第6章

***

すべてが終わりを告げた後で、何が残るのだろう。

この世界は、遥か彼方に消え去り、ただ虚無だけが残るのか、それとも…。

この選択が正しかったのか、誰も教えてはくれない。

でも、たとえ全てを失ったとしても、俺はあの日の約束を果たしたんだ。

そして、また新しい約束も交わした。

...この先に何が待っていようと、俺はその運命を受け入れる。

なぜなら、それが俺にとっての真実だから。

***


6章1節

2082年12月13日

真弦はぼんやりとした意識の中で、自分が現実の世界に戻ってきたことを理解した。まどろみの中で、彼の頭はまだ夢の世界の残像に囚われているようだったが、病室の冷たい空気と機械の静かな音が、現実の感覚を少しずつ呼び戻していた。

「ここは…」

真弦はかすれた声で呟きながら、ゆっくりと瞼を開けた。目の前には白い天井が広がり、どこか懐かしくも重たい現実感が押し寄せてきた。ゆっくりと首を動かし、周囲を見渡す。点滴のパックが吊るされたスタンド、静かに瞬きするモニター、そして差し込む柔らかな朝の光――それらが、彼が現実に戻ってきたことを確かに告げていた。

その時、不意に耳に届いた声が、真弦の心臓を大きく跳ねさせた。

「真弦…」

その声音には、かつて聞いた優しさと温もりが込められていた。驚いて視線を声の方に向けると、そこには遥がいた。白いシーツに包まれてベッドに横たわる彼女は、確かに目を開けて微笑んでいた。

「姉さん…?」

真弦は信じられない思いでその場に固まり、まるで夢の続きのような感覚に囚われた。自分が本当に現実に戻ったのか、目の前の彼女が本物なのか――確信を持てず、何度も瞬きをする。

「真弦、ありがとう…」

遥は柔らかな笑みを浮かべながら、彼の手をそっと握った。その手の温もりが、確かに彼女がここにいることを真弦に伝えた。

「姉さん…本当に…戻ってきたんだね…」

震える声でそう呟いた彼の目には、安堵と喜び、そしてどこかに潜む迷いが混じっていた。遥はその言葉に頷き、真弦の手を優しく包み込むように握りしめた。

「そう、あなたのおかげで私は戻ってこれた。でも、真弦…本当は、あの世界を作ったのは、私の『逃げ』だったの。」

その言葉に、真弦は動揺した表情を浮かべた。「逃げ…?」

遥は頷き、静かに続けた。

「あの世界は、私が現実を受け入れられなかったからこそ生まれたの。事故の後、目覚めることもできず、ただ不安や恐怖だけが私を支配していた。私は現実を拒絶して、自分だけが安心できる場所を作ってしまったの。」

遥の言葉には、自己への悔恨と真剣さが滲んでいた。彼女の瞳には涙が浮かび、微かに声が震えている。

「私にとって、あの世界は希望でありながら、同時に現実から目を背けるための隠れ場所だったの。でも、真弦、あなたはそれを見抜いて、私を現実に連れ戻してくれたのよ。」

真弦はその言葉に息を呑み、沈黙した。遥が作り出した世界――それが美しくとも、現実を拒むためのものであったと知り、胸の中に複雑な感情が渦巻いた。

「でも、姉さん、あの世界での時間は俺にとって本物だった。明日香やリョウたちとの絆も、全部…本物だと思うんだ。」

真弦の声には、あの世界での時間を否定させないという決意が込められていた。

遥は目を伏せ、震える声で応えた。

「もちろんよ、真弦。あの世界での絆や思い出は全部本物。あなたが明日香さんと過ごした日々も、私が知っている限り、とても温かくて素晴らしいものだった。」

遥は涙を拭いながら続けた。

「でも、その幸せを守るために現実から逃げ続けることが、本当にあなたにとって正しい道だったのか…私はそれを考えることもできなかった。私自身があの世界に縋りすぎていたから…。」

