あいのみち

上町 晴加

あいのみち

 平日の昼間は人も車も少なく、買い物へ出掛けるにはちょうどよかった。

「天気が良くて気持ちいいですね」

 晴子はるこ喜明よしあき。春の匂いで溢れた歩道を並んで歩く。買い物袋には夕飯のために買った巻き寿司が二つと、牛肉コロッケが入っている。

 交際しているときから何一つ変わらないこの日常が晴子は好きだった。きっと喜明もそうだろう。

 そしてこんなふうに春が満ちた日は決まって思い出す。そよ風が気持ちよくて、互いに選び合った気に入りのカーディガンを羽織って、この道を歩いていた、あの日のことを。


          *


 晴子と喜明が交際を始めて四年目の春、買い物帰りでのこと。

 他愛もない話を急に喜明が止めたと思ったら、車道側を歩いていた晴子を右側に寄せて、入れ替わるように車道側に立った喜明が言った。

「ごめんなさい。気付かなくて」

 一瞬なんのことかわからなくて首を傾げた晴子と喜明のすぐそばを一台の車が法定以上の速度で通過して、意味を理解した。

「こっちこそごめんなさい。ありがとう」

「ううん。僕のほうこそごめんなさい。もっと早く気付くべきでした」

 喜明はこういうとき本当に申し訳ない顔をする。でもそのあとに「でも何事もなくて良かったです」と本当に安堵したような顔をするものだから、もうこの人とならいつ結婚してもいいと晴子はありふれた街並みに二人の将来を重ねるのであった。

 もう少し身を寄せて晴子は言った。

「・・ねぇ喜明さん」

 ずっと一緒にいましょうね、そう口に出しかけたとき喜明が遮った。

「ちょ、ちょっと晴子さん、今なに言おうとしてますか・・? その先は、ぼ、僕が言うべきことのはずです」

 同い年なのに喜明が敬語を使うから晴子も真似をしているのだが、いまの状況、それがかえってよかった。だから晴子はかしこまらず言えた。

「じゃあ、今聞いてもいいですか?」

 ふふ、と笑う晴子の微笑みに一目惚れしたときと同じような顔をした喜明は、でもすぐに真顔になって晴子が言いかけたその言葉を告げた。

 そのあと吹いた春の風が少し冷たかったのは、きっと頬が火照っていたからだと晴子は覚えている。


          *


 あの日から六十年。晴子と喜明は今日も変わらずあの日と同じ道を歩いている。握りが巻き寿司に変わり、メンチカツがコロッケに変わった程度のことで、大して変わりはなかった。

 それでも今日に至るまで、人並みの幸せに気付けるだけの困難を乗り越えてきたと晴子は思う。

 子どもを諦め、父を事故で亡くし、母の介護をし、喜明を定年まで支えた。今となっては箇条書きのように思い出せるのも、その全てが過去になった証拠だが、いまも思い出す度にふいに涙がこぼれることもある。

 晴子は思う。喜明がいなければきっと私は人生を諦めていただろうと。

 

 子どもができないとわかった夜も、父を事故で亡くしたあとの夜も、喜明が晴子のそばを離れることはなかった。真っ暗な部屋にインスタントラーメンを運んできてくれた。固く握りすぎたおにぎりと一緒に。

「晴子、食べないかい?」

「ごめん、いまはいい」

「そっか、・・お腹空いたらでいいからね」

 待っていてくれている。いつ止まるかもわからない涙が止まるのを待ってくれている。

 扉一枚を挟んでも喜明がそこにいてくれていることがわかったのは、喜明だから、それ以外の根拠はなかった。

 夜が明ける頃、部屋を出てきた晴子をそっと抱きしめると二人は泣き出して、それと同時に腹を鳴らした。

 麺は伸び切っていたけれど「美味しいよ。麺が伸びても美味しい、ほんとに美味しい」と二人はまた泣きながら食べた。


 喜明が定年を迎え退職した日の夜、これでもかと喜明の好物ばかりを並べた食卓に二人が向かい合うと、「晴子もお疲れ様でした」と『専業主婦お疲れさま祝い』と書かれた封筒に、大好きなミュージシャンのチケットが入っていた。体調を崩しがちだったし、母の介護でろくに専業主婦としての役目を果たせていない時期もあった、なのにこんなものを用意してくれていたことが嬉しくて、申し訳なくて泣いた。

 そのあと喜明は仕事鞄から買ってきていたエプロンを取り出し身に着けて、洗い物を始めた。「晴子は座ってて、俺が片付けるから」

 晴子は手書きで書かれた封筒の文字を、水が流れる心地良い音を聞きながら眺め続けた。

 

