関係者にアポを取れるか調べてみる」


彼はフォロワーたちのネットワークを頼り、航空燃料の入手経路を探し始めた。


そんな中、一人の古参フォロワーから連絡が入った。

「ほとんど使ってない地方空港があって、レンタルできるかも知れない。興味あるか?」


これ以上のテスト環境は望めない。彼はすぐに仲間たちと相談し、その空港でのテスト走行計画を立てた。音速を目指す前に、リニアモーターカーの速度を再び超えることを目標に掲げ、まずは700km/hを目指すことにした。

足回りが若干不安だが、安全率の分でなんとかなるはずだ。


テスト当日、地方空港には仲間たちやフォロワー、地元メディアが集まった。機材を運び込み、整備を進めながら、彼は一つ一つの工程を丁寧に確認した。

「今日は700km/hだ。焦らずに行こう」

「了解。でも、このエンジン……やっぱり化け物だよな」

「そうだな。でも、それを俺たちが扱うんだ」


準備を終えた彼は、仲間たちと簡単にハイタッチを交わし、オストリッチのコックピットに乗り込んだ。エンジンを始動させると、地響きのような轟音が響き渡る。観客が見守る中、車両は滑走路を滑り出し、徐々にスピードを上げていった。


500km/h……600km/h……メーターが進むたびに歓声が高まる。だが、700km/hに近づいたその瞬間、異常な振動が車体を襲った。

「やばい……この振動は……!」


彼が危険を察知した時には、すでに遅かった。車体は激しく揺れながら分解し、エンジン部分が破損。彼は車両から放り出され、滑走路に転がり込んだ。


異常を察知した仲間たちはすぐに駆け寄った。

彼の身体は全身打撲で動くたびに激痛が走ったが、幸運にも命に別状はなかった。彼は手をついてゆっくりと立ち上がり、痛みに耐えながら滑走路を歩き始めた。

「無理するな!」

「誰か担架を持ってきて!」


仲間たちの声を振り切るように、彼は笑いながら言った。

「いや……俺の足で戻るよ。夢に向かって歩くってやつだ」

「なら肩くらい貸してやる」

「とことんつきやってやるぞ、ここまで来たんだからな」


その姿を撮影した写真がSNSに投稿されると、彼の挑戦とその結果を巡って賛否両論が巻き起こった。

「命を張って夢を追う姿はすごい」

「無謀すぎる!危険なだけだろ!」



事故から数日後、彼は仲間たちに言った。

「オストリッチは修復不可能らしい。

でも、これで終わりじゃない」

「次はどうするつもりだ?」

「最後の有人戦闘機と幽霊の次は、猛禽類の心臓、PW F100だ」


彼が口にしたのは、さらに強力なターボファンエンジンの名前だった。仲間たちは驚きながらも笑みを浮かべた。

「お前、本気で音速狙う気だな」

「当たり前だろ。見果てぬ夢だって言っただろ?」


その言葉に、誰もが新たな挑戦への期待を胸に秘めた。

「そうよね、夢は見果てぬもの、だもんね」



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