真弦はその言葉を聞きながら、遥が抱えていた孤独と恐れを初めて真に理解した。そして同時に、あの世界で過ごした時間が遥の「逃げ」であったとしても、自分にとってかけがえのないものだったことを認識した。

「俺は…現実に戻ることで、何かを失ったかもしれない。でも、それでも俺は、遥がこうして戻ってきてくれたことに意味があると信じてる。」

遥は静かに頷き、弟の手をぎゅっと握りしめた。

「真弦、ありがとう。本当にありがとう…。あなたがいなかったら、私は一生あの世界に囚われたままだった。」

真弦の瞳に浮かんだ涙が、遥の手に一滴落ちた。彼は遥の手をさらに強く握りしめ、真っ直ぐに彼女の目を見据えた。

「俺がこれから背負っていくのは、あの世界での思い出だけじゃない。姉さんの逃げだったとしても、俺はそこで学んだことを現実で生かしていく。そして、現実で新しい幸せを掴む。俺たちのために。」

遥はその言葉に安堵の笑みを浮かべ、涙を零しながら彼に応えた。

「ええ、私も一緒にいるわ。あなたと一緒に、現実を生きていく。」

病室の窓から差し込む朝の光が、二人の顔を柔らかく照らした。その光の中、真弦は過去を抱えながらも新たな一歩を踏み出す決意を胸に刻んだ。

明日香との別れの痛みが完全に消えることはないだろう。しかし、その痛みもまた、真弦にとって未来を生き抜く力となるだろう。


6章2節

2082年12月22日

数日後、真弦と遥は両親の墓参りに向かっていた。空はどんよりと曇り、灰色の雲が重く垂れ込めている。冷たい風が瓦礫の間を吹き抜けるたびに、荒れ果てた街の無残な姿が露わになる。かつて賑わいを見せていた通りは、今では瓦礫の山と化し、壊れたビルの断片が無数に散らばっていた。

「真弦、大丈夫?」

遥が心配そうに声をかける。その声には、優しさと同時に、自身も不安を抱えている気配が滲んでいた。

真弦は一瞬だけ微笑んだが、その表情には疲労が色濃く浮かんでいる。「うん、大丈夫だよ。ただ…今の現実を受け止めるのが難しくて。」

彼の声はどこか沈み込み、まだ現実と向き合いきれていない迷いが聞き取れた。

遥は彼の隣を静かに歩き続け、遠くを見つめながら呟くように言った。「私も…。この世界がこんなに変わってしまったなんて、まだ信じられない。でも、私たちがここにいること、それがどれだけ奇跡的なことか、少しずつ実感してる。」

瓦礫の間を抜けて進む二人は、かつての街の記憶と現在の荒廃した姿とのギャップに胸を締め付けられる思いだった。真弦は、一瞬立ち止まり、振り返った。風が遠くの瓦礫を巻き上げ、壊れた街灯が不安定に揺れている。その音は、まるで街全体が嘆きの声を上げているかのようだった。

「姉さん、この街で、俺たちはずっと暮らしてたんだよな。」

真弦が遠い目をしながら呟くと、遥も静かに頷いた。

二人は無言のまま歩き続け、やがて両親の墓石の前で足を止めた。墓地はかろうじて破壊を免れていたものの、周囲には瓦礫の影がちらほらと残り、以前の整然とした景観は失われていた。真弦はゆっくりとしゃがみ込み、手を合わせて祈りを捧げる。遥も隣に並び、同じように目を閉じて静かに祈った。

「母さん、父さん…俺、ようやく帰ってきたよ。」

真弦の声は穏やかだったが、その中には深い寂しさと自責の念が感じられた。「ここで、姉さんと一緒に生きていくことにしたんだ。」

冷たい風が吹き抜け、墓前の小さな花が揺れた。その音に混じって、遠くで壊れた建物の一部が崩れ落ちる音が響く。真弦は目を閉じ、両親の笑顔を思い出そうとした。だが、それと同時に、失われた夢の世界――そして明日香の顔が脳裏をよぎった。