 喜明が八十歳を過ぎると、物忘れや身体の老化が急激に早まった。

 日課の日記を書くこと、扉の施錠、そういった軽い症状が出始めると、自信を無くした喜明は一気に症状につけ込まれた。

 けれど晴子も家中に貼り紙を付けたり、声掛けを怠らなかった。今度は私が支える番だと意気込んだ。

 それでも数ヶ月後に訪れた受診で医師は老人ホームへの入所を勧めたのだった。抗えない時の流れがただただ憎かった。

 リビングで一人、晴子は机の上に並べた施設のパンフレットを眺めているうちに堪えきれず涙を流した。

 ただ喜明と離れたくないと、自分勝手だとわかりながら、一人で泣いた。

 涙を流すときいつもならそっと来てくれる喜明の気配だけが背中にあった。それでも寝室から喜明が来ることはなく、晴子は何年ぶりかに一人で泣いた。喜明の優しさの名残が痛いほど背中に広がって、止まってくれない時間と涙に飲まれそうだった。


 それから数日後。

 喜明に朝食を食べさせていたある日の朝。


「いつもありがとうございます」

 いつの間にか戻ってしまった敬語。

「喜明さん、熱いので気を付けてくださいね」

 はい、という喜明。

 喜明は私を忘れてしまったのではないだろうか、と粥を息で冷ます。

「大丈夫ですか、口開けてくださいね」

 喜明の小さな口に入れるとゆっくり咀嚼する。そして飲み込んで申し訳なさそうに「お手数かけます」と頭を下げた。

 でもそのあとに「美味しかったです」と出会ったときみたいに笑うから、晴子は咄嗟に喜明から目を逸らした。

 熱が広がる眉間に涙が一気に溢れそうになるのを堪えて、そして紛らわすように口にした。

「お散歩がてらお買い物行きませんか?」

 それを聞いた喜明は少しだけボーっとしたような、何か考えているような顔をしている。

「昔みたいに」

 晴子は続けて言った。怖かった。心当たりのない顔をするのではないかと。覚えていない、知らない、今にもそういう顔をするのではないのかと。喜明の返事を待つ時間が少し長く感じた。すると喜明は微笑んだまま晴子を見つめた。

「はい。行きましょう」


          *


「コロッケ楽しみですね」

 車道側を歩く晴子。春の風があの日のように緩やかに吹いている。

 軽い運動になればいい。だからいくら交通量の少ない昼時でも足腰の弱い喜明に車道側を歩かせるわけにはいかなかった。

「うん。僕、コロッケが好きです」

 出会った頃にも同じことを言った喜明を思い出す。あの頃は二人とも馬鹿みたいに緊張して当たり障りのない話ばかりしていた。

 昨日にように思い出せるのに、繋いだ手に触れる皺が、時の経過を突きつける。

「喜明さん、小さな段差です。気をつけてくださいね」

 そう言って喜明の足元に視線を向けた時、真横から地鳴りのような音と共に吹き抜ける風を受けた。大きなトラックが側を通り過ぎたのだった。晴子の被っていた帽子が風に飛ばされて車道に流れていく。

「あっ」反射的に帽子に手を伸ばし、それに足が付いていく、ただもう一台、後続のトラックに晴子は気付かない。

 クラクションが響いて晴子は体勢を崩した。

「気を付けろよ!」

 運転手の怒鳴る声が聞こえて間一髪であったと晴子は知った。買い物袋からコロッケが落ちている。

「あ、喜明さん!」

 喜明が隣で膝を付いて転んでいるのを見ると、すぐに体を寄せた。


 −−あぁ。私やっぱり一人じゃ何も出来ない。ごめん喜明さん・・。


「喜明さん、ごめんなさい。大丈夫ですか?」

 そう言って気付く。

 膝を付いた喜明は左手を真っ直ぐ伸ばし晴子の右手を掴んでいる。それはまるで車道に行く晴子を止めるように。


 −−助けてくれたんだ。


「喜明さん、ありがとう…」

「気付かなくて、ごめんなさい」

 −−え。

「怪我していませんか」

 晴子は、ひとつ頷いた。

「何事もなくてよかったです」

 そういって安堵する喜明の表情が瞬く間に滲む。涙越しにあの日の喜明を見たのではない。あの日から何一つ変わらない優しさがそこにあったからだ。


 春の風は今日もあの日と変わらず優しく吹いている。

 二人の頬を撫でて、いつか未来を重ねた街へと緩やかに流れている。

 

 

 

 

 

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あいのみち 上町 晴加 @uemachi_haruka

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