「本当は…あの世界に残りたかった。明日香と一緒に…。でも、現実と向き合うべきだって、姉さんが教えてくれたんだ。」

真弦の声が震え、言葉を詰まらせた。

遥はそっと手を伸ばし、彼の肩に触れた。その温もりは、真弦の心を少しだけ和らげる。「真弦、分かるよ。その気持ち、痛いほど分かる。でも、あなたがこの現実を選んでくれたことが、私にとっては何よりも嬉しい。あなたがいてくれなかったら、私は目を覚ますことさえできなかった。」

真弦は、遥の言葉にほんのわずかな希望を感じたものの、心の中では明日香を失った喪失感が消えることはなかった。彼は深く息を吐きながら、遥の目を見つめて言った。

「姉さん…これから、どうすればいいのか分からない。明日香がいない世界で、どうやって生きていけば…」

遥は微笑み、彼の手を軽く握りながら語りかけた。「真弦、明日香はあなたの心の中でずっと生きている。それを忘れないで。彼女と過ごした時間、彼女があなたに教えてくれたこと、それらすべてが今のあなたを支えているのよ。」

真弦はその言葉を噛み締め、ゆっくりと頷いた。「そうだね…。明日香は俺の心の中で生き続けてる。そして、俺が生きる限り、彼女もずっと一緒にいるんだ。」

二人は再び祈りを捧げ、静かに墓前を後にした。瓦礫が散らばる街を歩きながら、真弦はふと遠くを見つめた。

「あの事故…結局、何だったんだろうな。」

遥も立ち止まり、少し考えるような素振りを見せた。

「分からない。一瞬で目の前が真っ白になったあの異常な現象…。ただ、あれが私たちに何かを伝えようとしていたのだとしたら、私たちはその意味を知るためにこれからの現実を生き抜いていくしかないのかもしれない。」

風が冷たく吹き抜ける中、真弦は何かを悟ったように微笑んだ。

「そうだな…。それが、俺たちにできる唯一のことなのかもしれない。」

遠くの空に、薄い雲の隙間からわずかな光が差し込むのが見えた。二人はその光を静かに見つめながら、足を進めていった。

新たな謎を胸に抱きながら、彼らはこの崩壊した世界で生き抜いていく決意を新たにしていた。


6章3節

2082年12月28日


アルテ・アニマの研究施設は、白を基調とした無機質な空間が広がる場所だった。廊下の奥からはかすかに機械音が響き、ガラス越しに見える部屋の中では、複雑なデータが投影されたホログラムが浮かび上がっていた。ここは最先端の技術が集まる場所であり、その一室で真弦と遥は稲氷悠斗と向き合っていた。

悠斗は机に片肘をつき、優しい微笑みを浮かべながら二人に話しかけている。

「二人とも、ようやく会えて嬉しいよ。本当にお疲れ様だったね。あの世界で、君たちがどれだけ頑張ったか、僕も聞いているよ。」

その柔らかな声には、どこか兄のような親しみが感じられた。真弦は少し緊張しながらも頷き、口を開いた。

「稲氷さん、俺たちがあの事故に巻き込まれてから…色んなことがありすぎて、正直まだ整理がついていないんです。でも、あなたが俺たちを助けてくれたことには感謝してます。」

悠斗は笑みを浮かべたまま、軽く手を振った。

「そんなに改まらなくていいんだよ、真弦君。僕のことはユウトって呼んでくれていい。僕は、君たちの役に立てればそれで満足だから。」

「ユウトさん…」

遥が静かにそう呼びかけると、悠斗は柔らかく彼女を見つめた。「遥さん、君が無事で本当に良かった。目を覚ました時、君の中にあった不安や恐怖がどれほど深いものだったか、少しだけ分かった気がするよ。でも、そんな状況でも君たちはお互いを信じて、乗り越えたんだね。」

その言葉に遥は感謝の表情を浮かべつつも、少し視線を伏せた。「私は…ずっと真弦に支えられてばかりでした。でも、これからは私も前を向いて歩いていきたいと思います。」

悠斗はゆっくりと頷き、「その気持ちが大事なんだ。過去の出来事や疑問はいつか答えが見つかる。だけど、今をどう生きるか、それが未来を作るんだよ。」と語りかけた。

悠斗は二人に優しい笑みを向けながら、椅子に座り直し、興味深げに言葉を紡ぐ。「ところで、真弦君、君は遥さんの心の中で…何か奇妙な体験をしなかったかい?」

真弦は突然の問いに少し戸惑い、目を伏せた。「奇妙な体験…ですか?」

悠斗は頷きながら続けた。「例えば、誰かに話しかけられたとか…異形の存在を見たとか。そういうことはなかったかな?」

その言葉を聞いた瞬間、真弦の頭の中にぼんやりとした映像が浮かび上がった。暗闇の中に響く低い声、背筋を凍らせるような禍々しい存在感――それらが一瞬頭をかすめるが、その正体に触れようとすると、まるで霧がかかったように記憶が曖昧になり、掴むことができない。

「確かに…何かがあった気がするんです。でも…思い出せない。そこに何かがいた…そう感じるだけで、具体的なことは何も思い出せないんです。」

遥もまた、真弦の言葉に共感するように頷いた。

「私もです。誰かに見られているような、追われているような感覚があった気がするのに、その時のことを考えようとすると…不思議なことに何も浮かんでこないんです。」

悠斗は眉をひそめ、一瞬だけ真剣な表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべて頷いた。

「そうか…。思い出せないのは無理もないかもしれない。きっと心の中で見たものは、君たちにとっても負担が大きかったんだろう。でも、今は無理に思い出す必要はないよ。君たちはよくやった。だから、少しずつでいいんだ。」

その言葉に真弦と遥は互いに目を合わせ、小さく頷いた。

「それより、今は自分たちの体を休めることに集中してほしい。これからどう生きていくかを考えるのは、それからでも遅くないよ。」

悠斗は、まるで兄のように二人に優しく語りかけた。

「…ありがとうございます、ユウトさん。」

遥は穏やかに感謝を述べた。

「そうだ、真弦君、遥さん。あと一つだけ質問をしてもいいかな?」

悠斗は二人の顔を順に見渡した。その表情には、どこか神秘的な雰囲気が漂っていた。

「君たちは、この世界がどうしてこうあるのか、不思議に思ったことはないかい?」

彼の問いかけに、真弦は眉をひそめた。

「どうして…って、それは…現実だから…?」

言いながらも、その答えに確信が持てていない自分に気づいた。

悠斗は微笑みながら椅子に深く腰掛け、指を組んだ。



「そう、それが普通の答えだよね。でもね、本当はこの世界というのは、心の投影なんだ。」

その言葉に、真弦も遥も目を見開いた。

「投影…?」

遥が小さく繰り返す。

「そう。世界は心によって写し出される。だから、《現し世》なんだ。」

悠斗はゆっくりと立ち上がり、窓の外に目をやった。復興が進む街並みが、遠くに見える。彼はまるでその向こう側に何かを見ているようだった。

「現し世…」真弦が戸惑いながら呟いた。

「君たちが感じている現実は、心の中で形作られている。想波の力――つまり、心の波動がそれを可能にしているんだ。そして、その根源にあるのが…」

悠斗は一瞬間を置いて、振り返る。

「夢だよ。」

その言葉に、真弦は息を呑んだ。遥もまた、深い考えに沈んでいるようだった。

「眠っている間に見る夢、別の言い方をすると《常世》――それこそが本来の世界だ。」

悠斗の声は柔らかくもどこか厳かだった。その言葉に、真弦は混乱を隠せず、眉間に皺を寄せた。

「常世が…本来の世界?それってどういうことだ…?」

「今の君たちに、すぐに理解しろとは言わないさ。」

悠斗は優しく笑みを浮かべた。

「ただ、知っておいてほしいんだ。常世での出来事は、記憶としては残らない。でも、それが想波の根源を支えている。心が世界を写し出す限り、それは変わらない。」

真弦は目を伏せ、遥の方をちらりと見た。彼女も同じように、言葉を探しているようだった。

「でも…それじゃあ、俺たちは一体どっちの世界で生きているんだ?」

悠斗はその問いに答えず、ただ穏やかな笑みを浮かべた。

「それは、君たちがこれから自分の心で見つけていくんだよ。」

彼の言葉が落ちた後、室内には静けさが戻った。遥がそっと真弦の肩に手を置き、二人はどこか途方に暮れたように互いを見つめ合った。

悠斗は微笑みを浮かべながら椅子から立ち上がった。

「さあ、今日はここまでにしよう。また何か困ったことがあれば、いつでも僕を頼ってね。ここは君たちの安全を守る場所だから。」

真弦と遥はその言葉に小さく頷き、部屋を後にした。


二人が去り、部屋に静寂が戻ると、悠斗は端末に目を向け、低い声で呟いた。

「レム…鏡と想緋金の反応はどうだ?」

ガラス越しに響く機械音が、少年の声となって応えた。

「ユウト、彼の想波は僕と似ている、僕の中の想緋金も反応している。彼の奇跡なら…もしかしたら...」

「...《あの人》を取り戻せるかもしれないか...」

悠斗は静かに息を吐き、端末を見つめる目に一瞬の鋭い光を宿した。

彼の視線は端末の画面を越え、何か遥か先にある目的を見据えているようだった。部屋の中には再び静けさが戻り、施設全体の微かな機械音だけが響き渡っていた。


終章

2083年2月23日

都市の復興は、少しずつではあるが確実に進んでいた。真弦が働くカフェの大きな窓からは、再び活気を取り戻しつつある街並みが広がっている。かつての瓦礫の山は片付けられ、その跡地には新たな建物や公園が作られ始めていた。人々が植えた若木の緑が街の中に点在し、それが風にそよぐ様子は、荒廃していた頃の風景を忘れさせるほどに美しかった。

カフェの中には柔らかな音楽が流れ、焙煎されたコーヒーの香りが漂っていた。真弦はカウンター越しに常連客たちと軽く言葉を交わしながら、ドリップポットを慎重に傾け、湯を注ぐ。彼の動作は手慣れており、まるでこの小さな空間を一つの作品として作り上げているかのようだった。

壁には、真弦が集めた写真や絵が飾られている。それらは、彼がこれまでの人生で大切にしてきた思い出の欠片たちだった。写真には、かつての友人たちや明日香とのひと時が収められており、見る人に彼の人生の一部をそっと覗かせていた。

その瞬間、カフェのドアが静かに開いた。

「いらっしゃ...」

ふいに聞こえたベルの音に、真弦は顔を上げた。そこに立っていたのは、一瞬で時が止まったかのように思える姿だった。柔らかな光を受けた長い髪、そして、彼に向けられた深く真剣な瞳。その人物の声が、静かなカフェの中に響く。

「久しぶり。」

それは、紛れもなく明日香だった。

真弦の手からドリップポットが滑り落ちそうになるのを辛うじて支えながら、彼はその場に立ち尽くした。喉の奥から言葉が出ない。驚き、安堵、感動、すべての感情が一気に押し寄せてきて、彼を動けなくしていた。

「明日香…?」

ようやく名前を口にすることができた時、真弦の目には涙が浮かんでいた。それは長い間抑えてきた感情が溢れ出た瞬間だった。明日香の目にも、喜びの涙が光っている。

「また会えたね。」

明日香は少し震える声で言いながら、真弦に微笑みかけた。

真弦はカウンターを回り込み、彼女の前に立つと、そっとその手を取った。手の温もりが伝わると、全ての言葉が必要ないことを二人は理解した。お互いが、どれほどこの瞬間を待ち望んでいたかを感じ取っていたからだ。

「うん…また会えた。」

真弦は微笑みながら、彼女の手をしっかりと握り返した。その瞬間、まるで店内の光が柔らかさを増したかのように感じられた。

その日、二人はカフェを後にして、復興が進む街を共に歩いた。街路樹の間から夕焼けが差し込み、黄金色に染まった通りは、再生を象徴するように静かで美しい風景を描いていた。

真弦は一歩一歩、隣にいる明日香をちらりと見ながら歩いた。その姿が本当に現実なのか、まだ信じきれない自分に気づく。

「明日香…本当に君なのか?」

彼は立ち止まり、まっすぐに彼女を見つめた。その瞳には、まだ拭いきれない疑念と不安が宿っていた。

明日香も足を止め、少し微笑みながら彼を見返す。「そう思えない?」

彼女の声には軽やかな響きがあったが、その奥には真剣さが宿っていた。

「いや…信じたい。でも、君がここにいる理由を考えると…なんだか怖いんだ。」

真弦は正直な気持ちを口にした。

明日香は一瞬黙り、そっと目を伏せた。だがすぐに顔を上げ、少し困ったように笑った。「私も、何がどうなってこうなったのか、正直よく分からない。でも、今こうしてあなたと一緒にいる。それだけは確かよ。」

その言葉に、真弦はふっと力が抜けるような感覚を覚えた。疑問はまだ解けないが、目の前にいる彼女の存在が紛れもない現実だと、彼は少しずつ実感し始めた。

「…そうだな。君がここにいてくれる、それがすべてだ。」

真弦はわずかに笑みを浮かべた。

二人は再び歩き始めた。夕焼けが通りを包み込み、復興中の街はどこか温かな光に満ちている。子供たちが笑い声を響かせ、大人たちは未来へ向けた希望を胸に、黙々と作業を続けていた。

ふと、明日香が足を止め、真弦の方を向いた。

「ねぇ、真弦。」

「ん?」

「運命って、何だと思う?」

唐突な問いかけに、真弦は少し驚きながらも考え込むような表情を浮かべた。「運命か…。そうだな、俺にとっては、どんなに逃げようとしても、結局戻ってくる場所…みたいなものかな。」

明日香はその答えに満足げに頷き、目を細めて微笑んだ。「私も、そんな気がする。きっと私たちがこうして再び出会えたのも、逃げられない運命だったのかもしれないね。」

真弦は苦笑しながら肩をすくめた。「まるで誰かに仕組まれたみたいだな。でも…運命だけじゃ足りない気がする。」

「どうして?」

「運命がつなぐのはきっかけだ。でも、それをどうするかは、俺たち自身の『想い』だと思う。運命が俺たちを再会させたとしても、そこに想いがなかったら、きっと何も始まらない。」

明日香は彼の言葉に静かに耳を傾けていたが、やがてくすっと笑い出した。「真弦、なんだか哲学者みたいなことを言うのね。」

「そうか?」

彼が少し困惑したように聞き返すと、明日香はさらに笑いながら、「ええ、とっても。」と答えた。その笑顔がどこか懐かしく、真弦の心に温かな灯火をともした。

二人は再び歩き出す。

「じゃあ、運命と想いが合わさったらどうなるんだ?」と真弦がふざけたように問いかける。

「さぁね。でも、今こうして一緒に歩いてるんだから、それでいいじゃない?」明日香は彼にそう答え、真弦もつられて笑った。

二人が歩を進めるたびに、空は紫色に染まり、最後の光が地平線を照らしていた。街路樹の間から見える空は、まるで未来を予感させるかのように静かで美しい。

その時、ふと風が吹き、二人の間に柔らかな沈黙が流れた。明日香が真弦の袖を軽く引っ張り、少し照れくさそうに言った。

「ねぇ、これからもこうして一緒に歩けるかな。」

真弦は彼女の言葉に驚くこともなく、ただ優しく微笑み、「もちろんさ。」と短く答えた。

彼らの影が夕暮れに長く伸びていく中、二人の笑い声が静かな街に溶け込んでいった。薄明の光が二人を包み込み、どこか運命と想いが交錯するような暖かな輝きが、彼らの未来を祝福しているようだった。


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九陽-1部 @XinRen

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